モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

主に頼る

2021-05-25 05:49:22 | 総大会
次の日曜日の勉強会を担当することになりました。
テーマは昨年10月の総大会から「新しい日常」(ネルソン大管長)です。
よろしければ、一週間お付き合いください。


皆さんが…どのようなことで困っていて、どのように問題を解決しようとしているのか
(新しい日常 ネルソン大管長)


困りごとがなければ主に頼る必要はないと思います。
「困ったときの神頼み」という言葉がありますが、まさにそのとおりかもしれません。
どうやらわたしはいつも困っているようです w

困りごとがあっても自分で解決できると思うなら、主に頼ることはしないかもしれません。
主に頼っても「自分でできるでしょ」と言われるのでしょうか。

親からそう言われたことがあります。
見守ってくれましたけど。

その点では、相談するのはいいことですね w

問題を解決するために主に頼るにはどのようにすればよいのでしょうか。
こんなお話があります(概略です)

ある人が借金を返済できなくなりました。
そのことを知った友人が‟一つの条件”のもとにその借金を肩代わりしました。
その条件とは‟友人の言葉に従う”ことです。

それは時々、奴隷になることと誤解されます。
友人はその人を愛していました。
その人を愛し、その人のためにもっとも善いことを与えたいと望んでいます。

それを信じることができるでしょうか。
信じることができるなら、問題を解決するために友人の言葉に喜んで従うでしょう。

イエス・キリストを信じる信仰とはそういうことではないでしょうか。
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信じるための土台

2021-05-25 05:48:15 | モルモン書
「アルマとへラムはともに水の中に沈んだ」モーサヤ18:14


教えられた方法と違っていてもOKなんですね。
ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリのバプテスマは神権を受ける前でした。

「教えられた通りでなければならない」とつい考えてしまいがちですが、
御霊の指示に従えばOKのようです。
ニーファイがラバンを殺し、真鍮の版を持ち出した(盗んだ)ことも同様のように思えます。

聖典(特に旧約聖書)の中には、そのような記事がたくさんあります。
‟主の業を信じる”という土台がなければ困惑してしまうかもしれません。
これらのことを「信仰の試し」と呼ぶ人もあります。

信じられない思いがあるときどうすればよいのでしょうか。
先ずは‟信じるための土台”を築く必要があるかもしれませんね。

わたしは改宗した当時、アダムの存在が信じられませんでした。
多くの人に質問しましたが、納得できる答えを得ることはできませんでした。
‟理解するための信仰という土台”がなかったからです。

その土台ができていないときにそのような問題にこだわると、
つまづきの原因になるかもしれません。

皆さんはどう思いますか?
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