正月甲申,成德軍節度使王元逵が卒し、子紹鼎が継ぐ。
唐朝にはもはや河北三鎮の継承については追認するだけであった。
七月,丙辰,宰相崔鉉が淮南節度使となった。
前使名門貴族出身の杜悰が遊興にふけり、要地である淮南が混乱したため交代
させた。
是月,浙東道軍亂,觀察使李訥が逐われた。
これも名門貴族李遜の子である。監軍と共に乱政をしたため逐われた。
沈珣(傅師の子、やはり貴族)が赴任し鎮圧した。
宣宗は宮廷の小吏の名前まで覚え、節約し日夜行政に励んでいたが、既に唐朝
文武官は構造的に硬直し、宦官に限らず腐り果てていていかんともしがたかった。
邠寧・鄜坊・涇原・朔方・振武等西北方面は腐敗した神策軍出身の軍人が
淮南・浙西・浙東・宣歙・江西等江淮方面は腐敗した文官貴族出身が収奪にのみ
励み、わずか数人の練達した能吏を使い回すことで表面を繕っていた。
大中十年
正月宰相交代 鄭朗が任。十月裴休が罷、十二月崔慎由が任。
宰相のような重要人事ですら新唐書・旧唐書・通鑑でバラバラである。当時の資
料が散逸している為で、旧唐書などは異常に詳細な部分と、簡略な部分に分かれ
ている。
そして崩壊の予兆が見え始めた。
唐朝にはもはや河北三鎮の継承については追認するだけであった。
七月,丙辰,宰相崔鉉が淮南節度使となった。
前使名門貴族出身の杜悰が遊興にふけり、要地である淮南が混乱したため交代
させた。
是月,浙東道軍亂,觀察使李訥が逐われた。
これも名門貴族李遜の子である。監軍と共に乱政をしたため逐われた。
沈珣(傅師の子、やはり貴族)が赴任し鎮圧した。
宣宗は宮廷の小吏の名前まで覚え、節約し日夜行政に励んでいたが、既に唐朝
文武官は構造的に硬直し、宦官に限らず腐り果てていていかんともしがたかった。
邠寧・鄜坊・涇原・朔方・振武等西北方面は腐敗した神策軍出身の軍人が
淮南・浙西・浙東・宣歙・江西等江淮方面は腐敗した文官貴族出身が収奪にのみ
励み、わずか数人の練達した能吏を使い回すことで表面を繕っていた。
大中十年
正月宰相交代 鄭朗が任。十月裴休が罷、十二月崔慎由が任。
宰相のような重要人事ですら新唐書・旧唐書・通鑑でバラバラである。当時の資
料が散逸している為で、旧唐書などは異常に詳細な部分と、簡略な部分に分かれ
ている。
そして崩壊の予兆が見え始めた。
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