唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

嶺南節度使史 その1

2021-02-05 10:48:49 | Weblog

他業が忙しくなったためご無沙汰しています。連日は無理ですが、徐々にアップしていきます。

現在の広東省に設置された方鎭。当地はほぼ生産性の低い暑熱の蕃地であり、唐にとっては
市舶司を置いた廣州の南方貿易の利益以外は重要性のない所であった。所轄州の刺史の多く
も現地蕃族からの登用である。ただ嶺南道地域の統括拠点となり節度使は貿易の利益によっ
て膨大な利益が得られる職であったので官僚達の垂涎の的だった。

開元十年[722]
◎.8月 嶺南按察使裴伷先は安南賊帥梅叔鸞が反乱を起こしたと上奏、驃騎將軍兼内侍楊思
勖が討伐にむかった。思勖は残虐で知られた宦官であった。思勖は嶺南の群蠻を召募してた
ちまち鎮圧し、反者を虐殺し京観[死体を積み上げた塔]を築いた。伷先は責任を取らされ
たのか失脚し流された。

開元十六年[728]
◎.正月 春瀧等州獠首領瀧州刺史陳行範、廣州首領馮仁智/璘、何游魯などが叛して40城を陥し、
行範は皇帝を称した。また驃騎大將軍楊思勖が討伐に向かい、6万人を虐殺し頭皮を剥いだ。

開元二十一年[733]
嶺南五府経略討撃使を設置。廣州都督が兼任する。五府とは嶺南.邕管.容管.桂管.安南を監督する
こと意味する。

開元二十二年[734]
◎.12月 全国が十道に分割され、按察使を置いた。
太常卿廣州事嶺南經略使李朝隱が嶺南道採訪使となった。

開元十年以降の赴任者
裴伷先[10年]-李尙隠[?]-李朝隠[21年] 15年5月には光王琚が遙任された。

天寶元年[742]
◎.当時、嶺南五府經略は綏靜夷獠統をめざし、經略・清海の二軍、桂容邕交を管理し、治廣州、
兵は1萬五千四百人であった。

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