アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

悟りと生きる情熱の多寡-4

2023-08-20 03:07:19 | アヴァターラ神のまにまに

◎悟りに足る情熱の多寡

 

ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。

逆転とは、悟りのこと。日本では肉体死した人のことを「仏になる」と言い慣わすが、肉体死した人のほとんどが悟りを開くわけではないことをまず述べている。

そこで情熱を持つ人だけが、死に際して悟りを開くと述べる。その死は肉体死であるとは限らず、情熱がある人の精神の死であることがある。

 

『S「そういうふうに、逆転がない人も沢山いるんですね。」

ダン「うん、逆転がない人っていうのは折り合っちゃう。妥協しちゃうんだ。つまり、例えば、死っていうものを、死の経験をするとするでしょ。そうすると『ああ、死ぬのか』くらいで考えてさ『死ぬんだ。もうこんなことは、もうこれ以上関わってもしようがない』ってふうにさ、どっかへしまい込んじゃうのさ。懐へ奥深く、そしてパチンと蓋をしてさ、鍵を掛けて、その鍵をポン投げて。」

S「それが大半の人間でしょう?」

ダン「うん。大半の人間だ。だから、何よりも情熱が人をね、その人自身に変えさせる。情熱なんだ。本当に愛しさを感じた人でなければ、無限の広がりを経験することはない。

でも、大丈夫。ここにいる人達はさ、それに出会うだけの情熱を持ってるから、こういう縁が出来た。』

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P5-56から引用)

 

「無限の広がりを経験する」ということも悟りを開くということ。

悟りには生きる情熱が必要だ。前段で迷いの大きな人だけが悟ると語っているが、生きる情熱が大きい人だけが、迷いが大きい。禅で言えば疑団。禅でも、坐れば坐るほど必ず疑団が大きくなるというものでもなかろう。禅僧洞山は、死んだばかりの僧(悟りきらないまま死んだ若い僧)の頭を三度棒で打ち、輪廻から抜けられないぞと独白するシーンがあるが、それはそのことを示した場面の一つ。その若い僧には情熱が足りなかったのだ。

 

ダンテス・ダイジは、弟子たちに対し、彼と知り合ったからには、そのための情熱は既に足りていると勇気づけている。

 

じゃあどのようにすれば情熱を増やせるのかという質問が来るのだが、どうもその情熱は生まれついてのものであるような感触である。坐り詰めに坐る、あるいは為すべきことを一つ一つこなしていく、そうしたことの先にあるのが、悟りに足る情熱量のその人生での若干の増加なのではないかと思う。

 

洞山には、この話の他に最上位弟子(首座)を問詰したあげく死に追い込んだ故事もあるが、それもその辺の理屈を反映している事象なのではないかと思う。

 

今生において「生きる情熱」をさして増やせないとした場合、万人一斉に悟るシーンが予定されているシーンが幻視されていることが新たな疑問点として浮かび上がってくる。

それは、キリスト教の空中携挙であり、出口王仁三郎の「凡夫の耳も菊の年」である。

これは、歴史的社会的な事件なのかどうかはわからない。ただし、チベット死者の書で、死のプロセスの最初の段階において、万人は必ず「原初の光」という神を目撃することができるシーンがあることを意味している可能性もあるように思う。

 

それは、ファンタジー好き、幻視好きの人には面白くない解釈かもしれないが、承知しておくようなことかもしれないと思う。充分な情熱なくしても、「原初の光」の目撃はあり得るのではないかということ。

コメント
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