郭琪の乱 [田令孜と陳敬瑄]
--------------------------
黄巣が京師を陥し、宦官田令孜は傀儡の僖宗皇帝を奉じて西川節度使の使府成都に亡命してきました。令孜の兄敬瑄が節度使となっていたのです。
やがて成都に四方より貢献が集まるようになると、令孜は率いてきた親軍に惜しみなくばらまいていきましたが、地元軍にはあまり与えず、そのため地元軍は不満をつのらせていました。
中和元年七月令孜は地元の有力者・軍人を集めて宴会を開き、諸将に盃を与えましたが、黄頭軍使郭琪だけが受けず「賞賜は偏っています。親軍・地元軍平等に与えてください」と要求した。
ムッとした令孜は「お前になんの軍功があるのか」と問うと、
琪は「黨項と十七戰,契丹と十餘戰,吐谷渾との戦いでは重傷を負いました」と答えた。
令孜は面倒な奴だとみて別置してある毒酒を琪に賜い、琪は毒と知りながら強いて飲みました。
琪は帰営して血を飲み、黑汁數升を吐いて解毒しました。
そして部下と共に反し令孜を攻めました。
令孜は僖宗と共に東城に逃げ、諸軍に命じて討伐させました。
琪は敗れて帰営し、その後敬瑄軍の討伐を受け、従兵も潰走したため、下吏一人をつれて川岸へ逃れました。
琪はそこで吏に「俺は江を下って、淮南の高駢様の所へ行くつもりだ」
「最後まで忠義を尽くしてくれたお前にこの劍と印綬を授ける」
「明日、敬瑄様の所に印綬と劍を持っていけ」
「そして琪を河岸で切りつけると、死体は江を流れて行きました」と言え。
「そうすればお前は褒美がもらえるし、俺達の家族に累が及ぶことはないだろう」
「敬瑄様は俺が悪いとは思っていないし、地元軍の大半もそうだ、俺の死だけで早く事を収めたいはずだ」
翌日、吏が劍と印綬を献ずると、敬瑄はこれ幸いと琪や兵への追及を止め、事態を終わらせました。うしろめたい令孜も特に異議をとなえませんでした。
*******背景*******
宦官田令孜は本来陳氏であり、その兄敬瑄を神策軍大将軍に昇進させ、官僚の崔安潜のあとに劍南西川節度使に送り込んでいた。
廣明元年黄巣により京師は陥落し、宦官田令孜は傀儡皇帝僖宗を奉じて成都に逃亡した。
禁軍である神策軍はすっかり堕落しており黄巣を防ぐ力は無く、令孜が引率してきた禁軍も急募した雑軍でしか無かった。
そのため令孜は豊富な賞賜を与えて慰撫する必要があった。
幸い唐朝の権威はまだ残存しており各地からの貢納は細々続いていた。
西川軍は咸通年間の南詔の侵攻対策のために諸道より急遽集められた雑軍と、土團とよぶ地元の民兵組織からなっていた。琪も他地域から流れてきた軍人である。
西川は令孜率いる朝廷と、敬瑄の使府の二重構造になっており、敬瑄は統制に苦慮していた。
特に地元軍に不満が鬱積していたため、琪の反乱を早期に収拾する必要があった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます