◎どこかでどん底まで落ちるしかないのかも
(2012-02-21)
嶋野栄道氏の続き。これは阪神・淡路大震災後に日本人の無覚醒を憂えた文。
『危機感の薄い日本人に求められるもの
こんなに文明が発達し、こんなに物質的に恵まれた時期がかつて世界の歴史の中であっただろうかと思うほど、現在の日本は成熟しています。
日本に帰ってきて新幹線に乗るといつも驚かされます。十五分ごと、時間どおりに発着して、しかも実に丁寧なアナウンスがあります。あまりにも丁寧すぎて、もうやめてくれと言いたくなるほどです。とにかく、きれいで、速くて、素晴らしい。私が知る限り、物質的にこれだけの文明を有する国はありません。アメリカにもヨーロッパにもない。日本だけです。
その半面、日本人はアメリカの悪い面ばかりを真似しているように見えます。自国にある素晴らしい文化的伝統を躊躇することなく捨ててしまっているように感じられてなりません。「捨てるべきもの」を間違っているのです。
先に情緒の話をしました。言葉にはできないけれど、感情が伝わってくるというのは、日本人に独特のものでした。しかし最近の人たちは、日本人でありながら、情緒というものがわからなくなっているようです。それは日本人が自国の文化の集大成である古典を読まなくなったこととも関係しているかもしれません。
私は長く日本を離れていた分、余計に日本を愛しています。それは愛国心というより祖国愛です。それだけに、この素晴らしい国がいつまで続くのだろうかと心配します。同時に、
一禅僧の目から見て、日本人の心が枯れてしまっているのが気がかりです。日本人にはそういう危機感があまりに少なすぎるように思うのです。もし日本人が今のまま目覚めないとすれば、どこかでどん底まで落ちるしかないのかもしれません。
一九九五年に阪神・淡路大震災があった時、たくさんの方がお亡くなりになりました。その時に被災者の方たちは、地震のすごさを体感されました。頭で理解したのではなく、目で見ただけでもなく、まさに身をもって感じたのです。地震に遭遇した方にお話をうかがうと、今でも大きな音を聞くと、思わず身構えてしまうそうです。
天災は避けようとして避けられるものではありませんが、一度ああいう極限状態を体験すると、それ以前とそれ以後とでは人間が変わってしまいます。それまでは何でも買い集めていた人が、一遍上人のように「捨てて捨てて」という気持ちになったという話も聞きました。
本当は、日本人自らが気づいて自分たちのあり方をあらためるのが一番なのですが、もしそれが不可能ならば、いつ何らかの力によって厳しい状況に遭遇することになるやもしれないということを肝に銘じておくべきでありましょう。そうなる前に、なんとか日本人が目覚めることを願います。』
(愛語の力/嶋野栄道/到知出版社P232-235から引用)
自分も今の日本が恵まれていることには、相当に見方が甘かったことは自戒したい。心ある日本人のみるところ、「日本は、いままでが良すぎた。それを当然・普通と思っている。」という声をしばしば聞くようになった。
そこに来て東北関東大震災があって、日本人はどんぞこまで一回落ちないとという嶋野さんの懸念が現実化しつつある。
中国人の悪いところは目につきやすいが、アメリカ人の悪いところは宣伝・マスコミ対策のせいかわかりにくくなっている。その延長線上に、つまりアメリカのカルチャー、音楽(ヒップポップ、ラップ、ロック)、映画、核家族なライフ・スタイル、ファースト・フードの受け入れは盛んである一方、日本の情緒的な映画、演歌、大家族なライフ・スタイルはどんどん捨て去られていく。
一言で言えば、アメリカン・カルチャーは愛の薄いドライなカルチャーで、日本の文化は、愛あふれる情緒的なウェット・カルチャー。日本がそれを捨てすぎれば、源流は枯れる。それでも日本がどんぞこまでいくのであれば、その落ち目の運命は、政治家や官僚だけのせいではなく、われわれ自身のせいであることに間違いない。