李輔國/護国
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本名は靜忠。幽州博陸郡の人。長安三年[704]に生まれた。
宮刑を受けて閑廐[官馬(厩馬)を管理する役所]に勤務した。
容貌は醜くかったが、学問はそこそこあった。
高力士に使えて、閑廐では最も有能であった。
四十才頃、王鉷が閑廐使となり輔國を評価し、皇太子[後の肅宗]に推薦した。
天寶十五年[756]安禄山の乱により玄宗は成都に逃亡し、皇太子も従った。
途中、遅れて進む皇太子一行を父老達が「關内を見捨てていかれるのですか、留まって戦ってください」と請願した。
皇太子は拒否しようとしたが、子の建寧王倓や輔國は「このままでは關内は失われてしまいます」と留まることを主張し、優柔不断な皇太子は押し切られた。
すっかり気力を無くしていた玄宗はそれを追認し、天下兵馬元帥都統朔方河東河北平盧等節度兵馬收復兩京として分離を認めた。
皇太子は朔方軍を頼り、彭原・平涼と敗走した。朔方留後杜鴻漸や魏少游が出迎えやっと靈武に入り体裁を整えることができた。
七月杜鴻漸など朔方軍幹部や諸皇子・輔國達は皇太子[肅宗]を擁立して即位させた。肅宗は玄宗の承諾なしに即位することを躊躇したが、出世をねらう朔方軍の文官達や輔國・張妃達に押しきられて承諾した。
肅宗は子の建寧王や謀臣李泌を信頼していたが、輔國や張妃は泌を憎み、建寧王を誣告して殺させた。泌は懼れて逃亡した。
輔國[靜忠]は太子家令判元帥府行軍司馬として諸方からの上奏を取り次いで管理し、表の権力を振い、張妃は裏で動揺しやすい肅宗を激励してコントロールして連携していた。靜忠から賜名され「護国」と称した。