◎貧しいことも孤独なことも、本当には何の問題もない
子供の頃、トバと呼ばれる干した鮭を食べたことがあったが、子供の味覚のせいかおいしいと思ったことは無かった。トバは、固くて噛むのが大変だ。
芭蕉37歳、深川での句。
リッチな家では上等な肉を食べ、若者は菜っ葉や大根を食べる。しかるに私のような貧乏人は、
雪の朝独り干鮭を噛み得タリ
(ゆきのあした ひとりからざけを かみえたり)
まさに芭蕉37歳で深川に仏頂和尚に参禅。
仏頂和尚「青苔がまだ生えないで、春雨がまだやって来ない時はどうする」と問うた。
その時ちょうど一匹の蛙が庭の古池に飛び込んだ。
芭蕉「蛙飛び込む水の音」と答えた。
この時、芭蕉は大悟した。
以後透徹した孤独感とそれでも全く問題ない自分という二重の生活実感を生きることになる。
この干鮭の句には、禅僧趙州が椅子も買えないで折れた椅子の脚に棒を当て紐で縛って使った雰囲気に通じるものがある。
真正の覚者は、決してリッチであることはなく、貧しく孤独に生きるのだ。その味は干鮭を冬の朝に噛めばわかるのだろう。
貧しいことも孤独なことも、本当には何の問題もないのだ。
江戸時代の人が、保存食の鮭で朝から孤独に食べるのは、寂しくみじめ、というだけでは終わらない芭蕉なのだと思う。
改めて芭蕉の俳文集は相当に禅的素養がないときちんと読み込めないように思う。片言切句に、禅の素養などが散りばめられているからである。