◎すべてのすべてが至福だと(老子狂言)
『すべてのすべてが至福だと
まるで私は
はづれてしまった
私の冬に私はいる
私という真夜中に私ははいる
ニルヴァーナの想い出と
マーヤーの戯れが
戯れとも気づかずに戯れている
何のためでもなく
あのニルヴァーナの絶対無以外に
完全な歓びも安心もエナジーもない
私は曲がった小路を歩いているのかもしれない
だが、まだ、私の何ものかが信じている
すべてのすべてが至福だと』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩から引用。
これは、ニルヴァーナから戻って、まるで迷いの中に暮らしているが如き心境。
ニルヴァーナという体験とは言えない体験を経ても【あのニルヴァーナの絶対無以外に
完全な歓びも安心もエナジーもない
私は曲がった小路を歩いているのかもしれない
だが、まだ、私の何ものかが信じている
すべてのすべてが至福だと】
と言わなければならないところに、いささか驚きを禁じ得ない。
覚者は、みじめで情けない無力な個人とすべてのすべてである神という二重性の体現者。だからこういう
【私の冬に私はいる
私という真夜中に私ははいる】
ネガティブな一節が出てくる。
未悟の者にこのようなあけすけな実感を語ってくれるのはありがたいことだ。
※ブクログのパブーに上がっていた老子狂言には欠落がいくつかあるが、本詩もその一つ。