六年二月南山の賊を討つ。
京師南方の山西の山岳地域に蜂起している賊を、劉潼に慰撫させて降したが、
追討使王贄弘はそれをだまし虐殺して討ったと称した。
八月,裴休が宰相となった。
京師への漕運の方法を改善し安定した補給を確立した功績で。
[当時の状況]
・既に腐敗した宦官・官僚による硬直化が進行し、宣宗は鋭意治政に励んだ
が、ほとんど地方には伝わらなかった。
・節度使は文武の官僚達の利権化し、牙軍の経費をピンハネしたため、ほと
んどの軍が弱体化していた。
・中央の神策軍も利権化し、京師の富民の子弟が占有する所となっていた。
・宣宗は母鄭氏の父光を優遇したが、能がないため治政には関与させなかった。
・官僚や豪族の荘園化が進行し、農民は逃避し、租税は集まらず、唐朝の財政
は塩の専売など間接税にたよっていた。
・科挙も官僚貴族[唐初の貴族とは別物、官僚を代々出す家柄が貴族化したもので、
崔氏・鄭氏・楊氏などが有名]が独占するようになってきた。
八年正月長慶初の乱臣与党の赦令が出た。
宣宗即位後、憲宗暗殺に関与した宦官・官僚への追及が続き、動揺が広がったため。
九月、宣宗は勅使として派遣された宦官の横暴を知り、処罰した。
宣宗は宦官の力を抑えようと努力した。しかし學士韋澳に「帝の威權は憲宗と比べ
てどうですか」「宦官の力は憲宗時と比べていかがですか」と諫められ、「我、力
及ばず」ともらした。
十月県令李行言が海州刺史に抜擢された。
宣宗は狩猟にこと寄せて京師近郊を巡り、庶民の意向を探り良吏を抜擢しようと
した。しかし全体的に腐敗した官僚制の改革には力及ばなかった。
京師南方の山西の山岳地域に蜂起している賊を、劉潼に慰撫させて降したが、
追討使王贄弘はそれをだまし虐殺して討ったと称した。
八月,裴休が宰相となった。
京師への漕運の方法を改善し安定した補給を確立した功績で。
[当時の状況]
・既に腐敗した宦官・官僚による硬直化が進行し、宣宗は鋭意治政に励んだ
が、ほとんど地方には伝わらなかった。
・節度使は文武の官僚達の利権化し、牙軍の経費をピンハネしたため、ほと
んどの軍が弱体化していた。
・中央の神策軍も利権化し、京師の富民の子弟が占有する所となっていた。
・宣宗は母鄭氏の父光を優遇したが、能がないため治政には関与させなかった。
・官僚や豪族の荘園化が進行し、農民は逃避し、租税は集まらず、唐朝の財政
は塩の専売など間接税にたよっていた。
・科挙も官僚貴族[唐初の貴族とは別物、官僚を代々出す家柄が貴族化したもので、
崔氏・鄭氏・楊氏などが有名]が独占するようになってきた。
八年正月長慶初の乱臣与党の赦令が出た。
宣宗即位後、憲宗暗殺に関与した宦官・官僚への追及が続き、動揺が広がったため。
九月、宣宗は勅使として派遣された宦官の横暴を知り、処罰した。
宣宗は宦官の力を抑えようと努力した。しかし學士韋澳に「帝の威權は憲宗と比べ
てどうですか」「宦官の力は憲宗時と比べていかがですか」と諫められ、「我、力
及ばず」ともらした。
十月県令李行言が海州刺史に抜擢された。
宣宗は狩猟にこと寄せて京師近郊を巡り、庶民の意向を探り良吏を抜擢しようと
した。しかし全体的に腐敗した官僚制の改革には力及ばなかった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます