◎ジェイド・タブレット-05-29
◎青春期の水平の道-28
◎冷たい灰をかき混ぜて炭火を見せる
自殺未遂をして、傷心癒えきらぬ一休は、求道の志やみがたく、22歳にして堅田のやはり貧乏寺の華叟宗曇の祥瑞庵の門を叩いた。華叟は、「印証(悟りの証明)を得てより20年、仏法の二字を道(い)わず」とし、大徳寺門下ながら、一生近江堅田から大徳寺に戻って布教することはなかった。華叟はなかなか入門を許さず、一休は四、五日門前にあったが、ある朝華叟の目に留まり、「すぐに水をぶっかけて、棒で叩いて追い出せ」と弟子に命じられたものの、夕方には入門を許された。
華叟宗曇は、大徳寺の大燈国師の系譜に連なる師家。一休は、堅田の岸辺の葦の間やあるいは知り合いの漁師の小屋を借りたりして徹夜で坐禅を続けた。食事も一日二回とれなかったので、その漁師からもらったもので食いつないでいたらしい。なおその漁師の妻は鍋や釜をかきならしては夜坐の邪魔をした。
また華叟が病気になった時、一休は窮迫のあまり、香包や雛人形の衣装などをこしらえては京都で売って、薬代を稼いでいた。
ある日、一休は華叟に命じられ薬草を刻んでいたところ指から血が出て作業台を赤く染めた。華叟はこれを睨みつけて、お前の身体は頑丈だが、手の指は軟弱なことよと言った。これを聞いて一休の指はますます震えたが、華叟は微笑んだ。
一休25歳。平家物語祇王失寵の段で小悟。
一休27歳の夏の夜、鴉の声を聞いて悟るところがあり、すぐにその見解を華叟和尚に示した。華叟は「それは羅漢(小乗の悟り)の境涯であって、すぐれた働きのある禅者(作家の衲子)にあらず」といわれた。そこで一休は「私は羅漢で結構です。作家などにはなりたくない」といった。すると華叟は「お前こそ真の作家だ」といい悟りを認め、偈を作って呈出するようにいった。
その偈の大意は以下。
「悟る以前の凡とか聖とかの分別心や、怒りや傲慢の起こるところを、即今気がついた。そのような羅漢の私を鴉は笑っている。
前漢の班婕妤は昭陽殿に住んで、成帝の寵愛を受けたが、趙飛燕姉妹のために寵を失った。その際、彼女の美しかった顔は、寒い時の鴉にも及ばないと嘆くようなことになった(それは羅漢と同じ)。」
その後華叟は、一休に印可(悟りの証明)を渡そうとしたが受け取りをことわったので、彼の同席のもとに一休の縁者の橘夫人にこれを渡した。
華叟は、腰痛がひどく、おまるも自分で使えないほどだったので、弟子たちが交代で下の世話をした。弟子たちは竹べらで始末したが、一休は素手で始末した。
一休は、大燈国師にならったのか以後放浪の風狂(聖胎長養)の一生を送る。一休35歳の時に華叟は亡くなった。
華叟の遺偈。
「滴水滴凍 七十七年、 一機瞥転し 火裡に泉を酌む」
(七十七年間、滴った水がすぐに凍ったように時間のない世界(間髪の入らない世界)であった。ここで見方を転換し、火の中に湧き出る泉を酌む)
前半は時間も動きもない世界のこと。後半は、絶対者からあらゆる事象が生まれ出るエソテリックな風光を云う。
さらに一休の頂相(ポートレート)の自讃に
「朦々として三十年 淡々として三十年。
朦々淡々六十年。
末期に糞を晒して梵天に捧ぐ」
とあり、あまりデリカシーはないが、デリカシーのないところを、敢えてこれがリアリティだとばかりに押した一休の露悪趣味が「糞を晒す」にある。しかし、これは禅的だが、師華叟のことをも連想させる。