唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

徐州 龐勳の乱 2

2022-12-21 08:06:45 | Weblog
咸通9年11月
朝廷はなおも高品康道偉を派遣して慰撫しました。龐勳は兵威を示し節度使を求めますが、彦曾の罷免をするだけのものでした。

龐勳軍は兗州魚台等近隣の十縣を荒らしました。

右金吾大將軍康承訓を義成節度使徐州行營都招討使とし、神武大將軍王晏權、羽林將軍戴可師を招討使として諸道兵を動員し征討することになりました。騎兵軍として勇猛な沙陀朱邪赤心及吐谷渾、達靼、契苾なども動員されました。

呉迥が泗州を落とせないので、龐勳は將劉佶・王弘立を増援しました。救援に来た淮南軍李湘は観望し、鎭海軍翟行約は敗死しました。

咸通9年12月
淮南軍李湘も大敗し、湘は捕らえられました。

龐勳將丁從實は南下して舒、廬州に入り、北は沂、海州を侵し、海州沭陽、穎州下蔡、和州烏江、盧州巢縣を陥しました。さらに滁州を陥し、刺史高錫望を殺しました。

さらに和州に進むと、刺史崔雍は賊に迎合し、城内を掠奪させました。

咸通9年閏12月
招討使戴可師は三萬を率いて淮南に入り賊を討ちましたが、油断して賊將王弘立に襲撃され敗死しました。

龐勳軍は壽州を包囲しました。

官軍は宋州に大軍を結集し、龐勳は動員して対抗しようとしましたが、資財が尽き住民から収奪したため、住民の支持を失っていきました。

王晏權は臆病なため、泰寧節度使曹翔を徐州北面招討使とし、翔軍は徐州滕・沛を攻めました。

魏博節度使何全皞は出兵し朝廷軍を支援しました。

咸通10年正月
康承訓は諸道軍七萬で柳子西に屯し、徐州に迫りました。

海州を攻めた賊軍は敗れ、壽州攻撃軍も撃退されました。

食糧が尽きていた泗州に處士辛讜は浙西軍を率いて強行し支援に成功しました。

咸通10年2月
康承訓は沙陀騎兵を使い、賊将王弘立を大破しました。

咸通10年3月
康承訓は柳子に賊将姚周を大破し、周は宿州に奔りましたが、守將梁丕に殺されました。

咸通10年4月
龐勳は崔彦曾や監軍張道謹、捕らえた官軍將達を殺し決意を示しました。
そして総動員して兵三万を集め、魏博軍が包囲する豊縣を支援しました。

曹翔は滕縣を囲んでいましたが、魏博軍の敗を聞き撤退しました。

辛讜はまた淮南に到り、大量の塩米銭を輸送して賊將王弘芝の包囲を破り泗州を救いました。

淮南馬舉は泗州の包囲を破り、賊將王弘立は敗死し、呉迥は徐城に逃げました。

康承訓は龐勳軍を大破し、勳は徐州に敗走しました。

咸通10年5月
沂州軍は下邳を包囲し、賊將鄭鎰は所部とともに降りました。