モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

瓦礫(その2)

2021-05-12 05:28:16 | 総大会
人生から取り除くべき瓦礫 (その2)


教会に入ってしばらくすると、わたしの中に‟赦せない心”が湧いてきました。
時が経つとともに‟人の弱さ”が見えてきたからです。
すると祝福が見えなくなり、教会を離れたいとさえ感じるようになりました。

「人を見るのではなく、神を見て信仰するように」と何度も教えられました。
しかし、‟赦せない心”は膨らみ続けました。

あるとき、その思いをステーク会長に打ち明けました。
彼は一言、「兄弟、逃げるのですか?」

その言葉にさえも赦せない感情がありました。
悶々とした感情のまま一週間を過ごしました。

その結果、何があったと思いますか。
福音から離れることのできない自分を確認できました。
もう一つ、ステーク会長のその一言は今もわたしの信仰生活を支えています。

ところが、わたしの中の「瓦礫」である‟赦せない心”はその後も続きました。
わたしの信仰生活の問題の根源は、常にそこにありました。
わたしの中の”赦せない心”は常に信仰の道を歩む邪魔をしました。
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信仰があれば

2021-05-12 05:25:34 | モルモン書
「どのようなことでも神が…命じられれば、わたしにはそれができる」1ニーファイ17:50


先日、車イスの友人のことを書きました。
一人の教会員がイエスが脚萎えを癒したことを彼に紹介しました。
その信仰を否定するつもりはありませんが、
どうしても気になることがあったので書きます。

「信仰があれば願いは叶う」と言われます。
ニーファイはそこにもう一つの要素が必要であることを教えました。
「神が…命じられれば」です。

ニーファイは「わたしがこの水に向かって『陸になれ』と言(え)…ば、水は陸になる」
と言いました。
彼がそれを行ったとは記されていません。
その理由は‟神がそれを命じなかった”からではないのでしょうか。

神に友人の足を癒す力があることは認めます。
ただ、それは「彼に信仰があれば…」というだけの話ではありません。
その信仰が‟神から与えられたとき”にその願いは叶えられます。

「祈りは必ず聞き届けられる」とも言われます。
確かに祈りは天父に届きます。
ただ、その祈り願ったことが叶うのは、
その信仰が‟神から与えられたものであるとき”だと思います。

「御霊によって祈るなら必ず応えられる」と聞きます。
それは「神(御霊)から与えられたままに祈るなら」
という意味であると解釈しています。

「神から与えられたままに祈れば、祈ったことがそのままに神の御手によって行われる」のは、
神を信じている人にとっては当然のことと思えるでしょう。

「祈りが応えられない」としたら、このことを見逃しているのかもしれません。

皆さんはどう思いますか?
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