アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

真の幸福とは何か-6

2022-10-20 06:27:22 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ニルヴァーナと幸福感

 

ダンテス・ダイジは、人間が悟りを得るルートは、禅の無字や隻手などの公案で入る知のルート、情から入る「弥陀の本願に救い摂らせ参らせる」などという念仏などの情のルートがあるという説明をしているシーンがある。

 

人間が感じる幸福感というもので比較すると、情動の行動に与える影響は圧倒的であるから、情のルートが知のルートよりもまさる。だが、ニルヴァーナでの幸福感は、そうしたものの何兆倍とでもいうべきものだと、未体験者にとっては非常に説得力の薄い話を敢えてしている。

 

このニルヴァーナでの幸福感は、まことに名状しがたく、筆舌尽くしがたいものであることをアヴィラのテレサも述べているので、そういうものだが、追体験しない限り、是認しがたいものであるとわきまえるしかないのだろうと思う。

 

翻って、快感、あるいは幸福感のためにニルヴァーナを求めるのは、体験至上主義であって危ういところがある。なぜならばニルヴァーナは、体験ではない体験であるから。修行者の立場で言えば至高の体験を求めて道に入るが、最終段階では結局体験する者がいなくなるからである。

 

シャーマニズム、神下ろしで言えば、主神が降臨したとしても、シャーマン自身は、その時何が起こったかはわからないままであるという現象があることは参考にすべきだろうと思う。彼ら彼女らは、最後まで見ている自分を棄てられなかったと言われる。

 

出口ナオは、主神を降ろせる優秀なシャーマンだったが、何が起こったかをわかるようになったのは晩年近くだった。

 

その快感、幸福感は、言葉ではとても表現できるものではないが、それを体験した者からは、その感動、そのバイブレーションが伝わってくるものだ。

 

そしてニルヴァーナ体験者は、見たり感じたりしただけの人(禅の十牛図でいえば第三図)と神人合一した人の二種に分かれるが、見たり感じたりしただけの人は、まだ見ている自分が残っている。

 

冥想修行者の立ち位置としては、ニルヴァーナには、幸福感、絶頂感というものが伴うが、体験とは言えない体験であるがゆえに、そこだけを求めるわけには参りますまい。

 

また世間的には、無駄なもの、効果のないもの、メリットのないものの一つが、ニルヴァーナ、神、仏なのである。

世界宗教にあっては、それでは信者が集まらないので、うまいことを言って信者を集めるものなのだが、真相を見る目のある人は少ないが、いるものなのだろうと思う。

 

真の幸福とは、社会的な自己実現ではなく、感覚的満足感でもなく、人が神と共に生きることにまちがいないと思う。

 

ダンテス・ダイジは、布教した約10年の最初のうちは、ニルヴァーナを目指さなくてもよく各人が各人らしいライフ・スタイルを発見することでも十分だということを主張している時期もあった。だがやがて、そんな悠長なことは言っていられないと気づき全員がニルヴァーナを求めるべきだという主張に変わった。

 

さて、今まさに世界は一斉に全面核戦争の準備を始めた。今日も冥想を。

 

それを伺える相の数々。世界は一斉に熱核戦争に向かっていると見える。

○ CIA: Central Intelligence Agencyの公式instagram(10月14日)に東京はエリアに38百万人以上が集積する大都市だという思わせぶりかつ意図が怪しい記事が出た。

○ロシアはウクライナで核を使う可能性を言及しているが、2022年10月後半NATO14か国はSteadfast Noon作戦という核即応演習を実施する。米国から核爆弾シェアを受けている国が数か国あってそれが演習に参加するらしい。

○英国トラス首相は、2022年8月24日まだ外相だったが、Times Radioのイベントで「地球滅亡を引き起こす可能性があっても核兵器による報復を命じる覚悟がある」と示唆した。

○2022年10月16日、習近平国家主席は共産党大会冒頭の演説で、台湾を統一するためには武力行使も排除しないと表明した。

○アメリカのアントニー・ブリンケン国務長官は、同17日、中国が以前の予想より「はるかに速いスケジュールで」台湾の統一を目指していると述べた。

ブリンケン氏は、中国政府が現状をもう受け入れられないと判断したとした。

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真の幸福とは何か-5

2022-10-19 05:18:23 | 覚醒のアーキテクチャー

◎霊や超能力の誘惑-2

 

2.超能力

超能力の種類と言えば、仏教では六神通。

天眼通(千里眼:遠くのものが見える)、

天耳通(地獄耳:遠くの音が聞こえる)、

他心通(他人の心の中が判ること)、

宿命通(自分や他人の過去・現在・未来が分かる)、

神足通(どこへでも自由に行くことができる=アストラル・トリップ)、

漏尽通(煩悩がない)

がそれ。

 

この中で、漏尽通は、いわゆる超能力とは言えない。漏尽通は解脱であり、究極=ニルヴァーナに触れないと煩悩がなくなることはない。また携帯電話の発達により、ほとんどの人が天耳通は実現している有り様なので、神通力としての天耳通のありがたみはあまりない。

 

密教者がなぜ超能力を用いるかと言えば、人間の生活を助けるためである。またあまり知られていないかもしれないが、悟った人は、つまり漏尽通を得た人は、恣意的に超能力を用いることができない。

 

世の超能力志向カルトや超能力開発セミナーみたいなものでは、この2点がわかっていないのだろうと思う。

 

冥想修行者は、恣意的に超能力を用いたり、超能力にこだわった場合、進境は止まってしまう。これは、霊能力も同様であって、恣意的に霊能力を用いたり、霊能力にこだわった場合、進境は止まってしまう。

 

道教、古神道、などのクンダリーニ・ヨーガ系では、修行の中間段階で超能力が発現することがあるために、前もって恣意的に超能力を用いたり、超能力にこだわった場合、進境は止まることを修行者に伝えておくものだ。

 

これらを承知していれば、超能力で、当たり馬券を事前に知るとか、急騰する株式の銘柄を事前に知るとか、受験テストの内容を事前に知るとかの不品行なことは考えないはずである。

 

さらに超能力の悪用については、超能力者はカルトを形成しがちであることが世間的には影響が大きい。だが、未来予知に関して言えば、覚者と俗人では、過去現在未来のとらえ方が全く異なるということも挙げておくべきである。それは、葉隠の著者、山本常朝の句『浮き世から何里あらうか山桜』などでわかる。

 

また覚者の予知能力は求道方面で用いるのが常道。

 

人に隠れてずるいこと悪いことをするのに躊躇がない隣国があるが、その影響のせいかどうかは知らないが、日本でもそういう人が増えてきた。超能力の悪用は、人に隠れてずるいこと悪いことをする一種であるから、それにまつわる前例はいくらでもある。

かくして超能力の悪用は、幸福とは無縁である。

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真の幸福とは何か-4

2022-10-18 08:01:50 | 覚醒のアーキテクチャー

◎霊や超能力の誘惑-1

 

私は、霊能力もないし超能力もない。そういう青年が霊や超能力の誘惑に出会った場合、それにからめとられる場合がある。霊や超能力は何かということを学校でも教えないし、マスコミでも興味本位以外では伝えないし、SNSでは怪しい説が横行し、カルトでは地獄落ちと世の終わり説でも脅すので、とかく不安な気持ちにさせられがちになるものだからである。最近は、コロナによる行動規制と核戦争の懸念が加わった。

 

1.霊能力、高級神霊

欲望満足と生活の向上を当面の目標と考える人々にとって、こうした不安は時に抑えがたいものであり、高級神霊が未来を予告してくれたり、生活の手助けをしてくれる話はまことに魅力的なものである。

 

特に大戦争の後20年くらいは、多くの人が戦争犠牲者の遺族となっているものだから、霊能力へのニーズは高いものである。

 

だが、そういう背景を傍らに置いて、冥想修行に取り組んでいくと、まともな本では必ず、霊能力開発を目標にしたり高級神霊の指導を仰ぐことを戒めていることを発見するものである。

 

こうしたものは、いわゆる『霊がかり』であって、20世紀前半にはその使命を終えたと考えられる。『霊がかり』とは、世界の見方が宗派別や個人別に無数にあるように、多数の見方の一つにすぎない。

 

霊を見れたり感じたりできる人は、実は10人に一人程度はいるものだと思うが、見神見仏できる人の確率がもっと低いものだということは想像できるのではないだろうか。

 

さらに見神見仏は、禅の十牛図でいえば、第三図にすぎず、窮極はさらに先の第八図。真剣な求道者はにかかわっている暇はないはずなのだ。

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真の幸福とは何か-3

2022-10-17 05:22:37 | 覚醒のアーキテクチャー

◎女性の幸福と男性の幸福

 

冥想は、大方は男性のための修行法である。女性にとっては、女性のための幸福の道筋がある。

このことは、冥想修行者にとっては、ほとんど常識と言ってよいもののはずだが、OSHOバグワンもダンテス・ダイジもあまりそのことをしつこく言わない。そのことは自明だが、強調すること得策ではないと考えていたのだろう。

 

さて女性には女性的自我がある。それは、女性は生まれつき肚(丹田)ができているということにおいて女性的自我のスタート地点があり、それを男性との違いとして注目すべきなのだろうと思う。

 

童話鉢かづき姫では、女性的自我が、最愛の男性つまり魂の伴侶と結ばれることによって充足することがかぶった鉢であることが示される。またこれには、湯殿で汗をかいて合体することに、錬金術的な沐浴と浄化の秘儀が秘められている。

 

また古い錬金術書「ホルスからイシスへ」に登場してくる魔神的な天使アムナエルが容器を頭にかぶっており、その容器の中にはイシスが探し求める秘密の物質が入っている。この容器が女性的自我。

 

このように女性的悟りがある一方で、仏教では女人成仏があり、道教では女几のように男性もなるような成仙が何人もいて、キリスト教でもアヴィラのテレサのように七つ目の最終段階まで承知した人物が出ている。つまり女性であっても男性と同様の究極の悟りには到達することはできるが、それをあまり強調してはいけないということなのか。

 

またキリスト教の女性神秘家のエピソードを見ると、女性的自我の充足を見る場合が多いことは、承知しておくべきだろう。仏教や道教では、そういうエピソードは取り上げないものだ。

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真の幸福とは何か-2

2022-10-16 07:41:27 | 覚醒のアーキテクチャー

◎社会における自己実現な世界観との相剋

 

世俗的幸福一般は、永続せず、不安定だと見れば、進学して、就職して、結婚してあるいは結婚せず、子供を持って、組織で就職したり、起業したりするというモチベーションは一気に下がる。

 

だが、社会人として暮らしていけば、属する組織や集団の目標を達成するために、あるいはその分野で一位になるために他の組織、集団を排除するというような、本来地獄的な行動を余儀なくされることはある。

 

最近の人事評価では、個人の業績目標は必ず集団目標と連動しているもので、優秀で従順な構成員であればあるほど、他のものを楽して取ったり、力関係が当方が優位であれば強引に奪ったりとする行為が求められる。このような行為は世間では悪いことだとはあまり意識されることはないのだが、何年もこうしたことを繰り返していくうちに、それが習い性となってしまう人と、堪えられなくなっていく人の二種に分かれる。

 

特に自分の行った功績を報告するなどというのは、冥想修行者の基本行動パターンである『自分を小さくしていく。謙遜、無私、見返りを求めない。』とは逆方向となり、いつも当惑させられたものだ。

 

なお悪とは、自分を大きくしていくことである。出口王仁三郎によれば、地獄の人は、自分は働かないで楽して他人のものを奪うことや、自分のメリットのために他人を殺すことばかり考えたりしているという。これは、現代では、投資と呼ばれたり引き寄せの法則と呼ばれたりしているが、実はいずれも地獄の生業である。

 

このように、冥想修行者は常に自我をなくしていく方向性で考えたり行動することを求められる一方で、世間で生きるには、地獄的な集団や組織の規則、社会通念に従うことを求められる。なおかつ日本は同調性を強く求められるので、他人と違う天国的な行動パターンは嫌われるので、どうしても目立たないようにすることが必要となる。

 

世間は、このように地獄的であり、世間を渡りつつ冥想修行を継続するには、社会的な自己実現をしていこうとする一見前向きだが地獄的世界観と、天国至高の無私・謙遜・正直の世界観を、平行して生きるということがどうしても必要になる。二重の世界観である。

 

だが厳しく見れば、精神は天国的一本で行けるが、肉体は物質であるがゆえに地獄的なところは避けられないところがある。こうした理屈はわかっていても二重の世界観はなかなかに苦しいものである。

 

この二重の世界観を考えれば、幸福について、単純に願望実現が幸福だなどと嘯くことはできない。

 

また一方で、世俗的幸福一般は不安定なものだと人生を見れば一気に厭世となり、釈迦在世当時の釈迦教団では自殺者が続出したという。

 

修行時代というのは、そういうものであって、世間一般に幸福と考えられているものも、その先の将来を考えれば単純に喜ぶわけにはいかない。

 

一方で、聖者覚者も、身内が死ねば泣くし、親しい者に世間的慶事があれば喜ぶし、不愉快なことがあれば怒りもする。

 

こうして二重の世界感を前提にした何が幸福かということについて、割り切りの仕方は人それぞれだが、冥想修行者は隠れて善行を行い、隠れても悪いことはしないというのは基本パターンなのだと思う。

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真の幸福とは何か-1

2022-10-15 07:19:57 | 覚醒のアーキテクチャー

◎幸福と冥想

 

効果を求める冥想は邪道であると唱える場合、これから冥想を始めようと思う人にとって何が問題となるかと言えば、自分にとって幸福とは何かということになる。

 

実は、アヴァンギャルド精神世界の18年においても本当の幸福について悩んでいたのは、最初の数年であって、徐々に悩むことはなくなっていた。

 

人間にとって、幸福とは、富貴、栄耀栄華、長寿と健康などいろいろな相がある。そうやって迷う人のために紫微斗数でも四柱推命でも西洋ホロスコープでも人間の諸相を12宮や12室に区切って、財産、兄弟と旅、家庭、母、男女交際、子孫、健康と部下、配偶者、対人関係、死、遺産、高等教育、出世、友人等々の側面があることを見せるものだ。

 

だが冥想、meditationというものに取り組む場合、人生上の願望実現ということは捨て去る、あるいは、卒業せねばならない。そのことは、さまざま聖典や聖者のエピソードで語られているものだ。

 

だが世間一般の人は、いきなり世俗の願望実現はあきらめなさいなどと伝えても、まず納得できるものではないので、便法として冥想すれば天国に入る、地獄に落ちない、願望が叶うなどと言ってやるものだ。

 

どのような願望があるかは、お寺や神社のお守り売り場に行けばわかる。曰く、交通安全、家内安全、恭喜発財、学業成就など現世利益。だが、それって本当の幸福なのか。

 

また人間が健全な情感を育んでいくためには、幼少期に母の充分な愛が必要なものであって、そうやって子供は最初親に守られて、長じて段々と自我が形成されて親離れするのが順路である。

 

一方両親が早く亡くなるような生い立ちの場合、このような世俗的幸福の実現可能性のハードルはかなり高いものだ。また臆病な性格の人にとってはそういう境遇は特にきついものだ。

 

そして当面、自分は死なないとして、老いの問題と、死によってすべての人間関係、財産が失われるという問題が将来に立ちはだかっている。

 

つまり世俗的幸福一般は、不安定なものだということに気づくことが、不愉快ではあるが、遅かれ早かれやって来る。これは、面白からぬ現実だ。

 

そこを含めて、直面せよと聖者覚者は唱える。

冥想に取り組ませるため、そんな彼らでも誤解を恐れず感情的反発を避けるため、最高の幸福は、天国の人も老化するので、天国を超えたものである。それが涅槃、ニルヴァーナ、弥陀の慈悲の大海などと示す。

 

だが、実際の聖者たちの行動では、世俗の幸福は常に無視される。人生を卒業したのだから当然だが、俗人の目からは受け入れがたいものがある。

 

釈迦は、リッチな王子として生まれたのに、妻子を棄てて一人ジャングルでの冥想修行に入った。

呂洞賓は、科挙に合格して大政治家になって権勢を振るうことを願っていたが、高粱を煮る間にまどろんで、官途について栄達して、最後は没落するところまで、一生の最初から最後まで、夢で見た。そこで、科挙をあきらめ人生を卒業し、錬丹修行に入ることにした。

 

このように青少年には真の幸福と世俗的願望実現の違いについて、納得してくれるかどうかは別にして、こうした説明はしておくべきなのだろうと思う。

 

そして縁あって、聖人、覚者と初めて出会った時に「すべてを棄ててきたか?」と問われてびびらないで欲しいと思う。

 

冥想修行では、先入観念を棄てよ、固定観念を棄てよとよく言われるのだが、それはそういうことでもある。

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