アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

熟睡中の夢も見ない状態

2022-12-07 16:56:37 | 究極というものの可能性neo
◎神性の具現

ウパニシャッドでは、インドラの師であるプラジャーパティが、「人が熟睡して、精神統一され、一点の曇りもない時に人は夢を意識しない。これがアートマンである。それは不死なるものであり、ブラフマンである」と説明したところ、

インドラは、「熟睡中の夢も見ない状態がアートマンであるという説には何のメリットもない」として納得しなかった。こうしてインドラは101年間プラジャーパティの下で修行をすることになった。

プラジャーパティの別の説明:
風や雷鳴は身体を備えていない。これらのものは、かの空間から立ち上がり最高の光となった後、それぞれ自らの形をもって現れ出る。

それと同様にアートマンはこの身体から立ち上がり最高の光となった後、それ自らの形をもって現れ出る。
(参考:人類の知的遺産・ウパニシャッドの哲人/講談社)

プラジャーパティの別の説明では、アートマンはかの空間である死の世界で発出して、最高の光に起源を持つが、その後個別性を持ってこの世に現出するというアートマンの位置づけを知り納得している。

つまり我々個人は熟睡中の夢を見ない状態でアートマンに帰り(アートマンに個別性はないが・・・)、その後個別性を持って夢の世界より帰還するのだが、それは個人の側から見た説明であって、アートマンの側からみれば、そのメカニズムこそが人の神性の具現であるということになるのだと思う。
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意識が無意識に転ずる瞬間に悟りあり

2022-12-07 10:29:27 | 究極というものの可能性neo
◎隙間が主、前後が従

OSHOバグワンは、隙間が主であって、その前後が従だと語る。
換言すると、隙間の方が中心で、前後の方が周辺。そうなれば、隙間の方が悟りであって、前後の方が迷いであると気づく。

彼は、ここで、前後から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、個から全体に連続性なく一足飛びに進むことをいう。

前後の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。

隙間を知るにはとにかく醒めているしかない。
隙間に入る技法として彼はとりあえず実例を挙げる。
1. 息が出て、隙間、息が入る、のを見つめる。これを繰り返す。ヴィパッサナー、呼吸覚醒。
2. 眠ろうとする時に、眠ろうとする自分に醒めている。眠ってもおらず醒めてもいない自分がある。
また眠りから目を覚ましていない状態にも同じチャンスがある。(心理学者のユングもこれをやっていた。)
3. 意識が無意識に変化する瞬間に気づいている。麻薬を投与して、意識をまさに失おうとする瞬間に気づいている。禅の師匠が弟子を殴って縁側の下に蹴り落とす瞬間(正受が白隠を蹴り落とすなど)に気づいている、など。
(参照:未知への扉/第六章 精神的な爆発)

普通の人は、意識や思いや記憶は連続したものと何の疑いもなく、思い込んでいる。実際はそうではないと示唆のみできる。証明などはできない。

こうした言説は、探検者を宝の山に導く地図のようなものだ。宝の噂を聞かなければ、その重い腰を上げないというのも真実なのだ。
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臨死体験と感受性

2022-11-26 06:42:38 | 究極というものの可能性neo
◎6%の人は何が起こったかを感じ取る

現代科学では、脳の機能が停止すれば、記憶も失われるとする。以下の文では、人が臨死に至るまでについては記憶がないが、脳機能が停止し臨死になってからの記憶があるのは奇妙だとする。

これぞ、『起こるには起こったが、「何が起きたかを知る」のと単に「起こった」のは別である』ということである。

敬虔なキリスト教の信者が日夜イエスの再臨を願っている。ある日その信者が眠り込んでいる時に、イエスがそのベッドのわきに再臨したが、彼は気がつかなかった。そういうことはあるだろう。キリストの再臨は起きたが、何が起こったかを知られることはなかった。でもって世界中でこんな絶好のチャンスを見逃すのは毎晩起きているに違いない。

こんなチャンスをふいにするのは、感受性の差が原因である。

人間はそのままほうっておけば、見えるものしか見ることができない。また見えるものしか見ようとしない。形に現れたものしか見ようとしない。形にあらわれたものだけが見える。自然、環境、風土、財産、名誉、地位、権力、それらは形だが、その形は万人に見える。しかしその形の背後に神を感得するかどうかが感受性の差である。


感受性の開発とは、霊感を開発しようということでなく、弱いもの弱い立場のものに対する思いやりをもっと持つこと。一般に世間の目は厳しいものだが、「世間の目」そのものを慈愛に満ちたものに変えて、やさしいものに変えていかねばならない。よりやさしい「世間の目」となることが、新時代のきっかけにあると思う。

そうした感受性の開発に役に立つのが冥想である。


『通常、重症患者は急性の錯乱状態に陥っていて、思考は混乱しており、その間の記憶は失われる。
これは、なんら不思議なことではない。脳の機能を支える栄養やホルモンなどの重要な物質のデリケートな均衡が破綻しているときに、脳が正しく機能できるわけがないからだ。

われわれの研究でも、心停止状態に陥った患者の大部分が当時の記憶を完全に喪失していた。しかし、六パーセントから一〇パーセントの患者は意識があり、秩序立った思考が可能であったと主張している。つまり、臨死体験である。

彼らは、心停止状態に陥る前後の記憶は失っていたが、臨死体験については非常によく覚えていた。信頼できる筋からも、心停止状態で蘇生術を受けていたときの出来事を詳細に記憶している患者がいたという証言が得られた。

心停止時に思考ができるなら、脳の電気的活動が外部から測定できないレベルにまで落ち込んでいるときにも意識があることになる。こんなことがあるのだろうか?

心停止時に思考ができるなら、脳の電気的活動が外部から測定できないレベルにまで落ち込んでいるときにも意識があることになる。こんなことがあるのだろうか?

また、心停止時の記憶があるというのも不思議である。頭部外傷や酸素濃度の極端な低下などにより脳が重大な損傷を受けたときには、その前後の記憶が失われるのが普通である。実際、記憶が失われる期間の長さが、脳損傷の程度の指標になるほどなのである。

事故後の臨死体験について私に手紙をくれた男性も、「・・・・私自身は、病院にいたときの自分の容態や周囲の出来事について、まったく記憶がないのです・・・・・私が覚えているのは、ある経験だけです。私はそれを鮮明に記憶していますが、言葉にするのはとても難しいのです・・・・・・」と書いていた。彼らが死に瀕していたときの記憶がほとんどなく、臨死体験のことだけ鮮明に覚えているというのは奇妙である。』
(科学は臨死体験をどこまで説明できるか/サム・バーニア/三交社P128-129から引用)
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マス布教とテーラーメイド冥想指導

2022-11-24 19:12:08 | 究極というものの可能性neo
◎真摯な冥想者の数に応じてマスターが出る

修行と行法の結果は必ずしも一致しない。たとえば、只管打坐をやり続けていた人が、必ずしも身心脱落するわけでもなく、別のタイプの見仏や涅槃に進む場合がある。またさる妙好人のようにマントラ・ヨーガを繰り返し実習していた人がマントラ・シッディに終わらず宇宙意識(ニルヴァーナ)にまで飛び出していく人もいる。

さらにキュブラーロスの出会った黒人掃除婦のように冥想修行らしい冥想修行はなくとも、きちんと見神した人もいる。

さて現代の特徴はマスコミによる一律な情報の洪水的伝播である。そのやり口は、冥想に関しても、新興宗教の布教手段としても顕著だが、主に本や雑誌などの印刷物とネットでもって冥想と思想をコントロールしている。

しかし、もとより与えた情報や冥想手法が一律であっても、個々人によって出て来る結果は千差万別である。

さる教団に加入して冥想修行しても、大半は見仏見神しないし、運よく小悟みたいなのをしたとしても、それが見牛なのか、一瞥なのか、あるいはどのメンタル体チャクラの開顕であるかは、人によって異なるという、行法・冥想手法と結果のミスマッチというのは起き続ける。

つまり冥想のサプライヤーは、大量一律・ワンパターンだが、その結果はてんでんばらばらであるということ。宗教業界では、宗派を問わず、そうした長年の効果の薄かった布教実績が積み重ねられてきているということになる。宗教商売が回転していけば教団としては存続していくという面はあるが、それは個々の人間の救済とは何の関係もない。

仏典では、釈迦が対機説法だと言われるが、そのように、特にクリア・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガでは、相手によって全く異なる指導、つまりテーラーメイド指導をしないと、相手のためにならないのではないか。

つまり現代のように個々人の価値観や生き方が全く異なる世界では、個々人にとってテーラーメイドな冥想指導しか有効とは思えないのだ。

翻って、今の新興宗教のような冥想手法や思想の一律大量の流し込みは、大半の人にとって有害無益なのだと思う。マス布教は百害あって0.0001利くらいか。

個々人にとってテーラーメイドな冥想指導に必要なもの、それは、多数の冥想教師、マスター、グルである。冥想教師、冥想マスターへのデマンドは極めて高いが、サプライサイドは全く応えられておらず、ここに大きな需給ギャップが生じている。

されば、どのように多数の冥想教師、マスター、グルを育成していくか。地味だが、いわばコンビニのおじさん、おばさん、お兄ちゃん、おねえちゃんが日々冥想をするようになることだろうと思う。

本気で冥想に取り組む人がその位多数出てくれば(デマンドサイドの本格的拡大は、未(いま)だし)、マスターも自ずと大量発生していくもの。そんな感じでないと百万人単位で覚者なんか誕生しないわな。

そうなったら宗派とか教団の区別とか言っていない(超宗派的)で、自分に最もマッチしている手法を選ぶのが最優先されることになる。それがテーラーメイド。
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金人、肉体なきマスター

2022-11-24 19:06:09 | 究極というものの可能性neo
◎紫磨黄金のボディ

夢に金人が現れて、指導を行ってくれることはある。

まず空也。
『播磨の国は揖穂郡に、峰合寺があり、そこには一切経が収蔵されていた。空也上人はこの寺に止住して、何年もの間、一切経をひもとき、学習に専念する生活を送った。経典の文句で意味がよく分からないところがあると、いつも夢に金人が現われて教えを授けてくれた。 夢から醒めて、改めて同輩の智者にその不明の個所の意味を尋ねてみると、果たして金人の教えとまったく同じであった。(『空也誄』(くうやるい)、『日本往生極楽記』一七)

さらに、聖徳太子が『維摩経』や『法華経』の疏を作成中、夢に金人が現れて教えを授けたと言う。

その金人のボディの色は、紫磨金色であっただろう。黄金中の最高とされる紫を帯びた黄金色、すなわち紫磨黄金。

密教系、道教系、クンダリーニ・ヨーガ系の相承は、どういうわけか肉体を持たぬ師からの相承が多い。恵果から空海のような肉体がある者同士の相承はむしろ例外と思う。崑崙の500歳の神仙から笹目秀和もそうしたもの。

一方鍾離権から呂洞賓、ババジからダンテス・ダイジのように肉体を持たぬ広義の金人から嗣法した方が多数派なのではないか。

ババジなどは、数百年タームで、出現したり、消えたり。写真が残っているのは不思議な気さえする。彼はいつ現れるかと問われて、人類が危険な時期に差し掛かる時などと答えている。

今まさに危険な時期だが、ババジなどの、知らない他人の第三者である聖者の到来を待つ時代ではなく、自分がなんとかする時代なのだと思い定めないと何も起こらないのだろう。

政治も戦争も人類の未来も、人のさかしらで何とかできる話でなく、神、仏が何とかする話なのだから。
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金の受け取り方と冥想修行

2022-11-24 16:21:59 | 究極というものの可能性neo
◎正師は厳しく清貧

超能力や霊言(チャネリング)というのは、人を容易に信用させ、社会的に見たら異常とされる信徒の行動を教祖への絶対服従の名の下にとらせやすいものだ。その典型の一つはオウム真理教事件であったが、かの教祖は、当初一定の超能力を有していたが、ある時期から弟子にシャクティパットを施した後に寝込むことがあってその頃から超能力が薄れたようだ。そのことは弟子たちの様々な著作等で推測できる。それ以後は教団組織への絶対服従の名の下に、弟子たちを頤使して大規模テロ活動に邁進させ、その一方で求道的な側面については私の見方からすると疑問を持たざるを得ないところがある。

『中国五千年の虚言史/石平』を読むと、中国人には常に時の政権を弱体化不安定化させようと考える勢力がある。その手口の定番は宗教組織である。有力な宗教組織があれば、それに乗じて政権を得ようと様々な各地の軍閥などが参加してくるものである。

毛沢東の愛読書は資治通鑑。周から後周までの帝位をめぐる謀略を論述した書であり、毛沢東は、これを17回も読んだほどで、そこまでして謀略を日常的にめぐらさないと、中国共産党トップを維持していけなかったのだろう。
要するに、日本のように万世一系の天皇のようなものがなければ、民心は機会あれば、帝位簒奪に動きがちなものなのだろう。

それでも日本の不安定化を狙う勢力は、歴史的にも元寇、戦国時代のイエズス会、ペリー提督以来のアメリカ、そして赤い勢力と、切れ目なく襲ってくるものであり、そうしたことばかり研究している勢力にとっては、天皇を護持する姿勢を見せない有力な新興宗教組織は、常に利用価値が高かったのではないかと思う。

オウム真理教事件は、教祖周辺の13人が死刑執行され、後継団体も監視継続で一応の決着は見たことになっている。だが当時から政治家やマスコミ関係者、他の宗教関係者、反社などの関与が噂されてはいたが、表面化することはなかった。

第二次大本教事件では、大本教はテロ事件もひき起こさず、武器もため込まず、天皇制も否定しなかったが、現人神なる国家神道体制と相いれなかったので発生したと思われるので、オウム真理教事件とは全く性質が異なるものと考えられる。

こうした事件を思うと、宗教家が金を受け取ることは、この時代であってもよくよく注意しないといけないと思う。ちょっとした超能力、霊能力があれば周辺に自ずと人は集まって来るものであり、まして見神、見仏した人間なら自ずと周辺にはわかる。
ところが、見神、見仏した人間であっても、そうした罠にはかかるものであることは、至道無難なども指摘している。

ダンテス・ダイジは、お布施以外の金は受け取らず、金と引き換えに冥想を教えることはなかったという。彼の弟子たちは少数に限られ大教団にはならなかったが、それでも弟子たちに対し政治にはかかわるなと戒めたこともあるという。世に清貧というが、ダンテス・ダイジは、非常に厳しく清貧を守ったという点で稀有だったという印象を持つ。

このSNSが発達した時代では、偽物が「私は悟りました」と騙(かた)ったり、「お金を出せば上位の冥想手法を教えてくれる」という怪人怪女も少なくない。だが無垢なる求道者にとっての危険はそれだけでなく、本人が、霊能力が開いたり、見仏、見神した途端に、政治家やマスコミや反社が大金をもって巻き込もうとしようとすることである。

畢竟、見仏見神した極めてナーバスな状態にある場合、それを守ってくれる人は師しかいないということ。またその師が真正な師であれば、彼は間違いなく清貧であろうということである。
お一人様求道であっても、難しい時代である。
 
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でっちあげ

2022-11-19 18:40:05 | 究極というものの可能性neo
◎真理のかけら

『人々は、小さな真理を、真理の一部分を見つけると、全体を発見するのではなく、残りの部分のすきまを想像で埋める。真理の一部分を手にしているので、彼らは主張したり、首尾よく一つの体系を作ることができる。しかし残りの部分はでっちあげに過ぎない。』
(神秘家の道/OSHO/市民出版社P774から引用)

この文章はもともとタントラのあり方についての批判の一部であるが、悟っていない人の信仰って常にそんなものだ。それどころか悟っていない人が主宰する自己改造セミナーとか、悟っていない人が指導する宗教の教義・教学だけ学ぶ宗教なども同じようなものだ。

悟ってなければ、何を主張しても、何を言っても、どんな合理的な説明をしても、全体を捉えていないがゆえに結局は、全体として「でっちあげ」のそしりを免れない。

その上、「あなたは、真正の悟りが何かを見分ける目をもっていないので、何が真理かわからない」などと、ずばりと切り込まれて手も足も出なくなる。

全身全霊を挙げて謙虚に生真面目に素直に信仰に取り組んでいる姿は見る者を感動させる、一心の美みたいなのものがある。しかしまだ悟っていなければ、「でっちあげ」が信仰のまねごとをしていると酷評されても反論ができない。

それでも、子猫や蛙が興味のあるものにジャンプを繰り返すが如く、愚直にリトライを繰り返すのだ。およそ物事の始めには不思議なパワーがあるものだから、それをゆめうたがわなければ、何かがある・・・・と「でっちあげ」まみれの愚者でも頑張るしかない。
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神秘家はみずから進んで死ぬ

2022-11-07 06:27:57 | 究極というものの可能性neo

◎過去を死なせて現在を生きる

 

和尚バグワンの語る時間のある世界とない世界。時間のある世界に死なないと時間のない世界には入り得ない。

 

『神秘家はみずから進んで死ぬ。神秘家は実際の死のまえに死ぬ。かれは瞑想のなかで死ぬ。

 

恋人たちがいくらかそれを知っているのは愛の五〇パーセントが死であるからだ。愛が瞑想に酷似しているのはそのためだ。恋人たちは瞑想性がなんであるかを多少とも知っている。かれらは知らないうちにそれに行き当たった。恋人たちは沈黙を、静寂を知っている。恋人たちは時間というものがないことを知っているが、かれらは偶然にそれに行き当たった。それはかれらが最初から追求していたものではなかった。

 

神秘家はそれのなかにきわめて意識的に、意図的に入ってゆく。瞑想は全面的な死、みずから進んで迎える死だ。

 

人はみずからの自己のなかに死ぬ。

まだ死がやってこないうちに神秘家は死ぬ。

かれは日々死んでいる。

 

瞑想するたびにかれは死のなかに入ってゆく。かれはそれらの高み、それらの深みに到達し、そして、じょじょにゆるやかに、瞑想が自然なものになるにつれて、かれは死を生きるようになる。

 

かれの生の一瞬一瞬は死の瞬間でもある。瞬間ごとにかれは過去を死なせて、みずみずしくとどまる。なぜなら、過去を死なせたとたんにあなたは現在を生きるようになるからだ。』

(不滅の言葉(ダンマパダ2)/和尚OSHO/メルクマールP354から引用)

 

これは見仏見神のショックから、だんだん状態が安定していって、『瞬間ごとにかれは過去を死なせて、みずみずしくとどまる』というように悟後の修行(聖胎長養)がある程度進んだ状態なのだろうと思う。

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悟っていないことを自覚した現代人

2022-11-03 06:27:54 | 究極というものの可能性neo

◎時間について意識する

 

人間は、時間について意識的になった。誰もがスマホや腕時計を持ち、テレビの時刻表示やPCの時刻に目をやり時刻を気にする。

 

古代人はここまで時間を気にすることがなかった。要するに物質文明が発達すればするほど、時間を意識するようになる。

 

時間を意識し、効率的に時間を使うことで、古代なら何日もかかったようなことを、場合によっては、数分あるいは一瞬のうちに完了することができる。

 

ところが、実はその一瞬で、人は何千年、何万年を旅行することすらできる(パノラマ現象)。

 

この偉大な旅ができるのだけれどもやっていない。何回もの人生を飛び越して一気に終着点まで行けるのだが、行けていない、行っていないという悔恨。

 

このことを言葉にすれば、人は「自分は悟っている可能性を有するが悟っていないことに気づいている」ということになる。

 

本当にその可能性に気づいていれば、悟る方法や悟らせてくれる学校や師匠をググッたりする。坐禅やマインドフルネス瞑想で悟れると聞けば、やってみたりするが悟れない。

 

何をしても何も起こらずそのゴールにはたどり着けない。この葛藤と絶望で、自殺や精神病が起こる。一休も自殺未遂2回。

 

そこでさらにオープンマインドにし、起きていることに気づいているようにすると、アレが起こることがある。

 

酔わずに醒めているとは、意識的であるということ。無力感と無意味感と絶望と葛藤にあっても、ある行法・技法に沿って坐る。

 

ついこの間まで、人は悟っていないことを自覚していなかった。ところが、文明の発展でライフスタイルが変わり、時間への意識向上という意識拡大により、悟っていないことを自覚した現代人は、いまや覚醒に向かうしかないのだ。

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ハルワ-精神的隠棲

2022-11-03 06:25:00 | 究極というものの可能性neo

◎息を吐き切って世界を止める

 

シャイフ・アルアラウィーは、アルジェリアのスーフィの聖人。

 

『神を「想起する」ために、隔離された小部屋へ引きこもることは、多くの教団によって、スーフィー修行の中で最も主要なことだと見なされている。それは恒久的な内なる隠棲の状態に到達するための助けである。

 

山中の洞窟にこもった予言者ムハンマドの伝統にしたがい、教団によってはなお自然の中で孤独に引きこもることを奨励しているし、ハルワを行なうための特別な小部屋をもっている教団もある。シャイフ・アルアラウィーは、ハルワについて次のように述べている。

 

私は入門者を四〇日間、小部屋へ入れて、決してそこを離れないと誓わせる。この小部屋の中で、彼は昼も夜も、神名(アッラー)を一語一語、息が切れるまで「アー」という言葉をのばして唱える。

その前に入門者は、シャハーダ(ラー・イラーハ・イッラッ・ラーフ)を七五〇〇〇回唱えなければならない。

ハルワのあいだ、入門者は昼間は厳しい断食を行なわなければならない。断食を破るのは日没から夜明けまでだけである。スーフィーのうちある者は数分後に突然の照明を受けるし、ある者は数日後に、ある者は数週間後に照明を受ける。』

(スーフィー イスラムの神秘階梯/ラレ・バフティヤル/平凡社P112から引用)

 

まず75千回のマントラを唱えた後に、呼気を伴う発声を、照明(神の一瞥のことでしょう。神を見る)するまで繰り返す。

照明の到来のタイミングはその人による。同じメソッドを用いたから同じ結果が同じタイミングで出ないどころか、照明しない人もいる。これぞ冥想が科学になりえない原則である。息を吐き切って世界を止められるか。

 

これはたんなるマントラ・ヨーガでなく、呼気に比重をかけたところに特徴がある。これは苛酷な修行であるが、北アフリカ・中東の人々に最適と考えた指導者がいたのだろう。かといって、ヴィパッサナーのように呼吸を見つめるようなことはしない。

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夢もニルヴァーナも同じである

2022-11-02 12:59:42 | 究極というものの可能性neo

◎仏も夢や幻のようなもの

 

「夢もニルヴァーナも同じである」は、迷いも悟りも同じであると、ニルヴァーナ至上から一歩突っ込んでいる。

大乗仏教の八千頌般若経にこの一節がある。

 

神々が質問を出してスプーティ尊者がこれに答えているのだが、スプーティ尊者は、「完全な悟りを開いた人(仏)も夢や幻のようなものである」と説明し、神々にショックを与える。

 

さらにスプーティ尊者は、ニルヴァーナも夢、幻のようなもので、まして他のこともそうなのだと説明する。

 

彼は一歩進んで、マーヤーとニルヴァーナは不二であり、別に分けられることはない、とまで言う。

(以上参照:現代語訳*大乗仏典1 般若経典/中村元/東京書籍P121-122)

 

これを理屈、理論で言うことはあり得るが、実体験で確認する者がいる。それは、有なるアートマン、第六身体を越え、ニルヴァーナから生還した数少ない人であって、その際何が起きたかをわかっている人である。

 

起きることは起きたが、何が起きたかをわかっている人は稀なものだと思う。

 

人は肉体死を経れば、多く三途の川を渡ったなどと言うが、死の直前からその時点まで何が起こったかをすら承知している人は稀であるように。

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ヴィヴェーカナンダとラーマクリシュナのタッチ

2022-11-02 12:58:05 | 究極というものの可能性neo

◎死と向かい合う

 

ヴィヴェーカナンダが師匠のラーマクリシュナに二度目に出会った時、ラーマクリシュナはエクスタシーの状態で近寄り、何事かをつぶやき、目をヴィヴェーカナンダにじっと向け、右足をヴィヴェーカナンダの体の上に置いた。

 

これによりヴィヴェーカナンダは、壁や部屋や寺院の庭はもとより、全世界、そして彼自身さえも空中の中に消えていくのを見た。彼は死と向かい合っていると確信した。

 

そこでヴィヴェーカナンダは、大声で「何をされるのですか、家には両親も姉妹も兄弟もいるんです。」と叫んで、ラーマクリシュナにこの状態から出してもらった。

(出典:スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯 スワミ・ニキラーナンダ/著 法律文化社P33-34)

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神見

2022-11-01 06:00:19 | 究極というものの可能性neo

◎窮極の大悟&ランキング

 

一日、ダンテス・ダイジがある弟子に向かって言った。

 

『いい?君は見神したんだ。

見神を幾度も幾度も繰り返すうちに、最後に神見になる。逆転する時がくる。

 

絶対なものが自分を使っている。これを窮極の大悟という』

 

見神・見性は、十牛図でいえば第三図見牛。これを繰り返すのが第四図から第七図まで。第八図に至って人牛ともに忘れて究極の大悟、神見ということになる。

 

菩薩とは、見仏した人のことで、菩薩のレベルは、四十二階位に分けられる。四十二階位とは十住、十行、十回向、十地、等覺、妙覺で、五十二階位とは十住の下に更に十信を開いたもの。四十二階位説では、下からランク42位から13位までの十住、十行、十回向の30ランクで修行することを、もともとは聖胎長養といったようだ。究極の大悟までには、さらに11ランクある。

 

つまり十牛図では、第三図から第七図の5段階しかないものを、菩薩四十二階位説では、見仏から究極の大悟までわざわざ41区分しているのだ。細かい区分が好きな人だけがそれを言うのだろう。

 

只管打坐では、このランクを急速に進み、クンダリーニ・ヨーガでは、それぞれのランクをじっくり味わっていく。

 

いずれにせよ、十住、十行、十回向などと漢字を沢山並べられるとそれだけで、引いてしまう人が多いと思う。わかりにくいもの。現代人は知性が優れているというのは、漢字をよく覚えて記憶力が良いということではなくて、本質を見抜く洞察力が優れているということだと思うのだが・・・。それなくしてそれこそ百万人単位で続々大悟なんてのは夢物語。

 

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無想の境

2022-10-28 12:21:56 | 究極というものの可能性neo

◎意識下に座る

 

道者笹目秀和氏が、崑崙山頂ムッツァータンゴにて重要なレクチャーを、疏勒仙人より受けた。仙師とは、疏勒仙人のこと。そして、

 

『その日の夕刻、月を拝する鎮魂(坎水印)を終えて、山上洞窟の最後を行じたのであった。

 

翌日意識下に座っていたようでもあるが、眠っていたもののようでもあるし、失神状態であったようでもある。

 

フト己に還ったとき、仙師は、・・・・・・

「気がついたか。天界遊行とまではゆかないまでも、しばらく今のような無想の境にある修行が必要なのだ。坎水、離火、別々に行じても、やがて自然に合一の境に入るものである。さてこれから地の玄境に行って‘坎離印’の秘法を授けることにしよう」といって洞窟を出た。

 

日は中天にあったのをみて、洞窟の打坐は昨夜来のことで、随分長かったことに気づいたのである。』

(神仙の寵児/笹目恒雄/国書刊行会P265から引用)

 

笹目秀和氏は、クンダリーニ・ヨーギ。クンダリーニ・ヨーガでも、このように無想の冥想がある。想念停止は只管打坐の専売特許ではないことがこれでもわかる。ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスも時間を止めると言う。

 

その先に天界遊行があることを示唆してくれている。天界遊行とは、レジャー、トリップとしての天界遊行ではなく、人間の本来持つ自由の発揮・行使というようなもので、決して霊がかりなアストラル・トリップもどきのものではないのだろうと思う。

 

これだけ長時間座れる人も多くはない。道元や松島の瑞巌寺の雲居希膺などもそうした人。

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その意を誠にする

2022-10-24 10:31:41 | 究極というものの可能性neo

◎君子は必ずその独りを慎むなり

 

四書五経の大学から。

『いわゆる其の意を誠にするとは、自ら欺くこと毋(なき)きなり。悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如くす、これを自ら謙(こころよ)くすと謂う。

 

ゆえに君子は必ずその独りを慎むなり。』

 

『その意を誠にする』で思うのは只管打坐の坐り方、意識をはっきりしたままで深まっていく。シュンニャ、玉ねぎの皮をどんどん剥いていったら何もなかった。現代人のほとんどは、揺れ動き不安定な自意識が本当の自分の気持ちだなどと思い込んでいる。『その意を誠にする』人は少ないものだ。

 

悪臭はいやだし、好色は好ましいなどエロ爺な言い方だが、当時書物は男性しか読まなかったので、こういう言い回しでもよかったのだろう。この先に本当の謙譲がある。まず男女の別、天地の別など区別を立てないと、社会性は広がらないし、自意識も育っていかない。だが、それは入門段階の話ではある。

 

本当の謙譲では、好き嫌いを問題としないから。

 

ゆえに現代人はその独りを慎み冥想する。

 

この文の後に小人閑居して不善をなすこと至らざること無しとして、SNS、モバゲー三昧の現代人を揶揄している。

 

一人でいる時間の過ごし方こそがクリティカル・イシューである。

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