アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

悟りと生きる情熱の多寡-2

2023-08-18 06:10:47 | アヴァターラ神のまにまに

◎既成組織宗教の中での悟りとその枠にとらわれない形での悟り

 

ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。ここでは既成組織宗教の中での悟り実現とその枠にとらわれない形での悟り実現を述べる。

『渡辺「普通、いわゆる宗教家の場合はそれを越えようとするわけでしょ?」

ダン「いわゆる宗教っていうのはさ(笑)、つまり一定の概念というのか、用語とか、シンボルを使ってしか入れないさ。一つのテクニックを決めた中で入って行くからだ。だから、大抵の場合、相当出来る老師でもね、禅から入った人じゃあなくてさ、何か特別なきっかで悟りを開く、見証(まま)するっていう人いるんだ。例えば、本当にわけがわからない時に、自転車か何かに乗ってて、転がって、バターンと行った瞬間に、全部が帳消しになっちまう世界を見るとか。あるいは、自分の最愛の誰かが死んだ姿を見た瞬間に、全てがひっくり返って、そして自分が生きてるのではなく・・・いい?全てが、全てが全てがさ、自分となって生きてるんだ。そう気付くこともある。

 

でも多分、禅宗の老師でも、よっぽど出来た奴じゃあないと見抜けない。何故なら、一定の入り方っていうものをパターン化してるからだ。例えば、何でもいいんだ。TMでもあるわけよ。段階が。何故ならTMのやり方っていうのをすると、必ずその段階っていうのに入って行くわけ。

 

だから極端に言うと、ヨガのある団体ではさ、こういう図盤があるんだ。 それで、チャクラを冥想させるんだけどね『何かを見た』って言うとさ、すぐ図盤持って来てさ 『お前どれを見た?』ってこうやって調べるんだよ。そうすと『おっ、三番目を見たか。うん、三番目まで行った」なんてやるわけよ。で、次は四番目へ行くためのマントラか何か上げてさ。うん。それは一つの入り方だ。そしてそれにふさわしい人が、それはとても素敵だ。でも、それだけじゃあない。人の生きざまはそれだけじゃあない。 無数の生きざまが。」

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P54-55から引用)

 

TMは、transcendental meditation超越瞑想の略で、教祖マハリシ・マヘーシュ・ヨーギに一時ビートルズが心酔した時期もあったが、後に幻滅しビートルズは離れたので有名。

 

『禅から入った人じゃあなくてさ、何か特別なきっかで悟りを開く、見性』した人とは、いわゆる隙間から入った人。『禅から入った人』とは、只管打坐から身心脱落というルートや丹田禅で丹田(スワジスターナ・チャクラ)の開顕から見性した人のことを想定しているのだろうと思う。また禅でいう段階といえば、十牛図だが、達磨の頃からあったわけではない。

 

ここで自転車で転んで悟る人の例を出しているが、まず悟った人には無名の人もいるし、自分で悟ったなどと言わない人もいる。キリスト者の鈴木秀子氏は、階段から落ちて見神したが、冥想の中で見神したのではなかったので、自転車で転んで見神したのと半ば同じということになろうか。

 

またこのチャクラ調べをする『ヨガのある団体』とは、本山博のことと思われる。

 

この一連の話の力点は最後の、人には無数の生き様があって、悟りも無数の形があるということ。悟りは、宗教団体に入信しなくても、続々と発生しているのだということ。だからダンテス・ダイジは、『(出家とは寺に入ることではなく)、寺を出る出家もある。』などと嘯く。

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