どうすれば諦めずに続けられますか?
誰かのために努力して頑張ります。
相手が何も応えてくれないと、心が折れそうになることがあります。
「笛を吹いたのに…踊ってくれなかった」マタイ11:17
「わたしがああしたのに、〇〇ちゃんはこうしてくれなかった」
子どもたちのこのような不満を聞くことがあります。
「自分がこうしてあげたんだから、相手はこうするべき」と考えるのです。
親子の間でも、大人同士でも珍しくはありません。
相手のすべきことを勝手に決めつけて、その反応に一喜一憂しているのです。
それを理由に不平を言い、腹を立てることさえあります。
おそらく、‟自由意思の原則”を忘れているのでしょう。
相手には‟押しつけがましく”感じられるかもしれません。
それを愛と誤解していることさえあります。
これを続けるなら双方共に難しい状況になりそうですね。
ヤコブ5章(モルモン書)には‟オリーブの木と果樹園の主人のたとえ話”があります。
果樹園の主人は何度も「わたし自身のために」と言いました。
わたしたちは自分の救いのために生きています。
自分の信仰のために日々努力します。
自らの喜びのために愛し、分かち合い、招きます。
そう考えるなら、諦めずに続けることは自分次第です。
自分が主体であり、相手の反応に依存する必用はありません。
誰かのために努力して頑張ります。
相手が何も応えてくれないと、心が折れそうになることがあります。
「笛を吹いたのに…踊ってくれなかった」マタイ11:17
「わたしがああしたのに、〇〇ちゃんはこうしてくれなかった」
子どもたちのこのような不満を聞くことがあります。
「自分がこうしてあげたんだから、相手はこうするべき」と考えるのです。
親子の間でも、大人同士でも珍しくはありません。
相手のすべきことを勝手に決めつけて、その反応に一喜一憂しているのです。
それを理由に不平を言い、腹を立てることさえあります。
おそらく、‟自由意思の原則”を忘れているのでしょう。
相手には‟押しつけがましく”感じられるかもしれません。
それを愛と誤解していることさえあります。
これを続けるなら双方共に難しい状況になりそうですね。
ヤコブ5章(モルモン書)には‟オリーブの木と果樹園の主人のたとえ話”があります。
果樹園の主人は何度も「わたし自身のために」と言いました。
わたしたちは自分の救いのために生きています。
自分の信仰のために日々努力します。
自らの喜びのために愛し、分かち合い、招きます。
そう考えるなら、諦めずに続けることは自分次第です。
自分が主体であり、相手の反応に依存する必用はありません。