唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

湖南 王國良の乱

2022-12-01 08:53:56 | Weblog
大曆5年4月
湖南兵馬使臧玠が觀察使崔灌を殺し、平定のため強暴な軍人で辛雲京の一族の京杲が派遣されました。

この歳、湖南將王國良が反し、西原蠻とともに湖南州縣ょ荒らしました。
國良は現地土豪で、湖南軍の將となり、觀察使京杲は邵州武岡縣に屯させて西原蠻を防がせていました。京杲は貪暴で國良が富裕であるのに目を付け、罪に落として財産を押領しようとしました。それを知った國良は西原蠻と通じて反し、縣城に籠もり、周囲の州縣を寇掠しました。

西原蠻とは嶺南地方[廣西省]に盤踞する蠻族、寧氏を豪酋とし、依、黄、韋韦、周姓等が多かった

荊南・黔中・江西・桂管諸道軍に征討させたが制圧できなかった。

建中元年七月
湖南觀察使となった嗣曹王皋は王國良を歸順させようと思いました。
長い戦乱で湖南各地は荒廃し、当然國良の領地も荒廃して麾下の領民も苦しんでいたのです。
國良に「あなたには本来罪はない、辛京杲の誣告に陥れられ反発しただけだ。私は必ず朝廷にとりなして平和的に解決するから降りなさい」と通知しました。
國良も降りたいのはやまやまでしたが、果たして約が守られるか心配で決断できません。
ところが皋は単騎で國良の城に現れ名乗りを上げました。國良も驚いて出てきました。
そして盟約し兄弟の誓いを交わしました。当時の義兄弟の誓約は重いもので、國良はすべて軍備をとき
兵を農に帰し帰順しました。
朝廷は國良の罪を赦し、「惟新」と賜名し牙將に戻り、湖南は平穏になりました。
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