・景雲元年[711年]桂州に置管内経略使が置かれ、桂梧賀連柳富昭蒙嚴環融古思唐龔十四州を領した。
以前より置かれていた都督府の再編成である。
・桂管・容管は邕管や安南とは違い外寇を受けることは少ないが、住民は蛮族であり、
領州のほとんどは名ばかりであった。
・安史の乱により唐朝の統治が緩んだ乾元~永泰年間[758-765年]、湖南南部から桂管にかけては
西原蠻[黄氏]が蜂起し経略使邢濟が討伐をおこなった。
・大暦2年[767年]山獠が桂州を陥し、経略使李良は奔り。桂管は一時失われた・
・廣徳2年討伐の必要性から邕州管内を統合したが征討が終了した大暦5年邕管を分離した。
・大暦5年[770年]奸悪ではあるが能吏の黎幹が防禦經略招討觀察等使となり、6年嶺南李勉の支援を得
て平定することができた。
・大暦8年[773年]李昌巙が邕管・桂管を統合して支配し、次の盧嶽につぎ貞元元年に分離した。
・貞元後、桂管は中級文官の赴任先となっていった。
・乾符3年[876年]安南に派遣されていた軍が乱し観察使李瓉が逐われた。
・中和2年[882年]軍乱が起こり使張従訓が逐われた。
・乾寧2年[895年]將劉士政が経略使周元靜を殺して自立した。
・光化3年[900年]湖南馬殷は勢力拡大のため將李瓊を派遣して桂管諸州を陥した。
弱体な軍備しかもたない劉士政はたちまち殺され、瓊が留後となった。
・この歳、桂管経略使は静江軍節度と號された。
以前より置かれていた都督府の再編成である。
・桂管・容管は邕管や安南とは違い外寇を受けることは少ないが、住民は蛮族であり、
領州のほとんどは名ばかりであった。
・安史の乱により唐朝の統治が緩んだ乾元~永泰年間[758-765年]、湖南南部から桂管にかけては
西原蠻[黄氏]が蜂起し経略使邢濟が討伐をおこなった。
・大暦2年[767年]山獠が桂州を陥し、経略使李良は奔り。桂管は一時失われた・
・廣徳2年討伐の必要性から邕州管内を統合したが征討が終了した大暦5年邕管を分離した。
・大暦5年[770年]奸悪ではあるが能吏の黎幹が防禦經略招討觀察等使となり、6年嶺南李勉の支援を得
て平定することができた。
・大暦8年[773年]李昌巙が邕管・桂管を統合して支配し、次の盧嶽につぎ貞元元年に分離した。
・貞元後、桂管は中級文官の赴任先となっていった。
・乾符3年[876年]安南に派遣されていた軍が乱し観察使李瓉が逐われた。
・中和2年[882年]軍乱が起こり使張従訓が逐われた。
・乾寧2年[895年]將劉士政が経略使周元靜を殺して自立した。
・光化3年[900年]湖南馬殷は勢力拡大のため將李瓊を派遣して桂管諸州を陥した。
弱体な軍備しかもたない劉士政はたちまち殺され、瓊が留後となった。
・この歳、桂管経略使は静江軍節度と號された。