窮地に追い込まれた田悅は判官王侑・許士則を間道伝いに深州に送り「成德についで魏博も亡べば、幽州もあぶない」「魏博から貝州を提供する」と朱滔を説きました。
朱滔は喜び、同じく不満な王武俊を味方にしました。張孝忠は同意しませんでした。
建中3年4月
朱滔・王武俊は反して田悅と連合しました。
悅は援兵が来るのを頼みとして、將康愔に御河上で馬燧と戦わせましたが大敗しました。
建中3年5月
朔方節度使李懷光が征討軍に加わりました。
建中3年6月
朱滔と王武俊兵が田悅を救援し魏州北に至りました。李懷光も到着し、馬燧、李抱真、李芃と合しました。
両軍は連篋山の西で戦い、唐軍は敗北し、反軍は河を氾濫させ唐軍の退路を断ちました。
建中3年7月
唐軍は退却しましたが、朱滔はそれを追いませんでした。両軍は河を隔てて対峙しました。
建中3年11月
悅は朱滔の救援を德とし、皇帝に推戴しましたが、滔は辞退し、各人が「王号」を称することにしました。滔は「大冀王」悅「魏王」武俊[趙王]李納[齊王]で、反軍の独自官爵を設置しました。
建中3年12月
対峙が続き、唐軍は遠隔からの度支にたより、反軍は田悅領域からの供給にたより、双方とも疲弊しました。
対峙が長く続き、朱滔と王武俊は不和になり、弱体の田悅はより疲弊していきました。
建中4年10月
朱泚の乱で德宗皇帝は京師から奉天に逃走しました。李懷光・李晟は軍を率いて長安に急行し、馬燧、李芃は各鎮に戻り、李抱真は臨洺に退却しました。
悦は王武俊に臨洺を取ることを提案しましたが、武俊は抱眞と陰で通じ、しかも自領から長く離れていることが不安になり同ぜず恒州に戻りました。
建中4年12月
奉天に落ち延びた德宗皇帝は盛んに王武俊・田悅・李納らに既得権を保証する働きかけを行った。三人は自領が保証されるなら、近い朱滔よりも遠い唐朝のほうが与しやすいと思い傾いていました。
一方、朱滔は回紇軍を率いて、南下し東都を攻撃しようとして進発し、王武俊・田悅の参戦を求めていました。武俊は従わず、悅にも同調を求めました。
興元元年正月
德宗の大赦令が出て、李希烈、田悅、王武俊、李納を赦し、その地位を保証しました。希烈以外は奉詔し、形勢は大変動しました。
朱滔は大軍をもって武俊領域に入り、悅領域に進みました。まだ対応の出来ていない悅は供応につとめました。
朱滔が魏州永濟へ屯し、悅を招きましたが、悦は「將士が出征に同意しません」と断りました。
滔は怒り、馬寔に魏州宗城、貝州經城,楊榮國に魏州冠氏を落とさせました。又回紇に寇掠させました。
悅は籠城しています。
滔は貝州を囲み、軍・回紇兵に諸縣を大掠させ、貝州武城を落とし、自領の德、棣二州に通じさせました。馬寔は魏州に迫ります。
復官した田悅は檢校右僕射となりました。
興元元年2月
王武俊は使相となり、幽州節度使を兼任し朱滔を伐つことを命ぜられました。
魏博軍は大敗が続き、士卒の七割を失い、軍内は非戦を望んでいました。給事中孔巢父が魏博宣慰使として来て雄弁に逆順禍福を説き、安心した悅及將士は警備をゆるめていました。
田緒は承嗣の子だが粗暴で悅から譴責されることが多かった。
緒は姪と争い殺害し、悦に処罰されることを懼れ、その党とともに悅やその母、妻等十餘人を殺害し、さらに判官許士則、都虞候蔣濟も殺害した。そして將士に恩賞を与えてごまかし自立しました。
朱滔は悦の死を知り喜んで、緒に同盟を呼びかけました。緒は諸将と協議しましたが、反乱継続を望むものはおらず、唐朝に歸附することに決しました。
その後、朱滔は王武俊・李抱眞に經城で大敗しも幽州に逃げ帰り、大乱は収まりました。
朱滔は喜び、同じく不満な王武俊を味方にしました。張孝忠は同意しませんでした。
建中3年4月
朱滔・王武俊は反して田悅と連合しました。
悅は援兵が来るのを頼みとして、將康愔に御河上で馬燧と戦わせましたが大敗しました。
建中3年5月
朔方節度使李懷光が征討軍に加わりました。
建中3年6月
朱滔と王武俊兵が田悅を救援し魏州北に至りました。李懷光も到着し、馬燧、李抱真、李芃と合しました。
両軍は連篋山の西で戦い、唐軍は敗北し、反軍は河を氾濫させ唐軍の退路を断ちました。
建中3年7月
唐軍は退却しましたが、朱滔はそれを追いませんでした。両軍は河を隔てて対峙しました。
建中3年11月
悅は朱滔の救援を德とし、皇帝に推戴しましたが、滔は辞退し、各人が「王号」を称することにしました。滔は「大冀王」悅「魏王」武俊[趙王]李納[齊王]で、反軍の独自官爵を設置しました。
建中3年12月
対峙が続き、唐軍は遠隔からの度支にたより、反軍は田悅領域からの供給にたより、双方とも疲弊しました。
対峙が長く続き、朱滔と王武俊は不和になり、弱体の田悅はより疲弊していきました。
建中4年10月
朱泚の乱で德宗皇帝は京師から奉天に逃走しました。李懷光・李晟は軍を率いて長安に急行し、馬燧、李芃は各鎮に戻り、李抱真は臨洺に退却しました。
悦は王武俊に臨洺を取ることを提案しましたが、武俊は抱眞と陰で通じ、しかも自領から長く離れていることが不安になり同ぜず恒州に戻りました。
建中4年12月
奉天に落ち延びた德宗皇帝は盛んに王武俊・田悅・李納らに既得権を保証する働きかけを行った。三人は自領が保証されるなら、近い朱滔よりも遠い唐朝のほうが与しやすいと思い傾いていました。
一方、朱滔は回紇軍を率いて、南下し東都を攻撃しようとして進発し、王武俊・田悅の参戦を求めていました。武俊は従わず、悅にも同調を求めました。
興元元年正月
德宗の大赦令が出て、李希烈、田悅、王武俊、李納を赦し、その地位を保証しました。希烈以外は奉詔し、形勢は大変動しました。
朱滔は大軍をもって武俊領域に入り、悅領域に進みました。まだ対応の出来ていない悅は供応につとめました。
朱滔が魏州永濟へ屯し、悅を招きましたが、悦は「將士が出征に同意しません」と断りました。
滔は怒り、馬寔に魏州宗城、貝州經城,楊榮國に魏州冠氏を落とさせました。又回紇に寇掠させました。
悅は籠城しています。
滔は貝州を囲み、軍・回紇兵に諸縣を大掠させ、貝州武城を落とし、自領の德、棣二州に通じさせました。馬寔は魏州に迫ります。
復官した田悅は檢校右僕射となりました。
興元元年2月
王武俊は使相となり、幽州節度使を兼任し朱滔を伐つことを命ぜられました。
魏博軍は大敗が続き、士卒の七割を失い、軍内は非戦を望んでいました。給事中孔巢父が魏博宣慰使として来て雄弁に逆順禍福を説き、安心した悅及將士は警備をゆるめていました。
田緒は承嗣の子だが粗暴で悅から譴責されることが多かった。
緒は姪と争い殺害し、悦に処罰されることを懼れ、その党とともに悅やその母、妻等十餘人を殺害し、さらに判官許士則、都虞候蔣濟も殺害した。そして將士に恩賞を与えてごまかし自立しました。
朱滔は悦の死を知り喜んで、緒に同盟を呼びかけました。緒は諸将と協議しましたが、反乱継続を望むものはおらず、唐朝に歸附することに決しました。
その後、朱滔は王武俊・李抱眞に經城で大敗しも幽州に逃げ帰り、大乱は収まりました。