◎社会性とのバランス
普化は、唐代の人で、臨済禅を興こした臨済義玄より一枚上手の禅者。
普化の師である盤山宝積(720-814)が、その逝去に臨んで、「私の像を描くことのできる者がいれば、今すぐ描くよい」というと、多くの弟子がその肖像を描いて持ってきた。
そこに普化が手ぶらでやってきて、盤山の前に出るといきなり宙返りして出て行った。盤山は「普化はこの風狂さで今後世人を導くに違いない」と評したという。
ある日、臨済と普化が法要後の会食に招かれた。席上臨済が「一本の髪の毛で大海を呑み込み、芥子粒一つに巨大な須弥山を納めるというがこれは、超能力の奇跡か、それとも見性者に自然に備わる働きか」と質問をしかけた。
すると普化は、いきなり食卓を蹴り倒した。
臨済が乱暴じゃないかと言うと、普化は「ここで乱暴とか穏やかという場合ではあるまい」と応じた。
次の日二人は、別の法要後の会食に招かれた。臨済は、「今日のメニューは昨日のと比べてどうだ」と問うと、普化はまたまた食卓を蹴り倒した。
臨済が「それはそれで良いが、あまりに乱暴すぎる」というと、普化は「馬鹿野郎。仏法に穏やかだの乱暴だのということがあるか」と返したので、流石の臨済も驚いた。
一無位の真人とか、本来の自己と言えば、なんとなく知的なイメージを膨らませて理解することができるが、普化が何のためにこんなことをして見せるのか理解に苦しむ人が多いのではないだろうか。
本当に素直になった人は、自分がどのようであっても何の問題もないことを知っている。何の問題もなければ、そこから流れだす自由というものがある。臨済禅では、大安心というものを求めるのと同時に、特にこの自由というものに力点を置く。禅家は、当意即妙とか、活殺自在などのむずかしい言葉を使うが要するに自由を言っている。
普化はロバになりきって、生の野菜をぼりぼり食べたり、勤行をしないで飯だけ喰らう泥棒になりきって、奇矯な行動をし続けた。
地獄的な環境にあっても本当に素直であれば、本当の自由を生きることができることを普化に見る。しかしそこに社会性とのバランスはない。「社会性とのバランスなんていうたわけたものは仏法にはない」という普化の言葉が聞こえてきそうだ。
普化は、唐代の人で、臨済禅を興こした臨済義玄より一枚上手の禅者。
普化の師である盤山宝積(720-814)が、その逝去に臨んで、「私の像を描くことのできる者がいれば、今すぐ描くよい」というと、多くの弟子がその肖像を描いて持ってきた。
そこに普化が手ぶらでやってきて、盤山の前に出るといきなり宙返りして出て行った。盤山は「普化はこの風狂さで今後世人を導くに違いない」と評したという。
ある日、臨済と普化が法要後の会食に招かれた。席上臨済が「一本の髪の毛で大海を呑み込み、芥子粒一つに巨大な須弥山を納めるというがこれは、超能力の奇跡か、それとも見性者に自然に備わる働きか」と質問をしかけた。
すると普化は、いきなり食卓を蹴り倒した。
臨済が乱暴じゃないかと言うと、普化は「ここで乱暴とか穏やかという場合ではあるまい」と応じた。
次の日二人は、別の法要後の会食に招かれた。臨済は、「今日のメニューは昨日のと比べてどうだ」と問うと、普化はまたまた食卓を蹴り倒した。
臨済が「それはそれで良いが、あまりに乱暴すぎる」というと、普化は「馬鹿野郎。仏法に穏やかだの乱暴だのということがあるか」と返したので、流石の臨済も驚いた。
一無位の真人とか、本来の自己と言えば、なんとなく知的なイメージを膨らませて理解することができるが、普化が何のためにこんなことをして見せるのか理解に苦しむ人が多いのではないだろうか。
本当に素直になった人は、自分がどのようであっても何の問題もないことを知っている。何の問題もなければ、そこから流れだす自由というものがある。臨済禅では、大安心というものを求めるのと同時に、特にこの自由というものに力点を置く。禅家は、当意即妙とか、活殺自在などのむずかしい言葉を使うが要するに自由を言っている。
普化はロバになりきって、生の野菜をぼりぼり食べたり、勤行をしないで飯だけ喰らう泥棒になりきって、奇矯な行動をし続けた。
地獄的な環境にあっても本当に素直であれば、本当の自由を生きることができることを普化に見る。しかしそこに社会性とのバランスはない。「社会性とのバランスなんていうたわけたものは仏法にはない」という普化の言葉が聞こえてきそうだ。