唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

永平節度使 義成軍節度使 その1

2012-06-01 10:03:28 | Weblog
・滑州は東都の東、汴州の北に位置し、黄河を隔てて衛州と対する。
・史思明の乱、乾元2年[759年]滑州刺史許叔冀が3月滑濮節度、5月汴滑節度使に任ぜられたが、9月には思明に降り、実体はなくなった。
・上元2年[761年]5月史朝義將令狐彰は、いち早く滑州を以って降り、滑衛節度使[治滑州領州滑衛相魏貝六州]に任ぜられた。
・廣元年[763年]所管が整理され、滑・潁・亳・の四州となったが、地理的関係から考えると分散していて疑問が多い。
・彰は他の降將とは違い、自立はしているが貢納は収め、防秋軍の拠出や軍費分担を行うなど唐朝の指示に従順であった。
そのため大暦4年[769年]には陳州ょ増領され、7年には永平軍と賜號された。
・大暦8年[773年]彰はその死に際して子供には継承させず、所領を唐朝に奉還した。宰相格の李勉が特派され回収することに成功した。
・勉は大暦10年[775年]の田承嗣の乱には征討軍の都統となり、11年李靈耀の乱にも参加したが、文官であるため戦闘には弱かった。
・その後永平軍は宋・泗州をくわえ、大暦14年[779年]李忠臣が李希烈に逐われると汴州[滑州より移治]も管轄となり、
河南の大藩となっていった。