アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

暗夜から光へ-1

2023-01-21 18:58:00 | 究極というものの可能性neo

◎暗夜について

(2006-08-23)

 

カトリシズムの巨星、十字架の聖ヨハネは、著書「カルメル山登攀」において、神との合一に至る直前の段階での、精神の暗夜には三夜あると説明する。マラソンで言えば、最後の直線のラスト・スパートの部分である。

 

この中身は、あらゆる神秘体験や神秘的ビジョンの正邪の見分け方、聖書の出来事の解釈の方向性など、示唆に富むものが多い。

 

第一夜

これは、感覚の暗夜と呼ばれるもの。すべてのものに対する欲求の楽しみつまり感覚的欲望から、心をはぎ取ってしまえば、霊魂は暗い何もない状態になる。これが第一夜。

観想の初歩にある人がこれに該当する。

 

第二夜

これは、精神の暗夜と呼ばれるもの。

精神の機能を、理性、記憶、意志の3種類と見て、信仰が進むにつれて、それぞれの機能に暗夜が到来する状態。

 

既に感覚からは暗夜状態であるが、さらに理性、記憶、意志についても暗夜を加えた状態。

 

つまり信仰、神というものは、決して理性でもって理解はできない。従って理性でもってアプローチすればするほど、信仰、神というものは、暗黒と観ぜられるのである。記憶、意志についても、核心に迫るほど暗夜に陥っていくことになる。

 

第三夜

これは夜明け前にあたる。第一夜第二夜においては、個人の魂が能動的に神を求めて進んで行った暗闇であったが、第三夜は、神から個人への働きかけが主となる受動的なものとなるのである。これも暗夜であり、神との一致以前である。

 

十字架のヨハネの著書「カルメル山登攀」においては、第一夜、第二夜は詳述されているが、第三夜はほとんど何も記述されないで終わっている。「神の御心の許されるままに」書き進めて行ったが、第三夜については、神の御心の許されるままに筆を置いたということになるようだ。

 

カルメル山登攀は、登攀の途中で終り、最後は自ら挑戦してみる方のお楽しみということになっている。

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OSHOの9種の意識

2023-01-20 20:17:59 | 究極というものの可能性neo

◎顕在意識の上方
(2009-08-03)

OSHOに限ったことではないが、聞き手である弟子のレベルに応じて、OSHOの話がどの程度核心に触れてくるかが変わって来る。それは、音楽でいえば、聴衆のレベル、雰囲気に応じて、同じ奏者の演奏でありながら、あるコンサートではひどいものになったり、別のコンサートでは秀逸なものになるのと同じである。大体が、どんな聖者も、肝心かなめの部分は、高弟か、同レベルの覚者に対してしか漏らしていないものだという印象がある。

だから不特定多数向けの講話録は、大体がとおり一遍の内容であることがおおい。OSHOの本も内容に出来不出来があるのは、OSHOのせいではなく、聞き手のせいなのだと思う。ダンマパダは、出来の良い本のひとつ。

ダンマパダにあるOSHOの9種の意識論。

まず、潜在意識は意識の全体の9割を占め、残り1割が顕在意識。ダンマパダでは、話の流れの中で詳しく説明していないが、こんな感じだろうか。

1.宇宙的超意識(ニルヴァーナ、モクシャ、解脱、真理)
2.集合的な超意識(諸宗教で神々と呼ばれる)
3.超意識的な心(サマーディ、三昧、統合された気づき)
4.顕在意識の上の「真に意識的な心」(冥想を通じて到達)
5.通常の顕在意識(いつもの気持ち)
6.漠然とした個人的潜在意識
7.個人的無意識(夢や薬物で知ることができる)
8.集合的無意識(家系、集団、民族、人類などとあるグループに共通の無意識)
9.宇宙的無意識

6から下は、心理学者のフロイトやユングの発見。4から上はインドの聖者オーロビンドの発見とする。潜在意識があることは、夢を見ることで知られるが、顕在意識に更に上があるなんて日常感覚では想像もできないことだ。

仏教ではアラヤ識を立てるが、それは集合的無意識レベルだと思うが、仏教では、なぜ顕在意識の上方について言及しなかったのだろうか。

顕在意識とは、覚めていること。覚めている、はっきりしているといえば只管打坐。只管打坐に顕在意識上方へのヒントが隠されているように思う。

さてOSHOが9種類の意識を語るからには、これは間違いではないだろうが、どういう意図で、どのような狙いでもってこれを説いたのだろうか。おまけに一番上の宇宙的超意識と一番下の宇宙的無意識は同じみたいだし。

 

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和尚バグワンの高弟

2023-01-15 06:12:35 | 究極というものの可能性neo

◎群衆に誤解され続けた二十五年

(2011-07-02)

 

和尚バグワンは高弟がいることを自ら認めている。

 

『これはなんと美しい・・・・なんと祈りに満ち礼拝に溢れていることか。

わたしが美しいと言う時には、

わたしは、それが言いようがないと言っている。

 

わたしは月を指さしているが、わたしの指は月ではない。

ときに、沈黙していられない瞬間がある。

 

多くは言えないが、それでもそれを分かち合いたい、表現したい・・・・・

今に至るまで、それが何であるかを言いえた者は一人もない。

また言おうとすることに抵抗できた者も一人としてない。

 

わたしはこの二十五年間絶え間なく語りつづけ、ただ誤解されただけだ。

そのゆえにわたしは群衆から離れたが、選ばれた数人には常に手のとどくところにいる。』

(狂人ノート/和尚/和尚エンタープライズジャパンP79-80から引用)

 

クリシュナムルティの周辺には高弟がいたようには見えないが、和尚バグワンにはいた。彼らは今どうしているのだろうか。

 

そして今、終わりの始まった時に、和尚バグワンの言葉やパフォーマンスが群衆に誤解されないほどに人々の成熟は進んだのだろうか。

 

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瞑想とはなにか

2023-01-15 06:09:41 | 究極というものの可能性neo

◎バグワン(OSHO)の見解

(2007-08-03)

 

バグワン(OSHO)の答え

『瞑想とは冒険、未知なるものへの冒険-人間の心がなしうる最大の冒険だ。そして冒険という言葉で私が言いたいのは、その中で人格を陶冶することはできないということだ。

 

まず第一に前もってそれを知ることは一切できない。実際に体験しない限り、それを知ることはできない。

 

語ることができることはみな、しょせんとるに足らないことばかりだ。真理は語られずに残る。多くのことが語られてきた---取るに足らないことについては多くのことが語られてきたが、真の言葉はただの一語も発せられてはいない。

 

実際に体験しない限り、それを知ることはできない。だが、それに関する事柄を指し示すことはできる。それが要点をつくことは決してない。それはありえない。

 

ものごとの本性からしてそれは不可能だ。これが瞑想だということはできない。言えるのは、これは瞑想ではない、あれは瞑想ではないということだけだ。

 

言われずに残るものがある-がそれは指し示されないまま残される』

(未知への扉/バグワン/メルクマール社p205-206から引用)

 

OSHOの瞑想といえばダイナミック瞑想が有名だが、ここでは、もっと本質的なものを語っている。

 

ここでは、神・仏・宇宙意識との出会い、合一だけを瞑想と呼んでいる。その意味での瞑想はごくまれに起こることはあるが、黙っていても兎が切り株に蹴つまずいてころぶようなことは起こらないものだ。

 

このような厳しい意味での『瞑想』が起こるためには、常識的には日々の冥想訓練が要るだろう。

 

冥想って何って訊かれて、それは言葉ではいえないし、どんな効果もあるとも言えるし、ないともいえる、というような合理的でないことを信じるのは只のお人よしだが、それを信じる直観がなければ何も始まらないだろう。

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日常と冥想

2023-01-04 06:12:23 | 究極というものの可能性neo

◎冥想の未来図と現在(2010年4月現在)

 

聖書や北欧神話で預言される来るべき千年王国では、叫びのない世界であるから、すべての人が神を知る王国である。それは、少なくとも全員が神を見たことのある時代だろうから、学校教育の中で冥想という科目があるだろう。

 

クンダリーニ・ヨーガをやっていては、学校生活も含め日常生活はできないだろうから、クンダリーニ・ヨーガは遅くとも思春期までの履修科目として適当と考えられる。せいぜい低学年・中学年まで。そして思春期までにに見神・見性が起こる。

 

思春期となってからは、現実との折り合いを考えなければならないから、只管打坐しかないだろう。しかしクンダリーニ・ヨーガの素養がそこそこあるのであれば、クンダリーニ・ヨーガの特徴である精妙さ、デリカシー、クリエイティブ、科学性というようなものは、只管打坐の修行の中で生きてくる場面があるだろう。

 

こうして18歳になるまでには、かなりの人が身心脱落を経過していく。

 

そして神・仏・タオ・ニルヴャーナを知る人ばかりの世界では、そのことによる報いを期待せずに、われこそとばかりに競って自分のメリットを捨て、自分のことを犠牲にして相手に対することがマナーとなる。それが至福千年の社会。

 

しかしながら、学校でクンダリーニ・ヨーガを訓練すると必ず中心太陽への突入を起こすわけでもなく(只管打坐から身心脱落が起こったり)、同様に只管打坐を実修すると、これまた身心脱落しか起こらないかといえば、そうでもない(中心太陽突入が起こったり)。(昔から冥想フリークはいろいろな冥想を試すものである。)

 

またどちらの修行を採用しても、必ずしも悟れるわけではないという不確実性がある。これを二重の不確実性と呼ぶが、それはその人の個性によるものであるから如何ともしがたい。

 

いずれにしても、常時、社会全体で相当数の覚者を抱え続けるのが社会の純粋さのバロメーターとして機能する。そして、悟ってない人もそれに向かう日常の冥想習慣を有する社会が次の社会なのだろうと思う。

 

このような構図からすれば、現代において冥想は、お寺や教会やヨーガ・スタジオなどを除けば、人に迷惑にならないことを専一にひっそり自分の部屋で打ち込む、日陰の花みたいなステイタスであって、現代社会は冥想から遠い異常な世界ではある。

 

何より学校教育では冥想なんて科目はないし、生まれつき冥想習慣のある極くまれな人以外は、大人になってから、書店や図書館でそうしたものを知ったり、珍しく冥想修行に打ち込んでいる人に出会ったりして始めるのが通例だろう。そういう意味では、覚者の極めて出にくい冥想環境にあるのが現代社会である。更に冥想と聞けばオームの悪影響で色眼鏡で見られてしまいがちな傾向まである。

 

そんなわけで、残業も含めて一日8時間以上働く生活であれば、風呂と食事と睡眠と家事以外に自由な時間は、せいぜい1~3時間。この時間からテレビやメールやパソコンに向かう時間を差し引いた残りが冥想に充てられる時間となる。それは数分かもしれないが、毎日続ければ、冥想のリズムみたいなものが感じられてくるのではないか。

 

本来は朝と寝る前に冥想すべきであるが、最近はほとんど夜坐ることはない。坐るのは朝だけだし、ブログも朝だし、冥想のために30分なんてとても時間を捻出できない。時間がないという言い訳は冥想修行者としては甘えたっぷりだが、これも現実。

 

社会人であれば、大方のこのように冥想に充てられる時間は厳しいだろうと思うが、数分の柔軟体操を毎朝するように、数分なりとも冥想する習慣を継続することしかできないのだろう。けれども、その数分から新時代が始まるのではないか。

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チャネリングとアストラル・トリップ

2022-12-30 16:33:46 | 究極というものの可能性neo
◎遠隔透視における比較

三島由紀夫の小説「英霊の声」は、古神道の作法に則った帰神を舞台に、憑依した英霊に三島の天皇観、戦争観を語らせる趣向。この小説では、18歳の時に事故で失明した20歳ばかりの川崎君が霊媒である神主を務めた。帰神の最後に特攻隊員らしき霊がかかり、その霊の去ると同時に、川崎君は命までも持って行かれてしまった。

チャネリング=帰神では、かかる神の真贋・高低が問題とされるが、チャネリングで世俗の情報を得ようとする人々にとっては、また違った視点でチャネリングが見える。

以下は、アストラル・トリップで軍事的に有用な情報を得ようとする人々の見方。遠視者はアストラル・トリッパーのこと。リンは、遠隔透視プロジェクトの上官のひとりで、かのマクモニーグルの同僚の一人でもあった。

『翌朝は遠視者ふたりとチャネラーふたりのあいだで衝突が起きた。遠視者のあいだでは、チャネリングの効力について、大きな議論がある。

チャネリングにはその性質上、口頭もしくは文書によるデータのやりとりが含まれる。チャネラーはセッション中、いわゆる“霊の導き”に頼る。
導きを通じて、チャネラーは接触した“存在”と話をする(ことになっている)。

陸軍スパイ業界の文脈からすると、このアプローチには明らかに致命的な欠陥がある。
(中略)
リンはスケッチを添えた完全な報告書を求めたが、キャロルから上がってきたのは、「現場にはブルーがある」とか、その種のほとんど無意味な結論ばかりで、リンはその結果に満足していない。

遠視者であるリンは、このナンセンスを、チャネリングと遠視をいっしょくたにする危険性を示す証拠としてレヴィに提出すると主張した。リンはベテランの遠視訓練官で、潜在的に優秀な遠視者が、効果の実証されていないチャネラーのメソッドで能力を無駄にすることを不愉快に思っている』
(スターゲイト/デイヴィッド・モアハウス/翔泳社P193から引用)

こうした技術を利用しようと思うのはアメリカ人らしいが、その反面の危険性を顧みないでやっているという印象を免れないように感じる。もともとこの手法は、そんなことのためにあるものではないのではないか。
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ババジ予言-3

2022-12-30 05:18:07 | 究極というものの可能性neo
◎偉大な破壊の時代

地球全体の広範囲な文明破壊予言に対しては、人は自分の生活が破壊されるという視点から、その原因と結果、予防策について、あまり冷静に考えないものである。

出口王仁三郎予言もダンテス・ダイジ予言もババジ・予言も、その起こる原因については共通しており、人類があまりにも神から離れてしまったことであるとする。

『これは偉大な破壊の時代であり、どの時代もこれに匹敵することはない。

革命は数分どころか数秒しか続かないだろう。

破壊的な兵器を発明した国々は破壊されるだろう。彼らは自分達が安全だと考えるべきではない。神の足もとに完全に明け渡すものだけに安全がある・・・・』
(ババジ伝/ラデシャム/森北出版P237ら引用)

この革命は、この破壊的大変動のことであって、共産主義革命やフランス革命のような政権の変更のことではない。

数秒しか続かないことについては、出口王仁三郎予言にもそれと思わせるような部分があるが、おそらく人間の想像を絶したものになるのではないか。

破壊的な兵器を発明した国々は破壊されるというのは、出口王仁三郎のいう原爆は日本が発明したから日本に落とされたと同列の予言であると思う。まことに不昧因果である。

神は人に罰を当てないが、人は人に罰を与えると出口王仁三郎は言う。だが、イエスを殺害した○○人のその後のディアスポラ以後の運命も不昧因果であって、民族差別はいけないと人と人の間では言うが、神の遣わした預言者を殺害するというのは、そういうリアクションを招くものだというのは、これも大きな歴史の教訓である。

神の与えたもうた偉大な物質文明を自らの享楽と他人や他国と奪ったり争うことに汲々とする現代世界。これも神をないがしろにする時代の日々である。これがどういうリアクションを招くものだろうか。

それは心ある人ならば容易に想像できるものだろう。
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ババジ予言-2

2022-12-30 05:14:37 | 究極というものの可能性neo
◎核兵器すらも役に立たない

明治30年頃に出口ナオ、出口王仁三郎が、世界の終わりを白昼に見て、ババジが人類生存率の似通った世界の終末を1970年代末に見るまで約90年。この間、この世界のバランスはそう変わりはしなかったのだろう。

こういうのをメイン・シナリオと呼ぶ。ネガティブ予言は、とかく下層霊界、つまり地獄を霊視しているのだと敬遠されがちなのであるが、霊界にあった地獄がこの現実世界に移写されるのを見ているだけだとすれば、日々の我々の生活が地獄的な要素が相当あるから、そういう予言を目にするのだということになろう。

ババジ予言。
『「新兵器の開発で自国を救えると信じる国々は、この考えを捨てた方がよい。それは可能なことではない。皆、現在(一九八三年)のイランでの出来事を知っているだろう。以前は誰もホメイニの名など知らなかったが、彼は突然に欲するもの全てを手に入れた」

「革命の炎は現在世界に広がっている。この火を止め、熱を下げることのできる力はどこにもない。ロシアとアメリカのような超大国も、彼等の新兵器をもってさえ、この〔火〕に対抗することはできない。彼等の発明したものは何の役にも立たない。全ては破壊される」』
(ババジ伝/ラデシャム/森北出版P233から引用)

革命といえば、真っ先に共産主義革命をイメージする人が多いが、この革命は、自分が逆さまになることである。この革命では、武器や軍事力は使わない。自分がひっくり返るためには、ババジは、勇気と正義のために死ぬ覚悟が必要とする。

ババジは、何の保証もないが、勇気と正義のために死ぬ覚悟を求めているのだ。この革命は、精神の革命だが、それはすべてを破壊する火でもある。
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ババジ予言-1

2022-12-30 05:12:03 | 究極というものの可能性neo
◎世界を襲う「火」を止められる者はいない

世にネガティブ予言は多いが、その中でも厳しいのは、カタストロフィ経過後の人類の生存率が1割未満の予言である。

こういう縁起の悪い予言はなかなか伝播されないものであって、私の知る限り、出口王仁三郎予言くらいのものであって、これに今ババジ予言が加わった。ただイザヤ書の予言は人類絶滅であって、出口王仁三郎予言、ババジ予言とは一線を画すものである。出口王仁三郎予言、ババジ予言には人類を一人でも多く残そうという意図がある。

1979年7月のババジ予言。

『全体に及ぶ革命の余波で、大小に関わらず容赦される国はない。ある国々は完全に消滅し、何の形跡も残すまい。国によっては、3~5%の人口が容赦され生き延びるだろう。

(中略)

現在、悪鬼のような影響が人類を巻き込んできた。人は争い、むさぼり合い、互いを破滅させようとするだろう。
まず破壊が来る。それから小康が訪れ、平和に至るだろう。ある国々は完全に破壊される。』
(ババジ伝/ラデシャム/森北出版P230から引用)

この平和とは至福千年のこと。

ババジは、さらに『世界を襲う「火」を止められる者はいない。』として破壊が必要であることを説く。

出口王仁三郎予言は、日本の予言であって、ババジは完全に世界予言。

この文明の成果は、通勤通学や運転時に万人がゲームをできるようになったということだけなのか。外面を取り繕い、人前で悪いことをせず、自分一人いい目にあうことが文明生活なのか。自分らだけうまい儲け話に乗って甘い汁を隠れて吸い続けるのが文明人なのか。

ババジの危機感は、奇しくも全人類のみならずあらゆる生物無生物全体におよぶ。

要するに隠して行った悪事も、それによって迷惑を被ったすべての衆生・万有がすべて露見させられ、その総決算を求められる。それが文明破壊の必要性である。
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時代を穿つ力

2022-12-28 15:12:01 | 究極というものの可能性neo
◎世界の復元

最後の時代の大破壊は、時代を穿つ力がもたらすという。

卒啄同機という言葉で表されるように、人間もこの世界も個の世界なる現世と真実不壊の世界なるあの世・彼岸の両方からその間にある壁を穿たれて、その壁に穴が開くときが来る。

それが個人のベースで言えば、大悟覚醒であり、時代あるいは世界というベースで言えば、千年王国の到来であり、神政成就、みろくの世の実現である。

それを願望の実現というプロセスで見れば、あまりにも均衡点からずれ、傾いてしまった時代、世界、個人を正しいバランスに復元しようとする自律運動が具現するということ。

そのような自律運動は、過去の歴史では、神人の到来出現という形で見られた。釈迦の出現、老子・荘子の出現、イエス・キリストの出現などなど。そして今の時代では、もはやそういうパターンは効かず、無名の民草が次々と悟っていく時代。

しかり悟りは、ある日、素晴らしい教えなるものに触れたり、ステキな人に出会うことで起きるわけではないようだ。目の前に甘泉があってもそれを飲むかどうかは自分の気持ち如何による。

準備ができている人だけがそれを引寄せることができるのではないか。
では、どう準備するのか。

それは毎日の冥想修行による。悟りにも奇跡はないようだから。悟りは何もしない人間に、ある日突然舞い込みはしないようだから。
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言霊からイメージ経由現実へ

2022-12-27 16:20:01 | 究極というものの可能性neo
◎音韻と想像力の関係

『ユングは、言語連想実験をとおして、音とイメージ、音韻と想像力の間に無意識的な関係があることを発見したが、この点は見すごされがちであった。意識から無意識への移動は、意味-概念に強調点を置く自我から、音とイメージを強調する無意識へと言語学的な様相が変化するという特徴を持つ。』
(言葉の錬金術 元型言語学の試み/ポール・クグラー/どうぶつ社p87から引用)

無意識でのイメージにはやがて現実として実現するものがある。

『天地の水火(イキ)を與(く)みて万物を生じ、人間の水火(イキ)を與(く)みて言(ものいう)ことの伝えなり。』
(大本言霊学天之巻/出口王仁三郎p16から引用)

つまり人間は、言葉でもって万物を発生させている。それを踏まえて出口王仁三郎は、正しい言霊を発することのできる正しい心を持てば、地上天国=みろくの世という共通した世界、社会ができると見て、言霊学の発掘にまで至ったのだと思う。

これに対してユングは、精神病患者の人格の統合と現今社会への適応が狙いであって、患者の悟りにまで関心がないようである。

至福千年の実現も精神病患者の人格の統合も、無意識におけるイメージまたは言霊の操作で実現できるとユングも出口王仁三郎も考えていたことは共通している。
この点は、これからの科学の大きな課題である。これらは無意識上の無用のイメージを正しい音韻のバイブレーションで浄化・消滅せしめるというやり方。今の精神医学は、患者をなんとかして「精神的に正常かどうかわからないこの社会」に適応させようとしているが、その方向性でよいのだろうか。

もっとも出口王仁三郎も狂人への対応には窮したことがあるようだ。
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言霊の威力

2022-12-27 16:16:36 | 究極というものの可能性neo
◎神人は常住不断言霊の助けを受ける

出口王仁三郎は、言霊の威力のシンボルは
八咫鏡だとする。
『三種の神器の本能は、八咫鏡、即ち言霊の威力である。曲玉は統治の本体である。剣は日本国の土地全部の表徴である。』(出口王仁三郎全集 第2巻 宗教・教育編P602)

彼の言霊観は、もっと広大無辺であり、現象そのものを構成する根源であるとする。
『天界は言霊(ことたま)の水火(いき)にもとづける意志想念の世界なりけり

言霊の清濁によりてその人の善悪智愚の程度はわかるも

森羅万象(よろずのもの)悉く皆言霊の助けによりて生れたるなり

主の神の生言霊の大原理知らずば天地の成立(なりたち)解らず

来るべき世の変遷も言霊の力によりて明白となるなり

言霊の幸(さちは)ひ助けなかりせば地上一切のものは育たじ

時じくに鳴り鳴り鳴りてとめどなき主の言霊に地上は生くるも

神人は常住不断言霊の助けを受けて生き栄ゆなり

言霊の光に一切万有はいや永遠(とこしへ)の生命(いのち)を保つも』
(言華 下巻 /出口王仁三郎P346-347から引用)

心に誠があれば、自ずと言霊は澄むものだという。

エーテル体はプラーナ、あるいは気で構成され、アストラル体は、言霊で構成されるということだろうか。言霊は、七つの身体のどのレベルで機能するのだろうか。
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エメラルド・タブレット(ドウリル)

2022-12-13 11:29:34 | 究極というものの可能性neo

◎アメジスト・タブレット・プロローグへ

エメラルド・タブレット(ドウリル)は、ドウリル博士が霊視したか自動書記したかわからないが、そのような形で、ピラミッド内にある12部中の10部を読み取ったものというふれ込みのもの。

30年前に読んだものは改訳され、本文と注釈に分かれているものが出されている。

以前のバージョンは恐ろしく霊がかりであって、このブログでもほとんど言及してこなかった。改訳版の本文はだいぶすっきりしていて、だいぶましになったように思う。

興味を惹かれたのは、スフィンクスの下に宇宙船が埋められていることとで、その宇宙船は優勢な軍事能力を有するということ。

もう一つは、ピラミッドの中にトス(アトランティスの聖王)の秘密があるという部分。

さらに最終戦争の始まり。人間が大洋を征服し、空を飛んで、稲妻を甲冑として戦う時とあるが、稲妻つまり電磁波は矛ではあっても防御兵器ではないので、それはまだ実現していないとみる。

またこの最終戦争では人類の半分が滅亡と予測しているので、出口王仁三郎の予言よりは、全然楽観的な数字である。

またこの本は輪廻転生からの解脱を狙わず他の天体への転生を当然のように書いているところが、霊がかりと言われる理由の一つ。

神知るものにとって転生しようがしまいがどうでもよく、そういうことは天意に任せることなのではないのだろうか。

個であることは孤独であることで、そこには絶望と不条理がつきまとう。霊的大師がいかに強力にサポートしたとしても、死は必ずやってくる。すべてのものが一つながりということは、闇も光も善も悪も生も死も一つながり。一つながりであるところに人間的悲劇はない。

だから、光を体験する自分というのが他の天体に転生しても当然残るみたいな書きぶりが霊がかりに感じられる。

しかしながら、これにインスパイアされて、ダンテス・ダイジがアメジスト・タブレット・プロローグを出版したということは、そぞろに想像されるのだ。

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熟睡中の夢も見ない状態

2022-12-07 16:56:37 | 究極というものの可能性neo
◎神性の具現

ウパニシャッドでは、インドラの師であるプラジャーパティが、「人が熟睡して、精神統一され、一点の曇りもない時に人は夢を意識しない。これがアートマンである。それは不死なるものであり、ブラフマンである」と説明したところ、

インドラは、「熟睡中の夢も見ない状態がアートマンであるという説には何のメリットもない」として納得しなかった。こうしてインドラは101年間プラジャーパティの下で修行をすることになった。

プラジャーパティの別の説明:
風や雷鳴は身体を備えていない。これらのものは、かの空間から立ち上がり最高の光となった後、それぞれ自らの形をもって現れ出る。

それと同様にアートマンはこの身体から立ち上がり最高の光となった後、それ自らの形をもって現れ出る。
(参考:人類の知的遺産・ウパニシャッドの哲人/講談社)

プラジャーパティの別の説明では、アートマンはかの空間である死の世界で発出して、最高の光に起源を持つが、その後個別性を持ってこの世に現出するというアートマンの位置づけを知り納得している。

つまり我々個人は熟睡中の夢を見ない状態でアートマンに帰り(アートマンに個別性はないが・・・)、その後個別性を持って夢の世界より帰還するのだが、それは個人の側から見た説明であって、アートマンの側からみれば、そのメカニズムこそが人の神性の具現であるということになるのだと思う。
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意識が無意識に転ずる瞬間に悟りあり

2022-12-07 10:29:27 | 究極というものの可能性neo
◎隙間が主、前後が従

OSHOバグワンは、隙間が主であって、その前後が従だと語る。
換言すると、隙間の方が中心で、前後の方が周辺。そうなれば、隙間の方が悟りであって、前後の方が迷いであると気づく。

彼は、ここで、前後から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、個から全体に連続性なく一足飛びに進むことをいう。

前後の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。

隙間を知るにはとにかく醒めているしかない。
隙間に入る技法として彼はとりあえず実例を挙げる。
1. 息が出て、隙間、息が入る、のを見つめる。これを繰り返す。ヴィパッサナー、呼吸覚醒。
2. 眠ろうとする時に、眠ろうとする自分に醒めている。眠ってもおらず醒めてもいない自分がある。
また眠りから目を覚ましていない状態にも同じチャンスがある。(心理学者のユングもこれをやっていた。)
3. 意識が無意識に変化する瞬間に気づいている。麻薬を投与して、意識をまさに失おうとする瞬間に気づいている。禅の師匠が弟子を殴って縁側の下に蹴り落とす瞬間(正受が白隠を蹴り落とすなど)に気づいている、など。
(参照:未知への扉/第六章 精神的な爆発)

普通の人は、意識や思いや記憶は連続したものと何の疑いもなく、思い込んでいる。実際はそうではないと示唆のみできる。証明などはできない。

こうした言説は、探検者を宝の山に導く地図のようなものだ。宝の噂を聞かなければ、その重い腰を上げないというのも真実なのだ。
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