モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

わたし自身のために

2021-10-14 04:47:40 | 福音について
どうすれば諦めずに続けられますか?


誰かのために努力して頑張ります。
相手が何も応えてくれないと、心が折れそうになることがあります。

「笛を吹いたのに…踊ってくれなかった」マタイ11:17

「わたしがああしたのに、〇〇ちゃんはこうしてくれなかった」
子どもたちのこのような不満を聞くことがあります。

「自分がこうしてあげたんだから、相手はこうするべき」と考えるのです。
親子の間でも、大人同士でも珍しくはありません。

相手のすべきことを勝手に決めつけて、その反応に一喜一憂しているのです。
それを理由に不平を言い、腹を立てることさえあります。

おそらく、‟自由意思の原則”を忘れているのでしょう。
相手には‟押しつけがましく”感じられるかもしれません。

それを愛と誤解していることさえあります。
これを続けるなら双方共に難しい状況になりそうですね。


ヤコブ5章(モルモン書)には‟オリーブの木と果樹園の主人のたとえ話”があります。
果樹園の主人は何度も「わたし自身のために」と言いました。

わたしたちは自分の救いのために生きています。
自分の信仰のために日々努力します。
自らの喜びのために愛し、分かち合い、招きます。

そう考えるなら、諦めずに続けることは自分次第です。
自分が主体であり、相手の反応に依存する必用はありません。
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心を焼く火

2021-10-14 04:38:05 | モルモン書
「燃え尽きることのない…消すことのできない火の中に投げ込まれる」アルマ5:52


仏教の教えに‟火の池地獄”というものがあります。
火は燃え尽きることがなく、その池に投げ込まれた者も燃え尽きることなく、
永遠に焼かれ続けるという怖ろしいものです。


それは肌を焼く火ですが、心を焼く火もあります。
‟顔から火が出る”といいます。

人前でひどい過ちを自覚したときに、顔がカァッと熱くなることがあります。
顔と耳が真っ赤になるので、見ている側にも分かるほどだそうです。
胸の内は押し上げてくる強烈な後悔の念に襲われ、‟穴があれば隠れたい”気持ちです。

その感覚は一時的なものですが、もしも永遠に続くとしたら悲惨でしょうね。

罪のあるままに主の前に立つとしたら、
あの感覚(もしかするともっと強烈なもの)を感じるのではないでしょうか。
考えただけでゾッとします。
許されるならその場を離れ、隠れてしまいたいと願うことでしょう。


福音に出会って三十年以上も経ってもまだこんな所にいるのは、
未だに‟燃え尽きることのない火”(主の栄光)に耐えることのできない自分があるからです。
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