モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

人を裁くな

2021-05-14 05:48:52 | 総大会
人生から取り除くべき瓦礫 その3

「人を裁くな、自分が裁かれないためである」マタイ7:1

誰から裁かれるのでそうか?
自分自身の良心からではないでしょうか。

裁きとは何でしょうか?
‟赦せない(裁く)心”があるとき、幸せであることはできないと思います。
わたしが幸せになることを妨げていたのは‟赦せない心”でした。

なぜ主は「赦すように」と命じたのでしょうか。
相手のため、一致するため…
それ以上に自分自身が幸せであるためだと思います。

‟赦せない心”があるとき、「それは相手の問題であり、相手が悔い改めるべきこと」
と考えていました。
よく考えてみれば、この世に問題のない人はいません。

するといつまでも‟赦せない心”を抱えたままでいることになります。
それは‟いつまでたっても幸せにはなれない”ということです。
だから主は「人を赦すように」と命じたのではないでしょうか。

口で言うのは簡単ですが、わたしにとって「瓦礫」を取り除くのは
本当に難しい、困難な問題でした。
訂正します、現在進行形です w
コメント

自由意思

2021-05-14 05:47:25 | モルモン書
「自分の…行いに応じて神に裁かれる」モーサヤ16:10

質問です。
自由意思は永遠の原則と言われますが、神の法廷に自由意思はあるのでしょうか?

この世の法廷で裁かれるとき自由意思は認められないと思います。
神の法廷で裁かれるときにはどうなのでしょうか。
もしも認められないとしたら自由意思は永遠の原則とは言えないような気がします。

前世においてルシフェルと彼に従った霊は「投げ落とされた」と表現されています。
ふさわしくない霊は「外の暗闇に追い出される」とも言われます。

この表現だけを聞くと、そこに自由意思はないように思えます。
自由意思は永遠の原則ではないのでしょうか?

わたしの考えは、ルシフェルと彼に従った霊は自らの選びで地上に降りたのだと思います。
ふさわしくない霊が外の暗闇に出るのも自らの選びだと考えています。
そして神の法廷にも自由意思があると思います。
なぜなら「日の栄の…律法に従えない者は、日の栄の栄光に耐えられない」
(教義と聖約88:22)とあるからです。

皆さんはどう思いますか?
コメント