◎自我の内部が完全に一となり
今北洪川は、明治初期の禅僧。鎌倉円覚寺の管長までやった。彼の悟りとされる体験。
『明治時代の著名な禅僧今北洪川は、もと儒教徒であったが、この体験について次のように述べている。
「ある夜、坐禅に没頭していると、突然全く不思議な状態に陥った。私はあたかも死せるもののようになり、すべては切断されてしまったかのようになった。もはや前もなく後もなかった。自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。私が感じた唯一のことは、自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされているということであった。無限の光が私の内に輝いていた。しばらくして私は死者の中から甦ったもののごとく我に帰った。
私の見聞き、話すこと、私の動き、私の考えはそれまでとはすっかり変わっていた。私が手で探るように、この世のもろもろの真理を考え、理解し難いことの意味を把握してみようとすると、私にはすべてが了解された。それは、はっきりと、そして現実に、私に姿を現わしたのであった。あまりの喜びに私は思わず両手を高く上げて踊りはじめた。そして、突然私は叫んだ。『百万の経巻も太陽の前のローソクにすぎない。不思議だ、本当に不思議だ。』」――続いて洪川は次の詩を作った。
まことに、わたしたちは長らく相会しないでいた、孔夫子よ。
このような世界であなたに会えたことを
私は誰に感謝したらよいだろう。
いやそうではない、ここに私を導き来たったのは私自身である。』
(禅 悟りへの道/愛宮真備/理想社P34-35から引用)
さて今北洪川のこの体験とは言えない体験がここで書かれたのがすべてだとすれば、今北洪川は、第七身体、マハパリ・ニルヴァーナに到達したのだろうか。
上掲『自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。』は、神と自分が合一した時に起きる、なにもかもなし。
さらに上掲『自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされている』は、神(有、アートマン)と自分が合一した時に起きる状態で、自分は宇宙のすべてであった、という体験とは言えない体験。彼は個と全体が逆転したのだ。
七つの身体論やダンテス・ダイジの指摘によれば、さらに無底の底に降下する身心脱落があり得るが、それがあったかどうかは、この文ではわからない。