次の安息日にお話の責任をいただきました。
テーマはネルソン大管長の歓迎の言葉(総大会)から「人生から取り除くべき瓦礫」です。
よろしければしばらく間お付き合いください。
人生から取り除くべき瓦礫 (その1)
わたしにとっての「瓦礫」は”赦せない心”です。
幸せな人の表情を思い浮かべてみてください。
そこに”赦せない心”が見えますか?
‟赦せない心”のある顔に幸せが見えると思えますか?
‟赦せない心”はわたしにとって、巧妙なサタンの罠です。
その思いのあるときは常にこう考えていました。
「これは相手の問題であり、相手が悔い改めるべき問題」
つまり‟自分の問題ではない”ということです。
どうしてネルソン大管長は「分かるように祈る」ことを勧めたのでしょうか。
罪に気づかなければ悔い改めることはできません。
これまでの人生を振り返るとき、‟赦せない心”はわたしにとって
主の道を歩むための大きな邪魔、大管長の言葉通り「瓦礫」でした。
36年前、広島県で教会に入りました。
当時のわたしは「こうであるべき」という考えに捕らわれていました。
その思いと違うことに対して‟赦せない気持ち”があったのです。
長くなるので、この続きはまた明日書きます。
テーマはネルソン大管長の歓迎の言葉(総大会)から「人生から取り除くべき瓦礫」です。
よろしければしばらく間お付き合いください。
人生から取り除くべき瓦礫 (その1)
わたしにとっての「瓦礫」は”赦せない心”です。
幸せな人の表情を思い浮かべてみてください。
そこに”赦せない心”が見えますか?
‟赦せない心”のある顔に幸せが見えると思えますか?
‟赦せない心”はわたしにとって、巧妙なサタンの罠です。
その思いのあるときは常にこう考えていました。
「これは相手の問題であり、相手が悔い改めるべき問題」
つまり‟自分の問題ではない”ということです。
どうしてネルソン大管長は「分かるように祈る」ことを勧めたのでしょうか。
罪に気づかなければ悔い改めることはできません。
これまでの人生を振り返るとき、‟赦せない心”はわたしにとって
主の道を歩むための大きな邪魔、大管長の言葉通り「瓦礫」でした。
36年前、広島県で教会に入りました。
当時のわたしは「こうであるべき」という考えに捕らわれていました。
その思いと違うことに対して‟赦せない気持ち”があったのです。
長くなるので、この続きはまた明日書きます。