◎白髪になった人、亡くなった人
家はみな杖にしら髪の墓参/芭蕉
お盆が近い。
20歳の頃に考えていた世界と60代になってから考えている世界は全く違ったものになっている。お盆で郷里に帰り、参る人も少なくなった墓所に出かけるが、昔は元気はつらつだった人が白髪になって杖をついているし、結構亡くなった人も多い。
今更ながら幸福な人生航路だったのだろうか。悔いはないのだろうか。いろいろあったのだろうが、堪えられる程度に収まったのだろうかなどと、挨拶や世間話の端々においそれと踏み込んでいけない部分は感じられる。
若き求道者たちも老いた。この時代がクリスタル・ピープルの卵たちが多いのは認めるが、享楽的、功利的な世界観の浸透著しく、闇バイトであっという間に有為の青年たちが簡単に闇落ちしていく例があまりにも多く、ほとんど地獄の現出みたいになっているのは不幸なことである。そもそも道を求めるというライフ・スタイル自体が絶滅危惧種になり果てた。恐ろしい時代である。
いまや冥想を日課としてやっているのは、既成組織宗教の信者とカルト信者がほとんどなのだろう。悟った正師(グル)がほとんど見つからない現状では、グルなしでマインドフルネス瞑想でもやるのが関の山か。宗派なき冥想の道は、言うは易いが厳しい。
この夏はコロナ明けでいろいろなイベントが復活したはよいが、異常高温の連続で猛暑日も三週間になろうとして一筋縄ではいかない。
またこの夏、熱中症が多いが救急病院に運び込まれる人の半数はコロナに感染している由。また例年なら熱中症では老人は転倒したりして病院に来るケースが多いが、この夏の熱中症では老人が外出中に動けなくなってうづくまって病院に来るケースが多いともいう。
生活環境がここまで変わってしまうと、動植物の生態系のみならず人間の居留地域も自ずと変わる流れになるのではないか。
数ならぬ身とな思ひそ玉まつり/芭蕉
(大意:自分など物の数にも入らない大したことのない人間だと思わないでもよいのだよ、と陰暦7月15日の玉まつりに故人を偲ぶ)
それでも、日々坐る。