モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

祈りの答え

2021-05-19 05:02:04 | 福音について
どうすれば祈りの答えが分かりますか?


これまで、祈りに応じるものという意味で‟応え”と書いてきました。
ここでは‟答え”がふさわしいようです。


心の中に真っ新な白紙を用意します。
それなら薄くて小さな文字でもすぐに見つけられます。
虫メガネと辞書も用意した方がいいですね。

澄み切って、揺らぎ一つさえもない鏡のような水面を想像してください。
そこであれば、落ちてくる水滴は見つけられなくても、その波紋に気付くことはできます。

騒々しいことから離れて静かな場所に行ってください。
小さな細い声であっても聞き取れるくらいの静けさが必要です。

これまでに教えられた‟祈りの答えを受けるための方法”から三つを紹介してみました。


「虫メガネ」は何ですか?

書き記された文字が読み取りにくいときに使います。

息子がこんな話をしてくれました。
「社会人になったとき、語彙が足りないと会話についていけないと痛感したよ」
わたしは新聞を毎日読むことを勧めました。

福音について語り合うとき、やはり福音に関する語彙が必要です。
それは多ければ多いほど役に立ちます。
毎日聖典を読むことをお勧めします。


「辞書」は何ですか?

専門書を読むときに厄介なのが意味の分からない専門用語です。
そんなときに解説してくれるものがあると助けになります。

福音の言葉についても解説してくれるものが必要かもしれません。
それは預言者の教えであったり、教会で学ぶことのようです。

あなたの辞書は何ページくらいありますか?
すぐに検索できるように整理されていますか?
祈るとき、聖典を読むとき、福音を学ぶとき、いつも手元にありますか?


「静かな場所」はどこにありますか?

あなたにとっての騒々しいことは何でしょうか?
この世の煩い事、心配事、心を惹かれる何かかもしれません。

子どもの頃、学校に授業と関係のない漫画を持ち込んで叱られたことがあります。
「ここにそれは必要ないでしょ、ここに何しに来たの?」

主の声を聞きたいときに、それらのものは必要ですか?
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敬語?

2021-05-19 04:59:53 | モルモン書
「わたしは王に申し上げます」モーサヤ17:9


突然、敬語… ですか?

ニーファイとレーマンのやり取りを見ると、ニーファイは‟敬語”でレーマンは‟ため口”です。
英語ではどうなっているのでしょうか。
どうやらどちらも‟ため口”らしです w

ということは、翻訳されるときに日本人向けに訂正(?)されたということでしょうか。
確かに日本人にはこの方が‟しっくりくる”のでしょうね。

そのことを批判するつもりはありませんが、ニーファイがより善人に、
レーマンがより悪人のイメージになっているかもしれません。
ニーファイ人が書いた記録なので、ニーファイ人がより善の民、
レーマン人がより悪の民のイメージになっているかもしれません。

レーマン人が残した記録があれば、まったく違う視点で描かれていたでしょうね。
歴史記録とはそういうものらしです。

そんなことを議論しても仕方ありません。
無駄話くらいに思ってください w

わたしにとって重要なことは、モルモン書に記されたことが真実であること以上に、
それを読むことで啓示を受けられるという事実です。
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事実を確認する方法

2021-05-19 04:58:24 | 福音について
サタンに騙されないようにするために、具体的にどうすればいいのですか?


以前に車椅子の友人のことを話しました。
その話が事実であることをどうやって知ることができるでしょうか。
彼に会い、本人から直接聞いてみるのが一番良い方法だと思います。

彼は先日、教会に訪れ、何人かの方と会いました。
その方々はわたしの話が事実であったことの証人となってくださると思います。

わたしが神について話すとします。
それが事実であるか、どうすれば分かるでしょうか。
神に直接確認するのが一番確実な方法だと思います。
それが祈りです。

「騙されないために疑ってかかる」という方法もあるようですが、
サタンはそれを活用します。
神について確認したいなら神に尋ねる以上に確実な方法がありますか?
宣教師はそのために祈る方法を紹介しています。

わたしも祈ることをお勧めします。
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言い訳

2021-05-19 04:56:33 | モルモン書
「お前はこの理由で…」モーサヤ17:8

心に‟後ろめたい思い”があると、人は言い訳をするようです。
ちなみに、ノア王の言った処刑理由を納得できる人があるでしょうか。
どう見ても繕った言い訳にしか思えません。

職場である人が上司から叱られたと憤慨していました。
わたしはそのことを聞いて「どうして説明しなかったの?」と尋ねました。

理由を説明することは必要ですが、それが言い訳と受け取られると逆効果になります。
説明と言い訳はどのように区別されるのでしょうか。

実際のところは‟相手の判断次第”のようです。
それであれば自信をもって堂々としていることが結構効果的ですよ。
正論であっても自信なさげにしていると言い訳に見えてしまうからです。

その点、神に向かうときは楽です。
言い訳は一切必要ありません。
いえ、「言い訳は一切通用しない」といった方が正解でしょうか w

皆さんはどう思いますか?
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