◎グル(導師)あらずんば知識あらず
『Overview of the meditation 冥想の全体像』のカテゴリーにも書いたが、正師は冥想修行において必要欠くべからざるものである。
正師(グル)の必要性について、いくつかの眼目はあるが、これまでほとんど指摘してこなかった視点は、経典・教学・教義は我々自身に最適の方法を与えてくれないが、正師(グル)だけが、その場その時点で最適な冥想の方向性、こつをアドバイスしてくれるものだということ。
つまり、死んだテキストでなく生きている生身の正師(グル)だけが揺れ動く千差万別のわれら個々人の状況を観察、把握して、悟りに向かう的確なアドバイスを与えてくれるものだということ。
このことは、実際に正師(グル)に出会ってみれば、問答無用でわかること。
またこのことは、冥想修行の二重の不確実性をクリアしていくために必須である。二重の不確実性とは、魂の経験値の問題と冥想手法とその結果がリンクしない問題ということだが、自分を本当にわかってくれる正師(グル)だけが、そこを観察し得て親身に指導してくれる。
OSHOバグワンもそのことを指摘している。曰く、指示された冥想手法や知識は、ある弟子個人だけに極秘にプライベートに向けられたものであり、それを知り得た他人がそれを用いるのは有害だったり、危険だったり、致命的だったりするという点。よって師は弟子に口止めをする。
(参照:瞑想―祝祭の芸術/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマールP141-142)
勿論正師(グル)は、最低でも見神、見仏、見性体験を経ていないと、弟子の現状を見極めるというような芸当はできない。
弟子の現状を見極め、これ以上の修行ができない弟子は、魏伯陽の故事のようにそれ以上の修行をやめさせるということまである。