‟福音に対する確信”とはどのようなものですか?
人を見て「この人は信頼できる」という基準は何でしょうか。
誠実な態度や穏やかさ、仕草や言葉づかい、周りの評価など、色々とあると思います。
その一つひとつを突き詰めて行けば、‟なんとなく”かもしれません w
「なんとなく信用できそうかな」から始まって、ちょっと試して、
それを繰り返しながら信頼を増し加えて行くのではないでしょうか。
最初の‟ちょっと試して”は、
おそらく‟期待を裏切られても差支えのない程度のもの”にすると思います。
信頼が強まるほどに、期待も大きくなり、
大切なことも委ねられるようになるのではないでしょうか。
福音も似たようなものです。
教会に入るときには
「教えられたことがウソだったらやめればいい」と思っていました。
確信が強まるほどに福音に対する期待も依存も大きくなりました。
あるとき友人がこのように言いました。
「もしこの福音がウソだったらどうする?」
まったく予想もしていない質問でした。
まだ完全に信用していない頃であれば、それなりに対処できたかもしれません。
しばらく考えた後の結論は「何もできなくなってボ~っとしてるかも」でした w
「そうだよねぇ」と二人で笑いました。
もしも確信を得ていなければ、その質問に悩んだかもしれませんね。
友人に「疑える要素が何かある?」と尋ねると、今度は彼が考える番です。
しばらく考えてから「無いねぇ」でした w
確信とはそういうものかもしれません。
人を見て「この人は信頼できる」という基準は何でしょうか。
誠実な態度や穏やかさ、仕草や言葉づかい、周りの評価など、色々とあると思います。
その一つひとつを突き詰めて行けば、‟なんとなく”かもしれません w
「なんとなく信用できそうかな」から始まって、ちょっと試して、
それを繰り返しながら信頼を増し加えて行くのではないでしょうか。
最初の‟ちょっと試して”は、
おそらく‟期待を裏切られても差支えのない程度のもの”にすると思います。
信頼が強まるほどに、期待も大きくなり、
大切なことも委ねられるようになるのではないでしょうか。
福音も似たようなものです。
教会に入るときには
「教えられたことがウソだったらやめればいい」と思っていました。
確信が強まるほどに福音に対する期待も依存も大きくなりました。
あるとき友人がこのように言いました。
「もしこの福音がウソだったらどうする?」
まったく予想もしていない質問でした。
まだ完全に信用していない頃であれば、それなりに対処できたかもしれません。
しばらく考えた後の結論は「何もできなくなってボ~っとしてるかも」でした w
「そうだよねぇ」と二人で笑いました。
もしも確信を得ていなければ、その質問に悩んだかもしれませんね。
友人に「疑える要素が何かある?」と尋ねると、今度は彼が考える番です。
しばらく考えてから「無いねぇ」でした w
確信とはそういうものかもしれません。