唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

データリンク再掲

2024-10-12 21:09:10 | Weblog


16昭宗宰相史 [リンク]

15僖宗宰相史 [リンク]

14懿宗宰相史 [リンク]

13宣宗宰相史 [リンク]

12武宗宰相史 [リンク]

11文宗宰相史 [リンク]

10穆宗敬宗宰相史 [リンク]

09順宗憲宗宰相史 [リンク]

08德宗宰相史 [リンク]

07睿宗代宗宗宰相史 [リンク]

06玄宗宰相史 [リンク]

05中宗睿宗宰相史 [リンク]

04則天宰相史 [リンク]

03高宗宰相史 [リンク]

02.太宗宰相史 [リンク]

01.高祖宰相史 [リンク]

唐後半の反乱年表[xls]

唐史データ集[xls]

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唐宦官伝 楊思勗 その1

2024-10-12 12:31:16 | Weblog

唐朝後半に大きな影響を与えた宦官勢力の主要人物の伝を記載していきます。

宦官を重視して唐朝を傾けたのは無頼放蕩な玄宗皇帝でした。その時代の楊思勗、高力士から

始めます。

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楊思勗[本姓蘇、字は祐之]

唐高宗の永徽5年[654]、嶺南の羅州石城縣[広東省]に生まれた。

父は羅州大首領蘇勵、母は雷州大首領陳陈玄の女ということになっている。
顯慶四年[659]、叛乱により征討され、六歳で去勢され宦官として宮廷に送られた。

内官楊氏に養われて養子となった。

膂力があり、殘忍で殺人を好んだ。

神龍三年[707]七月
皇太子重俊は韋皇后の子ではなく、皇后の愛人武三思達から軽侮され、その地位を危ぶんでいた、父中宗皇帝は無能で優柔不断であり、皇后や三思の傀儡であった。
そのため重俊は羽林將軍李多祚婿羽林中郎將野呼利等と羽林千騎兵を率いて蹶起し、三思や子崇訓を殺した。そして宮門に押しかけ中宗を威嚇した。中宗は宰相や皇后達と玄武門に避難した。

その時、宮闈令であった思勖は勇戦して多祚の婿中郎將野呼利を斬り、形勢は逆転して重俊や多祚等は敗死した。賞として思勖は銀青光祿大夫行内常侍に昇進した。

その後、臨淄王隆基[玄宗]に従い、景雲元年[710]韋皇后、先天二年[713]太平公主を誅滅するのに功績があり、左/右監門将軍に昇進した。

開元四年[716]十二月頃
玄宗皇帝は信任する刑部尚書西京留守宋璟を召すため思勗を派遣したが、宦官を軽視する璟から冷遇された。玄宗はそれを聞き璟をさらに信任した。

開元七年[719]三月頃
玄宗の元奴隷である寵臣大僕卿王毛仲は傲岸で、楊思勖や高力士達宦官を軽侮していた。
このように玄宗初期の宦官達は位階官職は高くてもまだまだ対抗勢力は多く専権を振るうようなことはなかった。

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