信仰に対する確信や安心を抱き…その後…苦難によってその信仰が試され…平安を取り戻そうともがいたことがありますか。
(わたしに従ってきなさい 10月10日)
初めて福音を知ったとき「素晴らしいものに出会った」と喜びました。
「その喜びは生涯続く」と思っていました。
それが勘違いであると分かったのは、それからほどなくしてのことです。
先ず、違和感から始まりました。
教会の人々を見るときに、みんながみんな喜んでいるわけではないと気付いたからです。
やがて自分にも同様のことが訪れました。
信仰の試されるときが来たのです。
「こんなはずではない」と思いました。
‟信仰が試される”ことは聞いていましたが、それは想像もしていない出来事でした。
福音に出会ったときの確信が頼りでした。
周りにその悩み苦しみを理解して助け励ましてくれる人があったことは救いでした。
それでもその経験は苦難でした。
‟平安を取り戻そう”ともがきました。
海の潮が満ちた後に引いて行くように、
やがてそのときは過ぎ去り、‟福音への確信”が戻ってきました。
それからしばらくすると、また信仰の試しは訪れました。
まるで潮の満ち引きのように、未だにそれは続いています。
たまには小さく、たまには大きく、
静かに訪れるときもあれば、あるときは台風の高潮のようであったりもします。
きっとこれからも繰り返されるのでしょう。
それには何の意味があるのでしょうか。
まるで海の波によって岩が削られて行くように、
ほんの僅かずつですが変化を感じています。
(わたしに従ってきなさい 10月10日)
初めて福音を知ったとき「素晴らしいものに出会った」と喜びました。
「その喜びは生涯続く」と思っていました。
それが勘違いであると分かったのは、それからほどなくしてのことです。
先ず、違和感から始まりました。
教会の人々を見るときに、みんながみんな喜んでいるわけではないと気付いたからです。
やがて自分にも同様のことが訪れました。
信仰の試されるときが来たのです。
「こんなはずではない」と思いました。
‟信仰が試される”ことは聞いていましたが、それは想像もしていない出来事でした。
福音に出会ったときの確信が頼りでした。
周りにその悩み苦しみを理解して助け励ましてくれる人があったことは救いでした。
それでもその経験は苦難でした。
‟平安を取り戻そう”ともがきました。
海の潮が満ちた後に引いて行くように、
やがてそのときは過ぎ去り、‟福音への確信”が戻ってきました。
それからしばらくすると、また信仰の試しは訪れました。
まるで潮の満ち引きのように、未だにそれは続いています。
たまには小さく、たまには大きく、
静かに訪れるときもあれば、あるときは台風の高潮のようであったりもします。
きっとこれからも繰り返されるのでしょう。
それには何の意味があるのでしょうか。
まるで海の波によって岩が削られて行くように、
ほんの僅かずつですが変化を感じています。