唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和十一年 西暦 816 和暦 弘仁7年

2020-02-12 10:08:59 | Weblog
正月己巳,宰相張弘靖が河東節度使となった。

正月乙亥,幽州節度使劉總は王承宗軍を冀州武強に破り陥した。
 幽州軍は成徳軍より強い、總は武強を制圧してそこで停止した。
 唐朝軍のお手並み拝見というところである。
 
二月庚子,王承宗が蔚州を攻撃した。

二月乙巳,李逢吉が相となった。融和派である。

四月、李光顏、烏重胤が淮西軍を、劉總軍や昭義軍や義武軍が
王承宗軍を破る。
 いずれも小競り合いであり意味はない。諸将はわずかな功績を
 過大申告して恩賞をねだるだけである。

五月、李光顏、烏重胤はまた勝ったと上奏。

六月,甲辰,唐鄧節度使高霞寓が淮西軍に鐵城で大敗する。
 唐鄧節度は山東節度を二分割し、軍事行動担当の高霞寓[唐鄧]
 と、補給担当の李遜[山東]に分割したものであり、霞寓は宦
 官受けのする神策軍の将軍である。この敗北は本物で唐鄧軍は
 壊滅してしまった。後任唐鄧節度にまた融和派の袁滋が登用さ
 れた。

七月壬午,宣武韓弘が淮西軍を破ったそうである。

八月壬寅,宰相韋貫之が解任される。
 成徳・淮西征討に反対したため罷免された。

十一月、容管で黄洞蠻が蜂起する。

十一月、憲宗は大軍の征討軍の將達がろくな戦果を上げず、徒食することを怒って、宦官梁守謙を派遣し恩賞を与えると同時に譴責した。

十二月丁未,財務官僚の王涯が宰相となった。
 戦費調達のため財政官僚が重視されるようになっていった。

十二月、義武節度使渾鎬が王承宗に大敗し、軍乱が発生した。
 旧義武軍の將陳楚が急派され沈静化した。鎬は名将渾瑊の子
 であるが軍才はなく、偵察なく猪突して敗北した。

十二月甲寅,李愬が袁滋に代わり唐鄧節度使となった。
 袁滋はひたすら淮西呉元濟にすりよって、その攻撃を避けよ
 うとしたため罷免された。現実には唐鄧軍は崩壊していて袁滋
 はどうしようもなかったわけであるが。愬は名将李晟の子であ
 り、兄弟には聴[夏綏節度使]や愿[武寧節度使]など有名な
 将がが多い


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