◎万事休すべし、如何なるか是れ一休
一路居士は、一休和尚の数少ないわけのわかった友人の一人。一路居士は、もと仁和寺の門主をされた方だが、和泉の国境に草庵を結んでいた。
その頃一休は、摂津の住吉におられ、一路居士を時々訪問していた。
一休が問うに、『万法路(みち)あり、如何なるか是れ一路』
一路『万事休すべし、如何なるか是れ一休』
一路居士の草庵にはいつももっこが吊るしてあって、その中に道行く人の志を受け、手取り鍋一つで粥を炊いたり湯を沸かしたりして、暮らしていた。
ところがある日、村の悪餓鬼がいたずらをして、もっこの中に馬の古沓(ふるくつ)を入れておいた。
すると居士は、『我が糧(かて)、すでに尽きたり』と言って、遂に食を断って死んでしまった。
この草庵跡が一路山禅海寺となっている。
もっこに古沓が入ったのを天意と見て、食を断つとは、自殺じゃないかと世間の人は言うかもしれないが、それが真正の道者の行き方である。
戦後のマスコミ報道や法曹教育のせいか、形式からみれば自殺ということが一律にダメ、という見方が、世間には徹底している。だが、そういう輩には、まともな禅僧の生きざまの機微など理解の外にある。
悟った者は、このように天意・神意を生きているから、その生きている姿は、諸悪莫作、衆善奉行なのである。
密教ではないが、禅であっても悟りは死の技術ではある。
一路居士は、一休和尚の数少ないわけのわかった友人の一人。一路居士は、もと仁和寺の門主をされた方だが、和泉の国境に草庵を結んでいた。
その頃一休は、摂津の住吉におられ、一路居士を時々訪問していた。
一休が問うに、『万法路(みち)あり、如何なるか是れ一路』
一路『万事休すべし、如何なるか是れ一休』
一路居士の草庵にはいつももっこが吊るしてあって、その中に道行く人の志を受け、手取り鍋一つで粥を炊いたり湯を沸かしたりして、暮らしていた。
ところがある日、村の悪餓鬼がいたずらをして、もっこの中に馬の古沓(ふるくつ)を入れておいた。
すると居士は、『我が糧(かて)、すでに尽きたり』と言って、遂に食を断って死んでしまった。
この草庵跡が一路山禅海寺となっている。
もっこに古沓が入ったのを天意と見て、食を断つとは、自殺じゃないかと世間の人は言うかもしれないが、それが真正の道者の行き方である。
戦後のマスコミ報道や法曹教育のせいか、形式からみれば自殺ということが一律にダメ、という見方が、世間には徹底している。だが、そういう輩には、まともな禅僧の生きざまの機微など理解の外にある。
悟った者は、このように天意・神意を生きているから、その生きている姿は、諸悪莫作、衆善奉行なのである。
密教ではないが、禅であっても悟りは死の技術ではある。