建中4年11月
隴州を奉義軍とし、皋を節度使としました。隴州は鳳翔の西ですから楚琳も背後が心配なのでうかつに動けません。
靈武留後杜希全・鹽州刺史戴休顏・夏州刺史時常春・渭北節度使李建徽は奉天に応援しようとしましたが泚に漠谷で大破され、邠州に退却しました。
神策河北行營節度使李晟も懷光を追い京師に急行しました。
陝虢觀察使姚明敡は軍事を都防御副使張勸に委ねて逃亡しましたが、勸は募兵して數萬を得て陝虢を守り陝虢節度使に任ぜられました。
奉天城は資糧が尽きてきました。
懷光軍は河中に到着し、河中尹李齊運の努力で關内に入りました。
李晟軍も兵力を増やしながら到着し東渭橋に入りました。
神策兵馬使尚可孤は武關より入り、泚將仇敬を破り、藍田を陥しました。
朱泚將何望之は刺史董晉を逐い、華州を取りましたが、潼関守將駱元光に奪還されました。元光を鎮國軍節度使としました。元光は昭應に進みました。
馬燧行軍司馬王權と子匯軍五千人は中渭橋に屯しました。
諸軍が京師に迫り李忠臣は泚に急を告げました。そのため泚は奉天城を急攻し、落城の危機が迫りました。
懷光將張韶は、奉天城内に潜行し、懷光の来援を伝えました。そのため城中の志気は回復し、またそれをしった泚軍は動揺しました。
懷光は泚軍を澧泉に破り、泚軍は奉天の攻囲を解き京師に撤退しました。
金、商からの運路が開き、諸道貢賦が到着し資糧が充足してきました。
泚は京師に帰り防衛に徹しました。泚は財をケチらず德宗皇帝が溜め込んだ膨大な財を將士・官僚に配ったため政権は安定していました。旧幽州・神策兵を優遇し、涇原兵は粗暴として評価しませんでした。
李懷光は德宗周辺の乱の責任がある宰相盧杞以下を糾弾しましたが、德宗皇帝は杞等に執着しました。そのため懷光は京師を回復しようとせず逗留しました。
建中4年12月
德宗皇帝はやむをえず盧杞等を左遷しましたが、懷光の入朝も認めず、不満な懷光は叛意を示し、泚と通じました。
興元元年正月
德宗皇帝は大赦して朱泚・朱滔・李希烈[不受命]以外の敵を減らしました。
泚は國號を「漢」とし、漢元天皇と自称し、「天皇」と改元しました。
興元元年2月
京師周辺の唐軍では懷光と李晟は対立したため、回復の動きはありません。晟は盛んに泚と懷光の通謀を上疏しています。
興元元年3月
懷光軍は弱体化したため河中に撤退しました。
興元元年4月
涇原兵馬使田希鑒が節度使馮河清を殺して自立し、泚に附きました。
渾瑊は泚將韓旻を武亭川に破りました。
興元元年5月
尚可孤が泚將仇敬忠を藍田西で破り、敬忠は敗死しました。
李晟軍は京師に突入し、皇城に迫りました。
張光晟は泚を裏切って晟に通じ、泚・令言に逃避を勧めました。そこで泚は京師を棄てて逃亡しました。
李晟は京師を回復し、李希倩、敬釭、彭偃等八人を誅しました。
興元元年6月
泚は吐蕃に落ちようとし、途中涇州田希鑒を頼りましたが、希鑒は裏切って入れません。
旧涇原の兵は令言を殺して降りました。
泚は旧幽州兵・親族と馬關をめざしますが、寧州刺史夏侯英が遮ります。
將梁庭芬・韓旻は泚を殺し降りました。
隴州を奉義軍とし、皋を節度使としました。隴州は鳳翔の西ですから楚琳も背後が心配なのでうかつに動けません。
靈武留後杜希全・鹽州刺史戴休顏・夏州刺史時常春・渭北節度使李建徽は奉天に応援しようとしましたが泚に漠谷で大破され、邠州に退却しました。
神策河北行營節度使李晟も懷光を追い京師に急行しました。
陝虢觀察使姚明敡は軍事を都防御副使張勸に委ねて逃亡しましたが、勸は募兵して數萬を得て陝虢を守り陝虢節度使に任ぜられました。
奉天城は資糧が尽きてきました。
懷光軍は河中に到着し、河中尹李齊運の努力で關内に入りました。
李晟軍も兵力を増やしながら到着し東渭橋に入りました。
神策兵馬使尚可孤は武關より入り、泚將仇敬を破り、藍田を陥しました。
朱泚將何望之は刺史董晉を逐い、華州を取りましたが、潼関守將駱元光に奪還されました。元光を鎮國軍節度使としました。元光は昭應に進みました。
馬燧行軍司馬王權と子匯軍五千人は中渭橋に屯しました。
諸軍が京師に迫り李忠臣は泚に急を告げました。そのため泚は奉天城を急攻し、落城の危機が迫りました。
懷光將張韶は、奉天城内に潜行し、懷光の来援を伝えました。そのため城中の志気は回復し、またそれをしった泚軍は動揺しました。
懷光は泚軍を澧泉に破り、泚軍は奉天の攻囲を解き京師に撤退しました。
金、商からの運路が開き、諸道貢賦が到着し資糧が充足してきました。
泚は京師に帰り防衛に徹しました。泚は財をケチらず德宗皇帝が溜め込んだ膨大な財を將士・官僚に配ったため政権は安定していました。旧幽州・神策兵を優遇し、涇原兵は粗暴として評価しませんでした。
李懷光は德宗周辺の乱の責任がある宰相盧杞以下を糾弾しましたが、德宗皇帝は杞等に執着しました。そのため懷光は京師を回復しようとせず逗留しました。
建中4年12月
德宗皇帝はやむをえず盧杞等を左遷しましたが、懷光の入朝も認めず、不満な懷光は叛意を示し、泚と通じました。
興元元年正月
德宗皇帝は大赦して朱泚・朱滔・李希烈[不受命]以外の敵を減らしました。
泚は國號を「漢」とし、漢元天皇と自称し、「天皇」と改元しました。
興元元年2月
京師周辺の唐軍では懷光と李晟は対立したため、回復の動きはありません。晟は盛んに泚と懷光の通謀を上疏しています。
興元元年3月
懷光軍は弱体化したため河中に撤退しました。
興元元年4月
涇原兵馬使田希鑒が節度使馮河清を殺して自立し、泚に附きました。
渾瑊は泚將韓旻を武亭川に破りました。
興元元年5月
尚可孤が泚將仇敬忠を藍田西で破り、敬忠は敗死しました。
李晟軍は京師に突入し、皇城に迫りました。
張光晟は泚を裏切って晟に通じ、泚・令言に逃避を勧めました。そこで泚は京師を棄てて逃亡しました。
李晟は京師を回復し、李希倩、敬釭、彭偃等八人を誅しました。
興元元年6月
泚は吐蕃に落ちようとし、途中涇州田希鑒を頼りましたが、希鑒は裏切って入れません。
旧涇原の兵は令言を殺して降りました。
泚は旧幽州兵・親族と馬關をめざしますが、寧州刺史夏侯英が遮ります。
將梁庭芬・韓旻は泚を殺し降りました。