朱泚と滔は兄弟です。どちらかといえば滔の権力欲が強く、泚は理想家肌でした。幽州節度使朱希彩が殺された後、滔の支援で泚が節度使となりました。泚は唐朝への憧れが強く、最初は弟滔を防秋[対吐蕃防衛]に派遣し、ついでは自身が兵を率いて入朝しました。河北の三鎭の中で最も朝廷に従順であったわけです。泚は幽州に帰らず、滔を実質節度使並の留後として任せ、精強な麾下の兵を關内諸鎮に配属しました。泚は寛厚であったため將士の信望は高いもので、郭子儀の後をついで大尉兼中書令として宰相格となり、京師の西を守る鳳翔隴右節度使を兼任し、大暦14年には西川への吐蕃の入寇を撃破しました。
ところが建中3年4月滔が所領の不満から田悅・王武俊と反したため、警戒した朝廷により泚の鳳翔隴右節度使は解任されました。もちろん泚が反したわけではないため、實封を増やすなどはされましたが兵権は奪われたわけで、泚は自邸に閉じこもりました。
建中4年10月
淮西李希烈が東都に迫り、唐軍は危機に瀕しました。そこで舒王謨を都元帥として追加の征討軍を送ることにしました。
その一部となる涇原節度使姚令言は兵五千を引き連れ、寒雨を冒して京師へ強行軍してきました。兵達は豊かな賞賜を与えられることを期待してそれを家に持ち帰る子弟をつれていたのです。
ところが滻水に到り、そこで京兆尹王翃が提供したのは賞賜どころか粗飯だけでした。將士は激怒して京師に乱入しました。令言は当時朝参しており、慌てて帰陣し、乱を抑えようとしましたが、かえって將士は令言を連行して進撃しました。
德宗皇帝は慌てて賞賜を与えましたが將士は収まらず、皇城に突入し寇掠しました。
神策軍は軍使白志貞等の腐敗によって形骸化しておりなんの働きも示しませんでした。
德宗皇帝は京師皇城を捨てて側近と奉天城に逃亡しました。
涇原軍や遊民は皇城の府庫を荒らしまくりました。
反乱は本意ではなく、小物でしかない姚令言は「大尉朱泚を擁立するしかない」と提言し、將士も同意しました。
鬱屈していた泚は応じて入城し權知六軍を自称しました。
光禄卿源休は泚に自立を勧め、宰相李忠臣・太僕卿張光晟・工部侍郎蔣鎮・太常卿敬釭を集めました。
鳳翔涇原將張廷芝、段誠諫等數千人が潼関より戻り泚に附きました。關内諸軍には泚の息のかかった部下が多数いましたし、將士の間で泚は信望が高いのです。次々と泚軍に参加する者達が増えました。
奉天に逃亡した皇帝の元へ、軍人官僚達が追いつき、威望ある左金吾大將軍渾瑊を京畿渭北節度使行在都知兵馬使とし、白志貞・令狐建・侯仲莊を將としましたが兵備は整いません。
泚は司農卿段秀實・左驍衛將軍劉海濱等も召還しましたが、秀實達は泚の自立に批判的でした。泚が即位の相談を始めると秀實は反対して襲撃しましたが殺されました。
少府監李昌巙を京畿渭南節度使としました。
朱泚の息のかかった鳳翔將李楚琳は節度使張鎰を殺し自立し、泚に附きました。
隴州刺史郝通は楚琳に附きました。
商州團練兵が刺史謝良輔を殺しました。
泚は大秦皇帝として即位し、應天と改元しました。弟滔を皇太弟とします。
姚令言・李忠臣・源休・蔣鎮・李子平が宰相となりました。
在京の唐の皇族達77人を殺しました。
右龍武將軍李觀が千人を率いて奉天へ入り、その他兵5千人を徴募しました。
涇原留後馮河淸は唐に附き、甲兵を奉天に入れました。河淸を涇原節度使とします。
右僕射崔寧が奉天に来ましたが、王翃・盧杞の讒言により殺されました。
河北行營に奉天の乱の報が着き、全軍が撤退し、朔方節度使李懷光は急いで戻ることに決めました。
蕭復為・劉從一・姜公輔を宰相としました。
朱泚は自ら大軍を率い奉天城に迫りました。姚令言・張光晟が従います。李忠臣は京師留守です。
邠寧留後韓遊瓌,慶州刺史論惟明等は三千を率い奉天に入りました。
泚は奉天城を攻め、渾瑊と激戦を重ねました。泚軍は続々と増え数万に達します。
汝鄭應援使劉德信が来援し泚軍を見子陵に破りました。
泚は奉天城の三面を攻撃し、渾瑊はなんとか撃退しましたが、將呂希倩・高重捷は戦死しました。
渾瑊を京畿渭南北金商節度使としました。
隴右營田判官隴右留後韋皋は隴州を保ち、唐に附きました。