ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

連休のある一日~学校→自衛隊演奏会→横浜マーク・イズ

2013-10-16 | お出かけ

今日は、本来ならブログ定休日なのですが、定休日らしく
「淡々と写真を貼るシリーズ」と参ります。
海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏会についてはまた明日。


と言いながら冒頭ででかでかと写真を載せた、妙香寺境内で行われた式典の様子。
この日の予定は、すべてこのコンサートを中心に決まりました。


■息子の学校で懇談会


学校行事もエリス中尉にかかっては「もののついで」です。

息子の学校は、こういう時には、自分の子供が苦手科目や気になる教科の先生を指名し、
事前にオンラインでアポイントを取って話をすることが出来ます。
実はなんでも良かったのですが、この日は取りあえず数学の先生に会いました。

先生から、彼は特に問題もなく、来る能力別クラス分けでは上級コースに入れるだろう、
と伺い、少しほっとします。
常日頃、母親には瞬時たりとも親バカでいさせてくれない愚息ですが、
やることだけは取りあえずやっているようです。


懇談が終わり、そのまま妙香寺のある横浜市本牧まで車で移動。


■ランチ~本牧のパティスリーカフェ

この「本牧」というのは、その昔海軍隠語でいうところの「ブック」で、
「ブックの女」というと本牧の女という意味だったそうです。
この辺の歴史には不案内なのですが、本牧通りには昔その手の店があったのかもしれません。

ここには「ゴールデンカップス」という伝説のライブハウスがあります。
全員ハーフの実力派バンド、ゴールデンカップスが日本で初めて「リズムアンドブルース」
の本格的な活動を始めた場所。

144年前、日本で初めて吹奏楽が始まったのと全く同じ場所で、米軍基地お膝元ならではの
こんな音楽もまた発信されたということのようです。

早く着いたので、本牧通りに車を留め、ランチを取ることにしました。



本牧通りから一本裏に入った、つまり妙香寺の並びにあるパティスリー。
お店の名前は知りませんが、フランスでケーキの修行をしてきた
若い女性がやっている、ケーキ屋兼カフェレストランです。
パリ仕込みだけあって、店構えがパリのパティスリーそのもの。



店構えにもセンスが感じられますが、彼女の作る自慢のケーキ、
これがなかなかのお味。
近くに用事があって何度か立ち寄ったことがあるのですが、
特に焼き菓子は絶品で、ブリオッシュなどまるでお菓子のように風味があり美味しい。
たいていパサパサしていて何かつけないと食べられないものですけどね。ブリオッシュ。



小さなお店で、木の椅子は決して座り心地がいいわけではありませんが、
つい長居してしまう居心地の良いスペースです。

彼女と、こんな店で働くには少し雰囲気の違う、年配の女性二人でやっています。
この年配の方は、どちらかというと、ご飯屋さんとかおそば屋さんの給仕が似合うタイプで、
どうしてこの小洒落たパリ風のお店で働いているのか当初謎でしたが、
どうやら、彼女は、パティシエのお母さんではないかと今回思いました。

娘が海外で修行してやっと開いた夢のお店を、一生懸命手伝うお母さん。
勝手に思い込んだストーリーにすぎないのですが、
何となく応援してあげたいほろりとするものを感じ、近くに来たときには必ず利用しています。



ハロウィーンが近いので、お化けくんのクッキーが出ていました。
これは、TOがお土産にするため味見をしようとして買ったもの。
そうとは知らないわたしと、知っていてもおかまいなしの息子が、
TOがトイレに行っている間に半分ずつ食べてしまい、怒られました。

わたしがアメリカにいた10年前は、日本においてはまだハロウィーンという言葉さえ
一般には広まっていない頃で、友達にメールで「ハロウィーンって何?」
と聴かれるほどだったのに、時代は変わったものです。

しかし、菓子メーカーが流行らせて商売にしようとがんばって布教した割には、
ハロウィーン、日本人には浸透しなかったですね。


アメリカで一度だけ「トリックorトリート」が来て、彼らにお菓子をあげたことがあります。
しかし、アメリカでもリンゴにカミソリを仕込んで子供に渡すような犯罪が起こったりして、
こういう電撃訪問は、都市部ではすでに行われなくなっているようです。
そのかわり、その日一日変な格好で街に繰り出す、というのはおふざけ好きのアメリカ人、
結構喜々としてやるので、ときおり公共機関でもそんなコスプレを見かけました。

図書館に行ったら、司書が血まみれの耳をつけて、にこりともせずに仕事していて、
突っ込むべきか、知らん顔するべきか、非常に悩んだことが思い出されます。
息子はまだ2歳で、GAPで買った犬の着ぐるみ(しっぽだけ勝手にプラプラ動く)
を着せて、地元の消防署のオープンハウスに連れて行き、消防車に乗せたりしたものです。

11月末のサンクスギビングもそうですが、大抵の国はわざわざ海外のお祭りなど、
歴史もないのに取り入れたりしません。
商売のために他国の宗教行事をイベント感覚で定着させようとするなど、日本だけではないでしょうか。
クリスマスだけは見事に自家薬籠中とでもいいますか、我がものとした日本ですが、
(ただしずいぶんアレンジして)「言霊がない」というか、形だけのお祭りなど、
いくら日本人でも笛吹けど踊らず、というところでしょう。


■日本吹奏楽発祥144年記念演奏界 by海上自衛隊横須賀音楽隊

さて、ぎりぎりまでこのカフェで過ごし、ここから歩いてわずか3分の妙香寺に移動します。



山門外にあるお地蔵様。
このお地蔵様本体はもしかしたら昔から変わっていないのかもしれません。

ちなみに、妙香寺は、昨日も言いましたが三回消失しています。

 

山門までは石段を上がっていきますが、この石段がなんだか非常にハードモード。
昔の石段そのままなので、段の高さがまちまちで、急です。
下りがまた大変で、年配の方が手すりにぶら下がるようにして捕まりながら降りていましたが、
いつ備え付けられたかわからないこの手すり、皆が掴むのでピカピカになっていました。




階段を上がったら、海自の楽器運搬用のトラックと、団員を乗せるマイクロバスが。
ちゃんと山門右手にスロープもあります。



もうすでに音楽隊は整列していました。
さすがは海軍五分前、整列したまま直立不動で待ち、
音出しはきっちり定刻に始まりました。

開会の挨拶の後、君が代斉唱。
ここは、吹奏楽発祥の地であるとともに、君が代由来の地でもあるのです。



発祥の地、となっていますね。
この天然石の碑の由来については、後ほど、ある出会いによって判明します。

なぜ君が代発祥の地かについては、明日、横須賀音楽隊の演奏会に触れながら
お話ししたいと思います。



昨日も書きましたが、献花が続いています。
現在献花しているのは、前横須賀音楽隊隊長。



ちゃんと写真に記録する隊員もおります。
袖のブレードを見る限り、専門の写真班ではなく、楽団員ですね。
手の空いた団員や、この形態で出番のない隊員がカメラ係を務めるのでしょうか。

式典が終わりました。
わたしは何しろ初めてのことで、このままこの境内で演奏が行われるのかと思っていたのですが、
お堂にはいるようにアナウンスが行われ、初めて会場が屋内であることに気づきました。



早くに来れば、パイプ椅子に座ることが出来たんですね・・・。
わたしたちは結局立ち見です。

全然知識のないわたしたちは、当山の宗旨すら知らなかったのですが、
妙香寺は日蓮宗だそうです。
ここがなぜ薩摩藩士の合宿所に選ばれたのかは分かりませんでした。


というわけで10分の休憩を挟んだコンサートが終わり、
車を留めた本牧通りまで歩くことにしました。

無意味に写真がでかくてすみません。
最近パソコンをマックに変えたので、写真の加工にまだ慣れていないんです。
しかし、ここには「いど」があるんですね。

ひらがなで「いど」なんてかかれても、今の子供は井戸なんて知らないと思うがどうか。
未だに井戸、塞いでいないんですね。

ところでこの石碑は、当山表玄関にあるもので、天然石を使って作られました。
それをどうやって知ったかというと、こういうわけです。


■皇紀2600年記念国旗掲揚台


車への帰り道、このような光景が目に入りました。



みすぼらしい(失礼)民家の前に立てられた国旗掲揚台。
なんだなんだと近づいてみると・・・・・



わざと写真を加工して古びた写真のようにしてみました(笑)
近づいてみると、このポールの台になっているのが



おお!

皇紀2600年記念に、この地の青年団が建てた掲揚台。
戦災にも遭わず、戦後の旧軍バッシングと軍国色パージからも逃れて、 
73年の風雪に耐え、今ここに存在しているとは・・・・。
このあたりは上野という地域のようですが、このようなものが、
いまだにちゃんと保存され、しかもちゃんと国旗の掲揚もされているというのは、
すぐ近くの妙香寺が「君が代の発祥の地」だったからでしょうか。

というか、国旗や国歌で騒いでる人間なんて、声が大きい割に少数派ですからね。
問題はその、外国人を含む少数派が、新聞社やテレビ局などマスコミにいることです。


この碑を眺めていると、やはり妙香寺帰りの年配の男性が話しかけてきました。

「こんなものがあったんですね。
横浜で生まれたのに、今まで知らなかった」 
わたし「皇紀2600年記念碑、当時はあちらこちらにあったんでしょうけどね。
空襲でも無事だったんですね」
「妙香寺ですか」
わたし「そうです」
「妙香寺にある君が代の碑、見ましたか?」

この男性の説明によると、上巨大写真にある君が代由来の碑は、
昔、神奈川新聞の前身である新聞社が、神奈川県下の歴史名所を「募集」し、
その結果選ばれた地に建てられた55の一つなのだとか。

男性は、そのすべてを巡り、無くなってしまった「ガス山の碑」以外は
すべて写真に収めることが出来た、と自慢げに語りました。

仕事を引退して、このように悠々自適、自分の趣味の世界を散策しておられるようです。
この男性にとっても、この日の演奏会はさぞ実りあるイベントだったでしょう。 


■横浜みなとみらい マーク・イズ

 


さて、それから我々は、みなとみらいに新しく出来た総合モール、
「マーク・イズ」に行ってみることにしました。
今週、息子が学校でキャンプに行くことになっており、その買い物です。

みなとみらいといえばクィーンズが昔からありますが、空き地だったところに
次々と大会社の社屋や商業ビルが、今も建設中です。
ここは全部が商業施設で、エンターテイメント型のショッピングモール。
最近東京駅近くで続々とオープンしたモールとセンスや雰囲気が似ていると思ったら、
やはり三菱地所グループの開発でした。

同じモールと言っても、「イ怨モール」などとは質と充実の点で雲泥の差です。






店以外のスペースが非常に広く、椅子やテーブルが随所にあって、
買い物だけが目的にならない、エンターテイメント型の商業施設です。
安っぽい店屋がいじましく並んで、いかにもアジア系観光客に媚びた雰囲気の、
全く買い物をする気が起こらない不思議なモール、「B茄子4戸」とも雲泥の差です。


こういう場所が成功するかどうかは、美味しい店が入っていることだと思いますが、

話題の店、実力派の店、中華街からの出店など、実にバラエティを持たせています。



フードコートは「みんなのフードコート」と名付けられ、
椅子やテーブルもしっかりした木のものが使われています。
フードコートがまずいのは当たり前、というイメージを払拭するべく、
ここにはちゃんとした既存の人気店が出店しているように見えました。



フードコートのいいところは、家族で行ってもそれぞれが食べたいものを食べられること。
我が家は、ラーメン、鶏唐揚げ定食、そしてわたしは五目焼きそばを、
中華街から出店しているらしい中華料理店でオーダーしてみました。



お会計をした店員は、どうも中国人ネイティブのようです。
本場中華っぽく、そばは乾麺の五目焼きそば。
美味しそうだと思いません?

外食は食材が心配だからしない、という方もおられるかと思います。

もちろんわたしも、外食のときには極力店を選ぶことにしていますが、
フードコートの、しかも中華街出店の中華料理コーナー。
見かけは美味しそうでも、中身まで信用しているわけではありません。

しかし、こういうときに「中国野菜を使っているんじゃあ」などと疑いだしても

お食事がまずくなるだけなので、そういうことは一切考えません。
自宅の食材には神経質すぎるくらいこだわる生活を送っているので、
たまの外食で少々変なものを食べるくらい大丈夫です。(と思いたい)


■マーク・イズ 体験型映像 オービ



さて、わたしと息子が「モンベル」で寝袋を買っている間、TOは一人で、
ここにセガがやっている「体験型映像ゾーン」のチケットを買っていました。



オービといって、BBC制作の大画面迫力映像を鑑賞するのがメイン。
あとは「ヌーの群れに紛れ込んだような気がするゾーン」とか「空を飛んでいるようなゾーン」とか、
そういう映像による体感コーナーがいくつもあるという新型アミューズメント。



エントランス。



暗い室内に色々あります。
子供とくればきっと時間がつぶせるでしょう。

わたしたちは「空飛ぶ映像」だけを見て終わりました。
このゾーンの入場には2000円ほどの入場料が必要で、こういう小さなコーナーも
隈無く見なくては「元を取った」とは言えないのですが、 
わたしたちは朝から出ずっぱりで、この頃にはすでに電池が切れかけていたのでした。
 



待合ロビーで説明を受けたりして待っていると上映時間開始。
やっと座れる・・・・と、内心ほっとしながら中へ。


 









映像は確かに大画面で音響はソニック、時折潮の香り(のようなフレグランス)が流れ、
確かに今までにないタイプの映像体験ではありましたが、いかんせんたった20分。
上映時間が短い。

終わったときに皆「え?もう終わり?これからだと思ってたのに」という失望の表情を浮かべていました。

「一回行ったら二度と来ないよね」
「うん・・・・無料ならともかくね」

三人で6千円強。
自衛隊音楽隊の演奏を楽しみ、歴史を知るちょっとした知的興奮のおまけ付きで無料だった
この日前半の妙香寺でのイベントとどうしても比べてしまいます。

企業が外国の行事を刷り込もうとしたり、誰も関心のない外国の芸能(韓流とやら)をごり押ししたり、
つまり「金銭」が下心にあると、どんなものでもそれが透けて見え、
独特の胡散臭さが漂ってしまうということなのかもしれません。

それほど敏感な人間ばかりではないにしても、実際に面白くなければ、だれも最初から見向きもません。

マーク・イズは、色々と消費者動向を研究したうえで、工夫が随所に見られ、
しばらくは人を集めることが出来ると思いますが、この「体験エンターテイメント」から
人の足が遠のくのは、残念ながらそう先のことではないような気がしました。
 





 


吹奏楽発祥144年記念演奏会~吹奏楽発祥の地・横浜

2013-10-15 | 音楽

皆さま、連休はいかがお過ごしになりましたでしょうか。
我が家は最終日にあたる体育の日、三日分のスケジュールを一日に詰め込んで、
思いきり、というかやたら充実した日を過ごしました。

中でもメインイベントは、横浜市は中区、本牧のとある寺院で行われた

海上自衛隊横須賀音楽隊による吹奏楽発祥144年記念演奏会

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このイベントは年一回同じ場所で同じ時期に行われる文化行事で、
毎年陸海空自衛隊が持ち回り交代で演奏をしているようです。
今年は、我が(と勝手に身内認定するエリス中尉である)海上自衛隊から、
横須賀音楽隊が出陣、じゃなくて出演しており、この情報をいただいたわたしは
取るものも取り敢えず家族を連れて馳せ参じ、演奏を拝聴してきたというわけです。 



ところで、事情をご存じない方のために、まずどうしてこのお寺で自衛隊の演奏が行われたのか、
この日の演奏会そのものについてお話しする前にざっと説明しておきましょう。




■日本の吹奏楽は、横浜から始まった


日本の吹奏楽の起こりをひもとくと、それは1854年、ベリー来日に遡ります。
ペリー提督御一行様が最初に応接の場となった海岸の建物に向かうとき、
その進行にあわせてアメリカ海軍の軍楽隊が吹奏楽を奏でました。

これが「日本で最初に吹奏楽が演奏された瞬間」です。


その後、日本は鎖国を解き国を世界に向けて開きました。
その門戸のひとつ、横浜港が開港して三年後のことです。
この地に居留する外国人と、そして何より幕府を震撼させる事件、
生麦事件が起こります。(1862年)

居留地付近はそれでなくても、幕末に攘夷浪人が出没して、
外国人殺傷事件が起こる物騒な地域でした。
というわけで、この事件をきっかけに、英仏軍隊が居留民保護の名目で横浜に駐留するようになります。 

そこで、当然のように式典で活躍する各国軍楽隊の西洋音楽演奏を見るうちに、
我が国にもこのような音楽を導入すべきである、という風潮が生まれてきたのです。

一番最初にペリーの米軍軍楽隊の演奏をを見聞きした群衆は、きらびやかな、
しかしきりりとした制服に身を包んだ聞き慣れない音楽に驚き、しかしその響きを
「大変楽しんだ」と言われています。
新し物好きで、いいと思えば何でもすぐ取り入れたがる日本人はきっと、
目をお星様状態にせんばかりの勢いで、西洋音楽と軍楽隊の導入に動いたのでしょう。

そこにいたるには、あるひとつのきっかけがあったと言われています。


■サツマ・バンド


1869年の10月、薩摩藩から抜擢された30人の青年藩士が、
横浜は本牧にある妙香寺に集まります。

英国陸軍第十連隊第一大隊所属軍楽隊の指導者、
ジョージ・ウィリアム・フェントン(George Wiliam Fenton)

から吹奏楽を学ぶため、この寺で合宿を行ったのです。
これが、日本人が初めて「吹奏楽」を行った瞬間、つまり、
日本に吹奏楽が生まれた瞬間だったというわけです。



この30人の若い藩士たちは、わざわざ鹿児島から

「薩摩藩洋楽伝習生」

という名のもとに、洋楽を学ぶ最初の日本人としての使命を帯びて送り込まれたのです。
わざわざ送り込まれてきただけあって彼らは非常に優秀で、
教えられたことを吸い取り紙のように吸収し、すぐに初めての楽器演奏をこなしたばかりか、
楽譜の読み書きもできるようになったそうです。
この日本で最初の軍楽隊を取材したイギリスの新聞記者は、
彼らが

「容貌も優れていて、しかも利口そうだった」

ことにも言及しています。
この英字新聞「ザ・ファー・イースト」の記事のタイトルは

「サツマ・バンド」

でした。


それにしても、なぜ最初に選ばれたのが薩摩藩の藩士だったのでしょうか。

生麦事件のあと、それをきっかけに、薩摩藩とイギリスの間に戦争が起きます。
薩英戦争」です。

薩英戦争は、英語で「アングロ=サツマ・ウォー」といいます。
おおざっぱに言うと、ガチで戦ったあと、両者は講和交渉を通じて
非常に仲良くなってしまったってことらしいです。いい話ですね。


そんな交流の中、ある日鹿児島湾に停泊中のイギリス海軍軍艦に乗り込んだ
薩摩藩当主島津忠義、海軍軍楽隊の演奏を聴き、すっかり魅了されてしまいました。

そのときの島津忠義のカルチャーショックと西洋音楽に対する憧れが、
30人の、おそらく選りすぐりの若者たちによる「サツマ・バンド」という形となって実現し、
それがのちの海軍軍楽隊の礎となり、そして現在の自衛隊音楽隊の源泉ともなったのです。


冒頭写真は、妙香寺の境内にある、日本吹奏楽発祥の地の碑。

この文字の揮毫は島津忠寿、となっています。
薩摩藩当主にこういう人物はいないのですが、この名前で検索すると、
日本化学総合研究所の所属で、

「健常人における12種ビタミンの血中濃度」日本ビタミン学会

などという論文を書いている人物が出てきます。
どうやらこの化学者が島津家の末裔であり、ゆえにこの碑に揮毫したものと思われます。


■吹奏楽の歴史は軍楽隊から始まった

この日蓮宗の寺院は関東大震災で消失、昭和二年に失火によって消失、
だめ押しとして昭和20年5月の横浜大空襲によって消失、と、
もうサツマ・バンドの時代のものはおりん一個すら残っていないというくらい、
何度も消失と復興を繰り返してきたのですが、ここにおいて日本初の吹奏楽団が
最初の音を奏でたという出来事は永久にエポックメイキングとしてきざまれ、、その証として、
毎年ここで、同じ10月にその記念の演奏会が行われている、というわけです。


昔、このブログでも海軍軍楽隊の事始めと君が代について書いたとき、
日本の西洋音楽は「軍楽隊」として始まった、と書いたことがあります。
薩摩藩によって結成されたサツマ・バンドが軍楽隊であったからです。


そう、つまりここ妙香寺の記念演奏会に、必ず自衛隊音楽隊が奏楽するというのは、
その歴史を忠実に再現しているからなんですね。


 

 演奏会に先立って、神社境内では式典が行われました。
海上自衛隊横須賀音楽隊による国歌演奏に参列者が唱和、
そして、来賓挨拶に続き、



献花が行われました。
この献花が行われているテーブルの向こうには、冒頭画像の
「日本吹奏楽発祥の地の碑」があります。

フェントン、そしてサツマ・バンドはじめ、日本の吹奏楽の発展に
力を注いだ偉大な先人たちを顕彰し、その魂を慰めるための献花であるということです。



演奏会の模様と感想、そしてフェントンの「幻の君が代」については、
後半に譲ります。



映画「あゝ陸軍隼戦闘機隊」 その2

2013-10-14 | 映画

1枚500円で購入した、このDVDで限りなく楽しんでしまうエリス中尉です。

このパッケージには、こんな煽り文句があります。

「でっかい空で、でっかく死ぬぜ!

銀翼つらねた殺し屋が 

今ぞ決死の殴り込み!」

とほほ・・・・。
今となってはこういうのを見るとどきどきしてしまいますね。
しかし、当時の映画としてはこんなアオリは普通だったのね。

前回も言ったように、この映画、どちらかというと隊員の生き死にばかりに
ストーリーの焦点が当てられていて、ちっとも「殺し屋」のような風情ではないし、
殴り込みする様子も全く描かれていないわけなんですが、それもこれも
当時の集客にこれが「効果的」とされていた、ってことなんでしょう。
時代ってことですか。


さてそれでは「お約束」と「音楽」について触れつつ話をどんどん進めます。
今日は寄り道しないぞー!


♪・3 荒城の月

音楽と「お約束」は映画においてしばしばセットになっているものです。
この映画のサブキャラクターナンバーワンでもある、本郷功次郎演ずる安藤少尉。
戦線では多分進級しているので、安藤中尉にしておきましょうか。
この安藤中尉は、尺八の名人です。
中国でしんみりと荒城の月などを吹いたりします。

部下思いの加藤隊長、そんな安藤中尉に自分の知り合いの、琴の上手な女性、圭子を引き合わせます。

「今から駅までの道すがら、琴の音が聴こえたら門を叩いて合奏を申し込んでみい」
「それはどういうわけですか」
「わけもくそもない!」

隊長、よその家で別の人が琴を弾いている可能性を全く考慮していません。
こういう無茶な設定の脚本を書くのは誰だろうと思ったら、

案の定須崎勝彌氏でした。

せっかく琴と尺八のセッションで心が寄り添った二人ですが、
加藤部隊が最前線に出ることが決まったとき、安藤中尉は彼女に別れを告げます。

しかし、「あなた様の妻にしていただきたい・・・」と手紙に綴り、一心に琴を奏でる圭子。
その琴の糸がいきなり音を立てて切れます。

(フラグ・3)

案の定、それが安藤中尉の乗った隼が空戦に敗れ、命の糸が切れる瞬間であった。


♪・4 燃ゆる大空

一式戦闘機、愛称隼の運用は1941年に始まっています。
それまでは九七式(キ47)が採用されていましたが、陸軍はこれに限界を感じ、
新たな戦闘機を模索していました。

このときに、中島飛行機で設計の中心となったのが、後にロケット開発に大きな足跡を残した
糸川英夫技師であるというのは皆さんもご存知かと思います。
一式、というのは海軍の零式と同じ命名法で、紀元二六〇一年に制式となったからです。

陸軍が要求したのは、南方作戦で爆撃機の掩護と制空が可能で、航続距離の長い飛行機でした。 

この過程を、この映画では無理やり?次のようにねじ込んできています。

陸軍航空本部の会議で、幹部は隼の採用に難色をしめします。
模型を手にしながら、しばしば空中分解を起こすことを理由をあげ、
隼はやめて、九七戦闘機を改良して何とか使おうということになりかけます。

そこになぜか一介の少佐である加藤が出席していて、

「待ってください!改良を加えれば九七に変わる主力戦闘機になります。
海軍ではすでに優秀な零式戦闘機が採用されています。
いましばらく隼を見捨てないでください。お願いします!」

と嘆願します。 
それにもかかわらず

「性能の不足は気力でカバーせよ」

と、無茶を言う上層部。
危うく採決で隼がスクラップにされるというそのとき、
なぜか一介の空挺隊部隊長なのに航空部の会議に出ていた三宅少佐(宇津井健)が、

「隼に掩護してもらわなくては落下傘部隊は解散ですな」

などと脅迫をして、隼の採用を決めさせるというわけです。

うーん、そうだったのかー。
ってそうだったはずないだろ。
こんな無茶苦茶な脚本を書くのは誰かと思ったら案の定須崎勝彌
氏でした。


とにかく、加藤、三宅両少佐のおかげで隼は制式採用となり、
加藤戦闘隊は意気揚々と隼に乗って編隊を組むのでした。

そこに流れる「燃ゆる大空」

  1. 燃ゆる大空  気流だ 雲だ
    騰がるぞ翔(かけ)るぞ  迅風(はやて)の如く
    爆音正しく 高度を持して
    輝くつばさよ 光華(ひかり)と競え
    航空日本  空征く我等


いやー、このシーンにぴったり!と思って聴いていたんですが、実はこの曲、
調べてみると1940年に公開された同名の映画の主題歌なんですよ。 
で、その映画の内容というのが、

九七式戦闘機乗りの話

だというね・・・・。

九七式じゃだめだ!ってことでやっとこさ苦労して(この映画的には)隼を採用し、
ようやく念願かなってその隼で飛ぶことができたというのに、そのBGMにこれを使うとは。
この映画、なかなか単純に見えてひねりが効いてるというか、奥が深いわ。

え?単に音楽担当者が知らなかっただけじゃないかって?


そして、

「日本は連合国に対し宣戦布告。
海軍の真珠湾攻撃に呼応し、陸軍もシンガポールを目指して破竹の進撃を続けた。
隼戦闘隊もようやく出動。
連日マレーの空に羽ばたいた。
この日、クアラルンプール上空において、イギリス戦闘機バッファローとの空戦に優位を」

とさらっと説明して「加藤戦闘機隊のすごさ」を説明。
なんでもかんでもト書き説明ですませるんじゃねー(笑)

それにしても、この映画の特撮なんですが、これがひどい。
このころの技術で、精一杯やっているとは思いますが、
なにしろカラー映像が災いして、どのシーンも飛行機が模型そのものにしか見えません。



・・・・・こんなですから。

どのシーンもオモチャ丸出しなので、せっかくの空戦シーンもそれが気になってしまって・・・。
ちなみにこのパイロットの首は90度自動で回転します。すごいでしょ。


♪・5 空の神兵



加藤戦闘隊がパレンバンの空挺作戦の爆撃機を掩護し、この際隼は
15機のハリケーンと交戦し、空挺隊を完全に守ったことが、
作戦の成功に大きく寄与したというのはこの映画でも描かれています。

それはいいのですが、なぜか作戦を先延ばしにしようとする山下奉文少将に、

「あっちがマレーの虎ならこっちはマレーのハヤブサだ!」

と啖呵を切って、一戦隊長の分際で作戦の即時遂行をねじ込みに行く加藤少佐。
その時の進言も凄いですよ。

「パレンバンの空挺作戦の成功のためにはわたしたちの方でも
若干の犠牲も覚悟の上です!」
「若干の犠牲というと?」
「全滅も覚悟の上です!」

ってそれ、若干じゃないだろっていう。



とにかく、この映画によると、パレンバン空挺作戦はじめ、蘭印作戦が
大本営の予想より三か月も早く進んだのは、皆加藤少佐のおかげなのだそうです。

しかし待ってほしい(笑)

なんでここに山下奉文が出てくるのだろうか。

蘭印作戦の指揮官に、確か今村均中将っちゅうのがいたと思うんですが、
いつのまに今村中将が山下に指揮官交代してるのかしら。
山下奉文の指揮した「マレー作戦」と、「蘭印作戦」を脚本家は混同していないか?

もしかして「マレーの虎」という言葉を使うため?・・・・・まさかね?



まあいいや。(よくないけど)次に進みます。
そして、いよいよパレンバンに空挺部隊が降下するときがやってきます。



やたら陽気な空挺部隊隊長、三宅少佐。
どうもこの映画によると空挺隊の一番偉い人みたいなのですが、
自分も挺進作戦に参加しております。
指揮官率先ってやつでしょうか。

「見ろ!隼がガッチリ守ってくれているぞ!」

そして、

「降下用意。よーし、行けええ!」

そこで鳴り響く「空の神兵」。
歌が終わるなり、パレンバン作戦はあっさり成功したことになっています。



そして、その祝賀会の代わりに加藤隊長は、犠牲者の追悼式を行います。
この追悼式というのがすごいんだ。

全員が聴いている中、戦死した者にに内地から届いた手紙を開封朗読するという、
いくら検閲御免の戦時中の軍隊でも、そこまでするかのプライバシーガン無視。



涙ながらに母から戦死者に届いた手紙を読み上げる露口茂。 



弟から届いた戦死者への手紙を読み上げる峰岸徹。
涙ながらに、と言いたいところですが、峰岸、演技が下手で、
泣いているのに涙が一滴も出ておりません。

そして、極めつけは、加藤隊長自らが読み上げる、安藤大尉にあてた
恋人圭子さんのラブレター。

いや・・・・・それ、やめてあげて・・・・。

「お別れ以来幾たびかペンを取りながら、
あなた様の決別こそより強い愛の姿であるとのお言葉に
いつも崩れ折れてしまうわたしでございました。
でも、圭子は、今勇気を奮ってお手紙を差し上げます。
お言葉を日夜かみしめ、わたしはやっと気づいたのでございます。
決別、それがもし永遠の別れなら、愛の姿も永遠に強く美しいものです。
そこに思いをいたしますとき、圭子はあなた様の妻と呼ばれたく、
激しい戦場にありましても生きることと戦うことは
二つながらありえますことと存じますゆえ、

生と死の短答に立たれます時、あえて生の道をお選びくださいますよう、
圭子、心からの・・・」

これを全員に聞かせるんですよ?
死んだ安藤大尉はともかく、圭子さんはこんな意味不明な手紙、読み上げられたくないと思うがどうか。

しかも、加藤隊長、途中で声が詰まって読めなくなります。
部下に続きを読ませるのですが、その部下も声が詰まって読めなくなります。

加藤「読まんか~!」
部下「読めません~!」

いや、そうまでして読まなくてもいいと思うの。本当に。

こんな無茶な追悼式を考える脚本家は誰かと思えば須崎(略)


♪・6 加藤隼戦闘隊の歌


この歌は、決して最初から加藤健夫を讃えて作られたわけではなく、もともとは
丸田部隊(飛行64戦隊第1中隊。隊長丸太中尉)のために作られたのだそうです。
全隊員の要望で、飛行64戦隊の隊歌となったのが、映画「加藤隼戦闘隊」に使われ、
この歌そのものに「加藤」の名がついたというわけです。

この丸田中尉にとっては少し不満の残るところだったのではないでしょうか。
なぜなら、隊員から公募したいくつかの歌詞を合作し、それに合う歌をということで
南支部方面軍楽隊隊長に作曲依頼したのは、ほかならぬ丸田中尉だったからです。

この曲がプロの手によるものだということがよくわかるのが、
まるでロンド形式の中間部のような「緩徐部分」を持っていることです。
この曲はジャスラックの管理物らしいのでここでは書けませんが、
(この曲で徴収したお金を、JASRACはいったい誰に払っているのだろう)
この部分は、作った本人に言わせると、

「悲しき部隊の犠牲者を偲ぶ思いを込めた部分」

なのだそうです。

この歌は、映画を通して三回出てきます。

一度目は、隼戦闘機隊が意気揚々とマレーの空を飛ぶシーン。
二度目は、安藤中隊長が戦死した夜、加藤隊長が一人口ずさむシーン。
三度目は、40歳になり、中佐となった加藤に、

「もう飛ぶのはやめて地上で指揮を執って欲しい」

と頼みにくる部下たち。

「なんだ、おれを老人扱いするのか」

と笑いつつ、そんなみんなにこの歌を所望するシーン。
隊長を中心に円陣を組み、隊員はこの歌を朗々と歌うのでした。

(フラグ・その4)

加藤は円陣の中心に立って、そんなみんなを自慢のカメラに収めます。

(フラグ・その5)

ちょうどその時、敵機来襲の報が。
飛び立っていく加藤部隊の飛行機を見送りながら、
負傷していた部下が大声を張り上げます。

「ただ今原隊に復帰いたしました!
明日から列機として隊長のお供をさせていただきます!」

(大フラグその6)

わたし「ああ、フラグ立ちまくってるよー」
TO「こりゃーもう死ぬしかありませんな」


案の定、このあと加藤建夫は、攻撃中に後上方銃座の銃撃を受けて乗機が被弾、
帰還が不可能と悟った加藤は海面に突っ込むようにして自爆、戦死
した。

その日ベンガル湾は南西の微風にそよぎ、波は緩やかにうねっていた。



 


 

 


映画「あゝ陸軍隼戦闘隊」

2013-10-13 | 映画

ある週末の夜、珍しくTOが映画でも観ようといいだしました。

「なんかお奨めある?」
「最近見たので面白かったのは『ライト・スタッフ』かな。
観るならまたitunesで買わないといけないけど」 
「なんか今すぐに観られるものある?」
「あるよ。わたしが観なくちゃいけないのもたくさん溜まってて・・・・。
『ハワイ・マレー沖海戦』はどう?
「いいです」
「じゃ、グレゴリー・ペックの『コレヒドール戦記』は?」
「あのさ、もう少しなんか明るいのないの」
「加藤隼戦闘隊の映画。少しだけだけど明るいと思う。カラーだし」
(あっさり)「あ、それにしよう」
「な、なんだってー?」
「カラオケで一緒に行くオジサンたちからしょっちゅう歌は聴かされるけど、
何だか全くわかってなかったから、一度観ておきたかったの」

そういう理由か。勤め人も大変ね。

というわけで、二人で突っ込み入れまくりながら(これが正しい戦争映画の見方)
鑑賞終了。

「・・・・・・・・・どうでした」
「って言うか・・・面白いのこれ」
「んー、いろんな軍歌が聴けてよかった」
「そうだねー(棒)」

もちろんわたしもTOも観るのは初めてだったんですが、
この映画、少し先の展開が不思議なくらい全てわかってしまう、という、

「伏線の読みやすいお約束満載映画」

で、普通の人なら見終わってしばらくしたらもう筋を忘れてしまいかねないくらい、
「あるある」だらけの映画でした。

戦時中(昭和19年)公開された藤田進主演の「加藤隼戦闘隊」が、
どちらかというと名作扱いされているのに対し、こちらが全く無名なわけが
なんとなく観終わった瞬間わかったような・・・・。

どれくらい無名かというと、ウィキペディアすらないんですからね。


しかし、どんな映画でも、むしろ突っ込みどころの多ければ多いほど、
このブログ的には「いいネタ」。
エリス中尉、さっそく絵まで描いて(しかもノリノリで)エントリを制作してしまうのであった。


じゃあ、今日明日はですね。

我が家の大多数が一致した意見を見たところでもある、

非常に多かった「伏線」そして「軍歌」を中心にこの映画を語っていこうと思います。

文中青字は、わたしとTOの「ツッコミ」です。




この映画が制作されたのは1969年。
翌年には大阪で万国博覧会が開かれ、日本がこれから
経済発展への道をひた走って行こうとするまさにそのときといえましょう。

このころの映画は、最初にバーンとタイトルが出て、そのあとに
主題歌に重ねて登場人物を一通りクレジットするというやり方が定番でした。

主演の名前が出た後に、重要な脇役の名前が出たところですが、
このシーンは、この16条旭日旗(軍艦旗ではない)を、
なんと片手で支えた陸軍軍人のアップから始まります。

よく見たら旗を支える右手が震えているのですが、陸軍ではこのように
捧げ筒の儀式の時に片手で旭日旗を捧げ持つのが慣例だったのでしょうか。
ここで流れるのが

♪・1 歩兵の本領

いや、これ航空隊の話でしょ?
と思わずタイトルを見直してしまうのですが、まるで主題歌のように扱われています。
いわゆる「零戦ブーム」で、航空隊というと海軍、ということになっていたので、
ここはいっちょう陸軍であることを思いっきり強調しようと、歩兵連隊のシーンから入ったのでしょうか。
そういえばタイトルにはわざわざ

「あゝ陸軍」

とついています。

そして、映画は、その歩兵連隊から

「どうしても航空に行きたい」

と熱望し、加藤隊長の後を追ってやってくる木原少尉を
上官が説得するシーンから始まるのです。

連隊旗手である君には歩兵将校としての輝かしい未来が約束されている。
それをむざむざ捨てることはない」

おお、冒頭シーンで旗を持っていたのは木原少尉でしたか。

そして、旗手というのは「出世頭」が務めるものだったんですね。
てっきり、あんな大変そうな重労働は下っ端の仕事だと思ってました。
失礼いたしました。

この木原少尉は、父(藤田進)も軍人であったというエリート。
そのエリートが、歩兵から航空に行くことを志望します。
その理由というのも、加藤健夫(佐藤充)教官を慕って後を追ってきたというもの。

「俺の後を追ってきたのか。貴様も馬鹿だな」
「わたしが馬鹿だというのなら教官殿も馬鹿であります!」

ちょ・・・・。

ここは陸軍で海軍ではないんですから。
公の場で上官を馬鹿呼ばわりする陸軍軍人がありますか。
いやいくらリベラルな海軍でもそれはまずいよ。
だいたい、木原中尉が加藤教官のどういうところが「馬鹿」だと言っているのか、
観ているものには全くわからないという・・・・・・・。

この「わけのわからなさ」は、その名を見れば膝を叩いて納得してしまう、
脚本家須崎勝彌氏独特の世界でもあります。

そういえば、須崎氏は海軍航空隊の元少尉。(学徒出陣)
陸軍のことを描くには少しこのあたりの考証が甘かったか。


ところでわたしは今のところ、加藤健夫という人のことについては、
フライングタイガース関係と、それから藤田主演の加藤隼映画を観ただけなので、
実際にどんな人生を歩んだのか知らず、さらにこの映画が
どの程度加藤中佐のことを本当に描いているのかまったくわかりません。

ただでさえ、全体的に「映画的な」ストーリーだけを抽出している感があるのですが、
取りあえず、上官がいきなり料亭に呼び出したと思ったらそれが見合いの席で、

「自分いつ死ぬかわからない飛行機乗りの身ですので」

と相手に言って断ろうとすると、相手のお嬢さんはそれにもめげず

「それだけに毎日毎日を真剣に生きていらっしゃるのですわ」

などとガンガン自分を売り込んでくるので負けて結婚してしまった、というのは創作でしょう。

 

藤村志保演じる加藤健夫の妻。
加藤、本人を目の前に、見合いを仕組んだ上官に向かって

「いやあ、空中戦をやっているようです。
こちらがいくら撒いても敵さん、ぴたりと付けてきますので」

などと失礼なことを言います。
昔のお見合いで相手が断っているのに「喰らいつく」女性なんていたんですかね。 

と思ったら、脚本は案の定「連合艦隊」の須崎勝彌氏でした。

かねがね言っているように、この人の脚本は、女性の描き方、
女性とのかかわり方に何とも言えない独特の「ヘンさ」があります。
ちなみに一番ヘンだと思ったのが「大空のサムライ」
「太平洋奇跡の作戦 キスカ」は非常に評価できるんだが・・・・と思ったら、
よく考えたらこの映画には女の人が一人も出てこないんだった(笑)
まあつまり、そういうことです。


さて、見合いのあと、場面はいきなり、芸者のいる料亭。
加藤の「一番弟子」である中華民国からの留学生、
趙英俊中尉(藤巻潤)との酒席に、狼藉を働くやくざ者。

藤巻潤は、中国人を演じるために、わざとところどころなまっています。
ただし中国語は一切しゃべりません(笑)
驚いたときに一言「アイヤー」というくらいのサービスがあってもいいと思うのですが。

それはともかく、芸者を探して部屋に乱入してきたやくざ者が発した

「チャンコロ」

という言葉に顔色を変える趙中尉。
それに怒り狂った加藤は相手を叩きのめし、謹慎処分になってしまいます。
謹慎中の加藤の家にやってきた趙は、中華民国軍から呼び戻されたため、
日本を去ることを加藤に告げます。

急遽催された加藤家での「お別れすき焼きディナー」席上、趙中尉は
加藤に教えてもらった

「赤とんぼ」

を朗々と歌うのでした・・・・・。(フラグその1)


わたし「ああ・・・こんなのを歌ったらね・・・」
TO「この後死ぬな」

そしてその言葉通り、それからすぐ北支事変が始まり、
中華民国軍の飛行隊を率いる
趙少佐は、日本軍と戦う身に。
ある日ついに趙は加藤の部下を撃墜してしまう。

「隊長、仕返しをしてください!」と涙を流す部下。

加藤は、趙の飛行機と空中戦を行い、これを撃墜する。 (冒頭図)



♪・2 勝利を称える歌(ヘンデル)



この映画の不思議なところは、オリジナル音楽がほとんどないのにもかかわらず、
「音楽 大森盛太郎」と名前がクレジットされていることです。
まあ、「作曲した」とはどこにも書いていないので、おもな音楽を「選曲した」
という意味の「音楽」ではないかと思われますが、このBGMが、
加藤部隊が敵戦闘機を多数殲滅したことに対する感状授与式のシーンに流れたとき、
思わず「ここくらいオリジナルを作曲せんか!」と突っ込んでしまいました。

海軍兵学校の卒業式じゃないんだからさ。


この映画は、加藤隼戦闘隊がどう戦ったかというよりも、
隊員がどう死んだかだけが問題で、肝心の加藤隊長も何かにつけて

「敵を百機撃墜するより、一人の部下を失う方が辛い」

とつぶやいてみたり、
休暇の際に実家に帰らず部下の家を回って戦死報告したり、
「慰霊祭」を催して、隊員の手紙を朗読して公然と曝したり(笑)、

そういった部下の生死に心を痛める人情味のある隊長、
あるいは、自らの生き死にに対しては恬淡とした覚悟の持ち主として描かれ、
つまりどうしてこの加藤健夫という人物が死後「軍神」とまで呼ばれたのか、
どうしてこの戦闘隊がこれほど有名になったのかについてはまったく描かれません。


ストーリーはすべて一人ずつ戦死していく登場人物とその伏線からなっており、
もちろん加藤部隊が実際に戦ったフライングタイガースについては全く触れません。
これは、なにも主人公が加藤健夫の映画である必要はなかったのではないか?
と思われるくらい、加藤部隊の「戦闘」についてはおざなりに触れるだけ。

1969年というと、「大日本帝国」(1982)のようなあからさまな天皇糾弾映画も
まだ登場していず、どちらかというと当事者たちがまだ多数が健在で、
戦った者たちの「意気」とか「覚悟」を前面に押し出す調子の戦争映画がまだ存在していました。

同じ須崎勝彌の脚本によるものでも、「イー57降伏せず」などとは、この映画は
戦争に対する姿勢も描写も違っていて、ずいぶん「腰の引けた」感があります。
しかしいずれにしても、こういった調子が「主流」になっていき、こういう積み重ねの結果がのちの

「男たちの大和」

みたいな戦争映画に集約されるというわけです。



戦争映画と言えば「永遠の0」が映画化されますね。
わたくしこの小説は「小説」というより

「戦争を知らない初心者への戦史・戦事ガイドブック(物語付き)」

として高く評価しているのですが(笑)、 これが映画化ということになると、
物語部分がより一層重点的に描かれることになるわけで、つまり、
より一層「男たちの大和」臭は避けられないのではないかと思っています。

もっとも、だからこそ「泣ける」ということを以て「いい映画」だと評価する人たちには
きっと評判がいい映画となることが想像されますが。

文章の映像化というのは一方では人の感情により一層強く訴えるところもあり、
逆に外すととてつもなく「寒い」ものとなるわけですが、どちらかというと映画は
後者の例を多く見てきたので、実のところ「泣ける」かどうかについても
あまり期待はできないとわたくし思っております。

ただ、最近実感したのですが、漫画化って、こういう点ものすごいパワーを持ちますよね。
もちろんうまい漫画家の手によるものに限りますが。
一つ白状しておくと、わたくしつい最近「永遠の0」の漫画版を読み、
最終巻のヤクザの元搭乗員の話で、ダダ泣きしてしまいました。

原作の小説よりずっと破壊力がありましたです。はい。



この映画には、犬好きならたまらないシーンがあります。

軍人の家に育った将来を嘱望されるエリートである木原少尉は、
なんと当時においてシェパードを飼っていて、しかもこの餌代のかかりそうな大型犬を
中国の前線に連れてきております。
またこの「天坊」というシェパードが可愛いんだ。

御主人の木原少尉が帰投してくると飛行機のところまで駆けて行き、
翼にひょいと前足を掛けてお出迎え。

降りてきた木原少尉役の俳優さんは、どうも本当の犬好きらしく、
この天坊が顔をぺろぺろなめるのを心から歓迎するばかりか、
自分が積極的に犬の顔をぺろぺろなめて、逆に犬がドン引きしてます。(冒頭絵)

もしかしたら、このシェパード、木原少尉役の平泉征が「持ち込んだ」、
本当の飼い犬なんじゃないかというくらい、二人?の息はぴったり。

(フラグ・その2)

わたし「犬を飼っている登場人物は・・・・」
TO「必ず死ぬんだよ」

そして案の定、ある日の戦闘から木原少尉は帰らなかった。


誰も乗っていない飛行機の翼に脚をかけ、上を覗き込み、
翼の下をくぐって隣の飛行機の翼にまた前足を・・・・・
尻尾を振りながらそれを繰り返す天坊であった。

このシェパードの演技は、見ていて涙が出るほどです。
もしかしたら、主演の佐藤さんや、木原少尉役の俳優より、
ずっとこの犬の演技の方が達者ではないかと思われました。

そして、そののち、彼は何も食べなくなり、痩せ衰えて、
主人の後を追うように死んだのであった・・・・・。


合掌・・・・・・・というところで、案の定長くなってしまったので、後半に続きます。




 


 


女性パイロット列伝~ベッシ―・コールマン「ブラック・ウィングス」

2013-10-12 | 飛行家列伝

Elisabeth"Bessie" Coleman

ビリー・ホリディの名曲

ストレンジ・フルーツ」(奇妙な果実)

をご存知でしょうか。

 

Southern trees bear strange fruit 

(南部の木には奇妙な果実がなる)

Blood on the leaves and blood at the root 

(葉には血が、根にも血を滴たらせ)

Black bodies swinging in the southern breeze 

(南部の風に揺らいでいる黒い死体)

Strange fruit hanging from the poplar trees. 

(ポプラの木に吊るされている奇妙な果実)



この詩が書かれたのは1930年。
南部で強姦の疑いをかけられた黒人青年が二人、
怒り狂った民衆に警察から連れ出され、

リンチを受けて木につるされている衝撃的な写真を見て
ショックを受けたユダヤ人の教師が書き上げた「告発詞」です。

このころ、まだアメリカ南部では白人が黒人をリンチするという事件が相次いでおり、
またKKK団の団員が州知事になったり、あるいは過激な行動に走るなどして、
「白人至上主義」が暗黙の支持を受けていたころでもありました。

ベッシー・コールマンは、そのような世相の中、
アフリカ系アメリカ人女性として初めて飛行機で空を飛び、
アフリカ系の人種としては初めて国際免許を取りました。


社会的に認められているどころか、
迫害を受けていたといってもいいこの時代、

アフリカ系の女性がどうやって当時最先端だった飛行機で
空を飛ぶことができたのでしょうか。

たとえ白人でも、女性はそのような道を絶たれているのが普通のこの時代に・・。



ベッシー、本名エリザベス・コールマンは、
1892年、アメリカ南部のテキサス州アトランタに生まれました。


アトランタというと、あの「風と共に去りぬ」の舞台です。
マーガレット・ミッチェルのあの小説によると、南部の奴隷制度は
ときとして黒人奴隷たちを家族かそれ以上の存在として愛していた、
という風に描かれていますが、KKK団が結成された1900年初頭は
冒頭のような白人によるリンチが多発していたのも事実です。


しかもベッシーの父親にはチェロキーインディアンの血が流れていました。

23歳になった彼女は、理髪店でネイリストとして働いていましたが、
ある日第一次世界大戦に参戦し帰国したパイロットの客から
飛行機の話を聞きます。

彼の話にすっかり飛行機への憧れを掻き立てられた彼女ですが、
残念ながら
ただでさえ人種偏見の強いテキサス、
彼女には飛行学校の入学許可さえおりませんでした。


普通の女性ならここであきらめてしまうところですが、
彼女はあきらめなかったのです。


アフリカ系アメリカ人の読者のための新聞、
シカゴ・ディフェンダー新聞の創設者であった
ロバート・S・アボットのすすめにより、またこの会社の支援を受けて、
彼女は海外に留学して
そこで飛行免許を取ることにします。

シカゴにある語学学校ベルリッツ(このころからあったのですね)
でフランス語を学び、
パリにわたり、ニューポール82型の免許を取得します。

民族性別関係なく、アメリカ人が国外の飛行免許を取ったのは、
これが最初のことでした。


ベッシーの航空免許

彼女はスキルを磨くために、パリ郊外で
フランスのエースパイロットから二か月の特訓を受けました。

ニューヨークに 彼女が帰ってきたときには
メディアはセンセーショナルにそれを報じたといいます。


帰国後、さっそく
民間パイロットとして生計を立てるために
スタント飛行や地方巡業を始めますが、彼女はすぐに、
この競争の激しい世界で成功するためには、
より高度な技術や広範なレパートリーが必要であると実感することになります。


しかしながら、1922年当時のアメリカでは、黒人の女性を
喜んで教えようという飛行教師を見つけることすら

出来なかったため、彼女は再びフランスにわたり研鑽を積むことを決心します。
そしてその際、フランスだけでなくオランダに渡る計画を立てました。

世界でもっとも著名な航空機設計者の一人、
アンソニー・フォッカー に会うためです。


しかし、この行動力、向上心。
当時の有色系アメリカ人で、ここまで世間の偏見をはねのけたうえで
自分のやりたいことに向かって突き進んだ女性がいたでしょうか。

もちろん、だからこそ彼女は歴史に名を刻むことになったのですが。

オランダではフォッカー社のチーフ・パイロットからさらに追加の指導を受け、
彼女は自信と熱意をもってアメリカに帰国しました。
帰国後のアメリカメディアと世間は、以前より一層彼女を持てはやし、
重要なイベントはもちろん、メディアののインタビューを受け、
白人、黒人どちらの側からも
カーチス”JN-4”を駆る
「クィーン・ベス」は賞賛されることになります。



ベッシーは、第一次世界大戦に参戦したアフリカ系ヴェテランのために、
ロングアイランドでエアショーを開催。
この時のスポンサーはもちろん「シカゴ・ディフェンダー」でした。
ショウにはほかに8名のエースや、黒い落下傘で降下展示をした、
やはりアフリカ系の
ユベール・ジュリアンなどが出演し、
観衆の喝采を浴びたといいます。


人気の出た彼女には映画へ出演のオファーも来ました。
「光と影」という映画で、アフリカ系企業の出資によるものでした。
彼女はそれが自分のキャリアと、経営していた飛行学校の宣伝のために
一旦は引き受けますが、

「彼女がボロボロの服を着て背中に荷物を背負い、杖をついて現れる」

という予定された最初のシーンを知った瞬間、出演を拒否しました。

なぜなら彼女は飛行家として、時流に対し、
便乗することを良しとするオポチュニストでしたが、

自分の属する民族問題に対しては
決してオポチュニスト(日和見)でいられなかったからです。

そしてほとんどの白人が持っているほとんどの黒人への
軽蔑的なイメージを
踏襲する一助を担うことを良しとしなかったのでした。


しかし、飛行家としての彼女には厳然たる人種差別の壁が立ち塞がっていました。
ここで何度かアメリカ航空界の黎明期における女流飛行家を語ってくる中で、
彼女たちの飛行キャリアの証明でもある
「パウダーパフ・ダービー」に何度も触れましたが、

この「パウダー・パフ」の出場者の一覧を見てください。

THE FIRST WOMAN'S NATIONAL AIR DERBY

当然ですが、全員が白人女性です。
これが当時のアメリカだったのです。

いくら変わった経歴で多少世間の耳目を集めたところでそれは
「黒人のくせに頑張っている」程度の関心であり、
いざとなると有色人種は
「飛行家」のうちには入れてもらえなかった、
ということでもあるのです。



彼女はその現状をを少しでも「ブレイクダウン」するために、
黒人のパイロットを養成することのできる専門学校の創設を決意しました。

しかし、残念ながらそれを成し遂げるほどの時間は
彼女には残されていませんでした。



1926年4月30日。

彼女は購入したばかりのカーチスJN-4
ショウのためジャクソンビルに向かっていました。

ジェニーという名のその飛行機で彼女が飛ぶことを、
本人はもちろんのこと、
もはやだれも危険であるなどとは
夢にも思わなくなっていました。


次の日のショウでのパラシュート降下を予定していたため、
彼女はそのときシートベルトを外し、コクピットから地形を確認するために
大きく身を乗り出して地上を確認していたと思われます。

次の瞬間、10分間もの間飛行機は謎のスピンを起こし、
ベッシーは610メートルの高度で飛行機から振り落とされ、
地面に墜落して即死しました。


同乗していたナビゲーターのウィリアム・ウィルズは
機を立て直そうとしましたが、
コントロールを失った「ジェニー」は
地面に激突し焼失。

ウィルズも即死でした。

後から機体を調べたところ、エンジン修理に使うレンチが
ギアボックスに滑り込んでいて、
中で詰まっていたことが判明しました。


ベッシー・コールマン、34歳の早すぎる死でした。


アフリカ系アメリカ人のための飛行学校を創設するという彼女の希望は、
彼女の死によって潰えたということになりますが、彼女の死後、

「ベッシー・コールマン・エアログループ」

が創設され、ウィリアム・パウエルがプロモーターとして、
アフリカ系の才能開発に当たりました。

1931年、これはまさに「ストレンジ・フルーツ」のあのリンチ事件の次の年ですが、
このグループの主催によって、シカゴでは、
すべて黒人パイロットによるエアショウが行われ、
15000人もの観客を集めています。

しかしその後、このグループもまた大恐慌の影響を逃れることはできず
閉鎖されました。




とにかく彼女のなした先駆者としての業績が
後に続くアフリカ系の若者に希望を与えたことは間違いないことなのです。

エアログループのプロモーターを買って出たウィリアム・パウエル・Jr.は、
アフリカ系軍人であり作家でもあったのですが、
小説「ブラック・ウイングス」をベッシーに捧げ、
その中で

「我々は人種の壁よりさらに厄介なことを克服しなければならない。
それは自分たちの心の中にこそ存在する障壁を克服することすら、
あえて夢にしてしまうことだ」


と語っています。
パウエル・Jr.はベッシーと並び称されるアフリカ系パイロットの先駆者の一人ですが、
第一次世界大戦で従事させられていたガス取扱いの任務が原因で病死しています。






そして時は流れて2005年。

のちのアメリカ史上初のアフリカ系大統領、
バラク・オバマが上院議員に就任していたこの年、

U.S 
コーストガードに若いアフリカ系の女性が
パイロットとして採用されました。


ラ・シャンダ・ホームズ(La'Shanda Holmes)20歳。

孤児院で成長した彼女は逆境の中優秀な学業成績を収めていました。
そんな彼女の人生を変えたのが「チアー・デイ」にあった
沿岸警備のリクルートコーナーです。


基礎知識に始まりトレーニングとそれに次ぐスクリーニングを経て、
彼女は
回転翼操縦の資格を得、
MH-65Cドルフィンのパイロットとなりました。


アフリカ系の女性がU.Sコーストガードのパイロットになったのは
これが初めてのことだそうです。




 

 


オークランド航空博物館~タスキーギ・エアメン・ルーム

2013-10-11 | 航空機

決して日本の基準から見ると「設備が整っている」とは言いがたい、
ここオークランド航空博物館ですが、決して手を抜いている訳ではなく、
主にボランティアの助けと、一人あたり15ドルの入館料で、
出来るだけ展示の充実を図っている様子がよくわかります。

展示室の隣にはスタッフの作業室があるのですが、ここで、
各種作業や小さいものは塗装などもしているようでした。

そして、前回、「ドゥーリトル・ルーム」でもお話ししたように、
いくつかある小さい部屋にテーマごとの展示がされ、
それなりに航空史をわかりやすく学ぶことの出来るような配慮があります。

そして、やはりボランティアの解説係がどうも詰めているようでした。

ようでした、というのは、わたしが一人で殆ど人気のない館内に入り、
やっと出てきた料金徴収のおじさんに入館料を払い、順に展示を見ながら歩き
20分ほど経ったとき、話かけてきた比較的若い黒人の男性が、

「ボランティアです」

と言ったからなのですが、後から考えると、この男性は、料金を払ったおじさんが
わたしが入ってきたので、よかれと思って説明の人を呼び寄せてくれたのかもしれません。

呼び寄せてくれた、というのは、彼が「私はこの近くに住んでいて」と言っていたので、
後からそう思ったのですが。

おじさんの好意は大変ありがたかったのですが、残念ながらエリス中尉、
そこがたとえ日本の資料館であったとしても、いちいちマンツーマンで説明を受けるより、
じっくり説明を読みながらいろいろ納得したいタイプ。
話を聴いていると、目の前にあるものの中から自分の興味となるものをフォーカスするとか、
そういう「好き勝手」もできないのが単に窮屈なんですね。


しかも、ここでは当然説明は英語。

ただでさえ、ネイティブにもバイリンガルにもほど遠く、
いちいち頭の中で通訳しながら英語をしゃべるレベルの人が、
博物館の資料説明を英語で聴いても、労多くして知識残らずは火を見るより明らか。

というわけで、懸命に話しかけてくる彼に、

「すみません、一人で回りたいんです。お願いだからリーブミーアローン」

な電波を精一杯送って、ついにあきらめた彼は

「じゃ・・・・・ハバナイスデー」

と去っていきました。
心の中でご厚意に感謝しつつ、すまなさで恐縮していたエリス中尉でございます。





第15航空隊のモチーフが木彫りされたもの。
P-3が配備された対潜哨戒部隊ですね。



この力作?は、結構な大きさの航空母艦で、USSキャボットです。

どうしてタスキーギルームにあるのかはわかりません。
わりとこのあたりがいいかげんです。
というか、他に置くスペースがななかったのね。



キャボットのコーナーにあったコルセアの模型。



雑は雑なりにいろいろ細部が凝っています。
着艦したものの、被弾して負傷したパイロットを救急隊員が搬送しているの図。
ちゃんとカメラマンがいて一部始終を記録しているのが、リアルです。



砲座は臨戦態勢。
しかしその割に艦載機が甲板に満載。
これはどういう状況だろうか。

キャボットは、おもに太平洋で日本軍と戦闘をしていました。
甲板から離艦した艦載機は、日本軍の基地を攻撃しています。
あの「マリアナ海の七面鳥撃ち」にも参加し、第二次世界大戦を生き残り、
現在はニューオーリンズで博物館展示されているそうです。

しかしつくづくアメリカって、沈んだフネに冷たいというか、
「生き残ったら讃えるけど、やられてしまったフネにはろくに触れようともしない」。
この傾向に今回の滞米で気づいてしまったエリス中尉であった。



さて、ちょうど彼が話しかけてきたときにわたしはこの「タスキーギ・エアメン」コーナーにいて、
彼と話している間の展示については懸念通りろくに集中して写真が撮れなかったのですが、
とりあえず今日はそのコーナーについてお話しします。


この「黒人ばかりの飛行隊」、タスキーギ・エアメンで
もっとも最高位に出世した、

ベンジャミン・O・デイビス・Jr.准将。

1912年にワシントンD.C. に生まれ、ウェストポイントに1932年入学したときは
たった一人の黒人士官候補生でした。

ウェストポイントの学校生活は、デイビスにとって過酷なものであったようです。
4年間というもの、彼は殆どのクラスメートに無視され、わずかな者が
かろうじて義務感から彼と口をきくような有様で、ルームメイトもなく、
いつも一人で行動し食事をしていたそうです。

クラスメートは彼を追い出すことすら望んでいたと言います。

陸軍航空隊が黒人を受け入れなかったため、彼は志望した航空隊ではなく、
全員黒人で組織されたジョージア州のバッファロー大隊に配属されます。

戦争に向けてそのころ世論が待望した黒人の飛行ユニットを作ることにした陸軍は、
タスキーギ陸軍フィールドで結成された飛行隊に、黒人将校であるデイビスを中佐に昇格させて
初めての黒人指揮官に任命します。

その後、第二次世界大戦と朝鮮戦争を、全部で5つの部隊の指揮官として戦い、
空軍、陸軍から殊勲賞を7種類叙勲されました。

晩年はアルツハイマーで苦しみ、愛妻アガサ夫人が亡くなってわずか二ヶ月後、
後を追うようにデイビス准将は89歳の生涯を閉じました。

合掌。



左・ファーストクラスナビゲーターの皆さん

中・B−25ミッチェル爆撃機のクルー

右・爆撃機パイロットのクルー


敵国であった日本人の血を引く日系人を戦力にするくらいですから、
アメリカがアフリカ系を戦力に採用しないはずはありません。
そこには、「白人の子弟だけを死なすわけにはいかない」という、
ワスプの防御意識が当然根底にあったと思うのですが、社会的には「底辺」ともいえる
アフリカ系に、「喜んで死んでもらう」ためには、やはり彼らにも軍人として
アメリカのために戦うことに対し誇りを持ってもらう必要がありました。

デイビスのような黒人を、当然反発があることなど百も承知で白人と一緒に教育し、
正規の方法で士官に育て地位を与えたのも、つまりは戦いに投入する彼らに
死に見合うだけの名誉、すなわち軍人として建前だけでも白人と同じ地位を与える必要があった、
ということではないでしょうか。







B−25ミッチェル

447爆撃グループはこのノースアメリカンの爆撃機で訓練しましたが、
彼ら爆撃隊が実戦に投入されることは最後までありませんでした

彼らに実際課されたのは、あくまでも「白人の爆撃隊の護衛任務」です。



サミーデイビスJr.?グレゴリー・ハインツ?

いえ違います。
ロバート・ディエス中尉という説明はありますが、
英語で検索してもこの人物の記述らしきものは見つかりませんでした。



タスキーギをテーマにしたイメージ作品。
タイトルは

「孤独な鷲たち」(Lonely Eagles)



なんとなく中二・・・いやなんでもありません。





「フレッド・ヴァン・チェリー少佐」

朝鮮戦争、東西冷戦やベトナム戦争を通じて空軍に奉職しましたが、
ベトナム戦争の戦闘中、乗っていたF−105サンダーが撃墜され、
捕虜となり、厳しい尋問と繰り返し拷問を受けました。

7年間その過酷な捕虜生活に耐えた後解放されましたが、
そこでの友情(左図中右下の二人)などを著書に表し、トム・ハンクスがそれを
「名誉の帰還」というドキュメンタリーにし、テレビで放映されています。



右の写真は、ウィルソン中尉といって99戦闘機隊の所属ですが、
見ての通り、一生懸命パラシュートをたたんでいます。
彼の乗ったカーチスP−40は撃墜されましたが、彼は脱出し、
まさにこの落下傘で地上に生還することに成功しています。

ちゃんとたたんで開くようにしておいてよかったですね。(適当)


当たり前のように落下傘なしで出撃し、死ななくてもいい搭乗員をに死なせてしまっていた
日本の航空隊って、それにしても一体どういう思考だったんでしょうか。
必ずしも降下したら捕虜になる可能性ばかりではなかったはずなのに。

アメリカ人には少なくとも全く理解不能だったに違いありません。 


しかし、何をしても死ぬときは死ぬのが戦争というもの。
この三つの写真中、真ん中の写真が先ほどの「ディエス中尉」なのですが、
ディエス中尉は、この写真を撮ったまさにその翌日の1944年1月27日、
フォッケウルフに撃墜され戦死したそうです。


合掌。



ジェシー・ルロイ・ブラウン少尉

アメリカで史上初のアフリカ系飛行士と言われています。
苦労して海軍飛行将校となり、最初の航空士官となった彼は実地部隊で経験を積み、朝鮮戦争に参加します。
北朝鮮の貯水池上で、何人かの列機を率いて戦闘をしていたブラウン少尉は、
対空砲火を機に受け、黒人パイロットの初めてのこの戦争での戦死者となりました。
その功績と勇敢な死を讃えて、彼の名前は
駆逐艦「ジェシー・L・ブラウン」に残されることになりました。




 


スミソニアンには、タスキーギのファイターグループが乗っていた
「レッドテイルズ」
つまり、この写真のように尾翼を赤く塗ったP−51マスタングが展示されているそうです。



ここにも、一応模型ですがこんなものが。



さらに、レプリカで小型ではありますが、
マスタングのレッドテイルズ仕様が展示されています。



彼らの着用していた軍服も。





タスキーギの物語は誇らしげに今日も語られています。
しかし、残念ながら、戦った「黒人の側」からの賞賛が殆どであるという気もします。

それが証拠に、ルーカスが指揮した映画「レッドテイルズ」は、
「もし好評だったら続編、続々編もありうる」
というルーカスの言葉とは裏腹に、本編すらヒットに至りませんでした。
アメリカではヒットせず、日本では公開すらされていません。





ここには、シシリーにあったタスキーギ・エアメンの基地を再現した
ジオラマが飾られています。



シシリーから、これだけの地域に遠征したという、
タスキーギ航空隊の作戦経路。
最も遠い航路は、ドイツのマンハイム近くになります。



日系部隊においても言えることですが、国家がその命を「活用」するつもりであることを百も承知で、
彼らアフリカ系が、アメリカ軍の軍人として国のために命を賭けたことの根底には、
黒人の地位をアメリカ国内で獲得するという目的があったのは否定できないところでしょう。

つまり、嫌な祖国だが協力者となり、公民権を勝ち取ろう、という考えです。

映画「タスキーギ・エアメン」でも描かれていたように、当時の黒人社会でも
一握りのエリートとでも言うべき富裕層の子弟でもないと、
黒人部隊、しかも航空隊には入ることは出来なかったにもかかわらず、
やはり社会全体から見るとアフリカ系はあくまでも社会の最下層で、
つまり人間扱いすらされていませんでした。

日本が真珠湾を攻撃したとき、黒人たちは密かに快哉を叫び、
「俺たちのために白人をやっつけてくれ」
と少なくない者たちが内心喜んだといいます。

そして、自分たちが戦力に「投入」されるようになると、
白人のために同じ有色人種である日本人と戦わなければならない理由を、
彼らには見いだすことが難しかった、とさえ言われています。


アメリカという国の戦略に長けている部分は、こういった彼らの
「同じ有色人種に対するシンパシー」を察知して、
彼らを南方や、日本本土空襲に決して投入しなかったことでしょう。
同じ人種である日系人の部隊を、沖縄には通訳という形でしか配置しなかったのと同じです。


ところで、「人種問題」の根の深さは、実は白人対有色人種という構図ばかりにあるのではありません。
先ほど紹介した最初の黒人パイロットであるジェシー・ブラウン少尉がこんな告白をしています。


「飛行学校のクラスのみんなや教官はわたしを受け入れてくれた。
むしろ、アフリカ系のコックや守衛たちから堪え難い嫌がらせをされた。
これは、彼らの『選ばれた黒人』に対する嫉妬だったのだと思う」

 

 

 

 




開設1000日記念ギャラリー~挿絵編

2013-10-10 | つれづれなるままに



義烈空挺隊強行着陸せり

特攻記念館では、ある意味よく知っていた陸軍特攻そのものより、
パネルにおいてひっそりと展示されていた義烈空挺隊の敵中着陸作戦に
非常な衝撃を受け、帰ってきてから一気にこのことを集中して調べました。

その過程で、相変わらず記録に残る事実を無視してまで、彼らを「被害者」、
この作戦による戦果が全くなかったような印象で「無駄死に」と位置付ける、
マスゴミ制作の不愉快なドキュメンタリーを告発する羽目になってしまいましたが(笑)

このシリーズで、彼らがいかに長期間、空挺による決死作戦を下命されながら
何度もその意思をくじくような作戦中止によって翻弄され続けてきたかについても
一稿を投じて調べたことを書きました。

あまり有名でないため、義烈について書いたものは他にはそうないらしく、
いまだに毎日のように閲覧数が上位に挙がってくるエントリの一つです。

この絵における奥山大尉と諏訪部大尉の握手しながらの微笑みは、
「あと数時間以内に自分の肉体が作戦に殉じてこの世から消滅する」
ということを覚悟してのものです。
そしてやはりつりこまれて笑っている周りの隊員たちも、もしかしたら同じように
この後両大尉と運命を共にしたのです。

そんな彼らの姿を永遠にとどめた瞬間を描いてみました。


昭和天皇と或る少尉候補生




日航機墜落事故があったとき、災害現場となった御巣鷹山のあった群馬県は上野村の
村長であったのが、かつて零戦搭乗員であった元海軍軍人、黒澤丈雄氏でした。

黒澤氏が少尉候補生であったころ、大演習で昭和天皇の拝謁を受けたのですが、
その50年後、この大事故が起こり、上野村に激励を賜るために御行啓あらせられたとき、
なんと陛下は50年前の少尉候補生の顔をご記憶あそばされていたという・・・。

穿った考えをここで述べますが、ご行幸の際、宮内庁は勿論そこの関係者、
ことに天皇陛下と接触する人々についての調査を、当然ですが厳密に行うはずです。
この場合も、前もって黒澤氏の来歴なども陛下のお目に留まっていたと思われます。
「海軍兵学校卒」というその経歴を事前に基礎知識として周知あそばされていた故、
直接黒澤氏の顔を見たときに「海軍大演習」という記憶が蘇ったのではないでしょうか。

勿論、そういう「範囲の絞り込み」があったとしても、たくさん居並ぶ軍服の群れの中の、
しかもミシップマンの面影を覚えておられたことが驚くべきであることに間違いはありません。

一人一人の軍人の顔を当時陛下はきっちりとご覧あそばされていたということで、
記憶力というよりそのお心にむしろ感動する逸話といえます。



嗚呼陸軍潜水艦~戦艦大和の答舷礼



「嗚呼陸軍潜水艦」シリーズは、これもいまだに時々閲覧数が上位に挙がってくる
人気エントリでもあるのですが、そのなかではこのエントリは、
思い入れの割には(笑)あまり見られていないようです。

何の因果か、陸軍に入ったのに潜水艦勤務を割り当てられた陸軍士官。
ある日、訓練中に巨大な「山のような」大和とすれ違います。

ほとんどの海軍艦艇から馬鹿にされたり攻撃を受けたり、その秘匿性と
「陸軍が作った」ということから完成以来苦渋と辛酸をなめてきた小さな潜水艦。

そんな彼らに向かって、「大和」は見事な答舷礼式を送ってきます。
感激した陸軍士官でしたが、のちに、それが特攻に赴かんとする大和の「最後の姿」だと知るのでした。


海軍短刀

 

或るサイトでこのエントリを取り上げていただいていたようですが、
その際「この写真も美しいがこの文章も美しい」
とお褒めを戴き、大いに照れました。
この場でお礼を申し上げます。

ところで、この写真がまったく逆向き、つまりネガが裏返されているのを
見たことがあるのですが、こちらが正しいことは、
まさに海軍短刀の佩されている方向で明らかですね。

この美青年は71期の西田潤生徒。
任官後艦艇乗り組みとなり、その後戦死したということです。


「母のロマンス」



身内の話で後から自分で見ると非常に照れくさいエントリをつい制作してしまいました。
まあどこの家庭にもある「娘が聞いたお父さんとお母さんの結婚前の話」です。
(観られるのが恥ずかしいのでULRを貼らない)


或る陸軍軍人の見た終戦




建築界の大物で陸軍士官学校卒。

そんな方と一時お話させていただく僥倖に恵まれ、その時に伺った
「士官学校生徒として見た終戦のこと」
を書かせていただきました。

この方の設計した横浜のみなとみらいにある超高層ビルについても
「或る陸軍軍人の戦後」(建築家編)で説明させていただきましたが、
豪華客船あすかIIなどもこの方の手によるものです。

最近ではヘリ搭載型護衛艦の設計も「この方の所属会社が」したということで、
また機会があればお話を伺いたいのですが。


或る陸軍軍人のこと(士官学校編)



この建築家の大物氏から伺った話で、あとから間違いを発見しました。
氏が陸士で同期であり、かつご本人曰く

「ブラジルに行って帰って来なかった」

と云っていた「殿下」ですが、「東久慈宮稔彦王」と書いてしまっています。
この方は「東久慈」としかおっしゃらなかったのですが、
正しくは「東久慈野宮俊彦王」でした。

謹んでここに訂正申し上げお詫びいたします。

この俊彦王は戦後民間人の養子となり、建築家氏がおっしゃるように
ブラジルに移住してコーヒー園を経営し、日系ブラジル人社会の中で
現在も活躍しておられるということです。

ところで、話が逸脱しますが、この(最初間違えていた)稔彦王は、
若き日にフランスに留学していたことがあり、そのときにあまりにも自由主義者で、
「愛人との生活に耽溺し帰国を拒み続けた」
という方ですが・・・・まあその話はともかく、フランスで画家のクロード・モネから
なんと直々に(当たり前か)絵を習っていたというのです。

そして、モネの紹介で、クレマンソーと知己を得た稔彦王は、驚くべき情報を得ます。
クレマンソーというのは、「戦争は軍人がするにはあまりにも・・・」の、
五百籏頭先生お気に入りの政治家でありジャーナリストですが、そのクレマンソーから

「アメリカが日本を撃つ用意をしている」

との忠言を受けているんですね。
「日本の侵略戦争」なんていうとんでもない自虐をあの戦争に対していまだにする人たち、
ぜひどういう感想をお持ちか聞いてみたいですね。
アメリカの野望については世界の情報通のあいだで知るところとなっていたってことですよ。


帰国後、稔彦王はこれを受け止めたうえ、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ります。
しかし、この話に西園寺公望以外は誰も耳を傾ける者はいなかったというのです。

そして、事態は最悪の道を辿っていくわけですが、日米交渉も大詰めを迎えた1941年(昭和16年)、
近衛内閣で陸軍大臣の地位にあった東条英機に、稔彦王はこのクレマンソーの忠言を披露します。
そして陸軍も日米交渉に協力すべきと説いたのですが、東条は

「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」

と応答しています。



歴史にもしもはありませんが、もしここで稔彦王にもう少し力があったら、あるいは
力のある人物を掌握していたら、開戦を忌避する可能性もあったということなのでしょうか。
しかし実際は、まったくそれは小さな板切れで大海の流れをせき止めようとするようなものでした。

今回この話を知って、やはり歴史の流れは決まっているのだということをあらためて実感しました。



「課業始め」



築地にあった海軍経理学校での課業行進の様子を描いてみました。

このエントリで江田島の幹部候補生学校の生活についても触れましたが、
基本的には当時とあまり変わらない厳しさであるということを、
以前お話を伺った元海幕長はおっしゃっていました。

ただ、「本当に厳しい」のはここに在籍している間だけで、あとは
勤務先の「体質」による厳しさによるのだそうです。


天佑神助の離着艦




このシリーズでは、母艦パイロットであった日高少佐の手記から、
母艦パイロットの訓練を詳細にかいたものを見つけたのでご紹介しました。

戦後、自分のことをあれこれ書かれるのが嫌で、取材をほとんど受けたことがないという
日高氏でしたが、その手記(兵学校の同窓生に向けたもの)では実に生き生きと、
パイロットの訓練課程について活写しておられます。

この絵は、ラバウルで撮られた、シルエットの向こうが山本五十六大将、
こちらが草鹿仁一中将、そして搭乗員の真ん中にいるのが日高守康少佐、
という歴史的なショットですが、それを切り取って描いてみました。







車上から撮るサンフランシスコ~ゴールデンゲートブリッジ

2013-10-09 | アメリカ

先週、ゴールデンゲートブリッジに行くと言いながら息子の幼稚園の話で終わってしまいました。
今日は、淡々と、ブリッジの写真を貼ります。



といいながら、これは太平洋に面したアウター・サンセットという地域にある風車。
昔は実際に使われていました。
いま「風車」と言えば風力発電ですが、このころは・・・・。

これ、何のためにあったんでしょう。

そういえば、わたしたちが住み始めたころには風車は二つあって、
一つは観光用に回っていたのですが、いつの間にか一つになってしまいました。





サンフランシスコ側から橋を渡ります。
霧が濃くて、橋が全く見えません。



こんなに霧の濃い寒い日なのに、アメリカンという連中は、
どこにでもショートパンツでやってくるんですね。
さすがに上にトレーナーを着込んでいますが、
わたしは昔オアフのハレアカラ火山の頂上で、Tシャツと半パンのアメリカ人を見て、
「この人たちの皮膚感覚はいったいどうなっているのだろう」
と絶句したことがあります。

日本でも、冬に観光に来てTシャツ一枚で歩いているアメリカ人を、
大抵の日本人は奇異な目で見ているわけですが、
わたしの鍼灸の先生に言わせると

「彼らの体は、自覚がないままに冷え切っている」

ということでした。

ブリッジの両端にはパーキングがあって、そこの車を停め、橋を渡っていきますが、
いずれにしても車まで帰らなくてはいけないので、皆真中まで行ったら引き返します。



サンフランシスコの不思議な気候。

さっきの天気から数十秒でこのような青空が見えます。
橋を渡ったところはサウサリートという地域なのですが、
不思議なことにこちらはめったに霧がかかりません。



車で橋だけ渡って帰ってきたい、という観光客のためか、
ブリッジを渡り切ったらすぐにUターンできる道があります。
そこからサンフランシスコ市街地をみると、このように・・・。
まるでそこだけ綿を敷き詰めたように、霧がかかっていました。





一旦フリーウェイを降り、もう一度橋に向かいます。

 




今からブリッジをもう一度わたります。



自転車で来ている人も多数。
このバイクはおそらくレンタルしたものでしょう。



むかし、ちょうどここを渡っているときに、車のタイヤがパンクしたことがあります。
ブリッジを渡り終えるころ、猛烈にゴムの焦げる匂いがして、
生きた心地がしませんでした(笑)

降りたところにあるミュージアムの駐車場に止め、
そこからレンタカー会社に電話して待っていたら、
スペアタイヤを取り付けに修理係が来てくれました。
アメリカのレンタカー会社のシステムは、実に合理的です。

免許をお持ちの方は、「海外だから」と怖がらないで、
アメリカではぜひ車で動くことをお勧めします。

ヨーロッパ、とくにフランスはやめておいた方がいいかもしれません(経験上)




ゴールデンゲートブリッジには、料金所があります。
サンフランシスコ側からは徴収しませんが、サウサリート側から
入っていくときだけ5ドルくらい必要です。

この日もお財布を用意していたのですが、料金所はクローズしており、無料でした。
もしかしたら、日曜日は徴収しないのかもしれません。





先ほどの厚い霧のなかにまた突入です。

ほんの数メートル単位で天気が全く変わる、
これもサンフランシスコの気候の大きな特色です。




 


 


女流パイロット列伝~パンチョ・バーンズ「リアル・キャラクター」

2013-10-08 | 飛行家列伝

飛行の黎明時代、男性に少し遅れて現れた女流飛行家たち。
今日残るパイオニアの写真を見ると、不思議なくらいの「美人揃い」です。

先日ご紹介したルース・エルダーはすぐさま映画界からのスカウトがあり、
あるいは旅芸人だったマージェリー・ブラウンも、目を見張る美貌の持ち主。
その実力と実績で絶大な人気があり歴史に名を遺したアメリア・イアハートも、
美人ではありませんでしたがキュートでボーイッシュな外貌が人気に拍車をかけました。

つまりこのころの女流飛行士たちが空を飛ぶためには、何らかの形の「支援」が必要で、
そのスポンサーとなるのが企業という「男性」であり、世間がそれを要求するがために
「美人でないと飛行家にはなれない」
というくらいの不文律があったのだと思われます。


という話を逆説の枕にしてしまうと失礼になってしまいそうなのですが、
この写真の女性は、その「楚々とした風情の女性が空を飛ぶ」という、
いわゆる「お約束」を完璧に覆しながら、かつその世界で絶大な人気があった、

フローレンス・ロウ・ ”パンチョ”・バーンズ。



彼女は女流飛行家としてはトップクラスの実力を持ち、
一度はアメリア・イアハートの最速記録を破っていますし、
以前お話しした「パウダー・パフ・ダービー」にも参加しています。

何と言ってもその後彼女は、アメリカで最初に「飛行スタント」のパイロット組合を創設し、
自分が飛んでいたという強者です。

そして、その豪快なキャラクターで、アメリカ中から愛された飛行家でした。



この「パウダー・パフ」の時の写真を見ても、当時の女流飛行家が
「美貌か、実力。間は無し」
の世界であったことがうかがい知れますね。
スタイル抜群、美人のルース・エルダーは右から2番目。

パンチョはもちろん左端です。

彼女は1901年、カリフォルニア州パサデナ(高級住宅街)に豪奢な邸宅を持つ
裕福な家庭に生まれました。



祖父は南北戦争時代陸軍で活躍した軍人で、アメリカ軍に航空隊を創設する
立役者ともなった人物、タデウス・S ・C・ロウです。

そんな祖父に10歳の時に航空ショーに連れて行かれたフローレンスは、
当然のように飛行機に憧れる少女となります。
しかし当時の女性ですから、18歳の時に結婚。お相手は牧師でした。



これは母親の意向でなされた、本人的には気に染まない結婚だったようで、
彼女はすぐに離婚してしまいます。

母親は彼女に上流階級の子女として相応しい装いをさせるべく
フランスから服やランジェリーなどをわざわざ購入して、
思春期の彼女に与えたりしたそうですが、フローレンスという名の割には
女性らしくすることを全く好まなかった彼女は、その、レースのたっぷりついた
ランジェリーの引き出しを決して開けることはなく、
ズボンに乗馬ブーツを好んで履くような女の子であったということです。

まあ、「自分に似合わない」ことを自覚してたんでしょうね。


そして、離婚した彼女はどういうわけかメキシコに向かうのでした。



パサデナというところは、ロスアンジェルス郊外の超高級住宅街で、
実はわたしたちがLAに住むかもしれないという話になった時に、一度見に行ったことがあります。
うっとりするくらい美しい邸宅の立ち並ぶ街で、そこには古いリッツカールトンがあり、
こんなところに住めたらもう日本に帰れなくてもいい、とすら思ったものです。
あの町の、英語で言うところの「マンション」(豪邸)に生まれ育った名士の娘、
すなわち「お嬢様」であった「フローレンス」がなぜ「パンチョ」になったのか。

冒険を求める気持だったのかどうかわかりませんが、とにかく彼女は
メキシコ革命のさなか、女だてらにかの地に渡り、これもいきさつはわかりませんが、
なんと武器弾薬を調達するパナマの武器密輸業者と行動を共にするようになるのです。

”パンチョ”というのはその際に付けられたあだ名で、なぜ男名前かというと、
彼女はその間男装していたからなのだとか・・・・。



若かりし日のパンチョ。
どうやらヘビースモーカーだったようですね。
しかしこうして見ると、知的な人間特有の、力強い光を持つ目をした、
魅力的な女性であることがわかります。

4か月のメキシコ滞在のあと、パンチョはカリフォルニアに戻ります。
両親の死により莫大な財産を継承することになったからでした。

まあ、このあたりがしょせんは「お嬢様の革命ごっこ」で、彼女が決してメキシコ革命に
骨をうずめる気がなかったことがわかります。
この「冒険」で彼女は「フローレンス」という名を捨て、その代わりに得たのは
”パンチョ”という「第二の名前、そしてキャラクター」でした。



そして彼女は次のスリルを今度は空に求めます。

第一次世界大戦のベテランでもある従兄弟のベン・ケイトリンを自らの教官にし、
飛行訓練を経て曲乗りの才能を開花させた彼女は、地方巡業の「航空ショー」を立ち上げ、
自らもそれに参加します。

飛行家”パンチョ”・バーンズの誕生です。

彼女は「リアル・キャラクター」と言われた強烈なキャラクターの持ち主で、
たとえば喫煙の仕方や、ダービーの宣誓での人をちょっと驚かせるような発言などに加え、
若い時からいわゆる「女傑」「姉御」タイプだったようです。

後年「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」というバーのマダムとなり、
そこには近接のエドワーズ空軍基地の空の男たちがいつしか集うようになるのですが、
その中からは著名なパイロットや、あるいは宇宙飛行士になった者がいました。

先日映画「ライト・スタッフ」について特集を組んでお送りしましたが、この映画では
パンチョとそのバー、そしてそこに集うテストパイロットたちが描かれています。

飛行家として腕利きであっただけでなく、人が自然に周りに集まるような、
真に魅力のある人間であったのでしょうね。

「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」では、彼女は
「エドワーズ空軍基地の母」と呼ばれていました。

どちらかというと雰囲気から言って「おっかさん」「おふくろ」という感じでしょうか。

 

1929年の女子エア・ダービーではパンチョはクラッシュしてしまいますが、
そんなことにはめげないパンチョ、翌年にはユニオン石油をスポンサーに、またもや復活。

墜落事故で重傷を負ったとたんに飛ぶのをやめてしまった日本の女性飛行家、
木部シゲノなどと比べると、やはりアメリカの女はタフだなあと思わずにいられません。

 

アメリア・イアハートの女子による最速記録を破ったのもこのころです。
レコードは 196.19 mph (315.7 km/h)。



ユニオン石油との契約が終了したのち、パンチョはハリウッドに移ります。
映画のためのスタントパイロットとして活動を始めたのでした。

モーションピクチャーで仕事を始めたパンチョは、スタント飛行パイロットの安全、
そして安定した賃金の供給を求める飛行家の組合を立ち上げます。

1930年のハワード・ヒューズの監督による映画「地獄の天使」の飛行シーンは
全てパンチョの率いるスタントクラブによるものです。



彼女はハリウッドにおいて絶大なコネクションを持っていました。

たとえば、MGMの有名な肖像カメラマンになったジョージ・ハレルも、
彼女がハリウッドのコネクションを通じて紹介し、そこで活路を見出した人物です。



ジョージ・ハレルの撮影によるパンチョ・バーンズ。

皆さんが記憶にあるモノクロームの「ボギー」ハンフリー・ボガートや、ジーン・ハーロウ、
こういった有名な写真のほとんどがこの写真家の手によるものといってもいいくらいです。



綺麗どころに囲まれたパンチョ。
この女性たちは彼女が面接し採用した、クラブのための「ホステス」たちです。


最初の結婚の後、見かけは中性的であっても「恋多き」女であった彼女は
その生涯に4回の結婚をしています。
4人目の夫は、見た目も明らかな年下の美青年でした。

しかし彼女自身、知人にこっそり語ったところによると

「生涯でもっとも愛した男は、殉職したテストパイロットだった」

ということです。



1930年代、アメリカを大恐慌が襲います。

女傑と言えどもこの嵐から逃れるすべはなく、1935年になって
彼女の手元に残っていたのはハリウッドのアパートただ一つでした。

タフな精神と周りを引き込んでしまうようなユーモアあふれるキャラクターで
人生を力強く生きてきたパンチョでしたが、さらに突然悲劇が連続して襲います。

彼女と、多くのパイロットたちの精神のよりどころであった
「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」が、不審火によって全焼してしまったのです。

そして追い打ちをかけるように、右胸にできた悪性腫瘍を「良性」であると誤診され、
対処が遅れた結果、右切除したときには左側にも癌ができていることがわかり、
彼女は両方の胸を手術によって切除することになったのでした。

しかし、彼女は最後まで自分の不幸をユーモアで吹き飛ばしてしまう強さを持っていました。
彼女の知人はこう語っています。

「わたしが彼女から学んだことがひとつあるとしたら、誰かを傷つけるものでない限り、
たとえどんな種類のものであっても、笑い飛ばして構わないのだということかもしれない」

彼女は、病気について尋ねられた時にはあっけらかんと相手に手術跡を見せたり、
郵便局で乳がん切除患者用のパッドを受け取ったときにはその場で梱包を開き、

「見て見て!やっとわたしの胸が届いたの!」

とスタッフやほかの客に見せたりしました。
ユーモアに自分の内心の苦しみと死の恐怖を紛らせようとしていたのかもしれません。



彼女の死はあっけないものでした。

1975年4月5日、彼女の息子ビルが3月30日に電話が通じなかったという知らせを受け
自宅に行ってみると、死亡してすでに数日経ったと思われる母の遺体がありました。




日本ではほとんど無名と言っていいパンチョ・バーンズ。
しかしアメリカでは有名で、このように映画も作られています。
パッケージを見る限り女優さんがきれいすぎて、まったくリアリティを感じませんが・・。

彼女の魅力は要するに外貌とかそういうこととは全く別にあったのだから、
こんなところで「修正」しなくてもいいのにと思うんですが。


ところで、日本では無名ですが、日本語でこの名前を検索すると
真っ先に出てくるのが「大空の開拓者」シリーズのフィギュア模型。
それはいいのですが、その商品に付けられた説明が

「伝説的女流飛行士。エドワーズ空軍基地のテストパイロット

という嘘八百の情報で・・・orz

まあ、こちらは映画と違ってパンチョの容貌には一応似ています。



息子のビルは、アメリカ空軍の特別の許可を得たのち、火葬にした彼女の遺灰を、
愛した「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」の跡地上空でセスナ機から撒きました。

飛行家、フローレンス・”パンチョ”・ロウ・バーンズの、最後の「グッド・ジョイ・ライド」でした。







 




 


NIKON1で撮ったシリコンバレーのリス

2013-10-07 | すずめ食堂

わたしがこのブログ上で熱意を込めて紹介するので、
読者の皆様的にはすっかりおなじみとなった(かもしれない)「カリフォルニアジリス」。
普通に「リス」と言われれば思い浮かべる縞々尻尾のあれとは全く違うので、
最初見たときはわたしもびっくりしましたが、二年目ともなるとすっかりおなじみ。

何度か散歩コースの「ディッシュトレイル」のリス模様をお伝えしましたが、
今日は「ベイショア・パーク」という、マウンテン・ビューのグーグルの近くにある
自然公園(ゴルフコース付き)のリスの写真をお送りします。

ここにはディッシュトレイルほどたくさんは生息していないようですが、
野生の動物がたくさんいて禁止区域がたくさんあるディッシュトレイルとは違い、
ほとんど人間が行き来するような場所であるため、ここにいる鳥たちとともに
リスも保護されているような状態。
そのせいか、他の地域のリスに比べておっとりしている気がします。

で、冒頭写真。

なんかいいでしょ?
後姿なんだけど、ぼーっとヨットを見ている風情が。



この時にはフォーカスの合わせ方の練習をしていました。
おなかの前で手を組んでいて、かわいい。



この時にやっていたのは、ここで行われるサマーキャンプ。
ヨットやディンギー、カヌーの乗り方を子供に教えてくれる夏だけの教室です。
こういう教室が身近にあって、気軽に参加できるんですからね。
何をするのにも「メンバーシップ」が必要で、月会費を払ったりしなければならない
日本では考えられません。



別の日に撮った同じスクールの写真。
この日は一人乗りヨットの講習があるようでした。



5歳から15歳まで受け付けています。
ここに住んでいたら一週間くらいは息子を行かせてみたい。



さて。(このリス再登場)



このあたりのフィールドには、このようにグースが我が物顔に生息しているのですが、



時々撒かれた餌を巡ってリスと衝突があるようです。
といっても、リスは反撃しませんから、グースが追いかけまわしてくちばしでつつきます。
このリスは、右のグースにしつこく追い回されて這う這うの体で逃げていきました。

このグースにはボストンで写真を撮っていたら「シュー」という音を出して威嚇されたことがあります。 
ここのグースはそれほどではありませんが、結構気の強い鳥みたいですね。



冒頭写真とは別の日に同じ場所で水面を眺めていたリス。
もしかしたら同じリスかもしれません。



お祈りしているんじゃありません。何か食べてます。



穴から出て(ジリスは地中に穴を掘って住む)、じーっとしているのを
後ろから撮っていると、必ずしばらくしてから
「はっ!」と振り返ります。 

場所柄安心しきってているのかもしれません。
ほかの場所ではおそらくこんなことをやっていたらあっという間に
鷲か鳶のおやつになってしまうところです。

非常に隣接している場所でありながら、地勢によって全く性質が違う。
人間にとっても同じようなことが言えますね。

「どこに生まれたかでその生涯は決まる」

自分が日本人だから思うのかもしれませんが、日本に生まれてきただけで、
世界では「勝ち組」ではないかという気がします。
あくまでも「平均値」の話ですが。



というのは全く関係ない話ですが、



警戒心も全く見せず足元で平気でご飯を食べているリスがいました。



右目の瞼に切れ込みが見えますが、おそらくケンカでやられたのでしょう。
よく見ると右の耳の先もありません。
何度か目撃しましたが、リスのケンカはすさまじく、くんずほぐれつしながら
鋭い爪や、齧歯類のなんでも噛み砕く歯で相手を容赦なく攻撃しますからね。

ついでに、右手(前足?)をご覧ください。
なんと

小指を立てています。

グラスやカラオケのマイクを持つときに小指を立てるのは
「その筋」の方とか、気取っている人が多いという印象がありますが。

知り合いの女性歌手が、小指を立ててマイクを持っていましたが、
「マイクの持ち方にこだわる」歌手ってが結構いるらしいんですね。
一度、親指と小指の上にマイクを乗せてほかの三本で上から抑える、
という、非常に変わった持ち方をしている人がいて、訳を聴いたら、
「オリジナリティを出そうと思って」

・・・・・いや、そんなことにオリジナリティ要らないと思うけど。


話を戻して、このリスの場合、右まぶたをざっくりやられるほどの大立ち回りをした時に、
前足もやられてしまい、腱が切れてしまった可能性が高いですね。

ちなみに、人間の小指は、 隣り合った指を伸ばさないと伸ばしにくい「総指伸筋」だけでなく、
単独で動かすことのできる「小指伸筋」があるため、中・薬指に比べ独自で伸ばしやすいのです。
つまりこれらが、グラスなどをもつ際に小指が立てやすい理由です。

ピアニストはどの指も独立して動かす鍛錬を小さい時からしていますから、
何の苦も無く全部の指を一本ずつ出せますけどね。(自慢)




少し警戒しているような視線。



と思ったら、単に体勢を変えただけでした。
きみ、根性座ってるよ。



お食事中失礼しました。



 


映画「頭上の敵機」Twelve O'clock High~アメリカの正義

2013-10-06 | 映画

グレゴリー・ペック主演「頭上の敵機」について昨日から連続でお話ししています。

思いっきりフランク・サベージ准将の心神喪失状態をネタにしてみましたが、
この原作の小説でサベージのモデルとなったフランク・A・アームストロング大佐も、
実際の作戦を行った「ジェネラル・エーカーのアマチュア」であるキャッスル准将も。
こんなことになったわけではなく(キャッスルはベルギーで戦死)、まったくの創作です。

918部隊の士気が上がり、戦果も上げて、「不幸がとりついた部隊」
という汚名を返上したところで、プリチャード少将はサベージ准将をもとの配置に戻そうとします。
しかし、部下の死は自分の指揮能力の不足ではないかと思い悩むサベージ准将はそれを拒みます。

「君が解任した男の名前はなんだ」
「何とは・・・キース(ダベンポート大佐)ですか?」
「彼の失敗とはなんだったんだ?
君は彼のように隊員のことを考えすぎていないか?」
「そう思われますか?」
「隊員と苦難を共にすれば情だって移る。彼らを保護してやりたくなる。
それにしても君の出撃回数が多すぎる」

そういう「オヤジ」の言葉に逆らってまたもや次のミッションに参加したサベージ。

この時の空戦シーンですが、すべて独米両軍の機から撮影されたものだそうで、
これらのフィルムを挿入するためにテクニカラーの出回っていた当時にもかかわらず
白黒フィルムで撮影されたといういきさつがあるそうです。



















最後の火を噴くフォッケウルフは凄いですね。
これを撮るためにカメラマンが同行していたのでしょうか。
生きて帰れるかどうかも分からないのに、カメラマンも凄い。


ところで、この部隊で使われていたB-17のような大型爆撃機にはどうやって乗るかご存知ですか?



ちょっとわかりにくい写真ですが、こうやって頭の上の高さにあるハッチのヘリに手をかけて、
逆上がりするように脚を蹴り上げて脚から入ります。
頭上の敵機ならぬ頭上のハッチ。

背の低い人や体の重い人、鈍くさい人は入ることもできなさそうです。



最初にサベージ准将が異常を気づいたのはこのハッチでのこと。
荷物を投げ入れるところから異変を感じたのですが、
さらに乗り込むときになって「あれ?体が持ち上がらない」



「むきーーー!」

どうしても腕に力が入らず手が震えてしまいます。

エリス中尉の診断は「心身症」。
何らかの身体的な疾患が、精神の持続的な緊張やストレスによって発生することです。

部屋の真ん中で真っ黒になって拳を握りしめているサベージを囲んで
皆「あんなに張り切ってたのに」「電球が消える前に明るくなるようなもんです」
などとひそひそ言い合います。

待ち時間の合間にダベンポート大佐は、

「第一目標はやった 成功だ」
「みんなお前のおかげで成長したんだ」

一生懸命語りかけるのですが、相変わらずのサベージ准将。
と、ダベンポートはいきなり気分を害し、

「なんだその態度は 聞く耳持たないんだな
自分一人で好きなだけ自分を責めてろ!」

と怒り出したりします。
いやだからその人病気なんですってば。


そして彼の部隊が帰還してきます。

「15機・・・・・16機・・・・・・・・
19機帰還です!成功ですよ!」

サベージはそれを聞くや急にまともになり、

「19機もいる・・・・・」

そして、傍らのベッドに身を横たえるなり深い眠りに落ちるのでした。

うーん。
それでも2機やられてるわけで、10人乗りのB‐17二機ってことは
総勢20人の若者が戦死したってことなんだが。



さて、今日はこのサベージ准将の攻撃隊が行ったアイラ・エーカー少将
「白昼攻撃」についてお話しします。


劇の最初のほうに、部隊の三人が「ホーホー卿」(Lord Haw-Haw)
の放送を聴くシーンがあります。

ホーホー卿とは、日米における「東京ローズ」のドイツ版で、
本名ウィリアムズ・ジョイスという、ドイツに帰化したイギリス人です。
ドイツから英米軍に向けて降伏を即し、威嚇し、また嘲笑する、という
プロパガンダ放送を、宣伝相ゲッベルスの元で行い、戦後には
英国を裏切った大逆罪で逮捕され、絞首刑になっています。

この放送でホーホー卿が言うには、 

「 ドイツ軍の潜水艦が在英米軍の偵察をしている。
それにしても無茶な白昼爆撃は誰の考えだね?
きっとイギリス軍からの悪知恵だろう。
かれらは自分でやらないで君たちにやらせる方が得だと思ってるからな。
損害は甚大だったみたいだね。

916部隊は爆撃機を今日5機も失った。そうだな?1グループで5機だ。
このままでは長持ちしないよ。
明日の出撃までによく考えてみたまえ。
キース・ダベンポート大佐よ。明日もまた同じことになるぞ」
それではいい夢を。
わたしの「さまよえる(miss guided)友人よ」 


前回お話ししたストーリーで、若いビショップ中尉はこういいます。

「死者も出ているのに白昼爆撃にこだわる意味があるのですか」

そして、総合作戦本部からの司令による作戦を説明するプリチャード将軍は
(このプリチャードのモデルは、アイラ・エーカー)
戦闘機の援護なしで敵地深くを爆撃するという作戦を

「もしこれに成功すれば、白昼攻撃の効果を証明できる

と説明しています。
この映画は「白昼攻撃」をやたらと強調しているんですね。

一般に白昼に攻撃を行うということは、それだけ迎え撃つ側にも視認しやすく、
待ち伏せして迎撃しやすいわけですが、エーカーが白昼にこだわったのは
ひとえに精密爆撃を成功させるためでした。

爆撃の目的は市民殺戮ではなく、工場と軍事施設の破壊なのですから。

科学的に戦争を遂行するのであれば、目標を破壊する以外の攻撃は
全く時間とお金と戦闘員の命の無駄としか言いようがありません。

よく言われるように、「非戦闘員を殺戮しない」ことを目的としていた
アメリカ軍は人道的だった、などという甘っちょろい理由などではなく、
あくまでもアメリカはこのころ合理性を重んじていたというだけのことです。

 「非戦闘員」と言いますが、そもそも工場で働いている工員たちは
全て非戦闘員なのですし、女性だっていたかもしれないんですからね。

しかし、これを以て「正義」を気取るアメリカは、我が海軍の重慶爆撃はもとより、
ナチスのゲルニカ爆撃、同盟国であるイギリスの無差別爆撃さえも、
表だって「非人道的」だと非難していました。

映画「メンフィス・ベル」でも、工場を爆撃するために行ったミッションで、
「隣に学校があるから」(ありえない!)決してそこには落とすなと言ったり、
さらには「なんでもいいから早く落として帰ろうぜ、どうせみんなナチなんだ」
と爆撃をせかすクルーを機長が叱りつけたりします。

戦争という非人間的な道義無き悪行の中でも、我々アメリカは正々堂々と攻撃を行い・・・、
という調子でこれらの「爆撃もの」は描かれているのです。

しかし参加したメンバーには悪いけど、アメリカって、そんないいもんじゃなかったでしょ?

だって、東京大空襲を昼間の精密攻撃で行おうとした司令官は首になって、
東京を「逃げ場をふさいでじゅうたん爆撃」したルメイに変えられてますし。
そして、ピンポイントでもれなくすべての非戦闘員、どころか自国の捕虜まで
面倒くさいから一緒に殺戮しちゃった国ですよ?

いったいどこにアメリカの「正義」はあったのかと。

アメリカに言わせれば、合理的だと思った白昼爆撃ではやはり自軍の損害が大きすぎる、
というのが、第一の理由でしょう。

ヨーロッパで「東京大空襲」に相当する市民殺戮は、なんといっても1945年2月の
ドレスデン爆撃です。 
さしたる軍事施設もない、美しい歴史的な街並みのこの住人は、
決してここが空襲を受けることなどないと思っていたといいます。

しかし、この英米軍合同で行われた爆撃は4度にわたる空襲で総数1300機の重爆撃機が
3900トンの爆弾をくまなく市街地にまき散らした例を見ない市民殺害で、
イギリス国内からすら批判の声が上がったというものでした。

そしてそのわずか1か月後、米軍単独による市民殺戮、東京空襲が行われます。
わざわざ日本家屋を想定して「火が付きやすい」焼夷弾を開発して臨み、
しかも、地形を研究して東京を取り囲むように周りから火をつけ、
市民の逃げ道を防ぐという鬼畜ぶりでした。

東京を燃やし尽くし、
そしてその5か月後、
人類史上最悪のジェノサイトである、原子爆弾投下によって、
完全にアメリカは「人道的良心」を失うことになるのです。



戦闘員である部下の一人一人の死に心を痛め、心身症になってまで
命の重圧と軍人としての責務を担った、「頭上の敵機」のサベージ少将。
あくまで精密爆撃にこだわったエーカー将軍や彼が、
自軍がやってのけたこれらの大量殺戮にどのような反応をするのか知りたいところです。

そしてこの映画について、もう一つだけ、我々日本人にとっては微妙な感慨を抱かせる
出演者の実在のモデルについてのトリビアをお教えしましょう。

当初からフランク・サベージ准将がその腕を信頼し、
飛行隊長としてサベージを支えたジョン・コッブ中佐には、実在のモデルがいます。

ポール・ティベッツ

1945年8月6日、広島に原子爆弾「リトルボーイ」を投下した「エノラ・ゲイ」の機長で、
アメリカ合衆国では戦争を終わらせた英雄として扱われています。
ティベッツは、終生自分が原子爆弾を落としたことについて軍人として当然のことをしたとして
後悔や謝罪の念を表明しませんでした。

しかし、元帝国海軍搭乗員坂井三郎が、原爆投下をどう思うか本人同席の場で聴かれ、

「もし彼を同じことを命じられたら、やはりそれに従っただろう。
なぜなら私もまた彼と同じ軍人だからだ。
原子爆弾の投下の責任を問われるのは軍人ではなく、大統領である」

と答えたとき、ティベッツはその言葉に涙を流したと伝えられます。


遺言によって彼の遺灰は海に撒かれました。
死後、自分を恨むものによって墓を荒らされたくない、というのがその理由でした。






 


映画「頭上の敵機」Twelve O'clock High

2013-10-05 | 映画


毎日ブログをひとつはアップするという生活上、わたしは映画を観るのも
ソファーに座ってゆっくりということをめったにしません。

PCの横にモニターを置いて、タイピングや絵を描きながら観ることが多く、
音声だけしか聴いていなかったり、酷い時には作業に気を取られて聴いてもいなかったり、
そんな感じで「流し観」することが多いのです。
気になったり非常に良かったりすると、改めて観なおしますが、
映画を映画としてちゃんと観るのは、映画館と飛行機の中だけかもしれません。

この「頭上の敵機」は、読者諸氏のお勧めによって観てみようかなと思ったら、
実はその前、一枚500円で戦争映画をまとめ買いしたときに
ちゃんと買っていたことが分かった、というくらい関心の薄い作品でした。

というわけで相変わらずの態度で斜めに観た結果、
「グレゴリーペックが嫌われ役になってて暗い映画」くらいしか感想が浮かばず、
あらためて何かを語ろうという気にもなれなかったのです。
 


しかし、渡米中にキャッスル航空博物館に行って、B‐17の実物を見たこと、
そして、オークランド航空博物館でアイラ・エーカー准将のことを知ったこと、
キャッスル准将のことがわかるとこれらのが面白いくらいこの映画とリンクしていて、
やっぱり一度はちゃんと書いて(その前に観て)おこうと思った次第です。

実際に何かを見ることは、インターネットや紙の上で得た知識より
ずっと深く心にアンカーを下すきっかけとなる、ということのいい例ですね。



コメント欄で少しお話ししましたが、英語題のTwelve O'clock Highは、
ちょうど飛行指示でいうところの「頭上」を指します。

日本の映画会社がこれを公開するにあたって、「12時上」とか「頭上」とかでは
どうも収まりが悪い、じゃいっそ、といういうことで「誓いの翼」みたいにしてしまわなかったのは
(冗談抜きでこんな感じの邦題ってたくさんありますからね)快挙と申せましょう。
この日本タイトル、つくづく名作だと思いません?

「頭上の敵機」。

原語の意を完璧に汲みつつ、しかもドラマチックで文学的ですらあります。

あまりにも隊と隊員の生死に感情移入しすぎてついには「こわれっちまった」
グレゴリーペック演じる主人公のサベージ准将が「まともだった」最後の出撃。

爆撃予定地に向かう航路上にメッサーシュミットがあちらこちらから現れる。
そのとき、

「Here they come.Twelve o'clock high」

と隊員が報告するシーンがちゃんとあります。

さて、この物語は、出撃のたびに被害甚大の駐英爆撃隊、
第918爆撃航空群が舞台です。

「918群が未帰還が多い、つまり運がないのは、

隊長のダベンポート大佐が、部下の立場に立ちすぎるのが原因だ」

こんなことを「オヤジ」(プリチャード少将)に提言(というかチクリ)するのが、
プリチャードの「懐刀」であるフランク・サベージ准将(グレゴリー・ペック)
ダベンポートとは「俺お前」の仲ですから、同期なのだと思いますが、
サベージはプリチャードの覚えもめでたく准将に出世して、大佐のダベンポートとは
すでに階級に差がついてしまっているという設定です。

というか、これだけ見ると嫌な奴じゃん。サベージ准将。

片や918の隊員からは好かれ尊敬され、彼らの心をガッチリとつかんでいるダベンポート大佐ですが、
その温情主義のため、部下を冷徹に処分することがどうしてもできません。

ナビゲーターであるジンマーマン中尉のミスのせいで離陸が遅れ、
待ち伏せしていた敵機にやられてしまう、というようなことになっても、ダベンポート大佐は

「彼を後ろから撃つようなものだ」
 

といって明らかに失敗した部下を処分することを認めません。
それだけでなく、彼は、ナビゲーターのジンマーマン中尉がドイツ系であることで
思想調査を受けたりしたことを理由に彼をと庇ったりします。

しかし、それを聴いたプリチャード少将は、サベージ准将の提言を受け入れ、
ダヴェンポート大佐を降格し、その代わりにそれを提言した当人であるサベージに後任を任せます。


「うわー、こんなことになるならやめさせろなんて言わなきゃよかった」

と内心サベージは思うのですが(たぶん)、そこは上意下達の軍隊社会、
断るなんてことは出来っこありません。

仕方なくアーチベリーの918群飛行基地の外でタバコをすってから

「よしっ!」

とばかりに乗り込んでいくサベージ。
このころの俳優さんはよく画面でタバコを吸いますね。
タバコが健康に悪いなどという話になるまでは、このように
「心情を表す小道具」としてタバコは必須だったのです。



さて、ものごとは何事も最初が肝心。
サベージ准将、ゲートからブースト全開です。
チラ見しただけで初対面の自分をあっさりと通した見張りの兵隊をまずは叱りつけ、
さらにはデスクでTシャツ一枚になって口笛を吹きながらタイプを打っていたマカレニー軍曹に

「たった今からお前はマカレニー上等兵だ!」

ここでこんなに張り切りすぎるから、後が続かないんですよね。(予告)


しかし、彼にダベンポート大佐の行き先を聴いたサベージは内心愕然。
なんと、ダベンポートが降格になったことを自分のせいだと気に病んだ
ナビゲーターのジンマーマン中尉は自殺してしまっていて、
大佐が行っていたのはその葬式だとわかったのです。

そして、副官のストーバル少佐も、最高位になった先任将校ゲートリー中佐
腕利きの飛行隊長コッブ中佐
自棄のようになって基地を出て酒を飲んでいました。

しかしそんなことでひるんでいるような場合ではありません。
サベージはまずゲートリーを憲兵に逮捕させ、さらにはバーを閉鎖

初訓示では

「自分を甘やかすな。
死を恐れるなとは言わないが自分を捨てろ。
自分が可愛いものは今すぐ腹をくくってここをやめろ!」

と檄を飛ばしますが、さっそく直後に一人、ビショップ中尉がやってきます。

「異動希望者の代表としてきました」
「何人の代表だ」
「全員です」

・・・・・って、いきなり全員に嫌われてるし。

移動願いの処理を弁護士のストーヴァル中佐に命じて遅らせ、時間を稼ぎ(おい)
その間に根性叩き直したる!とばかりにがんがんと厳しく指導し規則を締め上げますが、
当然のように隊員の反発は強まり、心は離れていく一方。

ちなみにこの「物のわかった」ストーヴァルが、戦後イギリスを旅行者として訪れ、
出撃のたびに表を向けて合図としたビアマグを骨とう品店で見つけ、
それを買い求めてアーチベリーを訪れ、追想するという形で物語は進みます。

最初、この老人がグレゴリーペックだと思い込んでいて、

「当時の特殊メイクって、すごいなあ。禿がカツラに全然見えない」

と驚いていたわけですが、これもちゃんと画面をみていたなかったせい。(だと思いたい)


それはともかく、自分の指導力の欠如に悩むサベージ。
「君のやり方じゃだめだ」と基地を訪れて諌めるダベンポート。

ダ「俺のやり方が正しいんだ。俺ができなかったのは力不足だったにすぎない」
サ「いや、違う。俺は間違っていない」

ムチだけではやはりダメなのかと、爆撃を成功させたあるミッションの後、
全員を表彰してアメを与え、心をつかもうとするサベージですが、
それにもかかわらず全く士気の上がらない隊員たち。

その訳を訪ねるサベージに、ビショップ中尉はこんなことを言います。

「わかりません。
戦死者も出たのに白昼爆撃する意味が・・・。
なんというか、我々がまるでモルモットのような・・・。
自信など今まで持っていなかったのに、突然功績など上げて、
何が何だか分からなくなりました。
空軍はもうたくさんです。異動したい」


うーん。

わが日本軍の軍隊でこんなことを上官に向かって言おうものなら、
即刻軍法裁判にかけられてしまいそうですね。

それに対しサベージは、

「困ったな・・・・名誉勲章受章者が辞めるとは・・・。
もう少し頑張れば名前を刻めるぞ。
第三帝国を倒したアメリカ空軍の英雄として。
生き延びられるかどうかは約束できないが、約束しよう。
我々の名前は確実に語り継がれていく」

今度は、名誉。
あの手この手で隊員を引きとめようとします。

モルモットになるのは嫌、ということは、とりもなおさずそれは戦場において
「自我の主張」が行われているというわけで、これもまた
選択の余地もなく自分の命を捨てなくてはならなかった日本軍とは真逆です。

全くの話、こんなことに悩むとは余裕があるねえ、と思ってしまいますね。

しかも、サベージの説得の文句に

「命より大切なことだってあるだろう、死後も残る名誉とか」

というセリフがあるのですが、アメリカ人も、建前はともかく
国のために死ぬということはひいては個人の名誉である」
という結論に帰結させてその犠牲を納得しようとしていたようにも聞こえます。

とはいうものの、論より証拠。
サベージのスパルタで「このやり方なら勝てる」と感じ出した隊員たちは
移動願いを取り下げ、サベージに付いていくことを認めるようになるのでした。

しかしながら、このビショップ中尉はその後のミッションで戦死します。
希望していた通りに異動になっていたらビショップ中尉は死なずに済んだかもしれません。

名誉を餌に彼を引き留めたのが、自分の任務であったからとはいえ、
そんな事実を目の当たりにし、さらに次々と目の前で部下を失うと、
サベージ准将の心は次第に蝕まれていくのでした。

ダベンポートの「温情」を批難できたのも第三者だからであって、
一旦彼らとともに戦い、彼らの心のうちや彼らの心情を理解しようとすると、
とても部下を冷徹に扱うことなどできるものではありません。

たとえ表向き冷徹に「仕方がない」と一言で切り捨てても、
ビショップ中尉の死に衝撃を受け、ゲートリー中佐の負傷に動揺するサベージ。
そしてそんな司令の姿に部下たちは彼の本心を見るのでした。

 

そして、いつのまにか自分が批判していたダベンポートと全く同じように、
彼らの中に「入っていきすぎた」サベージは、その次のミッションで
心神喪失の虚脱状態に陥ってしまうのです。


続きはまた明日。

その前に、アメリカ映画界の「あるある」を一つ披露しましょう。

これが、当時の映画ポスター。

もう、この煽り文句と左下の絵で大笑いしちゃいますね。
この看護婦(中尉、とサベージは呼んでいた)は、部下をお見舞いに行ったときに
ただそこにいて、サベージの伝言を負傷した部下に伝える、というだけの役どころ。

まるでこれではサベージ准将と看護婦の間に何かあったみたいじゃないですか(笑)

しかも、この文句ですが。

「12人の男たちのことを彼らの女たちは何も知らないという話」

ってもう・・・。
ばかばかしさを強調するために直訳してみましたが、

愛する12人の男たちがどう戦いどう死んでいったか、
女たちがそれを知ることは決してない・・」


ってとこですかね。映画会社的に言うと。
このポスター描いた人、絶対映画観てないだろっていう。

どこの映画界も昔は客寄せのためにこんな小細工をしてたんですね。





 


アメリカのデブ救済番組「エクストリーム・ウェイトロス」その2

2013-10-04 | アメリカ

前回、かなりお見苦しい画像で説明をしつつ紹介したアメリカの
デブ救済番組「エクストリーム・ウェイトロス」。

片づけられなくてどうしようもなく家が「汚部屋」「汚家」になってしまったところに
周りが手を差し伸べ強制的に全てを掃除してしまう「HORDERS」などとともに
野次馬として観ているものにはなんというか実に「爽快な」?
数十分の間に他人の人生が変わっていくのをビジュアルで観ることの面白さ、
そして「他人のこと」に好奇心を持たずにはいられないアメリカ人には大人気。

まあ、日本人だってたぶんそうですけど。

この夏一度ご紹介した「HORDERS」。
去年紹介したのが「HORADING」だったので、てっきり名前が変わったのだと思い
そのようにエントリでも書いたのですが、なんと、これ別の番組だったんですね。

同じような趣向の、同じようなタイトルの番組が同時進行で二つあるとは・・・・。


わたしがこの手の「ビフォーアフターもの」で好きなのが、

とんでもなくダサい一人の女性の前に、クリントンとステイシーという二人の
「ファッション救済人」がある日突然降臨し、「なんでも5000ドル買えるカード」を与えてくれ、
あれこれアドバイスしたうえ、プロの手によるヘアとメイクを施して、
あっという間に洗練された女性に変えるという番組、

WHAT NOT TO WEAR(こんなの着てはいけないわ)

や、あるいは通りの電話ボックスのようなガラスケースにターゲットを立たせ、
道行く人に「彼女(彼のこともあり)いくつに見える?」と聞いて酷評させ、その後
こちらはファッション、ヘア、歯の漂白、時にはボトックス注射までを駆使して若返らせ、
完成後にもう一度ガラスケースの中に入って10歳若返ったことを実験する、

10 YEARS YOUNGER(10歳若返る)

などなど。

このようなファッション変身ものにおいても、たとえば今までのスタイルを全否定されたり、
ガラスケースの自分に向かって野次馬が聞こえないと思って無茶苦茶言うのを後から聞いたり、
なによりもそんな自分がネイションワイドで知られてしまうことは、恥ずかしくないのか?
と思ってしまったりするわけですが、そこはアメリカ人。
日本人とは「恥ずかしい」のポイントがずいぶん違うようなのです。

もっとも「ジェリー・スプリンガー・ショー」で、恋人の浮気相手(ときにはそれが姉妹や娘だったり) 
となぐり合ったり、「モーリー」で1ダースの男性全員にDNAテストをしてどれが父親か探したり、
こんなのに比べればまだまだ常識的には許容の範囲というものかもしれませんが。 


さて、というわけで前回に引き続き、今回も一人の「救われたデブ」の物語をお送りします。

 

本日のデブ。
名前を忘れてしまったのでキャシーさんとしましょう。
ご覧のとおり、アメリカの主婦にしてはごくごく普通の、「中デブ」くらいのレヴェルの女性です。
一家の良き妻良き母で、家族からも愛され、明るいキャシーさん、
この過酷なダイエット道場にいきなり放り込まれても、取りあえずはうまくいきそうです。



この番組はビジュアルとして「激しいトレーニングをしている」というのが分かりやすいように、
シチュエーションを毎回変えています。

今回はなぜかいきなり国道沿いの砂浜。
クルマがブンブン通り、おそらく車の中からは「何やってんだあれ」
とみられることは必至の状況ですが、そんなことはいいのです。

砂浜を選択したのは、より運動負荷を与えるため、そして「海」です。



ゴムベルトで胴を抑えられ、前に進もうとするキャシーですが、後ろで押さえている
この番組専門の「デブ救済トレーナー」クリスが、がっちり押さえて離しません。

「ぐぬぬぬ・・・前に進まんっ!ぜいぜいぜいぜい」
「ふははは、貴様に脚力がないせいだ。わたしはこれこの通りびくともせぬわ!」



続いて番組お約束、スパーリング。
なぜか人は何かを無心に殴るときに心の中のわだかまりを吐き出すようです。
(この番組によると)
もし、黙ってバンバンミットを殴って「気持ちいい~~!」とすっきりしてしまうような人だったら
ディレクターはどのように指導して「トラウマ吐き出しの場」に持って行っているのか、
むしろこの制作陣に感心してしまうくらい、皆同じ行動をとります。



ミットを殴りながら、ディレクターの誘導により(多分)、キャシーさんは次第に
心の中に何かが溜まっていたことに気づき(笑)それを吐き出し始めます。



幼き日のキャシーさんとハンサムだった父親。
彼女の心に過るのはかつての幸せな日々。
そして、今は亡き父親の死が、彼女の心にトラウマを与え、
彼女はここまで太ってしまった・・・・・・・・・わけないだろっ!(笑)

全く・・・・。

太っている原因をこういう無理やりな原因になんでもしてしまうのは、
いくらドラマが必要と言っても大概にした方がいいと思うの。


ともかくも、ダイエットを成功させるには、特にキャシーさんのように毎日の楽に流され、
「ちょっとぐらいはいいわよね」みたいな気持ちで何も運動せずに食べてしまうような人の場合、
こういった「荒療治」が必要だ、ということのようです。

この人はほかのアメリカ人にありがちな家庭の問題をあまり持っていないので、
むしろ番組製作者はそんな面を引き出すのに苦労したのではないかと思われました。

ただ、先日アメリカの友人と話したところ、アメリカという国は見かけはともかく、
コミュニティに入ると、実に問題が多い国なのだそうです。

たとえば彼女にはうちの息子と同じ年代の娘がいるのですが、彼女のクラスメートは
たいていが親が離婚したり再婚したりしていて、そっちがふつうの状態。
わたしもサンフランシスコの幼稚園に息子を通わせていたとき、
親が離婚して
今は父親と別居している男の子のこんなシーンを見ました。

その幼稚園は共同経営型の、親が週に一回幼稚園で安全監視をしたりスナックを用意したり、
つまり労働を提供する代わりに安価であるというもので、
その日は男の子の「本当のお父さん」が仕事に来ていました。
(まだ法的に離婚が成立していなかったのだと思われます)

男の子は母親と新しいその夫、つまりステップファーザー(継父)と一緒に住んでいますから、
幼稚園が終わったらその家に帰っていくわけですが、なんと息子を迎えに来たのが
継父だったわけです。
当然そんなことも予想されるとわかっていて継父をよこす母親も大概ですが。

すると男の子は「帰りたくない。(本当の)お父さんと一緒にいたい)」泣き出し、
どうしても継父の所に行こうとしません。
おそらく、たいしてこの子供に愛情を持っていないらしく、継父は男の子を困惑した、
しかし冷ややかな目で見ています。

まあ、こんな状況になると、継父も決して面白くないでしょうが。

そして、実の父(この人はお母さんが日本人だった)が継父に向かって

「ジェームスは帰りたくないといっているので、わたしが後で家に連れて行く」

と告げ、継父は黙って帰って行ったのでした。

たかだか3歳の子供をこんな目に合わせるこの大人たちにも呆れましたが、
この子が将来どんなトラウマを抱え、どう成長するのか、
他人事ながらわたしはこの様子を横で観ながら(彼らは人目をはばかるようなこともしない)
心を痛めていたものです。

そのほか、家のガレージで薬をやっていた新しい夫を叩きだし、
男に愛想を尽かした仲良しのお母さんが共同で住んで子育てしていたり、
明らかに子が養子(親が白人で子供が黒人)なのに親が離婚してしまったり、
「アメリカ社会って病んでるなあ」
と嘆息する噂話ばかりを聞いたものです。

日本人にも血縁に関する悩みや苦しみはもちろんありましょうが 、ここでは
たいていの人が何らかの親兄弟に関するトラウマを持っているのではないか、
とこういう番組作りを観ていても思われるのでした。



ですから、番組制作側としてもこのような被験者の「悩み苦しみ」をあげつらうのに
いわば何の工夫も努力も要らないわけです。

幸せそうに見える主婦のキャシーさんも、いろいろ辛いトレーニングをこなし、
体重が嘘のように減っていくにつれ精神も「浄化」を求めるのか、
やたら感傷的になり、トレーナーの一言に泣いたり笑ったり。

さて。以下の過程はすっとばして(写真が撮れなかったので)。
いよいよこの番組お約束、

「デブが急激にしぼんだときに余ってくる皮を手術で切る」

時がやってきました。
これは、ある程度脂肪が減って、切除しても大丈夫、というラインがあって、
まだ脂肪が詰まっている段階の皮膚を切ることは危険なため、
必ずここで医師の診察があります。



「ふむー。確かに痩せていますが・・・・・」

渋い顔の医師を心配そうに見るクリス。



「この程度では切除は無理です」

「がああああ~~~~ん」(キャシーさんがショックを受けた音)
 
実は診察の前、クリスの「手取り足取り」はしばしお休みで、キャシーの自助努力に任されており、
少しの期間、キャシーはトレーナーの目の届かないところで、

・・・・・・・・・少し安心して羽目を外したようです。



「いや、ここ余ってますよ。切れませんか?」
「切れませんな」

って医師はともかく、トレーナーまでキャシーのおなかをまるで肉屋の品定めのように・・・(T_T)




クリス「どおっすんだよお!手術できなくなるくらいリバウンドしてんじゃねーよ!」



「反省してます」

 

陰になり日向になってキャシーを支えてきた家族も暗い顔。
しかし、このスマートな娘さん、母親のこの騒ぎを他山の石としないと、
あなたは20年後に同じようなことになってしまうよ。

というか、キャシーさんも昔はこんなスマートな女性だったんですね(T_T)



「馬鹿!馬鹿!わたしの馬鹿!」

八つ当たりするキャシーさん。
そして心を入れ替え(何回入れ替えてるんだ)再びダイエットに励んだ結果、

 

番組の尺の関係上、いきなり再診察と手術はすっ飛ばして(笑)
場面は「ビフォーアフターお披露目」の会場に。

端折ってんじゃねー。



息子、夫、前からおばあちゃんと娘。
彼女の場合、この家族が大きな支えとなったのが成功の原因でした。



全くひやひやさせらたぜ!
と自分の苦労を交え、観客にキャシーの変身成功を告げるクリス。

内心イライラしていたと思うんですけどね。



必ず会場に到着する元デブは、黒塗りのリムジンから降り立つ足だけが映されます。



そして確認するように何度もフラッシュバックされるかつての姿。

グロ画像注意。ってもう見ちゃいましたね。

いくら変身前でも、これは、全国的に放映されるにはあまりに辛い画像ではある。
おなかの部分に見えるのは、もしかして脂肪の小さな塊?
これだけ太ると、脂肪がまんべんなく全身につくのではなく、一部に固まることもあるのでしょうか。



おおおお。

確かにウェストは太いが、取りあえずやせたキャシー登場。



やりました!
これもお約束、高々と手を挙げるクリス。



どうですか?今の気持ちは。



目を輝かせて妻の晴れ姿を見ていたと思ったら、夫は



涙をあふれさせ、眼を拭うのでした。
なんと美しい愛の姿。

しかし、この際夫ももう少しダイエットしたほうがいいと思うのはわたしだけであろうか。

さて、この番組では同じようにダイエット成功させる「グループ被験者」もおり、
この場で彼女らのビフォーアフターも紹介されました。







皆喝采を受けつつ晴れやかな顔で登場しますが・・・・・



必ずしも成功する人だけとは限りません。
このひとは何があったのか全くと言っていいほどやせられず、
でも出さないわけにはいかないのでこの場に登場し、さらし者になっていました。

出してやるなよ・・・・。



そして画面には何度も映し出されるかつての姿。
いくら変身前でもこれは(略)
そして何度も言うが、脂肪のブツブツが怖い。



彼女が減らした体重は65キロ。
成人男性まるまる一人分です。

 

顔つきまで変わったキャシーさん。
彼女を愛する家族が、今後彼女のリバウンドに対し、どの程度厳しくできるか、
実のところ非常に 不安を感じさせますが、取りあえずは大成功です。


めったにいないだけに、彼女のように家庭環境に問題のない被験者を見ると、
番組製作者が「お約束」で欲しがるトラウマなんぞより、この人の場合むしろ
「その幸せな家庭環境こそが太る原因だったのでは・・・・」とつい考えてしまいました。





 

 


車上から撮るサンフランシスコ~息子の幼稚園

2013-10-03 | アメリカ

最近いろいろと多忙になってきて、さすがのエリス中尉も
毎日長文のエントリをアップするのが大変になってまいりました。

というわけで、週一回の定休日をいただく宣言です。

今日は木曜日ですが、来週から水曜定休とさせていただきます。

しかし、せっかく開いてくださる方のためにも、定休日には
説明なしで写真を貼ることにしました。

今日は、カリフォルニア最後の日、サンフランシスコまで行ったとき、
息子が「懐かしい場所をドライブしてみたい」と言い出したので、
ただ市内を一周して、思いついたときに車の運転をしながら撮った写真を。



ブリッジに行く前、わざわざ昔息子が通っていた幼稚園の前を通ってみました。



アメリカでも、というかアメリカだからだと思いますが、外部から覗き込むような
不埒な人間もいるため、フェンスは目隠しで覆われています。

この写真は、手を思いっきり伸ばして、頭上から撮りました。
奥には砂場とプレイグラウンドがあります。

ここは、「コーポラティブ」といって、父兄が参加して共同経営する形態で、
保護者は週一回、「ワーク」という形で子供と一緒に幼稚園に行き一日過ごします。
ただし、親の仕事は「掃除」と「安全のための見張り」で、
決して子供を「指導」してはいけません。

しかし、何らかの特技を持っていたら、それを子供たちのために提供するのはアリで、
わたしは「ワーク」の日にはポータブルのピアノを持って行って、
お遊戯や歌の伴奏をしたものです。

参加するのはお父さんでもお母さんでも、おばあちゃんでも誰でも可。
日本とは違い、結構お父さんの参加が多いのですが、
一度一緒に仕事をしたお父さんは、朝っぱらから(朝だからかな)酒臭くて、

「お父さん、二日酔いですか」

と思わずお聞きしたくなりました。

アメリカの「幼児界」にも日本のそれのように「幼稚園児の定番」 というような
「幼児ソング」があります。

「インシー・ウィンシー・スパイダー」(小さなクモ)

「オールド・マクドナルド・ハッド・ア・ドッグ」

「 ヘッド・ショルダー・&・ザ・トウ・ニー・ザ・トウ」

など、手振りや言葉遊びを伴うもので、アメリカ滞在中には図書館などで行われる
週一回の「幼児のお歌の会」などに息子を連れて行くうちにすっかり覚えてしまいました。
ですから、この幼稚園で歌の伴奏をすることなど、わたしにはお手のもの。

お母さんの中にはクラシックのピアニストもいて、彼女も同じように
ピアノを持ち込んでいましたが、彼女は「譜面がないと弾けない人」だったので、
かなり弾く内容に制限があったようです。

わたしのときは、ディズニーのテーマやお遊戯歌をまず弾き、

「今からエリス(仮名。アメリカではだれだれのお母さんとは絶対に呼ばない)
の弾く曲の題名を当ててみましょう!」

などというゲームをしたりしました。

しかし、一日幼稚園というところにいて思ったのは、アメリカでは
どちらかというとそういう「子供向け」のものより、「ノリのいい」もののほうが、
まさに子供たちのノリがいいのです。
日本の幼稚園というのがいまどういう音楽を採用しているのかはしりませんが。

(うちの近所にある幼稚園の年に一回の運動会のときに流れる音楽を聴く限り、
「先生の趣味」であると思われるJpopが非常に多いようです(笑) が)

とにかく、この幼稚園でみんなが輪になって踊ったりするとき、妙に今風の
ロックが多く、件の二日酔いお父さんは音楽が流れたとたん驚いた顔で

「Oh, Funky!」

とわたしに向かって言ったくらいでした。
お父さん、それまで一度も幼稚園に来たことなかったのかしら。


息子が、「We will rock you」を覚えてきたのもこの幼稚園で、
そのせいで彼はいまだに クィーンが大好きです。
三つ子の魂百までとはよくいったもんだ。
 

「説明なしで」「写真だけ貼る」って、全然その通りじゃないし。




 


女性パイロット列伝~ヴァレリー・アンドレ「マダム・ラ・ジェネラル」

2013-10-02 | 飛行家列伝

マージェリー・ブラウン MARGERY BROWN

「自由へと飛んだ女」


この夏訪れた航空博物館のうち「オークランド航空博物館」「ヒラー航空博物館」の二つが、
「女性パイロット」のコーナーを持っていました。
お届けしている写真はすべてそこで撮ったものです。

その中でも特に美しい容貌で目を惹いたのがこのマージェリー・ブラウン

彼女は歴史に大きな名を残しませんでしたが、当時は女性の飛行家の一人として
1930年代、非常に雄弁な「スポークスマン」の役割を果たした女性でした。

旅芸人であった彼女はそのエンターテイメント性と美貌を武器に(多分)発言の機会ごとに
空を飛ぶことは女性に自立と自信、そして自己独立を促すものだという自説を語りました。

「なぜ飛びたいか、ですって?

空と大地の間にいるときに、神様に近づけるように思えるからよ。

そこには壁があったら決して与えられない精神と心の平和と満足があるからよ。

飛行機が飛ぶのを見るとき、わたしはただすべてのものの上にアーチを描いてみるの。

流行だとかスリルとか、プライドのためじゃないわ。

女は自由を求めているのよ。空に。

彼女らは『女性らしさ』の呪縛から高く飛び立つんだわ。

飛ぶことは規制から本当の自由を手にすることなのよ」






ヴァレリー・アンドレ(Varerie Andre)1922~

「エンジェル・オブ・マーシー」(慈悲の天使)
「マダム・ラ・ジェネラル」

ヴァレリー・アンドレはフランス陸軍の軍医でありヘリコプターのパイロット。
先日ヒラー航空博物館のヘリコプターの説明で、
仏印戦争において最初に戦場からへりで脱出した人物、という紹介をしたアンドレですが、
女性男性関係なく、ヘリコプターを使って戦闘による負傷者を搬送した、
つまり史上初のドクターヘリ・ドクターでもあります。

そしてマダム・アンドレ(フランス人なのでやはりこうでなくてはね)は、女性として
初めてフランス陸軍で将官にまで昇進した人物で、あだ名は「ラ・ジェネラル」
「ラ」はフランス語の「女性冠詞」で、階級に「ラ」をかぶせてそれがあだ名になるくらい、
女性の将軍は珍しいということでもあります。

それにしても、神経外科医であり、陸軍の軍医であり、当時最先端のヘリパイロット。
しかもこの写真に覗う限り、実にエレガントな美人。

まさに天が二物も三物も与え給うた稀有な女性であったわけですね。

マダム・アンドレは1981年、それまでの将官から医学監察官に昇進します。
この「監察官」というのは日本にもある制度で、Inspecter general、略してIGといい、
官庁など内部の観察を要する機関に対して置かれ監督を担当する職名です。

ちなみに我が国自衛隊におけるそれは
監理監察官といい、
たとえば陸自と海自におけるその役職には将補が務める「幕僚監部」があり、
空自はどういうわけか陸海とは違って監理監察官という冠称がつきます。


陸軍軍医大尉としてインドシナ戦線に赴いたアンドレは、そこで、
ジャングルに閉じ込められた負傷者の回収の難しさを目の当たりにします。
そこで、彼女はヘリコプターを自らが操縦して彼らを収容することを考えました。

いったんフランスに帰ってヘリコプターの操縦を学んだ彼女は、そのまま単身
インドシナに自分の操縦で戻ってきます。

そして1952年から3年の一年間に、彼女は129回のミッションによってヘリをジャングルに飛ばし、
165名もの将兵救助を行いました。
緊急の手術を要する負傷者のために、彼女は二回、パラシュート降下をしています。

ジャングルに向けて単身パラシュート降下を決行するだけでなく、
その直後負傷者を救うための緊急手術を行う。
この勇気ある軍医はしかも若い(当時アンドレは30歳)女性です。

たとえば彼女の典型的なミッションの一つはこのようなものでした。

1951年12月、Tu Buで起こった戦闘の犠牲者たちは、
一刻も早くブラックリバーのから脱出を必要としていました。

たった一つ使用可能なヘリは、解体されていて組立て直さねばなりませんでした。
当時大尉だったアンドレは、濃い霧と対空砲火にもかかわらずそのヘリに乗ってTu Buに飛び、
たった一人でトリアージと応急手当てを行い、緊急を要する患者の手術と、
負傷者をハノイまで連れ帰るということを二回にわたってやってのけています。


1960年になるとアンドレは、1954年から勃発していたアルジェの独立戦争に、
軍医司令として参加することになります。

このアルジェリア戦争アルジェリアの内戦であると同時に、
アルジェリア地域内でフランス本国と同等の権利を与えられていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、
対照的に抑圧されていた先住民族
(indigene,アンディジェーヌ)との民族紛争であり、
親仏派と反仏派の先住民同士の紛争であり、
かつフランス軍部とパリ中央政府との内戦でもありました。

まあ要するにアルジェリアを舞台にあっちこっちの戦争となっていたわけです。
が、植民地として支配する側とされる側にこのような紛争が起きない方が不自然なのであって、
それというのも日本という国が白人優位の世界秩序にくさびを打ち込んだ戦争が終わっても、
「戦勝国」(笑)として相変わらずあちらこちらに植民地を持ち続けていたフランスという国は、
この戦争でかなり手痛いしっぺ返しをくらったという面があるのではないでしょうか。


ところで余談ですが、「国連」の正式英語名称をご存知でしょうか。

United Nations Security Councilですね?

この「ユナイテッド・ネイションズ」、日本では「国連」と訳していますが、
実はなんのことはない、「連合国」なんですよ。
第二次世界大戦における日本、ドイツ、イタリアの「枢軸国」に相対する「連合国」が、
「戦勝者グループ」として常任理事国に収まっている「安全保障委員会」。

つまり、第二次大戦の終戦処理の際に打ち立てられた世界秩序に基づいて
この国連というのは組織されているのです。

ですからよく言われますが、日本は世界で二番目に多い拠出金を
唯々諾々と払わされているのにいまだに「敵国条項」から外されていません。
ドイツもです。
今や世界でも常に「いい影響を与える国」のトップを競り合っているこの元枢軸国が
(枢軸国にもう一か国あったような気がしますが、それは置いておいて)
国連的には「敵国」なんですね~。

そして別に勝ったわけでもない中国が、常任理事国という不可思議な地位を得ているのも、
つまりは東京裁判で日本を裁いた側だったからなのです。

フランスが、親独政権のおかげでドイツに占領されるがままで、
「フランス軍って何やってたの?そもそもいたの?」みたいな状態だったのに
現在国連常任理事国であるのもまったくこれと同じ。
つまり「連合国側」にいて、やはり報復裁判で両国を罰した側だったからです。

ついでに言うと、常任理事国にロシアなんちゅう国が入っているのも、
日ソ不可侵条約をガン無視して、火事場泥棒のようにぎりぎりになって参戦してきて、
これも「戦勝国」の立場で東京裁判をしたからなんですね~。


まったく、ふざけんなよ(怒) 


・・・・・・・・・・・・・・・。

えー。

話をアルジェリア紛争のドクターヘリに戻します。
この戦争中にアンドレは通算365回目、飛行時間320時間のミッションを果たします。

そして、その功績を称えられて7つもの「クロワ・ド・ゲール(戦争の十字架)」勲章を与えられました。



傷ついた兵士たちの目には、天から降下してくるこの女性が「天使」に見えたに違いありません。
そして、フランス軍の将兵から、彼女は「慈悲の天使」というあだ名で呼ばれることになります。



ここに語った二人の「飛ぶ女性」には、時代の違いだけでなく大きな違いがあります。
マージョリーの時代、女性は「飛ぶこと」そのものが自由への逃避でもありました。
「なぜ飛ぶか」
ということに女性の人権解放の意味すら重ね、まさに飛ぶことが「目的」であったわけです。

しかし、それから30年の間に、航空機のあり方も、女性の地位も大きく変わりました。

少なくともマダム・アンドレのように優秀であったり、並みの男性より巧みに戦闘機を駆り、
「エース」と呼ばれたソ連空軍のリディア・リトヴァク中尉のような女性パイロットすら出現しています。

「何のために飛ぶのか」

マージェリーがスポークスマンとなって熱く語った「飛ぶ理由」は、マダム・アンドレにとっても
リディア・リトヴァクにとっても考える必要もないことだったに違いありません。

彼女らにとってすでに「飛ぶこと」は目的ではなく、単なる「手段」となっていたからです。


並み居る女性パイロットのなかでもこのヴァレリー・アンドレは、その飛行によって
医師である自分の価値を最大限に生かしたという点で、最もその業績を称えられており、
フランスでは最高殊勲賞であるレジオン・ド・ヌール勲章を持つ8人の女性の一人です。
彼女は2013年8月現在、91歳でまだ健在だそうです。



ところで、これが本題みたいになってしまいますが、国連の常任理事国についてもうひとこと。

現在常任理事国入りを希望している国は、4か国。
日本、ドイツ、インド、ブラジルです。

この4か国の常任理事国入りに反対しているのは、
いずれも

その国の周辺諸国

なのだそうです。
立場上、「4か国全部反対!」とは言っていますが、実は、

日本には中国と韓国、
ドイツにはオランダ、スペイン、ポーランド、チェコ、オーストリア、イスラエル、
インドにはパキスタン、
ブラジルにはアルゼンチン、コロンビア、メキシコ

が反対しているんですね。
隣同士のと仲のいい国はない、とよく言われますが、まさにそれを表していて、
なかなか面白い結果ですね。 

それにしても、韓国は何かというと日本に「ドイツを見習え」と言ってきますが、
これ、ドイツの周辺諸国やイスラエルにしたら噴飯もの(本来の意味の)なんだろうな。