モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

御霊の言葉

2021-05-16 07:52:28 | 福音について
今日のお話の原稿ですので、ちょっと長くなりそうです。


「自分と周りの人々を祝福できたら百点満点」
いい言葉だと思いませんか。
最近いただいたものです。

「書き留めよう」とは思いません。
「覚えておこう」とも考えません。
‟御霊の言葉(教え)”であるなら、
必要な時に何度も繰り返して思い出すことになるからです。

わたしにはそんな言葉がたくさんあります。
それらの言葉にいつも色々な意味で助けられてきました。


人を赦せないときに、クリスマスキャロルのスクルージの言葉を思い出します。
「死ぬがいい、余計な人口が減るだけだ!」

‟思いやりのかけらもない”というのでしょうか、
”相手のことなど知ったことか”というのでしょうか…
ひどい言葉ですが、赦せないときの心をよく表しているように感じます。


逃げ出したくなったとき、36年前に聞いた一言がいつも心の中によみがえります。
教会に集うようになって数か月が経った頃、人の弱さが目に付くようになりました。
赦せない気持ちに囚われ「教会を離れたい」とさえ思うようになりました。
その思いをステーク会長に話すと、こう言われたのです。
「兄弟、逃げるのですか?」

数年後、神殿のセッションを待つ部屋で偶然に彼が隣に座りました。
久しぶりの再会を喜びながら、そのことを話すと彼は言いました。
「わたしがそんなことを言ったんですか?」
わたしには絶対に忘れられないことなのに、彼は全く覚えていなかったようです。


問題にぶつかったとき、聞こえてくる言葉があります。
「問題があっても前進しましょう」

それを言った人は今も身近にいます。
その話をすると「そんなこと言ったかな、覚えていないんだけど」と言われました。

いや別にいいんです。
わたしが覚えていて、わたしにとっての‟御霊の言葉”ですから… w


先日の総大会でネルソン大管長がこう話しました。
「皆さんの人生から取り除くべき瓦礫が分かるように祈ることをお勧めします」
この言葉について何度も考えました。

「人生から取り除くべき瓦礫」って何でしょうか。
‟信仰の道を歩むときに邪魔になるもの”でしょうか。
皆さんはどう思いますか?

もしそうであれば、わたしにとっては
「赦せない心、逃げ出したい気持ち、苦難に萎えてしまう弱さ」です。
そんなときに‟心に聞こえてくる言葉”に助けられ、励まされることって、
皆さんもありませんか?

そのことを考えるとき、この聖句を思い出します。
「言葉は神と共にあった…この言葉に命があった」ヨハネ1:1~

ニーファイは言いました。
「天使はあなた方に語りかけ…あなた方はその声を…聞いています」1ニーファイ17:45

必要な時に思い出す言葉を‟天使の声”だとわたしは思っています。
なぜなら、いつもそれに助けられたからです。

「それは自分が覚えている言葉だから…」と思いますか?
そうです、知らない言葉よりも聞いたことのある言葉の方が‟ピンとくる”からです。

聖典を読んだことがなければ、聖典の言葉を引用されても何も感じられないかもしれません。
でも聖典をいつも読んでいるなら、
その中の単語を聞いただけでも何かを感じ取れることがあります。
そんな経験はありませんか?


天使の声について少し考えてみましょう。
天使の声には色々な段階(強さ?)があるようです。

そのほとんどは‟自分の思いと見分けのつかないほどのもの”です。
忘れていたことを思い出したとか、気付きとかひらめき、第六感とも言われます。

そういったことに助けられたことは誰でもあると思います。
わたしはそれを感じたときに「ありがとうございます」と言います。
周りで見ていたら変かもしれませんね。

あるとき、友だちの子どもがわたしの膝の上で遊んでいました。
丁度その時にそれを感じて、
思わず口から「ありがとうございます」という言葉が漏れてしまいました。
その子はわたしの顔を見て「ぇ、なに?」
ちょっと焦りました w


‟明らかに自分の心とは違うもの”を感じることがあります。
わたしは朝のメッセージを書くときにそれを感じます。

面白いですよ。
自分とは違う何ものかを感じられるなら、その相手と語り合うことができます。
祈るときにそれを感じたことのある方は少なくないのではないでしょうか?


たまに‟言葉として心に聞こえる”こともあります。
不思議に思えますが、わたしは違和感を覚えたことがありません。
人と話すときのように普通に会話しました。

最初にそれを経験したのは、初めて宣教師と出会った翌日でした。
長くなるので、そのことはまた改めてお話します。


これまでに一度だけ経験したことがあるのですが、あまりにもはっきりと聞こえたので
‟耳に聞こえた”ように感じて周りを見回したことがあります。
これはわたしの勝手な考えですが…
普通の声は耳を通して聞こえます。
天使の声は耳を介さずに、直接心と思いに届くようです。

息子アルマやパウロもそうだったのではないでしょうか。
共通しているように思えるのは、‟心をかたくなにして聞く耳がないけれど、
それでも必要で「聞きなさい」と命じられたとき”のようです。


話が少し逸れてしまいましたが、‟御霊の言葉”にはとても大きな力があるように感じます。
それは「瓦礫」を片づけるブルドーザーのようです。
(少し大げさでしょうか w)

でも…、ブルドーザーは片づけはしてくれますが、それを処分して捨てるのは別の作業です。
そちらも大切です。
「それは自分で行いなさい、助けてあげるから」と言われているように
わたしは感じるのですが、皆さんはどう思いますか?

さて、今皆さんの心に御霊は何かを囁きかけているでしょうか。
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サタンの方法

2021-05-16 07:49:40 | モルモン書
「王は…アルマを追い出させ…召使たちに彼の後を追わせて殺させようとした」モーサヤ17:3


同じような場面がありましたよね (1ニーファイ3:25)
「追い出さずにそこで捕まえておけばいいのに」と思ってしまいます。

どうやらこれはサタンの方法のようです。
小さな誘惑をして、それに従うならさらに大きな誘惑を仕掛ける。
この世の中にそのような場面を見かけることは少なくないように思えます。

この教会はよく「戒めが厳しい」と言われるらしいです。
わたし自身、「そんなことにまでこだわらなくても…」と思ったことがあります w

パウロはこう言っています。
「もし食物が…兄弟をつまづかせるなら…わたしは…肉を食べることはしない」1コリント8:13

それも大切なのでしょうが、逆にそのことにつまづいてしまうこともあるようです。
‟戒めにこだわってその目的を見失っている”
そんな場面を見かけることはありませんか?
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