唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

卭[工+卩 こう]州 定邊軍節度使

2012-06-25 19:17:05 | Weblog

・咸通9年[868年][新書方鎭表では咸通8年]鳳翔少尹李師望が、勢力を拡大している
南詔から劍南地域を防禦する方策を提議した。
・師望は西川節度の管轄は広大であるために成都と前線である卭州の連携が困難で有り、
卭州に定邊軍節度を設けて防禦に専念させるべきだとした。
・そこで成都を緊急時の避難地として重視する唐朝は策を受け、卭州に嶲・眉・蜀・雅
嘉・黎州をつけて分領した。
・提案者の李師望が節度使として赴任し、西川節度使は南詔との交渉權を定邊に委譲した。
・師望は貪欲で南詔との関係を悪化させてまで収斂し、稼ぎまくると口実を設けて辞任し、
竇滂に代わった。滂もまた貪欲であった。
・咸通10年[869年]11月南詔は大挙して侵攻し、滂は遁走し、成都が包囲された。
・軍備ができていない成都は陥落の危機に瀕し、民兵を総動員して必死に防禦に努めた。
・唐朝は神策軍を派遣し、和議を結んでなんとか撤退にこぎつけたが、西川一帯は荒廃した。
・咸通11年[870年]正月定邊軍は廃止され、領州や外交権は西川に戻った。