唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

(番外)河北三鎭 その5.河北体制の変質

2013-03-02 16:54:53 | Weblog
幽州(朱克融)成徳(王廷湊)魏博(史憲誠)が自立したが、
幽州は最外殻の位置でもあり唐朝への反感は弱く、異民族への対応もあって積極的な策動をすることはなく、李載義や張仲武・張允伸など親唐朝の姿勢を取ることも多かった。
魏博は牙軍の勢力が強く、節度使は担がれているだけであり実権は乏しかった。史憲誠は唐朝に帰服しようとして殺され、何進滔が反唐朝であったが、あくまで非協力という程度のものであり、進滔の没後は唐朝に妥協的な姿勢に変わっていった。
成徳の牙軍は保守的であり、節度使の連続性を重視していた。廷湊は反唐朝の姿勢を明らかにして、横海李同捷の自立を支援したが大勢に影響を与えず、廷湊没後は子の元逵以降は唐朝に妥協的な姿勢に変わっていった。
横海は三鎭の独立の影響を受けて混乱し、李全略-同捷は自立を謀り唐朝の討伐を受けた。唐軍の相変わらずの惰弱さから乱は長引いたが、武寧王智興(自分も自立したのだが)の攻撃により平定され、その後は中央から派遣される武官に支配される順治となった。
義武は中央からの援助がなければやっていけない貧地であり、比較的良政を敷く節度使が続いたため、一時期の張璠の時代を除き、順治として唐朝の管轄下にあった。