唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

浙江東道都団練観察使 威勝・義勝・鎭東節度使 その3

2012-06-14 08:46:48 | Weblog
・乾符6年[879年]劉漢宏が観察使となった。彼は盗賊より帰順し、黄巣の侵攻に怯えて王鐸が荊南より遁走した後、
江陵を掠奪して再び賊になり、まもなく帰順して宿州刺史に任ぜられたが不満を言い立てて浙東を与えられたという
札付きの賊である。
・麾下の諸州は陳晟が睦州。鐘季文が明州。杜雄が台州。朱褒が溫州。盧約が處州に各據して自立しており、
まったく統制はとれていなかった。
・中和2年[882年]より漢宏は富裕の地である浙西の杭州の領有をめざして侵攻を重ねたが、地元民兵を中心とする
董昌[先鋒は錢鏐]に撃退された。
・中和3年[883年]浙東観察使は義勝軍節度に昇格した。
・光啓2年[886年]董昌は越州を陥し漢宏を殺し、知浙東軍府事を自称した。杭州は錢鏐に譲った。
・光啓3年[887年]義勝軍節度は威勝軍節度と改号され昌が節度使となった。
・昌は唐朝への貢納は欠かさず、そのため高位の官職を次々と与えられた。管轄諸州は自立したままであった。
・乾寧2年[895年]昌は突如、羅平国皇帝を名乗り百官を置いた。
・杭州錢鏐はこれを批判したため、昌はまもなく撤回したが、鏐はこれを伐ち浙東を併せようとした。
・乾寧3年[896年]鏐は昌を誅した。唐朝は宰相王搏を送って鎭の回収を図ったが入れなかった。
・10月威勝節度は鎭東節度と改称され鏐が浙西と併領することになった。
・以降鏐の呉越国の支配下になっていく。