唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

咸通三~四年 西暦862~63

2020-05-03 10:00:17 | Weblog
咸通三年 西暦862
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四月、嶺南節度使を東西に分割した。
従来は嶺南五道をすべて廣州の嶺南節度使の管轄下においていたが、雲南蠻の侵攻が激しいため、邕管経略使を嶺南西道節度使として防衛にあてることになった。

七月,武寧軍亂,逐其節度使溫璋。
札付きの武寧軍がまた軍乱を起こし節度使を逐った。璋に問題があったわけではなく、牙軍が専横であり統制がとれなかった。仇甫を討伐した浙東觀察使王式が後任となった。

八月、王式が武寧牙軍を誅殺。
凱旋軍である精強な忠武・義成軍を率いた式は、武寧牙軍を集め数千人を誅殺した。これにより主力は潰滅したが、残党は地方に散って賊となった。武寧軍節度は一時廃止された。

九月,嶺南西道軍亂,逐其節度使蔡京。
京は自分の提唱した嶺南西道節度の設立に熱中し、低待遇で將士を苛酷に取り扱ったため、軟弱な南方兵が耐えられなくなった。

十一月,雲南蠻寇安南。
雲南蠻の大軍が来襲し都護蔡襲は必死に援軍を求めたが、嶺東節度韋宙は嶺西のほうが危険だとして支援しなかった。

咸通四年 西暦863
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正月庚午,雲南蠻陷安南,都護蔡襲死之。
孤立した襲は力戦したが潰滅し敗死した。

二月,秦州經略使高駢為安南經略招討使。
康承訓、宋戎、高駢と招討使が次々と代わり統制がとれなかった。

十二月乙酉,昭義軍亂,殺其節度使沈詢。
軍乱とあるが、詢の妾と私通した奴隷が軍人と共謀して詢を殺害したという事件である。

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