◎選り好みをすることが執着であり叫びの元
まず釈迦のダンマパダから
1.『怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。』
(ブッダの真理の言葉・感興の言葉/岩波文庫P41から引用)
この束縛が執着のことである。
2.イーシャ・ウパニシャッドから
『有情・非情の万有を自己となし
いたるところに万有一体の理を悟る
この覚者 この賢者に
いかなる愁い いかなる執着があろう』
(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P174から引用)
OSHOはこの経文の解説で、悲しみと執着がペアになっているのは、この二つは実は一つのものだからだと指摘する。悲しくなるのは執着の対象が失われたからであり、執着がなければ悲しみはない。悲しみは執着につきまとう影のようなもの。
3.禅の信心銘から
『至道無難唯嫌揀択
【大意】
至上の大道は、すぐそこにあって、かれこれと七面倒くさいものではない。ただえり好みしさえしなければ、それでよいのである。』
執着はえり好みから起きる。つまり悲しみは、えり好みが原因なのだ。
4.ヨハネの黙示録
『見よ。神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民になり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』
『悲しみも、叫びもない』というのは、その原因を断たねば実現しない。悲しみも叫びもその原因は、にわかには信じられないかもしれないが、えり好みである。
えり好みについては、最近の価値観の多様化が言われる以前の古代から、特に異性へのえり好みは激しいものであり、この時代は、ファッション、ブランド品、コスメから消費財一般まで、何にでもえり好みを前提にしている。
こうした気軽な消費選好というえり好みが、膨大な悲しみを呼び、叫びを引き起こしているのだ。
つまり『悲しみも、叫びもない時代』とは、万人がえり好みをしなくならないと来ないのである。至福千年、イエスの再臨、弥勒菩薩の出現は、万人がえり好みをしないという、現代人には全く考えられない心情の人々の世界なのだ。
そこで、人がえり好みをしないことを実現するには、人は冥想により、神と一体になる、あるいは仏と一体になるという、体験とはいえない体験を経ねばならない。