◎想念と行動の意識化
OSHOバグワンの「シヴァの、宇宙への帰一の方法」としての呼吸テクニックでは、ボディごとの呼吸を分離して取り扱ってはいない。呼吸は呼吸一本であり、エーテル体の呼吸だけが、独立して説明されてはいない。あるボディにおける独立した呼吸についての説明は、意味がないとでも言いたげな説明であった。
更にOSHOバグワンのヴィパッサナーについての説明。
『ヴィパッサナ
ヴィパッサナは、他のどれよりも多くの人々を光明に導いてきた瞑想だ。それはこの瞑想がまさに本質的なものだからだ。他の瞑想も同じ本質を備えてはいる。だが非本質的なものもまた付随し、異なった形態になっている。しかしヴィパッサナは本質そのものだ。そこからは何一つ落とせず、また改良の余地もない。
ヴィパッサナはとても単純だから、幼い子供でもできる。実際最年少の子供のほうがあなたより上手にできるだろう。
ヴィハッサナは、三通りの方法ですることができる。自分に最も適したものを選べばよい。
最初の方法は--自分の行為、肉体、思考、感情に対して気づいていることだ。歩くときには、気づきをもって歩きなさい。手を動かすときには、自分が手を動かしているのを充分に意識しながら、気づきをもって動かしなさい。ややもすると機械的に、意識せずに動かすこともあり得る。たとえば朝の散歩をしているとしよう。あなたは両足に気づくことなく歩き続けることもできる。
自分の体の動きに油断なく醒めていなさい。食べているあいだは、食べるのに必要な動きに油断なく醒めていなさい。シャワーを浴びているときには、その冷たさに油断なく醒めていなさい。降り注ぐ水とその大きな喜びに、ひたすら油断なく醒めているのだ。それらを無意識状態のまま起こらせておくべきではない。
マインドについても同じだ。どんな思考がマインドのスクリーンを通過しようと、「見守る者」でありなさい。どんな感情がハートのスクリーンを通過しようと、「観照者」のままでありなさい。自己同一化してはならない。何が良く、何が悪いと判断してはならない。それは瞑想ではないからだ』
(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社から引用)
ここでは、クンダリーニ・ヨーガの基本である。見守る、聞き守るから入り、意識的であれと指図する。そしてその対照と合体することを禁じる。つまり見ている自分を残しなさいということである。観照には見ている自分が必要なのだ。
行動や想念の不断の意識化の努力は、平素の労働や就学時にはまずできないだろう。つまり「しまった。今無意識だった。」などと、毎度意識化に向かうことを繰り返す・・・そんなことばかりしていたら、ボヤボヤしているんじゃないと注意されるのがオチだからである。職場や学校でのしっかりした管理者であるほど、そうした意識が仕事や勉強に向いていない人を見分けられるものである。だから本業とは別に瞑想の時間を持たねばならないというのが現実的な動きになると思う。