アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

マイトレーヤ小史

2024-08-18 06:19:10 | 究極というものの可能性neo

◎古代インドとイラン

(2007-11-19)

 

古代インドのベーダなどでは、インドの神々とイランの神々は混在しているので、イラン原産のゾロアスター教のものであるマイトレーヤが、もともと仏教の弥勒であるとする説がある。

 

その後弥勒は、仏教のものとして、中国に入り、一方マイトレーヤは、マニ教にあって、イランから、8世紀頃アッバス朝の圧迫により、シルクロードを東進。則天武后の時代の中国に進出した。中国へのマイトレーヤ輸入はこの時期であって、それ以前ではないと思われる。

 

という理由は、もともと515年の北魏の大乗の乱は、弥勒下生の信仰を持つ宗教秘密結社の乱なので、中国には、弥勒信仰はもともと存在したからである。

 

そして、唐の武宗の宗教弾圧(845年会昌の法難)により、マイトレーヤのマニ教は地下に潜り、仏教の弥勒信仰と結びついて、弥勒教となった。ここで初めてマイトレーヤが中国で弥勒として習合したなどと説明する人もいるが、実はもともと古代インド・イランの昔から同じものであったように思う。

 

弥勒信仰は、北宋の方臘の乱や、元末の紅巾の乱や、清の義和団の乱の主体となったので、民衆叛乱の母胎となったといえることから、その後の中国の為政者から見ると厄介な信仰となった。

 

このようにマイトレーヤは、20世紀になって、異国趣味のイギリスの神智学グループがエキゾチズムを披瀝するために、わざわざインドの神々から引っ張りだして来たわけではなく、色々な国で、もともとわりと重要な高級神霊であると評価されてきたというのが実態ではないだろうか。

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666の獣とは

2024-08-18 06:10:28 | メインストリーム予言と先行モデル

◎ミロク様に抵抗する者

 

新約聖書のヨハネの黙示録に666の獣というのが出てくる。これについて、出口王仁三郎は、ミロク様に抵抗する者のことだと述べている。

人が神に向かって開くのがミロクの世。人が神に向かって開くとは、人間が大逆転、倒立、改心して神を知ること。

 ミロク様に抵抗する者とは、本当は神様などないと思っている者。

 宗教が滅びるとは、万人が神という体験とはいえない体験をした場合、宗教不用となるが、そのことではなくて、実質無神論がはびこり、宗教の真理を知る者がほとんどいなくなることを宗教が滅びると云う。

 弥勒とは、釈迦後継としての未来仏弥勒菩薩のことであり、マイトレーヤという未来神のことであり、イエス再臨であり、ダンテス・ダイジ史観で言えば、アトランティス末期から予定されていた現代における万人が神知る時代のことを総称してミロクあるいはマイトレーヤと呼んでいるように思う。

 

ペザント夫人らが、クリシュナムルティにマイトレーヤの霊を乗せようとしてかえって彼は身心脱落を説くようになったのは、歴史の綾である。

 

以下出口王仁三郎の随筆から。

 

『六百六十六の獣

 

バイブルに六百六十六の獣と云ふ言葉があるが、それは三六様に抵抗すると云ふ事である。○○○○の如きがそれである。もし其通りになつたならば宗教は滅びる。宗教が滅ぶれば反乱が起る。六といふ字は神と人とが開くと云ふ字なので、即ち、ゝはカミ、一はヒト、八は開くと云ふ事である。』

(水鏡_六百六十六の獣/出口王仁三郎から引用)

※ゝはカミとは、ス字本義のス字のこと。

 

 

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睡眠の間に神に出会う-2

2024-08-17 03:46:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎人は眠りを通して神に入っていくがそれだけでは決して神を知るには至らない

 

次の文は、OSHOバグワンの『眠りのなかで目覚めていること』だが、字義どおり読むと誤解を招く。あたかも読者が神人合一という体験とは言えない体験を承知しているのを前提に語っているようである。

 ヨーガ行者(ヨーギ)全員が、ニルヴァーナを徹底して知っていれば、ヨーガ行者は、睡眠中に夢を見ないが、まるでヨーガ行者全員がニルヴァーナを知っているような書きぶりである。ヨーガ行者だからといって、覚醒しているのはひと握りにすぎない。

アメリカの覚者ケン・ウィルバーだって、最初の覚醒から、熟眠中に夢を見ないようになるまでは時間がかかったものだ。

 普通の人は、一晩に10分以下の夢を見ない時間があってそれが神の時間。これは、いわゆる隙間であって、肉体死のプロセスにおいて万人が必ず目撃する原初の光(母の光明)と同等のもの。

 OSHOバグワンは、以下の文において、人は冥想をしない限り、何百万回の人生において何億回睡眠しても、睡眠中の夢を見ない状態が、神であると意識することはないと釘を刺しているのだ。

たとえ毎晩の何億回の睡眠にさいし、何億回神と出会ったとしても、それは無意識で起きているから、それが神であると気づくことは決してない。冥想により、意識的に神と出会う訓練を積むことにより、無意識である睡眠において夢をみない空白(gap)が神であると気づくこともあるかもしれない。

 だが、それは、古代インドでインドラが苦労したように簡単なものではない。

 世間では、熟睡は、心身をリフレッシュするというが、それ以上のものがあるのだ。

 

『眠りのなかで目覚めていること

 

眠りに入ってゆくことと神に入ってゆくことは、まさにひとつの同じことだ。ただ唯一の違いは、眠りをとおして、人は無意識のうちに神に入ってゆくのに対して、瞑想をとおして、人は意識ある状態のまま神に入ってゆくということだ。ただし、これは非常に大きな違いだ。あなたは何千もの生にわたって、眠りをとおして神に入ってゆくかもしれない。しかしけっして神を知るにはいたらない。ただし、かりに一瞬でもあなたが瞑想に入っていったなら、何千もの何百万もの生にわたって、深い眠りのうちに――つねに無意識のうちにではあったが――たどり着いていたところに、その同じところにあなたはたどり着く。そしてそれが、あなたの生を全面的に変容させる。

 

興味深いことには、ひとたび瞑想に入ってゆくと、―――深い眠りがつれてゆく虚空のうちに入ってゆくと、人は二度と無意識でいることがなくなるのだ。―――たとえ睡眠中であっても。クリシュナがギータのなかで、「ほかの誰もが眠っているときでも、ヨーガ行者は目覚めている」といったのは、ヨーギが全然眠らないという意味でいったのではない。それどころか、ヨーギほど美しく眠る者はいないくらいだ。ただ、もっとも深い眠りのうちにあってなお、ヨーギのなかの瞑想に入っていった部分は目覚めたままでいる。毎夜、ヨーギはこの覚醒状態のうちに眠りに入ってゆく。そのときヨーギにとって、瞑想と睡眠はひとつの同じものだ。両者のあいだに違いはない。そしてヨーギはつねに完全な意識のうちに眠りに入ってゆく。ひとたび瞑想をとおして自己の内側に入っていった者は、けっして眠りのなかで無意識になることはない。』

(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社166-167から引用)

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睡眠の間に神に出会う-1

2024-08-16 03:41:02 | 覚醒のアーキテクチャー

◎"わたしであること"のうちに存在するのをやめたとき、人間はまどろみなき眠りに落ちる

 

日中の覚醒時に思考あるいは想念の連続の間には隙間が断続的にあって、その隙間こそが神であることは知られている。

一方OSHOバグワンは、睡眠時の夢のない時間帯こそ神であると述べている。ただし睡眠時は人は無意識であり、睡眠時の思考あるいは想念が夢にあたる。

よって覚者たちは、まず最初に冥想により日中の覚醒時に隙間を意識できるような方向で冥想修行し、その後、睡眠時にも夢を見ないことを目指す。睡眠時に夢を見ないことで、無意識である睡眠時においても意識的に神であることを目指すのである。

 

OSHOバグワンは、アメリカでヨーガや瞑想が流行している原因は、生活が重苦しく、抑圧や緊張で一杯なので、睡眠不足であることが一般的なせいだと見ている。それが証拠にアメリカの睡眠薬の消費量は膨大で、ややもすれば、医師までも、ヨーガや瞑想は睡眠導入ツールの一種くらいにしかみられていない。

 

一般に人は一晩に10分以下の夢を見ない時間帯がある。その時間に人は、神という生命の始原に到達し、生のエネルギーを得て元気を回復するが、それが神であるなどとはまず気づかない。

 

なお一晩中夢を見ないと主張する人のほとんどは、夢は見ているが覚えていないだけである。

 

一晩の睡眠における夢を見ない10分を空白(gap。隙間と訳している場合もある)と呼ぶ。

『つまり夢なき眠りとは、人間が機械のおよぶ範囲を超えたところにゆき着いたことを意味するのだ。人間が聖なるものに入ってゆくのは、この空白においてだ。

 

機械にはこのあいだの空間を、この空白を探ることができない。人間が夢を見ているかぎり、機械は内なる活動を記録している。―――すると空白が起こり、人間はどこかに消えてしまう。やがて十分後に機械はふたたび記録をはじめる。この十分の絶え間に人間がどこにいたのかをいうのは難しい。アメリカの心理学者たちはこの空白にひどく当惑させられた。そして睡眠を最大の謎だと考えた。事実、神はさておき、眠りこそ唯一の謎なのだ。ほかに謎などない。

 

あなたは毎日眠る。しかし眠りの何たるかについては何の考えも持ち合わせていない。人間は一生のあいだ眠りつづける。しかし何も変わらない。―――眠りについては何も知らない。あなたが眠りのことを何も知らないのは、眠りがそこにあるとき、あなたはいないからだ。覚えておくがいい。あなたが存在するのは、眠りが存在しないときだけだ。したがってあなたは、せいぜい機械が知っているくらいのことを知るだけだ。ちょうど機械が空白に直面して止まってしまい、人間が運ばれていった先にまでゆき着くことができないように、あなたもそこにはゆき着けない。―――あなたも機械以上のものではないからだ。

 

あなたもまたその空白に出会うことがないために、眠りはひとつの謎にとどまっている。あなたの手のとどかない彼方にとどまっている。これは、"わたしであること"のうちに存在するのをやめたときにしか、人間はまどろみなき眠りに落ちてゆくことがないためだ。

 

したがって、自我が成長してゆくにつれ、眠りはどんどん少なくなってゆく。自己中心的な人間が眠る能力をなくしてしまうのは、その人の自我が、"わたし"が、一日二十四時間さし出てやまないからだ。目を覚ますのは"わたし"なのだ。 通りを歩いているのと同じ"わたし"だ。その"わたし"が二十四時間というもの、のべつ存在しているために、眠りに落ちるときになっても、"わたし"を落とすときがやってきても、それを追い払うことができない。当然、眠りにつくのは困難になる。“わたし”が存在しているかぎり、眠りは不可能なの だ。そして昨日話したように、"わたし"が存在しているかぎり、神への参入は不可能なのだ。』

(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社164-166から引用)

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一厘の仕組-5

2024-08-15 13:07:26 | 古神道の手振りneo

◎天津祝詞

(2010-05-19)

 

古神道には、窮極も悟りもないだろうと思っていたが、それは身近なものにあった。天津祝詞にあったのである。一厘の仕組は、結局のところニルヴァーナと悟りである。

 

○出口王仁三郎の天津祝詞

【高天原に神留坐す、神魯岐神魯美の命以て、皇御祖神伊邪那岐命、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓ひ給ふ時に生坐せる祓戸の大神達、諸々の枉事罪穢を払ひ賜へ清め賜へと申す事の由を、天津神国津神八百万の神達共に、天の斑駒の耳振立て聞食せと恐み恐みも申す。】

 

字義どおり読めば、伊邪那岐命が九州の阿波岐原で禊ぎをなさったときにできた祓戸の神たちにまが事や罪穢れを祓い清めて下さいと奏上したという、個人の都合のいいようにはからって下さいという、とりたてて特筆すべき内容のないものに見える。

 

これが、出口王仁三郎の解釈では、全く異なるものに仕上がる。

 

「全宇宙(高天原)に陰陽二元がたっぷりと充実している。

陰陽二系を司る神々の言霊(神魯岐神魯美の命)によって、連綿として継承さるべき万世一系の大主宰者の神伊邪那岐命が、窮極(筑紫)の光明遍照(日向)の五大父音の言霊(橘の小戸)によってできた大宇宙(阿波岐原)にあって、身体の大修祓をなさった時に発生した祓戸四柱神よ(瀬織津比売、速秋津比売、気吹戸主、速佐須良比売)、

諸々のまが事や罪穢(つみけがれ)を払ひ賜へ清め賜へと申す事の由を、天津神国津神八百万の神達共に、霊力体すべて(天の斑駒の)、活動を開始したまえ(耳振立て聞食せ)、と恐み恐みも申す。」

 

まず窮極・ニルヴァーナとは、「筑紫の日向」。「筑紫の日向」は、福岡県、宮崎県のことではなかった。ましてや昨日今日しでかしたチョンボを祓い清めてもらうことを願うというご都合主義の願文でもなかった。全体として個人の願望成就サポートではなく、宇宙全体の矯正を諸神ともに祈るというもの。

下の大意でわかるように、大体がアオウエイの五大父音が鳴り響く阿波岐原にいるということ自体、相当に修業を積まないとなかなかそこまではいかないレベル。そこでもって、言霊を駆使して、天地全体の禊祓を行いましょうというものであるから、これぞ古神道の窮極であって、その他のものではない。

また、ほとんど説明がないが、注目ポイントは、(大)伊邪那岐命に対して、小伊邪那岐命。小伊邪那岐命は、我々人間を差しているのであるが、伊邪那岐命に大小あるを示しているところは、神人和合を暗示すると見える。

ただし、帰神自体が、神に対して自分をなかなか捨てにくい技であるようなので、全体として神と自分は別であるという考え方を余り逸脱しない筆致であるところには注意が必要だと思う。

 

『大意

 宇宙天地万有一切の大修祓は、霊系の御祖神の御分担に属する。現在『地の世界』に於て執行されつつある国祖の神の大掃除大洗濯も詰まり宇宙全体としては伊邪那岐命の御仕事である。幾千万年来山積した罪穢があるので、今度『地の世界』では非常な荒療治が必要であるが、これが済んだ暁には刻々小掃除小洗濯を行へば宜しいので、大体に於ては嬉し嬉しの善一ツの世の中に成るのである。即ち伊邪那岐命の御禊祓は何時の世如何なる場合にも必要あるものである。これがなければ後の大立直し、大建設は到底出来ない訳である。

 

 さて此修祓は何によりて執行さるるかと云ふに、外でもない宇宙根本の大原動力なる霊体二系の言霊である。天地の間(即ち阿波岐原)は至善至美、光明遍照、根本の五大言霊(アイウエオ)が鳴り亘つて居るが、いざ罪穢が発生したと成ると、言霊でそれを訂正除去して行かねばならぬ。人は宇宙経綸の重大任務を帯びたるものであるから、先頭第一に身霊を磨き、そして正しき言霊を駆使すれば、天地も之に呼応し、宇宙の大修祓も決行される。

 

其際にありて吾々五尺の肉体は小伊邪那岐命の御活用となるのである。雨を呼べば土砂降りの大雨が降り、地震を呼べば振天動地の大地震が揺り始まる。これが即ち『御禊祓給ふ時に生坐せる祓戸の大神達』である。

 

かくして一切の枉事罪穢は払ひ清めらるる事になるが、かかる際に活動すべき責務を帯びたるは、八百万の天津神、国津神達でこれ以上の晴れの仕事はない。何卒確り御活動を願ひますといふのが、大要の意義である。何人も日夕之を奏上して先づ一身一家の修祓を完全にし、そして一大事の場合には、天下を祓清むるの覚悟がなくてはならぬのであります。』

(霊界物語30巻海洋万里巳 附記天津祝詞解から引用)

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一厘の仕組-4

2024-08-15 13:01:19 | 古神道の手振りneo

◎衝立船戸神

(2010-05-17)

 

『○三種の神器と十種の神宝

 

二二岐命(ににぎのみこと)は三種の神器で、饒速日命(にぎはやひのみこと)は十種の神宝である。

古事記の禊祓いの段にある衝立船戸神(つきたてふなどのかみ)は上と下とに衝立って遮る神様で、これを取り払われるのである。

 

王仁が書いている通りである。これから誠の天照大神が表われるのである。○○○○伊勢や熱田や宮中の三種の神器のあるところ○○○○○○○○○○。

(昭和二十年九月四日)

 

(参照)

皇居、昭和二十年五月二十五日空襲。二十六日朝、表宮殿、大宮御所炎上。

伊勢神宮外宮神域、昭和二十年四月十四日五カ所六発の爆弾投下。

七月二十八日夜半より翌朝にかけ大空襲を受けた。宮城内に投下された焼夷弾は八百五十発に及んだが、御正殿のみは被害がなかった。

 

熱田神宮、昭和二十年三月十二日夜、大空襲、無数の焼夷弾が神域に落下、境内諸施設三分の二を一夜にして失う。五月十七日二時より約二時間焼夷弾の攻撃をうけ、御本殿御屋根の一部および附属建物の一部炎上。』

(出口王仁三郎玉言集 新月の光(下)/木庭次守編/八幡書店P299-300から引用)

 

二二岐命(ににぎのみこと)は、神の側であって「上」、第六身体以上、一方饒速日命(にぎはやひのみこと)の十種の神宝は、10チャクラだから人間の側であって「下」。

上と下にある壁というか深淵みたいなものである衝立船戸神(つきたてふなどのかみ)を取り払って、10チャクラを鍵として神の属性たる三種の神器とともに生きるのが、次のクリスタル・ピープルの時代。

やはりここには深淵がある。三つの珠の下に深淵が書かれてあるのは、カバラの生命の木でも同じ。肝心の部分は宗派を問わず、同じことを強調するもの。

人は、日々の冥想により、衝立船戸神(つきたてふなどのかみ)を取り払うことができるのだろうか。

 

それにしても二二岐命や、饒速日命や、衝立船戸神をこうした役割であると見切れるのは、本物の神秘家の面目躍如たるものがある。衝立船戸神を取り払った人だけがアセンション。

一厘の仕組とは、このことであって、個人が悟りを開くこと。それに天変地異たる一輪の仕組が同時並行的に起きていくのだろう。

そして天変地異に際し、「冥想訓練という準備ができていない者が、黄金橋を渡るという一厘の仕組を成就させるのは覚束ない」というのは過去ログの冥想の勧めで何度も言っているとおりである。

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一厘の仕組-3

2024-08-15 04:20:47 | 古神道の手振りneo

◎大量死と復活

(2010-05-16)

 

さて三個の神宝には仕掛けがあって、三個の珠の体は島に隠し、珠の精霊をばシナイ山に隠すということで、これを奪って天地を牛耳ろうという企みを防いでいた。

 

天地を我が物にしようと思うのは、近代的自我の極限まで発達した人間の成れの果てというべきもので、不自然ではないと思う。あるいは、そうした現象世界をコントロールする知恵を手に入れたので、世界征服に乗り出したグループがいた。ということで,悪玉武熊別は、現代人一般のシンボルでもあり、また世界征服を狙う一派のシンボルでもある。

 

地上には最後の戦場となる国が2カ所あり、悪玉軍がその2カ所に押し寄せて、いまや上陸せんという土壇場となった。ここで対抗策として潮満の珠(水)、潮干の珠(火)が効かなかったとは、既成の組織宗教がそこでは救済という意味では機能しなかったということだろう。人間というものについての絶望はここに窮まる。万事休したのである。ここからが神一輪。

 

ここで神力が発動する。ポイントは、金勝要大神の金幣と、それから発出した信天翁が火の雨となって敵軍に降り注ぎ、同時にハイパー暴風雨が襲うところか。金幣は向こうから来る。

 

このエピソードでは、シナイ山から珠の精霊を取り返して、悪玉軍を撃退するという結末にはなっていない。またその救済では、誰もが生き残ったということではなく、一旦海底に沈み、のち復活したというところが神妙である。その復活は文字通りの肉体の蘇生なのかどうか。

 

以下、霊界物語第一巻の第三六章 一輪の仕組から引用。

『第三六章 一輪の仕組

 

 国常立尊は邪神のために、三個の神宝を奪取せられむことを遠く慮りたまひ、周到なる注意のもとにこれを竜宮島および鬼門島に秘したまうた。そして尚も注意を加へられ大八洲彦命、金勝要神、海原彦神、国の御柱神、豊玉姫神、玉依姫神たちにも極秘にして、その三個の珠の体のみを両島に納めておき、肝腎の珠の精霊をシナイ山の山頂へ、何神にも知らしめずして秘し置かれた。これは大神の深甚なる水も洩らさぬ御経綸であつて、一厘の仕組とあるのはこのことを指したまへる神示である。

 

 武熊別は元よりの邪神ではなかつたが、三つの神宝の秘し場所を知悉してより、にはかに心機一転して、これを奪取し、天地を吾ものにせむとの野望を抱くやうになつた。そこでこの玉を得むとして、日ごろ計画しつつありし竹熊と語らひ、竹熊の協力によつて、一挙に竜宮島および大鬼門島の宝玉を奪略せむことを申し込んだ。竹熊はこれを聞きて大いに喜び、ただちに賛成の意を表し、時を移さず杉若、桃作、田依彦、猿彦、足彦、寅熊、坂熊らの魔軍の部将に、数万の妖魅軍を加へ、数多の戦艦を造りて両島を占領せむとした。

 これまで数多の戦ひに通力を失ひたる竹熊一派の部将らは、武熊別を先頭に立て、種々なる武器を船に満載し、夜陰に乗じて出発した。一方竜宮島の海原彦命も、鬼門島の国の御柱神も、かかる魔軍に計画あらむとは露だも知らず、八尋殿に枕を高く眠らせたまふ時しも、海上にどつとおこる鬨の声、群鳥の噪ぐ羽音に夢を破られ、竜燈を点じ手に高く振翳して海上はるかに見渡したまへば、魔軍の戦艦は幾百千とも限りなく軍容を整へ、舳艪相啣み攻めよせきたるその猛勢は、到底筆舌のよく尽すところではなかつた。

 

 ここに海原彦命は諸竜神に令を発し、防禦軍、攻撃軍を組織し、対抗戦に着手したまうた。敵軍は破竹の勢をもつて進みきたり、既に竜宮嶋近く押寄せたるに、味方の竜神は旗色悪く、今や敵軍は一挙に島へ上陸せむず勢になつてきた。このとき海原彦命は百計尽きて、かの大神より預かりし潮満、潮干の珠を取りだし水火を起して、敵を殲滅せしめむと為し給ひ、まづかの潮満の珠を手にして神息をこめ、力かぎり伊吹放ちたまへども、如何になりしか、この珠の神力は少しも顕はれなかつた。それは肝腎の精霊が抜かされてあつたからである。次には潮干の珠を取りいだし、火をもつて敵艦を焼き尽くさむと、神力をこめ此の珠を伊吹したまへども、これまた精霊の引抜かれありしため、何らの効をも奏さなかつた。

 

 鬼門ケ島にまします国の御柱神は、この戦況を見て味方の窮地に陥れることを憂慮し、ただちに神書を認めて信天翁の足に括りつけ、竜宮城にゐます大八洲彦命に救援を請はれた。

 このとき地の高天原も、竜宮城も黒雲に包まれ咫尺を弁せず、荒振神どもの矢叫びは天地も震撼せむばかりであつた。

 

 ここにおいて金勝要大神は秘蔵の玉手箱を開きて金幣を取りだし、天に向つて左右左と打ちふり給へば、一天たちまち拭ふがごとく晴れわたり、日光燦爛として輝きわたつた。金勝要神は更に金幣の一片を取欠きたまひて信天翁の背に堅く結びつけ、なほ返書を足に縛りて、天空に向つて放ちやられた。信天翁は見るみる中天に舞ひ上がり、東北の空高く飛び去つた。信天翁はたちまち金色の鵄と化し、竜宮島、鬼門島の空高く縦横無尽に飛びまはつた。

 

今や竜宮島に攻め寄せ上陸せむとしつつありし敵軍の上には、火弾の雨しきりに降り注ぎ、かつ東北の天よりは一片の黒雲現はれ、見るみる満天墨を流せしごとく、雲間よりは幾百千とも限りなき高津神現はれきたりて旋風をおこし、山なす波浪を立たしめ敵艦を中天に捲きあげ、あるひは浪と浪との千仭の谷間に突き落し、敵船を翻弄すること風に木の葉の散るごとくであつた。このとき竹熊、杉若、桃作、田依彦の一部隊は、海底に沈没した。

 

 国常立尊はこの戦況を目撃遊ばされ、敵ながらも不愍の至りと、大慈大悲の神心を発揮し、シナイ山にのぼりて神言を奏上したまへば、一天にはかに晴渡りて金色の雲あらはれ、風凪ぎ、浪静まり、一旦沈没せる敵の戦艦も海底より浮揚り、海面はあたかも畳を敷きつめたるごとく穏かになつてきた。

 

 このとき両島の神々も、諸善竜神も竹熊の敵軍も、一斉に感謝の声をはなち、国常立大神の至仁至愛の恵徳に心服せずにはをられなかつた。広く神人を愛し、敵を敵とせず、宇宙一切の衆生にたいし至仁至愛の大御心を顕彰したまふこそ、実に尊き有難ききはみである。

(大正一〇・一〇・二三 旧九・二三 桜井重雄録)』

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一厘の仕組-2

2024-08-15 04:14:48 | 古神道の手振りneo

◎三個の神宝

(2010-05-15)

 

更に出口王仁三郎の示す一厘の仕組みは霊界物語にある。それは、第一巻第三五章「一輪の秘密」と同第三六章「一輪の仕組」に見える。

 

この段は、艮の金神国常立尊が、三個の神宝である、潮満の珠(水)、潮干の珠(火)、真澄の珠を冠島、沓島に隠し置くところ。真澄の珠には効能については、なぜだか説明がない。

 

三個の神宝は、三種の神器。三個の神宝は、出口王仁三郎の表現体系の中では、絶対の側、永遠の側、(人間に対して)神の側のシンボルとして用いられる。

 

冠島、沓島に隠し置くとは、10チャクラのうち、冠島がサハスラーラ・チャクラ、沓島は足の裏のチャクラのことだろう。人間の10チャクラに三個の神宝は既に備わっているが、それを活用できるに至らぬ状態に置いたというのが、この段の意義なのだと思う。

 

またクンダリーニのエネルギー・コードを渡る様である目無堅間の船に乗らないと隠せないというところは意味深長である。

 

要するに人間はその発達段階として、神の機能たる三宝をそのボディに秘めながらも使用不能の機能不全に陥っているレベルにあるが、これを現在の人間の状況として描写しているものだと思う。現代人に与えられた課題は、これを活用することだが、自分のメリットを最大限分捕るためにこれを活用しようとする曲がった人間が多すぎるのが昨今の地獄的世間の様相である。

 

霊界物語第一巻の第三五章 一輪の秘密から以下引用。

『厳の御魂の大神は、シナイ山の戦闘に魔軍を潰走せしめ、ひとまづ竜宮城へ凱旋されたのは前述のとほりである。

 

 さて大八洲彦命は天山、崑崙山、天保山の敵を潰滅し、天教山に現はれ、三個の神宝を得て竜宮城に帰還し、つづいてエデンの園に集まれる竹熊の魔軍を破り、一時は神界も平和に治まつた。されど竹熊の魔軍は勢やむを得ずして影を潜めたるのみなれば、何どき謀計をもつて再挙を試みるやも計りがたき状況であつた。まづ第一に魔軍の恐るるものは三個の神宝である。ゆゑに魔軍は百方画策をめぐらし、或ひは探女を放ち、醜女を使ひ、この珠を吾が手に奪はむとの計画は一時も弛めなかつた。

 

茲に艮の金神国常立尊は、山脈十字形をなせる地球の中心蓮華台上に登られ、四方の国型を見そなはし、天に向つて神言を奏上し、頭上の冠を握り、これに神気をこめて海上に投げ遣りたまうた。その冠は海中に落ちて一孤島を形成した。これを冠島といふ。しかして冠の各処より稲を生じ、米もゆたかに穰るやうになつた。ゆゑにこの島を稲原の冠といひ、また茨の冠ともいふ。

 

つぎに大地に向つて神言を奏上したまひ、その穿せる沓を握り海中に抛げうちたまうた。沓は化して一孤島を形成した。ゆゑにこれを沓島といふ。冠島は一名竜宮島ともいひ、沓島は一名鬼門島ともいふ。

 

ここに国常立尊は厳の御魂、瑞の御魂および金勝要神に言依さしたまひて、この両島に三個の神宝を秘め置かせたまうた。

 

 潮満の珠はまた厳の御魂といふ。【いづ】とは泉のいづの意であつて、泉のごとく清鮮なる神水の無限に湧出する宝玉である。これをまたヨハネの御魂といふ。つぎに潮干の珠はこれを瑞の御魂といひ、またキリストの御魂といふ。【みづ】の御魂は【みいづ】の御魂の意である。【みいづ】の御魂は無限に火の活動を万有に発射し、世界を清むるの活用である。要するに水の動くは火の御魂があるゆゑであり、また火の燃ゆるは水の精魂があるからである。しかして火は天にして水は地である。故に天は尊く地は卑し。ヨハネが水をもつて洗礼を施すといふは、体をさして言へる詞にして、尊き火の活動を隠されてをるのである。またキリストが霊(霊は火なり)をもつて洗礼を施すといふは、キリストの体をいへるものにして、その精魂たる水をいひしに非ず。

 

 ここに稚姫君命、大八洲彦命、金勝要大神は、三個の神宝を各自に携帯して、目無堅間の船に乗り、小島別、杉山別、富彦、武熊別、鷹取の神司を引率して、まづこの竜宮ケ嶋に渡りたまうた。しかして竜宮ケ嶋には厳の御魂なる潮満の珠を、大宮柱太敷立て納めたまひ、また瑞の御魂なる潮干の珠とともに、この宮殿に納めたまうた。この潮満の珠の又の名を豊玉姫神といひ、潮干の珠の又の名を玉依姫神といふ。かくて潮満の珠は紅色を帯び、潮干の珠は純白色である。

 

 国常立尊は冠島の国魂の神に命じて、この神宝を永遠に守護せしめたまうた。この島の国魂の御名を海原彦神といひ、又の御名を綿津見神といふ。つぎに沓島に渡りたまひて真澄の珠を永遠に納めたまひ、国の御柱神をして之を守護せしめられた。国の御柱神は鬼門ケ島の国魂の又の御名である。

 

 いづれも世界の終末に際し、世界改造のため大神の御使用になる珍の御宝である。しかして之を使用さるる御神業がすなはち一輪の秘密である。

 この両島はあまたの善神皆竜と変じ、鰐と化して四辺を守り、他神の近づくを許されないのである。

(大正一〇・一〇・二三 旧九・二三 外山豊二録)』

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一厘の仕組-1

2024-08-15 04:09:13 | 古神道の手振りneo

◎古事記の仲哀天皇の段

(2010-05-14)

 

戦争の噂を聞くようになった。

 

一厘の仕組とは、世の立替の時に、99.99%滅亡のところから大逆転するメカニズムのこと。出口王仁三郎は、そのヒントは、古事記の仲哀天皇の帰神の段にあるという。

 

仲哀天皇の帰神の段。大后息長帯比賣命は神功皇后のこと。

「その大后の息長帯比賣〔オキナガタラシヒメ〕命はある時、帰神をした。それは、天皇が筑紫の香椎宮にいて、熊曾国を討伐しようとした時で、天皇は琴を弾いて、建内宿禰の大臣は沙庭にいて神託を求めた。すると大后が帰神となると、「西の方に国がある。金銀をはじめとして目の輝くような種々の珍宝が、その国に多くある。私が今から、その国を与えよう」との御告げであった。

 

 しかし天皇は、「高い所に登って西の方を見ても、国土は見えず、ただ大海があるだけだ」と答え、偽の神だと思って、琴を押しやって弾こうとせず、ただ黙っていた。

 

すると、その神は大いに怒り、「全てこの天下はおまえが知ろしめす国ではない。おまえは一道(死者の国)に向かえ」と告げた。

 

そこで建内宿禰の大臣が、「畏れながら、我が天皇よ。やはりその琴をお弾きあそばせ」と申し上げると、やっとその琴を引き寄せて、もとのように弾いた。すると、しばらくして琴の音が聞こえなくなった。火を灯して見ると、すでに亡くなられていた。

 

そこで驚き恐れて、殯宮に移し、さらに国の大幣を取り寄せて、生剥、逆剥、あはなち、溝埋め、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚等の罪の類を様々に捜し出し、国の大祓を行った。

 

そしてまた、建内宿禰が沙庭にいて神託を求めた。このようにしたところ、告げられた内容は具さに至るまで先日と同じであり、「全てこの国は、息長帯比賣命の御腹にいる御子が治める国である」との神託であった。

 

さらに建内宿禰が、「恐れながら、我が大神よ。其神の腹にいる御子はどちらでしょうか」と申し上げると、「男子である」との答えであった。そして、「今このように教えてくださる大神の、その御名を知りたいと思います」と詳しく求めると、「これは天照大御神の御心である。また、底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神である。【この時にその三柱の大神の御名が明らかとなったのである。】

 

今、本当にその国を求めようと思うのならば、天神地祇、また山の神と河海の諸々の神に、ことごとく幣帛を奉り、我が御魂を船の上に乗せて、眞木の灰を瓢に納め、また箸と比羅傳(ひらで:柏の葉の皿)を多く作り、それぞれを大海に散らし浮かべて渡るがよい」と答えた。」

 

西の方の国を与えようとは、新羅を与えようということではなく、人間の苦悩からの救済を与えようということで、死の世界を超えたニルヴァーナに渡らせようということ。

 

仲哀天皇は、そんなうまい話などないと合理的に考えて、その神をニセモノだと断定したことで、命を落とした。理屈で考えれば、ニセモノだと思うのは当然ですね。

 

天皇がいよいよいなくなった後、日本人は「あれっ、ヤバイぞ」と初めて気づき、わが魂をあらゆる宇宙を渡る船とも呼ぶべきクンダリーニのエネルギー・コードに乗せ、死の世界のシンボルたる真木の灰をも瓠に納めるように通過しなければならない。また箸も皿も一人には1組で足りるので、ここは、大勢の人がそのクンダリーニ・ヨーガ技でもって渡ること(アセンション)を見ているのだと思う。箸と皿は、(草薙の)剣と(八咫の)鏡でもあり、剣と盾の表象でもある。

 

底筒男、中筒男、上筒男とは、クンダリーニは筒だから筒でしょう。底筒男は肉体のクンダリーニ、中筒男はエーテル体クンダリーニ、上筒男は、アストラル体クンダリーニと当てるとすれば、メンタル体には届かないが、どう見るのだろうか。古事記も露骨に表現しているものですね。

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スケートボード堀米雄斗選手、1%の可能性を最後まで信じて

2024-08-15 03:03:42 | 覚醒のアーキテクチャー

◎九分九厘から一厘の大逆転とは、個人が逆転して世界全体になること

 

2024年パリ五輪、スケートボードの男子ストリートで、堀米雄斗選手は、1%の可能性を最後まで信じて、最終の5回目の演技に成功し、2大会連続の金メダルを獲得した。

 

釈迦が成道できたことで英雄と呼ばれるのも、悟る可能性が1%もなくても可能性を最後まで信じて冥想修行に取り組んだから。

また古神道家ならこれを一厘の仕組という。一厘の仕組とは、世の立替の時に、99.9%滅亡のところから大逆転するメカニズムのこと。出口王仁三郎は、そのヒントは、古事記の仲哀天皇の帰神の段にあるという。

 

さらに冥想シーンで、九分九厘から一厘の大逆転とは、個人が逆転して世界全体あるいは神になること。

 

冥想シーンでのそれを、確率百分の一の無謀なギャンブルと見れば、常識的社会人や青少年はおいそれと取り組まないかに思える。

 ところが、すべての人は、クンダリーニのエネルギー・コードが直接神とつながっているが、それに気がつくことを神人合一という。

 さらに、古代インドのパタンジャリは、時間とは、〈現象〉〈現象〉〈現象〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈現象〉〈隙間〉〈現象〉〈隙間〉〈現象〉と進行しているが、       

 それを超スローモーションで見たパタンジャリが、有である〈現象〉の停止に気づき、実は時間とはリアルな現実ではなくデジタル動画であることを発見したのだ。    

現象という動画は、無数の静止画と隙間によってできている。というのは、パタンジャリは、世界の現象を形成する無数の静止画(三種のグナ)が何も動かないで停止しているのを見たから。その時、パタンジャリは、すべての現実というドラマがデジタル動画つまり幻影で作られていることに気がついた。

この気づきこそが、大悟覚醒、入我我入、一厘の仕組である。このことは、確率1%だから取り組む、取り組まないという個人的好みの問題ではなく、すべての人にとって何のために生きているのかという共通の課題なのである。

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見神と言いながら神人合一を説く

2024-08-14 03:09:06 | 人と神の「実際のところ」

◎ふたつのものを同時に見ることはできない

 

OSHOバグワンは、見神と言いながら神人合一を説いている。

 

『あなたのなかに神を見はじめるというのは間違っている。――――もはやあなたを見なくなるのだ。聖なるものだけを見るようになる。木のなかに神を見るのではない。もはや木を見るのではなく、聖なるものだけを見る。

あらゆる原子のひとつひとつのなかに神が存在するという人がいたら、その人は完全に間違っている。原子と神の両方を見ているのだから。

ふたつのものを同時に見ることはできない。この場合の真理は、「あらゆる原子のひとつひとつがまさに神だ」であって、「あらゆる原子のひとつひとつのなかに神がいる」ではない。原子のなかに閉じこめられて神が坐しているのではない。何であれ在るもの、それが神だ。

 

神とは〈在るもの〉への愛ゆえに与えられた名前。〈在るもの〉、それが真実だ。愛のうちにあって、われわれはそれを神と呼ぶ。だが、どんな名前で呼ぼうと違いはない。したがって、わたしはあらゆる人のなかに神を見はじめることを求めているのではない。内に目を向けはじめるようにといっているのだ。内側を見たとたん、あなたは消える。あなたの消滅とともに見るもの、それが神だ。』

(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社P124-125から引用)

 

『ふたつのものを同時に見ることはできない』(上掲書から引用)

これは、読み流す人も多いかもしれないが、同時に二者でいられないことを示し、それは、山本常朝の葉隠の『浮き世から何里あらうか山桜』で感じとれる。これは見ている自分を残しているわけではない。

 

『内側を見たとたん、あなたは消える。あなたの消滅とともに見るもの、それが神だ。』(上掲書から引用)

あなたが消えることこそ、大逆転であり、倒立であり、神人合一であって、見神ではない。

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プレゼントに霊を込める

2024-08-13 06:51:46 | 人と神の「実際のところ」

◎お互いが好意を持っている場合に贈り合う

 

出口王仁三郎が、プレゼントについて

述べている。

贈り主がプレゼントを上げようと思っていないのにねだるのは、霊がこもっていないのでいけないとする。

また贈り物を辞退するのは、功徳(お蔭)がなくなるといいながら、一方で贈り物をむやみにもらうのは危険だとも言っている。それをもらったばかりに思わぬ災難にあう場合があるという。

新品のプレゼントもさることながら、中古、古○、アンティークも当然気をつけねばならない。

せんじ詰めると、お互いが好意を持っている場合にプレゼントを贈り合う場合だけがよいと言っている。

只ほど高いものはないとか、金を集めるとは因縁カルマを集めるということだとかの、一見全体的には功利的発想から来るように見えるものの、更に深遠な法則が仄見える。

だがここでは、もともと自分に与えられた物だけが受けるべき贈り物であって、またもともと最も自分が大切に思うものだけが、渡すべき贈り物であるという考え方がある。つまり授受すべき心のこもった贈り物は最初から自分の一生に組み込まれているものであって、余計なものに手を出すべきではないということなのだろうと思う。

 

心を篭めるというのは、丹精こめるのだろうが、霊を篭めるとは、自分の分身を籠めることのように思う。

 

『霊と記念物

 

霊と云ふものは、篭めれば篭める程深くなるものである。私は茶碗を一つ捻るにも一々性念を篭めてやるのであるから、深く霊が入つて居る。

それ故、この器で毎日湯でも茶でも呑んで居ると、相応の理によつて、お蔭を頂けるのである。私が遣らうとも思はぬのに、呉れ呉れと云ふて貰つても、お蔭は少い。又遣ろうと思ふものを辞退するのもお蔭がなくなる。滅多に人から記念物を貰ふのもよくない事である。霊が反対して居ると、品物を貰ふたが為めに、とんだ災難を受ける事がある。生前お互が好意を持ちあうて居たものの記念物で無くては貰ふものでは無い。又自分が一番愛して居たものに一番霊が篭もるものであるから、昔は其一番愛して居たものを御神体として祭つたものである。但、心を篭めると云ふのと、霊を篭めると云ふのとは意味が違ふ。』

(水鏡_霊と記念物/出口王仁三郎から引用)

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人間は玉の緒(クンダリーニ)が神様と結ばれている

2024-08-12 03:23:47 | 覚醒のアーキテクチャー

◎善いことは容易にできない世の中だが、善いことをし続ける

 

出口王仁三郎は、クンダリーニは神様とつながっていると明言。だから人は神の生き宮、神の分霊などというのだが、さらりと人間はクンダリーニのエネルギー・コードによって神様につながっていると説明している。もとより神様とつながっている以上、誰にでも仏性があるとか神性があるというような表現は、とても妙な言い回しであるように思う。

最近の人間は、自分が神様とつながっているという自覚のない人もいるし、他人も神様とつながっていると知れば他人にひどいことなどできないはずなのに、よろしからざる仕打ちをする人もいる。

『人間は玉の緒が神様と結んであるので、それを神様が切られると、命が切れるのであつて、人は其(その)もとを大切にせねばならぬ。生死は全く神の御手にあるので、人力をもつて如何ともする事は出来ない。』

(水鏡_人生の諸問題/出口王仁三郎から引用)

 

たまたま2024年8月8日『南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)』が出されたが、気になる自分の生死も、玉の緒を神様が切られるかどうかによるということ。まことに、生死は全く神の御手にあるので、人力をもつて如何ともする事は出来ない。

さらに、『されば最第一なる霊魂精神は、至大天球一名は至大霊魂球にして、一個人の神経は此の霊魂球中の一条脉なる即ち玉の緒と言ふ物也と明言して、その明細を説明する事不能也也。』

(霊界物語 第81巻 総説 天地開闢の極元/出口王仁三郎から引用)』

これは、世界全体、宇宙全体である至大天球は、人間と玉の緒(クンダリーニ)でつながっていることを言っている。ただしその説明はできないとしている。

 

なお、出典の出口王仁三郎の随筆水鏡の「人生の諸問題」には、処世法の秘訣、神様に守って頂くこと、勇気を出して物事をやつて行かねばならないこと、昨今の転職ブームについて述べている。

『人は水の流れるやうに生活すればよろしい、水は流れ易い方向を撰んで、いと自然に自が途を開いて進み行く。途中障害物に突あたる事があると、又いと自然に方向転換をやつて進み易い道を進んで行く、これが処世法の秘訣である。自然に逆らつて低きにつかんとする水を高所に上げやうとする様な生活は、労多くして功が些ないものである。

現今の地上は、悪魔の集会所である。故に諸善神は天にのぼり、地に潜んで、其跋扈跳梁に任してあるが如き状態である。で有から善い事は容易に出来ない世の中である。善い人、善い仕事には却つて悪魔がつき纏ふて邪魔をする。恰度(ちょうど)よい果実に悪い虫がつくやうなものであつて、神様のお守りを受けるより外に之を防ぐ道がないものである。

甘い果実に悪い虫がつく、其虫がつかぬやうに人間が除虫法を行ひ、袋をかぶせて保護してやる。さうすると誠に立派な見事なものが得らるる道理。どんな性のよい人、又成功すべき仕事であつても、神様のお守りがないと悪魔に祟られて、惜い事には十分成熟せずに、ポタリポタリと途中で落ちて行く果実の其と同じ結果に終つて仕舞ふのである。

生死の問題と信仰とは別である。人間は玉の緒が神様と結んであるので、それを神様が切られると、命が切れるのであつて、人は其もとを大切にせねばならぬ。生死は全く神の御手にあるので、人力をもつて如何ともする事は出来ない。大切な子が死んだため信仰をおとすなどと云ふのは訳の分らぬ人間である。

思ふやうには行かぬ世の中である。それは前云ふ通り、地上に悪魔が横行闊歩して居るからである。それ故に人間は神様に守つて頂くと同時に、勇気を出して物事をやつて行かねばならぬ。勇気を出せば悪魔は退いて仕舞ふ。人は思ふ道を勇敢に進むに限る。思ふやうには行かぬ世の中と云ふのは悪魔のさやる世の中を云ふので、神代になれば思ふ事が箱さしたやうに、ケタリ、ケタリと甘く行く事は神諭に示さるる通りである。

それだからこそ神様が立替を急いでおいでなさるので、神様は早くこの悪魔を退治して皆が喜び勇んで暮らす世の中にしてやろうと、昼夜間断なく御活動になつて居るのである。思へば有難く勿体ない限りである。

どんな仕事でも十年位辛棒すれば運が向て来る。一年や二年では成功するものでは無い。一つ仕事をつかまへたらそれを変へぬほうがよい。二三年してはほかし、三四年しては職業を変へるやうな人は、生涯成功を見る事が出来ない、十年しても芽が出ねば、外の仕事を選んで見てもよいが、それも若い中の事で、四十歳を越したらもう、ちやんと一定の職業と云ふものが定まらねばならぬ。四十才で仕事が定まればそれがまあ普通である。四十歳を越して仕事をかへてもあかん、三十歳までに仕事が定まればその人は成功者となる事が出来る。』

(水鏡_人生の諸問題/出口王仁三郎から引用)

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訓練によって見えるようになった神はにせもの

2024-08-11 03:36:41 | 浅い霊感から神人合一まで

◎心理上の投影を神と思い込む

 

昔、OSHOバグワンのところに、 いたる所に神を見る男がやってきた。この30年間、彼は、花や木や岩などあらゆる物の中に神を見て来たという。

OSHOバグワンは、男に直接確認したところ、彼は修練(サダーナ)によって万物のうちに神を見るようになったと答えた。彼は、万物のうちに神を見ることを想像したり、強く願ったりしたという。その修練を30年前に開始し、やがてあらゆるところに神を見ることができるようになったという。

OSHOバグワンは、彼に三日間ここでOSHOバグワンと一緒にいてその間、「あらゆるところに神を見ること」をやめるように申し入れたところ、彼は応諾した。

図らずも男は、その修練をやめてわずか12時間後、岩を岩として見、山を山として見始めてしまったので、もう神を見れなくなったと、OSHOバグワンに苦情を言ってきた。

OSHOバグワンは、たった12時間修練(行)をやめただけで消えてしまうようなものは神ではない。それは、想像でこしらえた作りごと、すなわち単なる心的投影であると喝破した。彼の神は、彼のオリジナルな幻想にすぎなかったのだ。

OSHOバグワンは、あらゆるものは神だが、神を見ることは、見ようとする修練の結果によるものではないとする。ただし、木、岩、山を神と見る体験とは言えない体験はあり得るが、その場合、木、岩、山だけが神でなく、人は神以外に何も見なくなる。神が岩の中にあるとは感じはしない由。この辺でOSHOバグワンは、男が偽物であることを知ったようだ。

またかの男は、見神をテーマにしているが、なぜかOSHOバグワンは、神人合一における神の見え方を語っている。(参照:死・終わりなき生 /オショー・ラジニーシ/講談社P107-109))

 

またところが、一つの行に専心すれば、それで神を見ることがあり得るのが、不思議なところであると、一行専心を否定しないのがダンテス・ダイジ。

 同じ状態の人でも、相手によって、TPOによって、違う意見を言うことはあり得るものだと思う。

 世の中の神様詐欺、宗教詐欺にこうした手合いは多いのではないか。本人も取り巻きも疑わないのだろう。

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自己へ入って行くとすべてがある

2024-08-10 03:33:45 | 人と神の「実際のところ」

◎"わたし"も"あなた"も消え、〈すべて〉が残る

 

OSHOバグワンは、自己へ入って行くとすべてがあると説明するが、なぜどうしてそうなるかは説明しない。

自己へ入って行くとすべてがあることを逆転と云い、タロットでは、吊るされた男

すべてとは、既に天国も地獄も超えている。

 

『非常に興味深いことには、自己へと入っていった人間は、突如としてすべてに通ずる入口をみつけるのだ。自己への扉は万物への扉なのだ。自己に入ってゆくやいなや、人は自分がすべてへと入っていったことに気づく。というのも、われわれは外面的には異なっていても、内面的には異なってはいないからだ。

外見上すべての木の葉は互いに異なっている。だが、もし人間がわずか一枚の木の葉のなかに浸透してゆけたなら、すべての木の葉がひとつに融けあうその木の源にゆき着くことだろう。一枚一枚を見ると木の葉はそれぞれ異なっている。しかし、一枚の木の葉をその内面性において知ったとき、あなたは 源へ、そこからすべての木の葉が生じ、そこへとすべての木の葉が帰ってゆく源へ、たどり着いているのだ。自己へと入ってゆく者は、同時にすべてへと入ってゆく。"わたし"と"あなた"という区別は、われわれが自己の内側へ入ってゆかないかぎり、消えることはない。"わたし"のなかへ入っていった日に"わたし"は消え、"あなた"も消える。そのとき残っているのが〈すべて〉だ。』

(死・終わりなき生 /オショー・ラジニーシ/講談社P104-105から引用)

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