アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

逍遥訣解読-3

2025-01-16 07:05:23 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎無何有郷=どこにもない場所

(2018-07-26)

 

太乙金華宗旨の逍遥訣から

『第七句

そして奥義中の奥義をしめす一句がある。

 

第八句

どこにもない場所こそ真の家である。

(無何有郷は是れ真宅なり)』

 

呂洞賓の解説では、この二句は、訣中の訣、つまり核心である。常にこれから離れてはだめなもの。いわゆる心を洗い、想念を浄化し、沐浴を行うことである。

沐浴こそは、大周天の奥秘である、と。

 

沐浴は、太乙金華宗旨の文中に3箇所出てくるが、逍遥訣以外のもう一箇所は、第十二章周天。

 

第十二章周天では、周天とは気をメインにするものでなく、心で到るもの。周天とは、(もともと動くものへの)サポートであり、無心にして守り、無意にして行う。

 

更に薬とは有形のものでなく、性光(本性の光)であって、先天の真気であり、これは大定という深い瞑想の境地において必ず現れるものだから採薬という言い方は間違っている、とする。

 

このように第十二章周天では、個人における薬の現れ方を説明しながら、そんな周天が成功しようがしまいが、自分の立ち位置は常に正位にあって、万物はただちにのびのびとした状態にある、これこそが、様々な内丹経典でいう沐浴であり、これぞ大周天であるとする。

 

つまり個は一つながりのもの=アートマンに変ずることこそが沐浴であり大周天だとしている。

 

最後に無何有郷、つまりどこにもない場所とは、OSHOバグワンは、ずばり『今ここ』、時間も空間も物質も誰も彼も一つながりの場所であると、一言で片付けている。

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ディヤン・スートラの七つの段階-4

2025-01-16 07:01:00 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎感情の浄化-1 友愛

(2021-11-10)

 

OSHOバグワンは、感情を4区分する。

感情が純粋になれる4つの局面とは、友愛、慈悲、快活さ、感謝。それぞれの反対語である不純な局面とは、憎しみ・敵意、冷酷さ・暴力・不親切、惨めさ・苦悩・不安、恩知らず。

不純な局面は常に外側、外面に焦点を向けているのに対し、純粋な局面は自分の内側から流れ出る。

また純粋な感情は実存の一つの境地、逆に不純な感情は歪み。

以上が感情の全体論。これに対して、局面別の説明が続く。最初は友愛の説明だが、愛と友愛の違いにはあまりこだわっていない。

 

人生にはごくごく些細なこと、非常にささやかなことが無数にある。この中に友愛と愛の中枢を目覚めさせるチャンスが広がっている。そこで毎日何の見返りも求めないことを一つか二つ必ず実行する。そうすると自分の内側に愛が誕生し、友愛が育っていく。

これは、意識的な愛の行為であり、積み上がっていけば、自分の愛を全世界にまで拡大できるようになる。

マハーヴィーラを引き合いに出して、人は何をするにも無力だし、物質的に与えるものは何もないが、覚者は愛を与えざるを得ない、そうするしか術がない、とする。

以上が友愛の梗概。(参照:ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P147-163)

 

愛あるいは友愛が流れ出すのは厳密に言えば、本人が覚者である場合のみ。ここでは、明らかに未悟者の行う無償の行為、善行を想定している。その証拠に例示は、釈迦、イエス、マハーヴィーラである。

 

人間は24時間、想念と感情で行為しているが、人としてかそけきチャンスを感じ取りつつ善行を行うチャンスを逃さないのは道の始まりである。

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釈迦の弟子ヴァッカリの自殺

2025-01-16 06:56:05 | 究極というものの可能性neo

◎罪なくして臨終を

(2011-04-09)

 

長老ヴァッカリは、陶器づくりの者の家で、重病に伏し、困窮していた。彼は一度でいいから釈迦の足を頂礼したいという願いを持っていた。ヴァッカリは強い痛みにさいなまれていた。

一日、釈迦はヴァッカリのところを訪問し、ヴァッカリが「もの、感受、想念、因果的存在、心(五蘊=色・受・想・行・識)は永遠に無常である」と見ていることを確認し、そうなれば、再びこの世に生を受けることはないとアドバイスした。

翌朝釈迦は、イシギリパッサ・カーシラー山に居たヴァッカリのもとに比丘をやって、

「おそれるな。ヴァッカリよ、おそれるな。おまえの死は罪に汚れてはいない。罪なくして臨終を迎えるであろう」と伝言させた。

この使いの比丘が立ち去ってまもなく、ヴァッカリは、刀をもって自殺した。

 

戻ってきた比丘の報告を受けた釈迦は、ヴァッカリの様子を見に行こうと、イシギリパッサ・カーシラー山に赴き、そこで、遠くから往生を遂げたヴァッカリがベッドの上に横たわっているのを確認した。

『そのとき、一面(にわかに)たちこめた黒雲が、東に走り、西に飛び、北に走り、南に飛び、空高く舞い上がり、低く這い下がり、四維に走るのであった。

世尊は比丘たちに話された

「比丘たちよ、おまえたちはあのたちこめた黒雲が東に走り、西に飛び・・・・四維に走るのをみたであろうか」

「はい見ました」

「比丘たちよ、これは、悪魔(魔波旬)が善男子ヴァッカリの魂はどこに行ったのかといって、その魂を捜し求めているすがたである。

しかし比丘たちよ、善男子ヴァッカリは、その魂がどこかに止まることなく、完全な涅槃に入ったのである」』

(世界の名著 バラモン経典・原始仏典/中央公論社P456から引用)

 

その死に方にとらわれて、真実を見誤ってはいけない。津波で亡くなる人あり、放射線障害で逝く人あり、自殺する人もあり。

釈迦はヴァッカリが自殺するのが最初から分かっていたし、ヴァッカリも自殺することが自分で分かっていたから、釈迦はわざわざ人をやって、躊躇、後悔のないようにダメを押したのだろう。

日本では、いまや、放射性物質まじりの黒雲が、東に走り、西に飛び、北に走り、南に飛び、空高く舞い上がり、低く這い下がり、四維に走る。

死の直前、ヴァッカリは、ほとんど悟る一歩手前まで来ていた。一方日本人全体はどうなのだろうか。

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ダライ・ラマ例外的なケースで自殺を認める

2025-01-16 06:46:40 | 冥想いろいろ

◎自殺を絶対的に罪だとするキリスト教とは違う

 

仏教者は、釈迦が弟子ヴァッカリの自殺を例外的に認めたケースがある。ラマ教のダライ・ラマも同様に例外的なケースで自殺を認めている。

極限状態の中で、自殺は許される

 

しかしながら、自殺はなべて悪であるとは言い切れない。ある特定の、ひじょうに限定された状況において、自殺は許される行為となりうることを言っておかねばならない。

 

最近、私はある親しい友人、チベット人の友人と語り合った。話題はチベット動乱の後、私がインドへ亡命した一九五九年以後のチベットのことに及んだ。彼には長く親しんできたラマ僧の友がいた。

ひじょうな大食漢であったそのラマ僧は、とてつもなく肥満していたそうなのだが、毎日、少なくとも五〇個もモモ(皮の分厚い、肉と野菜のチベット餃子)を食べ、一キロもの肉 を食べ、巨大なボウル一杯のヨーグルトと一リットルものミルクを飲むような食生活をして いたという。それでいて、彼は宗教的にはすばらしく高い境地にまで到達していたらしい。 大量消費と宗教的高潔さが同居する不思議にして稀な例だと言える。

その彼が、一九六〇年代になってからのことだが、中国当局に逮捕された。反革命の容疑で人民裁判が行なわれた。即決裁判によって、彼は、翌日公衆の見守る中での鞭打ちの刑を言い渡された。ラマの高僧へ恥辱を与えることが目的であったとしか考えようがない。

 

そこでどうなったか。

その夜、彼は瞑想に入り、自らの魂を肉体から切り離した。死んだのだ。いわれない恥辱を耐え忍ぶより、彼は《その生命〉を、その瞬間に自ら断ったわけである。このような場合、こうした《死》を自ら選び取ることは許される。

 

彼が、もしその夜、このようにして自らの命を断たなかったとしたらどうだったか。いずれにしても、彼は群衆の輪の中にひざまずかされ、鞭打たれ、あるいは拷問され、遠からず死なねばならなかっただろう。それならば、瞑想の中で死ぬほうがましである。なぜならば、彼が一日生きながらえればその分だけ、数日生きながらえればより多く、他者に悪しきカルマを積ませることになっただろう。鞭打つ刑吏や拷問者は、彼を苛むことで悪しきカルマを蓄積することになったわけだから。

他者に悪しきカルマをもたらすことを避けるためには、こうした自殺は許される。瞑想による死は自殺ではないと言う人がいるかもしれない。だが、仏教徒として見れば、呪いによって人を祈り殺すのが殺人であるのと同じように、瞑想による死もまた自殺である。

(中略)

 

人を殺すに刃物や銃器などの武器を使おうと、マントラ(真言。祈りの呪文)の力に頼ろうと、その結末は、まったく同じだと言わねばならない。死である。他者の死。自殺するに、ロープを用いるか、毒薬をあおるか、瞑想の中での自己の肉体との決別を選択するか、それは手段の違いにすぎない。結果は死である。自己の死。

(中略)

 

だが、よく肝に銘じておくべきだ。仏教徒にとっても、自殺は悪しきことである。極力、自殺は避けねばならない。ここで私が述べたことは、あるきわめて限定された極限状況の中で、例外的に自殺も否定されない場合があるということである。いかなる場合も、自殺を絶対的に罪だとするキリスト教との違いを覚えておけばそれでいい。

自殺ばかりではない。殺すことは、それが人間だけではなく、いかなる生命であろうとも殺生として禁じられている。生命の破壊は罪である。』

(ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議/14世ダライ・ラマ/クレスト社P53~58から引用)

 

現代の人類は緩慢な自殺をしているようなものであるとは、生きる本質的な意義を見出せずにいながら、人並の生活を続けていくには激烈な生存競争を勝ち抜いていかなければならず、自ずとその生活は苦と感じられる人が多いからである。

 

最近の学校では、自分に合った仕事を捜させるわけだが、これが本来の自分らしい自分捜しにつながっているところがよい。その方法は冥想(瞑想)がベストだが、無私無欲をベースに本来の自分らしい自分を、思うことなく考えることなく求めていけば、いつか自分にふさわしいライフ・スタイルは見つかるだろう。

だが現代では、それではすまない。自分にふさわしいライフ・スタイルで生きるとは、いわば下方三チャクラ(ムラダーラ、スワジスターナ、マニピュラ)で生きることであって、そんな人ばかり増えると最終的には世界全面核戦争に至り殺しあうようなことになりかねない。

よって、愛を踏まえた上方3チャクラ(アナハタ、ビシュダ、アジナー)で生きつつ、大悟覚醒(ニルヴァーナ)を目指さねばならない。

上方3チャクラで現代を生きるのは、胃をやられがちになる。他人を傷つけないような生き方をするのは当たり前だが、ダンテス・ダイジは、「自分を傷つけられるのはどうか?」と問われて、「自分を傷つけられるなどということは知ったことではない」と一刀両断した。

さはさりながら、現代において生きるために全身全霊をかけて生存競争に勝ち抜いていきながら無私・無欲・無用の用の冥想修行を続けていくには相当に骨折りが必要であるのも間違いない。

 

自殺は論外だが、この人生で大悟覚醒することを狙ってこの時代に生まれてきた人には、日々の30分の冥想もする余裕もなく暮らしている人も少なくないだろう。それでも頑張って少しでも冥想していこう。

それだけが、人類全体の自殺を回避する道なのだから。

 

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