ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

平成26年度第一空挺団降下始め~戦車のウィンカー

2014-01-16 | 自衛隊

本状況で展開される模擬戦闘において「敵」となるちゅ、じゃなくて某国が、
巡航ミサイルをこちらに向かって発射してきたので中SAMこと


03式中距離地対空誘導弾

が迎撃態勢を取ると同時に、本日の「メイン」であるヒトマルこと10式戦車が
偽装して投入され、第一空挺団降下始め訓練展示は佳境に。
この頃になると彼方此方で火の手が上がり始め、時折榴弾砲の轟音が鳴り響き、
そして、空中には入れ替わり立ち替わり我が最強のヘリ軍団が飛来。



この日の天気は基本晴れでしたが、青空と曇天が繰り返されました。
アパッチの操縦席は後ろで、前は銃撃手です。
二人とも視線はしっかり敵に占拠されたせんか、じゃなくて
「日本固有の領土である或る島」の方向を捉えております。




ようやくこの辺りに来て、マニュアルフォーカスでピントを合わせることが
できるようになってきました。
もう訓練展示終わりかけだっつの(笑)



かなり低空を飛んでいたので、私のいる場所から
まるで隣を飛んでいる航空機から見るような角度の写真が撮れました。
やはりヘリ部隊隊員も、「観客サービス」「カメラサービス」を
少しは意識しているのかも。



10式戦車はいきなり左手から登場し、あっという間に前を通り過ぎたので、
正面からの写真を撮り損ないました。



発砲!



ところで、昨年の秋、朝霞に観閲式を観に行ったのですが、その終了後、

敷地内に展示されていた陸自装備品の数々をまだアップしていなかったので、
ここぞと10式の写真を投入したいと思います。



注目の10式戦車。



動的展示する時間に戻ってくることにしました。



ここで知っておくとちょっと便利な戦車の登り方その1。
まず脚を所定位置にかけます。



その2、アンテナみたいなのを掴んで正しく登ります。



その4、脚を挙げて柵を乗り越えます。



その5、戦車の上に立ちます。



その6、登って訳もなく点検するふりをします。

・・・・いや、自衛隊員の行動に「わけもなく」などとあるはずはない。

これはきっと仕業点検でちゃんと決まっているに違いない。



動かす時間になり戻ってみれば、そこはすでに戦車好きやカメラ&ミリオタクによって
ぎっしりとカメラの放列ができており、こんな場所しかありません。
まあわたしはこれで十分。

砲塔を前方向に向けてくれています。




ヘルメットが同色でまるで戦車の一部となっているかのような隊員。




前後左右、どの方向にも車体を沈ませることができます。
これは前にかがんで「お辞儀」をしたところ。



うーん、結構なベテランと見た。
戦車に乗ってこのかた20年!というところかな。
眼光炯々とした戦う男の貌です。



展示が終わったら三人の隊員がヒトマルから降りて来て敬礼。
この敬礼を見るかぎり、手のひらが下外向きで肘角45度、
話に聴く陸軍式敬礼はそのまま伝承されているようですね。

前列にいる女性のうっとりした様子をご覧下さい。



さて、このときも大注目だったヒトマルアニキですが、当状況には二台投入です。

今「二台」と書きましたが、戦車の数え方ってやっぱり車と同じでいいの?
道交法的には「車」扱いではない、というのは確かなんですが。

実は自衛隊の戦車は全て「道交法に準じる」という配慮から、

ウィンカーがついている

のですが、別にこれは道交法で決まっているわけではないのです。

自衛隊法第114条と昭和45年の防衛庁(当時)の訓令によって、
戦車は平時でもウインカーを免除されているのです。

しかしそれでもあえて、陸自の全戦車が装着しているのです。

勿論この10式にもちゃんとありますよ。



なぜ除外規定があっても自主的に取り付けるのかというと、
やはり戦後社会の憲法で認知されてこなかった自衛隊が、

一般対象の法令に対する「過度の配慮」をしている、ということだと思います。


まあ勿論、戦車にウィンカーを付けていたからといって戦闘に支障はないでしょうし、
せいぜい外国軍人に笑われる程度のことでしょうが。

しかし、戦後日本が憲法の「軍隊否定」「身分保証されない自衛隊」ゆえに陥った矛盾は
この戦車のウィンカーの例よりずっとたちの悪い事態にもつながっていると言えます。

つまり、有事や緊急事態への対処を誤らせかねない問題、たとえば
有事に備えて滑走路に転用できるような道路計画などは全くしない、
道路や橋は戦車の重さなど全く考慮していないためいざという時に通れない、
ミサイル防衛のためのシェルターを作るなどもってのほか、
原発だって、テロはともかく軍事攻撃にはまったく無防備であることなどなど。

左翼の大好きな(といっても2014年現在、社民党を除く全ての政党はこれを認めていない)

「無防備都市宣言」

というのは「相手の善意を前提とした」、まあ言って見れば、
犬が強い相手にお腹を見せて転がるに等しい、絵に描いた餅のような理想主義なわけですが、
この戦車のウィンカーの話に象徴されるような自衛隊不在の戦後憲法が作ったのは、
つまり「我が国は無防備都市である」と世界に向かって宣言しているような、
おめでたい国防の現状であるとわたしは思います。




という話が始まったら今日中に状況終了できないのでこの辺にして。

おお!
10式、荒野を往く、って感じでかっこいいですねえ。
向こうに民家が見えてますがそれはないことにして。



あちらこちらで煙があがり、10式も遠慮なく撃ちまくり、
当たりが煙幕で真っ白になってしまいました。



10式の後を追いかけるように競輪装甲車が派手に偽装して登場。
車輪上部にまるで寝癖のようにぴこっと角が立っているように見えるのは、
たとえばMINIMIなどの機関銃を上部に装備した際、銃身を出す
防弾スリット(って言うのかどうか知りませんが)だと思われます。



それにしても隊員が張り切っているのか、偽装が盛ってます。
盛り盛りです。
なんにでも葉っぱで偽装するのは旧陸軍からの伝統。

何しろ陸軍は海軍に反発して作った輸送潜水艦「まるゆ」に、
なぜか潜行させず上に葉っぱや木切れで偽装して航行していたくらいで・・・。



ヒトマルを戦陣に、敵陣に乗り込んでいったようです。




もう一度アパッチロングボウ。



ヒューイのドアからは対物狙撃銃らしき装備を構える姿が。
ただ撃つだけでも的に当てるのはかなり難しいものだと思いますが、
飛来するヘリの上から狙撃するなんて無理ゲーすぎる。





今回エアコブラの勇姿をたくさんカメラにおさめることができて、
本当にレンズを買ってよかったとまたもや実感しました。



敵陣となっている擂鉢のような小山のまわりには(子供の戦争ごっこに使われるような山ですが)
ぐるりと10式と軽装甲車が包囲しています。

と、この大きさでは全く見えませんが、その擂鉢山の頂上に、 
敵国国旗の降参の印が降られました。

ここでどうして白旗が出てこなかったのでしょうか。

日本海大戦のときのベドウィン号だって、日本軍相手に白旗が必要な事態になるとは思わず、
仕方がないので世界共通の降伏の色として白いテーブルクロスを使ったという話があるくらいなのに。

これも「戦車のウィンカー」みたいなものかなあ。
つまり「戦争の勝ち負け」を想像させるので白旗は使いませんでした、ってこと?

じゃ、今までどんぱちやっていたのはあれはなに?
「戦争」じゃなくて、単なる「ショー」だったんですか?



相変わらず重爆の隅をつつくようにこういったことが気になるエリス中尉の
もやもやした気分とはうらはらに・・・・、
さあさあ、状況終了しましたよっと、皆さん途端に平時モード。



こちらも一仕事終えて平時モード。
すぐさま撤収に入りました。



このときこういう態勢の人もいましたが。



そして不穏な空気を感じて(修辞的表現)左手を見ると、
そこには本作戦に配備された全てのヘリが、
不気味にホバリングを続けているのであった・・・・・・。



続く。

 


平成26年度第一空挺団降下始め~10式戦車現わる

2014-01-15 | 自衛隊

今回、とにかく
「遠くのものをちゃんと写したい」
「でもあんまり大きいのは嫌」
という観点でのみ適当に選んだニコンの望遠レンズ。

マニュアルフォーカスでピントを合わせるのに(何しろ使い始めなもので)
ただでさえ上がりがちなテンションゆえ大変焦ってしまい、
その結果特にヘリの画像には満足なものがあまりなかったのですが、
この一枚を見たときに初めて「買ってよかった」と実感したものです。

肉眼では全く確認できない隊員の表情をレンズはしっかり捉えていました。

きりりとした眼差ししか顔は見えませんが、この訓練に臨んでいる自衛隊員の
激しい気迫は十分に読み取れます。
おそらくこの隊員の知人であれば彼が誰かもわかるに違いありません。

詳細写真が撮れたので一つ気づいたことを言うと、この隊員の半長靴を見て下さい。
こんなフィールドを連日駆け回っているのにも関わらずピカピカですね。
自衛隊では旧軍の昔から「靴を磨く」ということに大変こだわるのだそうです。
この半長靴も大変精魂込めて毎日磨くのだそうですが、爪先以外は光る素材ではないため
この爪先をいかに光らせるか、が各自「腕と工夫の見せ所」なのだそうですよ。

また、彼の装備しているポケットがたくさんのベルト(ベスト?)ですが、

空挺館で見た「義烈空挺隊」の隊員のものに似ているなあとふと思いました。


 我が精鋭のヘリ部隊が順番に敵陣に攻撃を加えた後、
CH-47、通称チヌークが着陸。

ちょっと写真大きすぎましたかね。



後ろのハッチが降りていきます。



中から降りた隊員がロープを巻き取り・・、



中からバイクが・・・!

これは偵察用のオートバイで自衛隊では「オート」と称します。
つまりバイクのことを「オート」という人は高確率で陸自隊員です。

バイク、いやオートにもちゃんと偽装しています。

この状態で出て来たということは、ヘリの中でもう既にエンジンをかけ、
またがったまま待機していたということなんですね。




一列縦隊で4機のオートが放たれました。

彼らは日頃、ウィリーやアクセルターン(後輪を浮かせて滑らせ一瞬で向きを変える)、
段差を超えるための激しい訓練を行ない、また隊内での技能大会で腕を磨きます。



オートにはオート専用のヘルメットがありますが、
こちらは防弾能力がないため、本日の状況には鉄兜着用で臨んでいます。

ちなみにこのまま公道に出たら「ノーヘル」でおまわりさんに捕まってしまうのだとか。
道交法でいうところのヘルメットの基準を満たしていないからですね。



偵察隊退場。
この偽装も、各自が工夫するもので、やはり「巧い下手」がでるのだとか。
だいたい陥り易いのは「やりすぎ」「盛りすぎ」で却って目立つこと。
これは自衛隊に限らず一般社会でも・・・、
たとえば女性のメイクやファッションにも全く同じことが言えます(笑)




向こうに見えるフェンスの向こうには、近隣住民の見学者が!(笑)
ここ、金網越しとはいえ凄い至近スポットですね。
写真を撮るつもりがなかったらここで見るのもいいかもしれない。
あれ?赤ちゃんを抱いたお母さんらしき人がいるぞ。
さすが習志野駐屯地の隣に家を構える主婦。
こういう主婦はきっと外に干した洗濯物に訓練のスモークの色がつくのも想定内で、

「その日外に干すのは色物」

と決めていたりするのかもしれません。

それはともかく、やってきたUH-1ヒューイの両サイドに、ギリースーツ隊員が二人ずつ乗っています。

こんな場所にこんな座り方をして、万が一墜ちたら、
いかに人間離れした第一空挺団の隊員といえども危険なのでは?

と思ったのですが、



彼らが降りた後のヒューイをもう一度撮影。



さらに座っていた部分を拡大してみると、何やら装置が二つ見えます。
なるほど。安全ベルトみたいなのをここに引っ掛けておくのかもしれません。



さらに両サイドの点検を確保するためなのか、
二人の隊員の姿が見えます。
この二人はどちらも透明のゴーグルを付け、安定姿勢を取っているようですが、
ベルトを付けているようには見えません。

つまり、もしヘリが急激に傾いたらこの二人は・・・・。
あらためて思うけど、なんて職場なんだ。

色んな意味で、自衛隊とは一般社会とは違う基準が存在するのだと思いました。



二人一組で降りていき、こちらも状況開始。
冬の訓練にはこれ暖かそうでいいですね。

わたしがこの日最初に着ていこうとしていたフェイクファーのコートも、
毛並みはともかくこんな色でした。
息子がダサいと言ったのでやめたのですが。



続いてチヌークが120ミリ迫撃砲を降ろします。



このチヌークはその後防衛大臣席の真上を飛翔するという大サービス。
報道陣カメラへのサービスであったかもしれませんね。


こういった訓練展示が毎年毎年同じことを繰り返しているのかというと、
決してそうではなかったことが二年連続で来てわかりました。

去年行なわれていたことが今年なかったり、(たとえば怪我人発生、搬送)
今年の「目玉」という展示があったり。
この「目玉」が、10式戦車の投入であることを、わたしは周囲の観客同士の会話で
初めて知ったのですが、皆さん本当に熱心です。

今年は特に観客が多かったそうですが、防衛に対する関心がこれだけ高くなっている、
ということの表れで、もしかしたら安倍首相の靖国参拝に対する近隣国の
反応、というのもそれを助長しているのかなと思ったりしました。


もしかしてCH-47の「サービス」は
報道の中にいる中韓の記者への威嚇だったりして(笑)



さて、そのチヌークがハッチを開けたままホバリング。
これは・・・・・来るか!



凄い角度。
見ている方はさほどではなくても、乗っている者には大変なものでしょう。

 

まずロープが投下されました。



続いてもう一本。
二条のロープから同時に隊員が降りてくるようです。





大きな写真にしてみました。
ヘリの中をご覧下さい。
次に降下する隊員も取り立てて身体を用具で保持しているというわけではなさそうです。
勿論降下するときも自分を支えるのは二本の脚と腕のみ。

そのために連日厳しい訓練が行なわれているとはえ、
軍事のプロフェッショナルとはいつも命がけなのだなあと改めて驚嘆します。



次々と降下。
まだ下に人がいてもお構いなしに降ります。



降下した後は二人一組になり、無反動砲のようなものを運び、



敵基地に向けてセット。



こちらは榴弾砲、装填準備よし。



こうしている間にも上空には入れかわり立ち替わりヘリ軍団が現れ、
色んな攻撃を加えます。
このヒューイの左側面にオリーブドラブ色の(この色を自衛隊ではカーキとは言わない)
箱状のものが装着されていますが、これは

87式地雷散布装置(地雷散布装置の外し方付き)

です。



マニュアルでピントを合わせるのが間に合わなくって(笑)
ボケてしまいましたが、このときヒューイは地雷を撒いているのです。

因みに日本は

対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約

に批准しているため、昔このヒューイで運用していた

87式ヘリコプター散布対人地雷は今は使うことはできません。

中国韓国北朝鮮ロシア、ついでにアメリカは勿論批准してません(笑)
それにしても、日本に攻めてこられたときしか戦闘できない自衛隊が、
地雷を使うことを禁じられるとは。

まあ、非人道的とか何とかそういうことなんですけど・・・なんだかね。

万が一日本国内に中国や韓国や北朝鮮が侵攻して来た場合、
相手は日本に地雷撒き放題。
自衛隊はたとえ敵の進路を絶つためであっても、地雷を用いたら条約違反と。

こういうのって、「自分がやらなければ皆やらないに違いない」という
九条信者の考えみたいなのが基本になっているんですけど、
この批准国を見ても「そう思っていない国」(しかも軍事大国)があるんじゃ
「使えるもの勝ち」で軍事バランスだけの問題になってしまっているし。

日本はこういうのには真っ先に批准する国で、勿論それに異論を唱える気はありませんが、
だいたいこの条約の意図からいっても、世界中が足並み揃えないと意味がないと思うんですが。




ああああ、ニンジャがもう少しで宙返りを!
怪しい動きをしたので注目していたのですがここまででした、

まあ、戦闘訓練には宙返りは必要ないので、空気読んだのかもしれませんが、
どさくさにまぎれてやっちゃってもいいのよ?



偽装網テントの下からは迫撃砲が発砲され・・・、


 
FH70もものすごい轟音を響かせて火を噴きました。

FH70は、防衛省により「サンダーストーム」という、
この轟音を聞けば納得してしまう愛称がついていますが、
隊員たちは「エフエッチ」とか「エフエッチナナマル」と呼んでいるとか。

制作にはフォルクスワーゲンが参加しているそうです。
APU(補助動力装置)ということなのでつまり車の部分かな。 



FHの隊員たちをアップにしてみました。
偽装メイクしてる人としていないように見える人がいます。
まるでしていないように見える・・・ナチュラルメイク派?



03式中距離地対空誘導弾登場。

純国産の中距離防空用地対空ミサイルシステムで、略称は「SAM-4」、通称「中SAM」。
標的捜索を始め、目標の追尾および射撃管制も行います。

空対地ミサイル巡航ミサイルによる遠距離攻撃に対処する能力も有し、 
対空戦闘指揮統制システムとのデータリンクによって更なる戦闘力がアップ。

去年の降下展示の日、まわりにいた隊員に見学者が「ミサイルはどれくらい飛ぶのか」
と真面目に聞いて「秘密です」とあっさりあしらわれていたのを見ましたが、
この射程については2010年に行われた下志津駐屯地での展示にて、

千葉市の当駐屯地から横浜上空の航空機を射撃可能

と解説されていることや、米国における射撃試験の報道
から
射程50km以上と思われます。
つまり敵陣から何キロの設定かは分かりませんが、遠距離攻撃のために
今ここに配備された、という設定のようです。

実戦ともなると向こうから色々飛んで来そうですしね。



中SAMの隊員が無線で連絡を取って・・・



射撃姿勢を取りました。
つまりとどめを刺す態勢?

ここで大物登場。
まわりの軍オタクたちの期待に満ちた会話で知ったところの、
10式戦車が偽装してついに現れたのです。
どよめくまわりのオタクと戦車好き(笑)

しかし、いつも思うけど男の人って戦車が好きだなあ(感心)




ヒトマル、キター!!

平成26年陸自第一空挺団降下始め訓練展示、
いよいよクライマックスへと・・・。


続く。

 





平成26年度第一空挺団降下始め~防衛大臣到着

2014-01-14 | 自衛隊

前回、『敵の陣に赤い煙が』というところで終わったのですが、
あれはアオリとしてそう書いただけで、実は観客に対する状況説明、

つまり「ここが敵陣ですよ」と分からせるために焚いたスモークです。
つまりまだ訓練は始まっていません。

なぜって、この後、本日の観閲を行なう防衛大臣が来場するからです。



まだ赤いスモークの残る中、C-47が定位置に到着。
場内放送にもありましたが、このときのローターの起こす風は猛烈で、
枯れ草や土ぼこりがずいぶん離れたところまで巻き上がりました。
このレンズの汚れを見て下さい。

 

枯れ草が舞い上がっているのがはっきりと見えます。



着地に際しては、後輪の下に異常や突起物がないかを、
後ろの隊員が目視で確認を行なっている模様。



もう少しで頭から墜ちてしまいそうなくらい乗り出しています。
きっと安全綱とかはつけてないんだろうなあ。 



ハッチが降ろされると同時に中から確認をしていた隊員が降り、
外から広報の写真隊、その他駆け寄ってきました。



そして小野寺防衛大臣が・・・・・・。
敬礼で見送る隊員。



・・・と思ったのですが・・・・この方は・・・・。

小野寺大臣ではなく、防衛大学校の観閲官であったところの
木原稔政務次官にお見受けします。



そしてこちらはまぎれもなく本物。
遠目にもわかるように防衛大臣旗とともに降り立った小野寺防衛大臣。

周りにSPはいないようです。
もっともこんな状況でVIPに何かしようと考えるテロリストがいるわけないか。
いかなるテロリストも瞬時に第一空挺団の屈強の男たちが組み伏せるか、
あるいは観客の目の前で迫撃砲の集中砲火を浴び・・・

まあ、勝ち目がないことには間違いありませんから。



防衛大臣が到着したので本番開始。



まず偵察として一人が降下。



C-47からも次々降下。
降下の際には必ず

「降下降下降下!」

というアナウンスがあります。



向こうにはC−1が旋回しております。



着地。



着地の次の瞬間、脚を跳ね上げて起き上がる準備。



冒頭写真のC-1からの降下。
今降りようとする隊員は、殆どイグジット口に風圧で貼り付いているように見えます。
一瞬のことなのかもしれませんが怖いでしょうね。

「傘が開かない」

という確率は3万分の1なのだそうですが、実際に降下する隊員にとって
この3万分の1という数字はまるで「2分の1」くらい怖い数字なのだとか。
(空挺館に展示してあった漫画で得た情報)



C-130からも降下。



ところが・・・・・



このとき降下した隊員のうち二つの傘が異常接近。
傘が開かない確率よりも他の傘との接触する確率は高いでしょう。
こっちは実際に起こりやすそうな事故だけに怖いですね。
傘が絡まったが最後、二人とも墜落です。



左側の隊員が全身を使って離れようとしている様子が見てわかりました。

次に海上自衛隊よりP−3C登場。
なぜかというと、ここは本状況において

海上

という設定だからです。
赤い煙のでていたところは尖閣、じゃなくて日本のある島なんだとか。

中国から来てる特派員の記者、ちゃんとそこのところ書いといてね。



P−3Cがこんな角度で飛んでいるのを初めて見たような気がします。
この後、空自からもガルフストリームU−4が参加していましたが
電池が切れたため撮れませんでした。



地上ではあちらこちらから派手に煙が上がり始めます。
後ろの住宅には洗濯物が干してあるのですがこれは(略)

そして、CH−47からは・・・・



フリーフォールの降下隊員たちがッ!
特殊部隊?もしかして特殊部隊なのか?





極限までズーーーーム。

うーん。
黒いニンジャみたいなスーツを着ているし、これは・・・。





着地が比較的近くで行なわれたので、周りで見ていた人たちは大喜び。



このとき降下した隊員たちは誰一人転ばず、
二本脚で着地を次々に決めたため、その度に
周りからは盛大な拍手が起こりました。

「小野寺防衛大臣に拍手をお送り下さい」

というアナウンスがあっても皆拍手しないのに・・・・。



お見事。



この隊員は・・・・



ビューティフルに片足着地です。



しかし、彼らにとって降下することは目的ではありません。
このあと、敵地突破という(たぶん)本来の目標があるのです。



近くでやってくれたので非常に分かり易かった傘のたたみ方。
まず根元から紐をしごくようにしてたぐり寄せ、
傘の部分を端から中央に向かってたたんでいくようにまとめます。



次にやって来たC-1は、先に武器を落として後から人間。



黄色い開傘用の紐が何本も別れのテープのようにたなびいています。



そこへどこからともなく現れる地上部隊。
手にしているのは偽装網組み立てキットのようです。



何やらやっていると思ったら・・・・



殆ど一瞬で偽装網ができてしまいました。



このオレンジの人たちは、スモークを完全に消火する係かも知れません。
状況終了まで放置していたら冬の乾燥した空気の中、枯れ草に発火するおそれがあるからでしょうか。



そうこうしているうちに装甲車が(一応しゃれ)配備され。
敵陣に火の手が上がり始めます。



ふと左手に不穏な空気を感じて目をやると(修辞的表現)、
そこには不気味にヘリ軍団がホバリングして様子をうかがっています。



こちらにも。



地上部隊の攻撃によって随所に火の手が上がり始めたのを見届けるように、



ヘリが交互に攻撃を加え始めます。
まずカイユース、OH−6が偵察に行き状況報告してのち、



OH−1ニンジャがするすると侵入。
ニンジャのアビオニクスは機体上部の索敵サイトだったりするので、
状況を送信するためかと思われます。

一応、空対空ミサイルを搭載することもできるらしいですが、
今日は後ろに怖いお兄さんたちがたくさん控えているので、攻撃はそちらに任せます。



カイユースが旋回して帰ってきました。
いつ見てもシェイプがキュートだわ。



OH1もご苦労さま~。

・・・ってあれ?

もしかしてきみ、対空誘導弾つけてる?
増槽の外側のハードポイント、
これそうですよね?

ということは一応攻撃モードなのか・・。



まるでシンクロナイズドスイミングかダンスをやっているかのように
ぴったり動きが同じのヒューイ、AH-1。

ツイストを踊っているならこれが本当のコブラツイストなんちて。

このお兄さん方は攻撃ヘリですからね。
対戦車ミサイルにガトリング砲、グレネードランチャーにチェーンガン。
およそ武器という武器は搭載可能なコワモテだ。

というわけで、二機のヒューイが攻撃を加え・・・



アパッチロングボウ、キター!
もうこの角度見て下さいよ。
ここぞと見せ所に張り切るAH-64D。



アパッチも対戦車ヘリ。
対地攻撃をさんざんして敵地上空から引き上げ。(という設定)


入れ替わり立ち替わりヘリが攻撃を加えて、これで終わったかと思ったらとんでもない。
陸自最強の歩兵たちがこの後に控えていたのであった。

続く。





 


平成26年度第一空挺団降下始め~「この青空も敵の空」

2014-01-13 | 自衛隊

コメント欄でも少し予告したのですが、今年も行って参りました。
陸上自衛隊第一空挺団降下始めに。


例年なんでまたこんなくそ寒い(失礼)日にやるのかといいますと、
訓練展示と「今年一年の無事を祈願して」みたいな意味もあるのだそうです。
もしこれで「今年一年を占う」みたいな意味があるのだとしたら、
万が一この降下始めで事故が起こったらどうするのだろう。

などという縁起でもない話はそこそこにしますが、
去年初めて参戦したエリス中尉、この降下始めがどんなものか全く分からず
(何と言ってもその前の週に読者の方に教えてもらったというくらいで)
時間も場所も、装備諸々、全くの知識無しで状況開始してしまったのです。
そのためいろいろと反省する点もございました。

で、今年はその反省点を踏まえ・・・・・

まず、望遠レンズを買いました(笑)

レンズ交換式アドバンスドカメラであるニコン1を昨年春購入し、
そのときに選んだ10−100ミリレンズで楽しんでいたのですが、
降下始めに行くならもう少し遠くのものが写せるレンズがいいと思い、
一眼レフ用の70−300ミリをマウントアダプターで装着することにしたのです。

お断りしておきますが、わたしのこういうカメラ周辺の買い物は、
殆どカンとイメージと勢いときっかけだけで決まります。
スペックの比較とか、評価を調べたりとかは一切しません。


というわけで、降下始めの3日前にレンズが届き(おい)、
前日にちょっと窓越しに練習してみました。







いずれもかなり離れたところにある被写体ですが、まあこんなもんでしょう。
オートフォーカスで問題なく撮れるのですが、気のせいかピントが甘いので、
当日はマニュアルフォーカスと併用することにしました。

大丈夫なのか?(笑)

さて、次の用意は防寒対策。
このネタでファッションタグのエントリが書けそうなくらい悩んだのですが、
最初に着ていくことを決めていた、極寒のボストンで昔購入した、
まるでギリースーツのようなフェイクファーのコートは、息子が見るなり

「かっこわるい」

と言い放ったので諦め、二番目に暖かいと思われるモンクレーのダウンにしました。
ブーツの上にレッグウォーマー、昔スキー用に買ったお揃いの帽子。
これにマスクとサングラスをすれば完璧に外気を防ぐことができます。

・・・・・が、無駄に怪しまれそうなのでマスクだけにしました。

前日、習志野基地に電話をして、国道296号添いの正門以外に、
もう一カ所歩行者専用の入り口があることを教えてもらいました。
車で入場することもできるのですが、去年の例を見ても大変な状態は明らか、
陸自広報は

「できればお車はご遠慮いただきたいと・・・」

例年周辺道路は大変な渋滞になるので、一台でも少ない方がいいということでしょう。
去年と同じくわたしは外部の駐車場に留めて現地まで行くことにしました。

家を出たのは5時半。

まだ真っ暗です。

ところが湾岸線の最寄り出口が数キロの渋滞となっており、
ランプを一つやり過ごして戻ってくるなどしていたので、
現地到着は7時過ぎになりました。

門のところにたどり着くと・・・・



すでに50人ほどの人が列を作って並んでいました。
広報の方によると、

「早い方は6時から並んでいます」

ということなんですが、果たしてその必要があるのか?



なぜなら、この門から入って荷物検査を終えるやいなや・・・



並んでいた人たちが教習所を通り抜けて走る!



走る!!



走る!!走る!!!

つまり、中に入ってから走る気なら、わたしのように7時過ぎから並んでいる人を
ごぼう抜きにすることができるんですね。

しかし、なんで皆がこんなに悲壮な様子で走るのか、というと、
案外「一番前の場所」を占めることのできる人が少ないからということがわかりました。
(今年の教訓)

一番前に着いた人は、とっとと自分の荷物で陣地を作り、カメラを立てて、
横に幅広く場所を取るので、あっという間に前列は埋まってしまいます。
わたしは「走っている人に少々抜かされるくらい」と思って悠々と歩いて行きましたが、
案外ぎりぎりだったりしたんですねこれが。



取りあえず空いているところに場所を取ったら、
ここが斜めの傾斜地でした(笑)
小さなパイプ椅子に座っていたので案外快適でしたが。



それにしても、去年の降下始めはデジカメで参加しているんですよね。
あれから一年。
三脚を持って朝から並び、自衛隊イベントに参加する立派な「自衛隊カメラオタク」になってしまった。

そのわりにはカメラには全然詳しくなってないのが辛いところですが。



ロープの外側は警備の隊員が見回って、
外に出たり通路を塞いだりしないか点検しています。

隣は一人の人が大きなシートを敷いてねていたのですが、
後になってそこに6人くらいが詰めかけていました。



しかし、食べた後のゴミをこうやって人の目の前に放っておくのは
何となくあまり嬉しくないのでやめていただきたかったです。
風があったら残りの汁ごと飛んで来そうで。



この望遠レンズで撮るとこれくらいが限界なので、
今回広い場所を撮るのにはソニーのデジカメRX-100を併用しました。



ちなみに最初のころの人の様子。



これも始まる前。
どんどん人が増えて来て、私の後ろは人が4重くらいになっていました。
わたしは一番前なので後ろの人のことを考えて立たないようにしていましたが、
最前列なのにずっと立ったままで(しかも縦横でかい人だった)、
首から下げたバズーカカメラをしょっちゅうロープに当てるので、文句を言われている人がいました。

まあ「早く来た者の権利で、立とうが座ろうが俺の勝手」ってやつなんでしょうけど。



マスコミ陣も場所取りでもめたりするのかな(笑)

しかしどうせ取材ったって、訓練のことより小野寺大臣がなんと言うのか、

あわよくば中国様韓国様にいいつけるネタとか火がつくネタを探してきてるんでしょ?

という目でいつもマスコミを見るようになってしまったのも、
全てマスコミの日頃の行いのせいで
す。

この日、入場待ちで並んでいる人たちが同じ門から入るテレビ局の取材カーに向ける視線は、
それはそれは冷ややかなもので、ただでさえ寒い外気がさらに冷たくさえ感じたのは、
決してわたしの思い過ごしではなかったと思います。



待ち時間を利用して新しいレンズでの撮り方練習。

遠目にもいかにも寒そうに歩いている隊員がいたのでパシャ。
陸自隊員でもこんな朝は寒いんだなあ・・・・。

当たり前だ、彼らも普通の人間だ、って?

いやいや、十分普通じゃありませんからこの人たち。

そのことを、わたしはこの日訪れた空挺館でいやというほど知ることになります。



まさか200メートルは離れた観客席から望遠で撮られているとは

夢にも思わず談笑しているイケメン隊員たち。

真ん中の隊員は迷彩が違うようですが、空自ペトリオット部隊所属なんでしょうか。



現場到着したら偽装網を片付けているところでした。

これは本日の予行演習を行なっていたということのようです。
いったいこの人たち何時に任務が始まるの?



と、白旗持った隊員現る。
いやー、このレンズ優秀だわ。



かがみ込んでちょっとかわいいですが、これは

訓練でここからスモークを出すために仕込みをしていたようです。



こちらは偽装網を積み込んで片付け終了。




小野寺防衛大臣始め、VIPが乗ったCH-47が着陸し、歩く部分に水まき。

ここにヘリが着陸すると、枯れ草が舞い上がって大変です。
ローターを回したままここをVIPに歩かせるので、このような配慮を。

なんてきめ細やかな配慮。
これがお・も・て・な・しの心ってやつですか。



といっている間にも回りにはものすごい勢いで人が増えてきます。

使用航空機も上空に次々と飛来を始めました。



背嚢に偽装した部隊が準備のため登場。

極限までアップにすると、彼らは偽装メイクしているのが分かりました。



チヌークさんが飛んだり降りたりしていましたが、そのうち一機は

VIPのお迎えに行ったのかもしれません。

さて、靴の中に貼るタイプの使い捨てカイロを入れているのに、
それがまったく効かず、足先がジンジン痺れてくるような寒さに耐えること

2時間半。

やっとのことで降下始めが開始されました。



まずは試験降下。

一人がお試しの降下をします。

ところで婆娑羅大将、見てくれてます?
ローターが奇麗に回っている映像が撮れました。
しかも、今まさに降りんとしている隊員の姿までばっちり!



カメラ本体は変わっていないので、これはレンズのおかげかな。
ああレンズ買ってよかった~。



お試し降下員、まっすぐきれいな降下を見事に決めます。
この日は風がほとんどないようで、降下日和だったのではないでしょうか。 



一人で降りて一人でパラシュートを持って、一人で走って行きました。



状況の合間にもせっせと目につくものを撮りまくります。

こちらはいかにも精強無比な雰囲気を漂わせる隊員たち。
三人とも左腕に日の丸が見えるような気がするんですが・・・。

はっ!もしかして派遣部隊?



さて、まずは団長降下。

指揮官先頭の自衛隊は団長といえども現場を任せて
自分はデスクに貼り付いていることなど許されません。
というわけで、先頭切って降下をすることになる、と去年書いたのですが、
去年団長降下した前田陸将補は、確かフリーフォールを・・・。

今回降下した第27代第一空挺団団長の岩村公史(きみひと)陸将補は、
なんと昨年12月、つい一ヶ月前に着任したばかリ。

辞令が下ったとたん、降下始めの団長降下に備えて特訓が始まった!

というようなことはなかったかな。
今回の団長降下は自動で傘が開くように、開傘のフックを掛けてイグジットしてます。 
機体から出ているように見える黄色い紐がそうですね。

ちなみにフリーフォールをするには資格がいるのだそうで、
前田陸将補はこれをお持ちだったということのようです。



フリーフォールは傘のコントロールが難しいのか、

去年の団長降下はくるくると回りながら降りて来ていました。

若い隊員と違って「腕が落ちている」のだと思い、

「だめじゃ~ん」

などと気軽にヤジを飛ばしていた去年の観客どもに一言その難しさを言ってやりたい。
(自分も含む)

とにかく、今年の団長降下も無事終了。



窪地に降りたのでちゃんと二本足で立てたかどうかは分かりませんでした。

勿論降りるや否や他の隊員が駆け寄り、傘をたたんでくれます。



団長降下終了後、堰を切ったように始まる降下訓練。










全ての隊員は降下後このように前身に傘を抱えて走って退場。




そして、敵を想定した訓練の開始です。

この赤旗と赤いスモーク部分が敵の陣。

♪この青空も~敵の空
この山河も~敵の陣
この山河も敵の陣♪


という歌がありましたねそういえば。

去年の訓練展示のとき、この向こう側に見える民家には
たしか

洗濯物が

干してあったと記憶するのですが、こんな日に洗濯物を外に干したら、
カラースモークの色がついて赤くなったりしないのだろうか。

とエリス中尉がいかにも主婦らしい心配をしている間にも、
平成26年度陸上自衛隊第一空挺団の訓練、状況は開始された!


(続く)








 


映画「ハワイ・マレー沖海戦」~皇国の興廃繋りて此の征戦にあり

2014-01-12 | 映画

本作は「戦争映画の名作」と絶賛されます。

しかし、もし戦争、真珠湾攻撃なりマレー海海戦なり、そういった作戦や
軍艦や航空機、 そして何より海軍に何の興味も知識も無い者が観れば、

「我が軍の勝ち戦を誇りつつ、ついでに予科練の人員募集もしてしまおう」

という海軍制作の国策映画にしか見えず、(実態はそうなんですけどね)

その目的ゆえ評価できない、となってしまうかもしれません。

で、別のエントリでいくつかのこの作品に対する感想を抜粋してみましたが、
どうも、この映画の評価の高低は、軍知識の有る無しに比例しているように思われました。

つまり知識が深ければ深いほど、この映画に表現されていることや、
制作者(監督と特撮)の意図が理解でき、
従って面白みも感じるのではないかと。

通り一遍の知識しか持っていないと、いわゆる「国策主義的な部分」、
たとえば忠明と義一の会話や、「帰る燃料がない」と報告する部下に、
隊長となった忠明が「帰ることを考えるな」というような部分だけしか印象に残らず、
従って誰かが書いていたように「嫌悪感が湧く」「喜んで見る人の顔が見たい」
などという評価にしかたどり着けないのではないだろうか。

とどのつまり、見る人間があの戦争をどう考えているかで、
この映画の評価も決まってくるのではないかと思うのです。


わたし自身は、当時海軍が海戦当初のこの勝利をどう自己評価していたか、
ということがわかるだけでも、
歴史の証言として貴重な作品であると思っています。

 

こちらは食堂。
主計長と軍医が待機しています。
両者ともに、背中に何か背負っていますが、これはなんですか?
酸素ボンベでもないだろうし・・・救命具かな?



握り飯を作る時間が2時間25分5秒、食べる時間が21分11秒、
などと主計兵から報告を受けております。

糧食を作る時間をストップウォッチで計っていたのは
世界広しと言えども日本海軍だけだったのではないでしょうか。



軍医長と主計長がそんな会話をしていると、艦内放送が。
いよいよ来ました。



皇国の興廃此の一戦にあり。



各員一層奮励努力せ・・・・

ん?

ちょっと待った。
なんだっていつの間にか日本海海戦の電文になっているの?

この真珠湾のときの激励電文は

皇国ノ興廃繋リテ此ノ征戦ニ在リ
粉骨砕身各員其ノ任ヲ 完ウセヨ

であったはずなのに。(当ブログ掲載の電文コピー参照)
こちらはどうしても「日本海海戦の二番煎じ」感が拭えないからですかね。


それから、わたしがここで笑ってしまったのがこの中国語翻訳。


所有士官兵在午夜零時開始備戦

って・・・。
わたしのかすかな中国語の知識によれば、これはどう見ても

「士官と兵は今夜零時に開戦の準備をせよ」

って言う意味ですよね。
どうしてこんなことになってしまったのか考えるに、
中国人には「奮励努力」が聞き取れず、「奮励」の「れい」だけを聞いて

「おお、つまり零時に準備せよと指示しているわけアルか。明白了」

と早合点してしまったってことらしいですねえ・・・・orz




決して豪華なものではないですが、せめてもの尾頭付き。

 

主計士官、軍医の顔も見えます。
皆で本作戦の成功を祈願して乾杯。

 

下士官兵たちも乾杯。
いつもは作業着ですが、全員が第一種軍装を着用。
義一は自分に次がれた清酒を愛機に注ぎに行きます。

 

操縦席を見れば、そこにはおそらく母が与えたのであろうお守り。



お守りに頭を下げてから、義一は操縦桿に清酒をかけます。
日本海大戦を描いた「海いかば 日本海大海戦」では、
砲郭に皆で集まって、砲身に清酒を注いでいました。

ことに及ぶとき、お神酒で「清める」というのは、
神事からくる日本人の精神に備わった儀式です。

先日、アスロックの実験成功を祈願する絵馬の写真を
読者の婆娑羅大将が教えて下さったのですが、科学の粋を集めた
現代の護衛艦でもやはりこういうところは「担ぐ」んでしょうねえ。



寝床で「もうすぐ切りのいいところだから」と本を読みふける同僚に、 

「きりをつけて往くと死ぬぞ」

と縁起でもない冗談を飛ばす義一。
本当に帰ってこなかったらどうすんだよ~。



そしていよいよ決戦の朝。



艦橋には人がぎっしり。



5時になったので攻撃隊準備、とか言ってます。

あの・・・・もしもし?

外はすっかり明るくなってるんですが、こんなことでいいと思います?
実際に第一攻撃隊が飛び立った時間は12月8日の午前1時半ですよ?

余裕ぶっこいていたと映画では強調したかったのか、全く時間の整合性を無視。

もっとも、このときは日本はまだ戦争真っ最中だったので、
それもこれもまだ詳細は
「機密」で、
さらに今後の作戦を読まれることのないように、という配慮かもしれません。




こちらもさんさんと明るい中、整備を行っております。
実際は彼ら整備兵たちは寝なかったのではないでしょうか。



ようやく起き出して「良く眠れました」などとのんきな挨拶。
それにしても義一役の伊東薫は飛行服でいるときが一番凛々しく見えます。



皆代わる代わる神棚の前で頭を下げます。
キリスト教徒は知りませんが、仏教徒でもお正月には神社にお参りするのが日本人。
ましてや大事を為すときには神棚に頭を下げるのは当然のことです。

現代の護衛艦にもあるってご存知ですか?
わたしは「ひゅうが」でこの神棚を見つけました。
近くに立っていた水兵服にこれを拝むことはあるか、と聞いてみましたが、
とんでもない、といった調子でありません、と答えました。

でも、きっとお正月には拝むんだろうな。安全を祈願して。



手前の第一種が飛行長。

「だいぶガブってるな。発艦できそうか」
「発艦できると思います」



さて、いよいよエンジン始動です。
言っておきますが、これ、本物ですからね。

 

整列前、ふと面を上げて、翩翻と翻る軍艦旗を見上げる友田。
ここはカラー映像が欲しいところです。

冒頭でも述べたように、こういうシーンや、たとえば古兵の分隊士が、
整列の号令がかかる中持っていたタバコを最後に思い切り吸込んでから火を消すシーン、
こういった細部に目を留めるか、何の意味をも見いださないか。

こういう違いはやはり観るものの「戦争」に対する意識に
大きく関わってくるものであるような気がします。



第一攻撃隊出発前に訓示をする艦長。

後ろに「皇国の興廃」がチョークで書かれているのですが、これに注目。
こちらはよくよく見ると

皇国ノ興廃繋リテ此ノ征戦ニ在リ
粉骨砕身各員其ノ任ヲ 完ウセヨ

という、この真珠湾攻撃の際打電された実際の電文が書かれています。
こういう細かいところに気づくと、俄然裏側でどんな「配慮」があったか、
想像できて楽しいですね。(わたしだけかな)

先ほど書いたように映画では「皇国の興廃」のあと、
日本海海戦で秋山真之参謀が作成した


「・・・此の一戦にあり 各員一層奮励努力せよ」

と続きました。
これはこのころ真珠湾攻撃がどのように行われたか、
今の日本人より知らなかった民衆が


「おお、このときの激励電文は、あの大勝利をおさめた
日本海海戦のと同じだったのか」


と感じ入る、ということを期待して決定されたものと思われます。
ところがあちらを立てればこちらが立たず。
これをすることによって、今回の電文の作者が「面白からぬ」事態になります。
その辺の?下っ端であれば我慢していただくしかないでしょうが、
実はこの真珠湾の電文を作成したのは、当作戦参謀であらせられるところの

宇垣纏中将(最終)

でした。

オリジナルを作成した秋山真之が参謀だったことからもわかるように、
こういう文案の作成は参謀の職務なんですね。

まずい。まずすぎる。
この映画に関わっていた海軍の関係者はどう転んでも宇垣纏より格下。
しかも映画完成のあかつきには、宇垣閣下にもお見せせねばならんというのに。

「ああ~どうするよ。宇垣閣下も見るんだって。そりゃ見るよな」
「だってこんなパチもんみたいな電文聞かされても国民はピンと来ませんし」
「そりゃそうだけど・・・やばいやばいよ。今からそこだけ撮り直せんのか」
「無理っす。大河内先生の撮影スケジュールはパンパンっす。
 撮り直しなんて言ったら大御所だから機嫌悪くなって今後の撮影にも支障が」
「しょうがない!もう一回訓示の場面あるだろう!そのとき後ろに宇垣電文書け」
「なるほど!いい考えですな」

というやり取りがスタッフの間で行われ、(※フィクションです)
こういう大岡裁きと相成ったのではなかろうか。


映画完成後、宇垣纏聯合艦隊参謀長は、この映画を(なぜか)
戦艦「大和」の艦上で鑑賞しました。

自身の「戦藻録」で、宇垣は「素晴らしい出来」だとこの映画を
大絶賛しています。(Wikipedia)

宇垣纏自身がこの「激励電文」の扱いに気づかなかったわけがありません。
電文が秋山案に変えられていたこと、その代わり言い訳のように?
大河内伝次郎の訓示シーンの後ろに自分の電文が書かれていたことを
彼はどのように受け止めたのでしょうか。


宇垣自身、世紀の作戦の激励電文を作成するにあたっては、「秋山電文」の呪縛から
どうしても逃れることが出来ず、

「どうひねくり回しても、やっぱりこうなってしまう」

と嘆いた末の、いわば「妥協案」であったことを痛感していたようです。
「大和」艦上で行なわれた試写会では、
この点について全員が腫れ物に触るように黙っていたのかしら。

もし空気読まないことで有名だった井上成美中将がいたりして

「電文が秋山閣下のものでしたな」

なんて発言していたらおもし・・・いや気まずかったでしょうね。



 

 


映画「ハワイ・マレー沖海戦」~開戦前夜

2014-01-11 | 映画

ふう。

主演の伊東薫や母親の絵はちゃっちゃと描けたのですが、
姉きく子役の、この原節子の絵にはかなり手間取りました。
いくら厳密に細部を拡大しても、なかなか絵が写真に似てくれないんですよ。
美人の絵は描き易いと思っていましたが、少しの線の狂いでいきなり老けたり、
受け口になったり、どこのおばさんだ?という下品な顔になったり。

つくづくこの原節子の顔というのは完璧にできていて、神様の設計の中でも
「少しでも狂ったらこうはならない」という紙一重の基準を
全て満たしている稀な例なのだと変なところで実感することになったわけです。

その苦労の割には大したことないな、と言う声も聴こえてきそうですけど。


さて、皆が東京弁をしゃべる日本のどこかの地方を郷里にもつ(笑)義一は、
「兄さん」と呼んで親しんだ村出身の海軍士官立花忠明から

「自分を無にし忠勇を尽くすことが大和魂である」

ということを「腹の性根」に据えることを説かれ発奮します。
そして、また任務へと戻っていくのですが、冒頭画像は
その弟の出立の支度を手伝いながら彼の身を案ずる姉。



「世間じゃ大戦争が起こりそうって言ってるじゃないの?」

姉の言葉に対して

「さあどうかな。俺たちには分からん」

と笑い飛ばす義一。
実際はどうでしょうか。
かれは艦攻のパイロットとして真珠湾に赴くという設定です。

真珠湾攻撃は浅海面での雷撃という、これまでにない攻撃法をとったため、
艦攻隊が鹿児島県の錦江湾で大規模な雷撃特訓をしており、鹿児島の人たちは
皆それを知っていた、というのは有名な話ですね。

この段階で、艦攻のパイロットである彼が「何もわからない」はずはないのですが、
勿論このときには後のミッドウェーと違い、海軍は徹底的に防諜網を張り、
情報が漏れないように細心の注意を払ったので、
当然のことながら攻撃目標がどこであるか、そもそも開戦するのか、
ということは直前まで知らされなかったものと思われます。

そもそも軍人が任務のことを家族に話すことを厳に禁じられていましたし。


さて、場面は義一乗組の母艦。
昭和16年晩秋、という設定です。



艦内では早めの大掃除・・・・・ではなく、戦闘準備が始まったのです。



艦内の絵画や家具など、インテリアの類いは運び出されます。
その代わりに積み込まれるのが医療器具、薬、食料。

皆さん。

「あの」愉快な戦争恋愛映画「パールハーバー」の「赤城」艦内では、
デスクの上に民芸調の小引き出しや、安定の悪そうな顔くらいの大きさの
机上マイク、さらには兵員の寝室にはトランクの上にお経やろうそく、
ドブロクのカメに携帯型マイ仏壇などなど、
戦闘態勢に入らずとも少し時化たら船内に散乱するであろうグッズが
盛りだくさんに飾られていたのを覚えていますか?

監督のマイケル・ベイが、この「ハワイ・・・」の円谷特撮チームが
プールを作ってそこに軍艦の模型を浮かべているのを本物だと思い込み、
それを「パールハーバー」の軍令部作戦シーンに採用したという有名な話がありますが、
どうやら連中は映画のメイキングだけを見て、この映画そのものは見なかったんですね。

この映画の戦闘に向けた重要な「お片づけシーン」を見たのにも係らず、
あのような「赤城」艦内の描写を思いつくはずはありませんから。
 





戦闘に向かう戦艦にとって重要な「台所」の用意も描かれます。
大根などの野菜がたくさん積まれていますが、
主計科にとっての戦争は「兵員の糧食を作ること」。



そして、「戦闘準備」としてなぜか給料の支給。

「一飛、山田太郎!」

などと、自分の階級を言い、受け取って中身を点検、敬礼。
下士官が自分のことを、たとえば水兵なら「一水」というのは知っていましたが、
飛行兵曹が

「一飛」「二飛」

などと言うことを初めて知りました。
しかし、どうして今から戦争に行くのに給料が配られるのか・・・。

それは、このあと待機しているランチで、内地へそれを送ってしまうため
でもあるようです。
これらの準備が終わるや否や、



爽やかに朝の挨拶を交わす左官たち。
「おはようございます」のはずなのですが、フネの上なので
海軍軍人はみな「おおす」とか「おはす」など、
極端に省略したあいさつをしております。



「主計長、大変だったでしょうあなたのところは
片付きましたか」

この中国語字幕の「様」のつく敬称は、おそらく「主計長」が聞き取れなかったのでしょう。
なにが大変だったのかは分かりませんが、主計士官は元々軍人ではなく、
おそらくこの主計長も帝大出の短期現役士官なので、色々と

「娑婆へのけじめの付け方」

が軍人よりも厄介だったのではないか、と心配しているのでしょうか。



それに対して主計長は

「いやあ、もうきれいさっぱり、心の中まできちんとしましたよ」

と朗らかに答えます。
短現将校といえども本ちゃんの軍人のように、「覚悟」のうえで乗り組んでいた、
ということを言いたかったようです。

声をかけた将校(おそらく軍医長)はやたら朗らかに

「おお、従兵長気が利いてるなあ」



と、これは生けられた菊の花を指すのでした。

まあ、マイケル・ベイがこれを見なかったのは確実ですが、彼ならずとも、
日本人以外には理解できないシーンが多かろうと思います。
このあたりの描写もその一つで、今から戦闘に向かうにあたって
各人がいざという事態を想定し身辺整理をするのはわかるとして、
それをすませることががなぜ「きれいさっぱり」なのか。
少なくとも禅や仏教思想を理解していなければこれはわかりにくいかもしれません。

あるいは「死者のための花」である菊の花が軍艦に飾られているのをを見て
「気が利いてる」と喜んでみせる感性もそうでしょう。


アメリカの国策映画、たとえば「東京上空30秒前」などでは、
作戦を指示する「日本通」の将校が日本の想い出を語りついでに

「嫌な奴だった」

と笑えない冗談を言ったり「決して捕虜になるな」と日本人の残虐さを示唆したり、
つまり相手に対する敵愾心を煽ってやる気を出している様子が書かれましたが、
やはり日本人の感性は戦闘は『勝負」であって相手を憎むことではないんだなあ、
とこういう表現からも分かります。

「アメリカ人をやっつける」

というより、彼らに取って大事なのはまず「覚悟をすること」、そして
「自分の任務を果たすこと」であって、結果としてそれが
「アメリカ人を殺すこと」
ということになるのを、高邁な「国を守る」目的の向こうに置いているというか。

スピルバーグ&トム・ハンクスの「ザ・パシフィック」では、もういやになるほど
ジャップ!が繰り返され、繊細だった青年ですら戦地で過ごすうちに
日本人をひたすら憎み、人間とも思わず、残忍な殺戮に喜びを感じるようになる、
という戦争の極限におかれた人間の狂気が描かれていましたが、
日本の戦争もの等を見ていても、感情の発露が全て「敵への憎しみに向かう」
というメンタリティは日本人のものではないのかも、と思えます。

あくまでもそれは「同じ状況におかれたときの相対的な比較」に過ぎず、
後に、国内で連日空襲に何万人もの人々が死んでいくようになると、庶民ですら
「鬼畜米英」を口にし、降下したアメリカ人パイロットをリンチして殺してしまう、
ということが起こってくるわけですが・・。




下士官の部屋でも義一が「給料を故郷に送ったか」と聞かれ、

「送りました。取っていてもしょうがありませんから」

と答えています。
このときに下士官たちが今から会戦、を確信しつつも
どこに連れて行かれるかはわからず、皆で予想を述べ合います。

そして「早くやってくれんと待ちきれん」などと呵々大笑するのですが、
義一らこれが初陣となる若い飛行兵曹たちは神妙な顔つき。
中国戦線ですでに実戦経験のある下士官たちと違って、不安を隠せません。

 

この映画の映像は、特撮と実写を組み合わせていて、白黒のせいもあって
どこが実写でどこが模型なのかが判然としないのですが、
この二つの写真はどうも本物ではないかと言う気がしました。

とくに右側、空母の砲座がはっきりと映っていますし、
セットにしては細密すぎること、そして映っている甲板の二人がやたら本物っぽい。

そして何と言っても、どちらにも海面に航跡がはっきり映っています。

これはこのときスタッフが唯一つ取材を許された「鳳翔」のものである可能性大。



しかし、義一の勤務している「赤城」であろうと思しきこの空母のですが、



これは艦橋が左舷にあるらしいのでそのように判断した次第。
左舷に艦橋があった空母は「赤城」と「飛龍」だけです。

普通フネというものはどんな形や大きさであっても、接岸は左舷で行います。
しかし空母の慣例的に艦橋は右に寄せることになっており、
航空母艦は右舷接岸することも多いということです。
そういえば、わたしが観艦式で乗った「ひゅうが」も右舷接岸してたな。
航空母艦じゃないけど。


空母の設計で最も大変なのは「煙突をどうするか」です。
煙突の排煙がデッキにかかっては、飛行機の発着に支障を来すからですね。
そこで、日本海軍は煙突の形を下向きに、舷側から出すようにしたわけですが、
一般的な接岸面である左舷にそれをするわけにいかんので、右舷側につけます。

するとどうなるか。
フネのバランスは右舷側に傾いてしまいます(笑)

「赤城」「飛龍」建造の頃には、大型機が次々と艦載されるようになり、
フックを使う着艦はともかく、発艦に要する甲板の長さがより要求されるようになりました。
このため、艦橋を煙突と反対側の左舷、着艦に邪魔にならぬよう真ん中におく、
というのが最もいいんでないか?と設計者は考えたわけですね。

ところが実際やってみると、艦載機のパイロットからは、煙突と艦橋のせいで
後方の気流が乱れ、着艦し難い!とクレーム続出。
赤城と飛龍の搭乗員たちには「そんなもの、軍人精神でなんとかしろ!」
とばかりに放置。(だってもうどうしようもないし)

以降の空母にはその貴重なご意見が反映され、結果「赤城」と「飛龍」だけが
左舷に艦橋を持つことになったのでした。どっとはらい。




この空母の模型はなんと実物大。
前回着艦訓練の様子の写真を挙げましたが、
こういったシーンのために野外に空母の実寸大模型を作ってしまったということです。

対空砲座しか作らないのでそこばっかり写していた「男たちの大和」
のスタッフが聞いたらきっと羨ましがるでしょう。


ただし、模型制作にあたって海軍はスタッフに実物の空母を見せませんでした。
見ることが許された「鳳翔」はそのときすでに旧式艦に属するもの。
後年、山本監督も円谷特撮監督も、この海軍の仕打ちを恨みつらつら述懐しております。


しかたがないので「ライフ」に載っていたアメリカの空母を真似したら、
試写会でこれをある皇族(たぶん『あの方』だと思われ)が見て激怒し、
あわや上映中止となりかけ、両監督「はらわたが煮えくり返った」と・・・。

全ては海軍の「活動屋なぞ信用できない」という蔑視から来たことですが、
戦後の映画関係者に左翼思想が多いのはもしかしたら
こういうことも関係あったかも、と考えてしまうのは穿ちすぎでしょうか。






さて、ようやくおもむろに出てくる当艦艦長大河内伝次郎
背は低そうだけどさすがの大物、この男っぷりが艦長の貫禄十分。
まず、総員で皇居に向かって遥拝をします。

そしてその後、初めてハワイを急襲することが、
艦長から総員に対し命令として発せられます。

「武人の本懐何物かこれにすぐるものあらずや」

これはこのとき真珠湾に向かった海軍の軍人の総意であったことでしょう。
このとき、この訓示の中に「乾坤一擲」という言葉が出ますが、
字幕がそのまま「乾坤一擲」でした。

乾坤一擲、ってもしかして中国成語の四文字熟語だったんでしょうか。



以前、甲板での軍歌行進の写真を見たことがあり、そのときも
やはりこのような四角い円陣?を組んでいたので、

「この隊形で行進するのは大変だろう」

と思ったものですが、何のことは無い、フネの上の軍歌行進は
その場足踏みで行うことがこれを見てわかりました。

中国語の翻訳者にはこの軍歌がなんであるかわからなかったようですが、
わたしにもわかりませんでした。

因みに、この「軍歌行進」ですが、自衛隊でも教育隊のうちはするんですってね。
行進はしないし、歌うのも「軍歌」とは言わず「隊歌」というそうですが。
ただし「軍国主義」といわれるのを異様に恐れる自衛隊は、

「どこかの国に行って戦う」

ことを想起させる歌詞は決して歌わせないとのことです。
たとえば「歩兵の本領」の、

「千里東西波超えて」

の入る4番はカット。
波超えて行けばそこは外国で「侵略」という言葉にピリピリしているから、
こういう配慮をしてしまうんですね。
で、

「散兵戦の花と散れ」

こういうのは絶対ダメだと思っていたけど、なぜかおkなのね。
とにかく、このシーンで真ん中に立ち、歌を歌っているのも大河内伝次郎です。



場面は変わり、仏印基地。
こちらはマレー沖海戦となるストーリーの始まりです。

仏印というのはフランス領インドシナのこと。
ここでひたすら待機する海軍第22航空戦隊の皆さん。



無聊を慰めるべく和やかに会談。

「待つ身は辛いなあ」
「子供のときのお正月のような気分ですね」



クレジットが無いのでこのイケメンがだれかわかりませんでした。
ただ、



この、肩にお猿さんを乗せた谷本予備少尉(柳谷寛)だけは、
士官が名前を呼んだので判明。

コメント欄に前もってこの俳優についてのその後について、
特撮ものに多く出演したということを教えていただきました。

「独特の演技をして才能を発揮。
朴訥とした雰囲気を持つ個性派の脇役俳優として活躍した」(wiki)

この映画の中で最も「キャラが立ってる」役が、この「坊さん」である

谷本予備少尉でしょう。
索敵のことを

「亡者を捜すのは商売です」

と言ったり、あるいは

「航空隊に坊主の一人くらいおっても無駄にはならんでしょう」

とブラックジョークをかまして場を和ませます。
ポスターによってはこの谷本予備少尉がバーン!とアップになっているバージョンもあり、
後半のマレー沖海戦ではこの人物が大活躍するという設定です。

 

場面は再び真珠湾に向かう空母の艦橋。
少し休むことを進言された佐竹艦長。
端正な顔をわずかに和ませ、

「全く、天佑神助というよりない」

とつぶやきます。
しかしここのところの中国語訳が酷い。

「看来天候没有好転的跡象」 

これって、わたしのかすかな中国語の記憶による翻訳でも

「天候が好転しないようだなあ」

じゃないですか?(どなたか中国語できる方、そうですよね?)
おそらく「天」という言葉と「全く」「ない」を聞き取り、
当てずっぽうで意味を当てはめたんだと思いますが、この
「天佑神助」って、中国人には理解不可能の四文字なんでしょうか。

もっともこの後、艦長は

「出るときには天気がよかったのに近づくにつれて悪くなった。
敵の哨戒機も飛んでこない。
しかし、目的地では晴れる予定だ。全く天佑神助の他にない」


と、悪天候がこちらに利したことをいっているので、
そこから類推したのだとは思われますが。

まあ、この頃と違い現代日本語では使わないものね。「天佑神助」。

とにかくここで大河内伝次郎、決め台詞を。

「もう勝ったよ。これではっきり見極めがついた」

・・・くーっ、かっこいいなあおい。

男が一生のうち一度やってみたい仕事のひとつに軍艦の艦長、
というのがあると思いますが、男ならばこれは是非言ってみたいセリフ
・・・・・なんだろうなあ。たぶん。

もっともこの映画、真珠湾攻撃が成功を収めて一年後に作られたので、
大河内艦長も外れる心配なく大見得を切れたわけですが。

なんて言っちゃ意地悪かな。



続きます。








 


映画「ハワイ・マレー沖海戦」~立花中尉と友田二飛曹の会話

2014-01-10 | 映画

昔「海軍短剣」というエントリのために描いた兵学校の学生の絵を出してきました。
元画像になったのは、兵学校を撮影した真継不二夫氏の写真からで、彼は70期の学生。
その後戦艦乗組になり、戦死したそうです。

本日お話しする立花忠明が、やはり同じように教育参考館の東郷元帥遺髪の前に
頭を下げて立つ、あの構図そのままです。

この写真が撮られた頃、映画「ハワイ・マレー沖海戦」は公開されており、
「ヒット映画として殆どの国民が当時観た」
と言われるこの映画の有名なシーンを、写真家の真継氏が意識してこの構図を決めたことは
ほぼ間違いないのではないかと思われます。

モデルになった兵学校生徒も、もしかしたら映画のシーンを思い出していたかもしれません。


さて、いよいよ主人公(というものはいないですが一応)友田義一は、
二等飛行兵曹として、ある空母に着任します。


真珠湾攻撃に参加した空母であるからには「赤城」「加賀」始め、6隻の空母のどれか、
というのは間違いないと思われますが、そこはこの空母がセットであるためわかりません。




そして転勤報告をする義一。
14名の代表になるくらいだから優秀だったという設定ですね。

この母艦の艦長を演じているのが大河内伝次郎。
出演者中一番の大物です。

・・・・なのですが、この報告を受けているのは
大河内に似ているだけの俳優です。
袖章が桜三つなので、彼の身分は飛曹長であろうと思われます。


この映画のポスターなり宣伝なりを見ると、大河内伝次郎と藤田進が

まるで主演のように大アップになっているのですが、
実際には「主演」というような演技をするわけではありません。

前にも書いたように、この映画は「海軍の宣伝」なので、俳優は誰もが、
「海軍的理想世界」の一員を構成するに留まっているからです。

ただし、映画の目的の一つ「予科練の宣伝」を重視したらしく、
ポスターには敬礼する友田の飛行服姿を使用したバージョンもあります。



自分のハンモックは自分で担いで持ち込みます。
この艦内も、全てセットが作られそこで撮影されました。



予科練時代の級友と再開した義一は皆でここの分隊長である山下大尉に挨拶に行きます。

「立派になったなあ」

とこちらも再会を懐かしむ山下大尉。



「フネがガブったら(時化で揺れたら)着艦は手荒い(難しい)ぞ。
じゃじゃ馬の背中に飛び乗るようなもんじゃ」

彼らの指導をするのは百戦錬磨の兵曹長、田代。
着任挨拶を受けていたのはこの人のようですね。

このおじさんが、実にいい味を出しております。

軍もの、ことに戦中のものでは「兵曹長」とは必ずこのような世慣れたベテランの、
ユーモアもある古参兵で、若い部下を労り叱咤しつつ導くという役どころですが、
戦後の左翼監督の戦争映画になると、とたんに「古参の兵曹」というのは、
新参兵を陰湿に虐め、リンチをするというイメージで語られるようになります。



着艦の難しさに友田たちは不安を感じます。

しかし、本ブログ「母艦パイロットの着艦訓練」というエントリにも書いたことですが、最初は

「大海に浮かぶ一枚の木の葉のように見える母艦に降りるような気がする」

着艦も、慣れればいつ降りたかわからないくらいの作業になってしまうそうです。
田代飛曹長も

「なーに、わしがすぐにどんなときでも降りられるようにしちゃる!」

と太鼓判を押してくれてます。
日本海軍の場合、空母にはちゃんとグライドパスを確認するバーが備えてあり、

それに入射角を合わせて着艦のガイドにしたそうです。

旧海軍軍人に言わせると

「アメリカ海軍のうちわみたいなので指示するよりずっと科学的方法だった

とのこと。



彼らの最初の着艦訓練を見守る艦長と分隊長。




これ、本物です。
友田の乗った九七式艦上攻撃機。
訓練なので前に二人しか乗っておらず、さらに着艦の際風防を開けたままにしている
(海に落ちたときに脱出できるように)のがいかにも本物ぽい。




着艦訓練の初歩は、タッチアンドゴー、すなわち着艦したらそのまま離艦することからです。
本当は一番最初は近づいたらそのまま上昇することを繰り返してからですが、
これは映画ですから、この「接艦訓練」から始まります。

飛行機は着艦用フックを下ろさず、母艦も着艦ワイヤーを立てない状態で行います。

以前、この着艦訓練について詳しく書いたのでそのエントリからの引用です。


第4旋回を終わり、グライドパス(降下率)に乗って艦尾に接近、艦尾上方でエンジンを絞ります。
同時に操縦桿をじわっと引き、尾輪から先に甲板に着くように操作し、
3輪ともスムーズに甲板に着いたのを確認したら直ちにエンジンを全開して発艦します。

これを何度も繰り返し、接艦に問題が無くなって、初めて着艦訓練です。

接艦を何度も行うわけは、具合が悪いと思ったらどの段階でも
すぐパワーを入れてやり直しができるので、心理的に負担の少ない方法だからだそうです。

着艦の場合はぎりぎりの判断では失敗の危険が増大するので、このような訓練をまず行い、
十分な心の余裕を与える、というわけです。
 (当ブログ 母艦パイロットの着艦訓練 接艦から着艦へより)

ところで、この時のシーン。
なぜタッチアンドゴーの場面にしたかというとこういう理由があります。

まず、この飛行機はまぎれもなく本物です。
しかし、モノの本によると

「スタッフは本物の空母を見せてもらうことも出来なかった」。

つまり、ここで飛行機が着艦しているのは空母ではなくセット。

実物大セットの上を実機がタッチアンドゴーしていた

ということがわかってしまいました。

ひょええええ。
どんだけ丈夫なのよこのセット。
というか、この映画、もしかしてものすごいお金がかかっていたのでは・・・。




さて、この訓練は夜間も変わりなく行われるのですが、この夜間訓練シーン、

いきなり「われは海の子」が、サスペンス調アレンジで流れ不穏な空気となります。

それもそのはず、ここで事故発生


ガブる母艦に、友田は着艦せず通り過ぎるのですが、
続いて着艦しようとした同期の林が着艦に失敗し殉職してしまうのでした。



義一が夏期休暇中の友明に事故について報告します。

「わたくしが思い切って着艦すれば林はあんなことにならずにすんだと思います。
わたくしは林が身代わりになってくれたような気がして・・」


義一は友明に自分のことを「わたくしは」といい、
以前は「義一君」と彼を呼んでいた友明が、
「友田」「お前は」
と、お互い軍隊調の上下を感じるしゃべり方に変わっています。
「兄さん」「義一君」ではなく「立花中尉」「友田二飛曹」の関係になったということです。
それはともかく、この友田の後悔とは

「自分が着艦していれば自分が殉職してその代わり林は助かった」

あるいは

「自分が成功していれば林もきっと成功した」

という意味なのか・・・どちらにしてもよくわかりません。
自分の着艦と事故を因果づけて思い悩むという気持ちはわからないではありませんが。

そこで友明、じゃなくて立花中尉は、

「戦友の死を悼むのもいいが個人的感情に溺れてはいかんぞ」

と叱責して、海軍軍人としての「腹の性根の据え方」について話します。



それは立花中尉が兵学校時代の想い出。
今もこの教育参考館はこのままの形で残っています。
今と違うのは階段の下に置かれた大砲。
おそらく、兵学校生徒の訓練用であろうと思われます。

今この場所には「菊水」という名の特攻兵期回天が展示されています。







このシーンのBGMは、「海行かば」。
現在ここの階段には赤い絨毯が敷かれ、見学者はその上を歩いていきますが、
当時は何も無く、従って全ての見学者は靴を脱ぎ入っていくことになっていました。
冬はさぞ足が冷たかったでしょう(笑)


感覚の違い、というのか、欧米では「靴を脱ぐのは寝室だけ」という文化なので、
こういうしきたりは彼らからはずいぶん不思議に思われるかもしれません。

日本では

「靴を履いたままでは失礼」

欧米では

「靴を脱ぐのは失礼」

という文化の違いです。



階段を上り、東郷元帥の遺髪前に礼をする立花生徒。

このモチーフは、そのまま戦後の映画「ああ江田島 海軍兵学校物語」に引き継がれ、
この映画では本郷功次郎演じる小暮生徒が全く同じように教育参考館を遥拝するシーンがあります。



現在の見学では見ることが出来ないのがこの「東郷元帥遺髪」。
この球体の中に埋めてしまっているのでしょうか。

見ることが出来ない、といえば、この教育参考館には展示していないかなりの数の
兵学校出身者の遺品もあったようです。

・・というのは、兵学校67期だった元学生の回想録によると、

「笹井醇一少佐の遺品が展示してあり見ることができる」

と確かに書いてあるのです。
もしかしたら、二階級特進した卒業生の遺品を展示していた頃があったのかもしれません。


とにかくこの立花中尉の話は、


「兵学校二年間毎日ここに通い、第3学年になるとき豁然と感ずるものがあった。
自分は自分ではない。自分は無だ。
自分の悉くは畏くも大元帥陛下のために捧げ奉ったものであると
腹の底からはっきり悟ったのだ。
これが自分と腹を作る土台になった。
この信念を腹の底にでんと据えてかかると、何を為すにも自信を持ってできるようになった。
これは日本人なら誰でもあるべきだ。
三千年の昔から脈々として伝わった日本人の血だ。
その血が大和魂だ。軍人精神だ。国民感情だ」

戦後、日本に勝ち、日本を統治することになったアメリカが、最も理解に困難を要したのが
この「自分を無だと考えるに至るほど峻烈な天皇への忠誠」であったと言われています。

たとえば特攻のように自分の命を失うことも厭わないというその忠誠は、
君主が恐怖政治を敷いて謀略的な支配をしていたわけではない日本において
その発生の過程すら君主を持たないアメリカ人には理解できないことでした。

そこで彼らは日本人が「狂信者である」と結論付けをしてこれを理解しようとしました。

つまり「天皇は神」であり、その「神」を「絶対神」とすれば辻褄があうからです。

映画「終戦のエンペラー」では、昭和天皇を訴追しないことを決定する報告をした
ボナー・フェラーズ准将が主人公となっています。

知日派といわれていた彼ですが、彼が本当に日本人を理解したのは

まず天皇が欧米諸国で考えられていたような「狂信的な現人神」ではなく、
権威の象徴であり、しかも日本人の「神」とは「ゴッド」とは違うことを知ったからでした。

明治時代以前は天皇は実際には国を治めておらず、最強の武家が天皇の上にいて
国を統治していながらも、各武家は天皇を自らの味方につけようと戦った
しかし、どの武家が天皇を味方につけようとも、国民が最大の敬意を払うのは天皇であり、
天皇以上に国民から愛着を持たれる者はこの国には存在しない

ということをフェラーズが知っていたからこそ、 天皇は訴追並びに処刑を免れた、
この映画ではそういうことを言っています。

天皇が「国」そのものを象徴するものであったからこそ、「天皇への忠義」
とはすなわち戦う意義となったのでしょうし、それを「絶対権力」への狂信的な忠誠、
としか理解できない外国人には、おそらく今後も日本人と天皇の関係性はわからないままでしょう。



さて、ここで映画は後半に入り、いよいよこの二人が戦場に赴き、
真珠湾攻撃並びにマレー沖海戦に参戦するというストーリーが始まります。



 

 


映画「ハワイ・マレー沖海戦」~日中開戦

2014-01-09 | 映画

少し間にお休みを挟みましたが、映画「ハワイ・マレー沖海戦」の続きです。

冒頭の画像は、すでに予科練を終え、下士官となった義一が「最上の名誉」と自ら言う、
「母艦機乗り」として母艦に向かうランチの中、決意に燃える眼差しを捉えたカット。


この映画の監督は、この、決してハンサムとは言い難い、
世間的には素朴な容貌をした俳優の、最も凛々しく美しい瞬間を捉えるのが巧く、
無名のまま招集されて戦死してしまったこの伊東薫という俳優にとって、
本作は餞(はなむけ)でありほとんど唯一の「俳優であった証」になっています。



さて、この友田義一が予科練に入隊したのは昭和12年(1937)という設定です。
彼が予科練で厳しい訓練を受けている間に、世界は激動し、日本という国が
戦争に突入していくわけですが、この映画はさすが官製、

当時において歴史の流れを見る人にわかりやすくポイントで解説してくれます。

飛んだり跳ねたり泳いだり剣道したりツートンしたり、という予科練の実際の訓練映像に、
日中戦争開始から2年間の主な出来事をタイトルにしてくれているんですね。

これはとても親切。

まず7月7日の盧溝橋事件を報じる新聞を予科練生が見ることに始まり、
「上海事変」の字幕が現れ、続いて




特に1937年(昭和12年)に勃発した第二次上海事変において、
海軍が上海租界の海軍陸戦隊や第三艦隊、現地の居留民を支援するために行った長距離爆撃を
渡洋爆撃の名でセンセーショナルに報道されて以後有名となりました。

・・・ということは義一が予科練入隊したのは遅くとも昭和11年?




上海事変が拡大するとき、通州事件が起こりました。
広安門事件とともに日本人の犠牲者が出、民間人を含む230名が惨殺されたため、
交戦は拡大されたとされます。

最近また南京攻略のときの日本軍による中国人殺害が10万単位で増えたそうですが(笑)
中国や南京に博物館を建てた日本の左翼にはこの事件について何かコメントを聞きたいですね。



日独伊防共協定は、1937年イタリアの加入によって日独二カ国から三国に拡大した、
「反ソ」「反共」を目的とした協定。

この後「南京陥落」、そして昭和13年、徐州会戦
国民党軍とのあいだで徐州を勝ち取ったこの戦闘には、
前にも書きましたが、東久邇宮 稔彦王が参戦しています。


若き日フランスではモネに絵を習ったり愛人との生活に耽溺するなど自由奔放で
度々その行いにより臣籍降下を自ら願い出たり検討されたり、
あるいは戦後「一億総懺悔」を唱えて自由主義者と言われたこの皇族軍人ですが、
このときは陸軍大将として第二軍の指揮をしました。

フランス留学のときにクレマンソーに米国が日本を潰そうと野望を持っていることを聞かされ、
帰国してから日米開戦を留まるようを関係各所に説いて回ったそうですが、
西園寺公望以外はだれも耳を傾けてくれなかった、というエピソードがあります。

そして

「ミュンヘン会議」

「バイアス湾敵前上陸」

「広東陥落」

バイアス湾とは中国南部、南支那海に面する湾で、もともと海賊がおり、
中国の軍部が割拠する地域でしたが、日中戦争中の1938年、
陸軍がここに上陸を成功させました。
続いて

「汪兆銘和平」 

「日英会談」

汪兆銘は、蒋介石ら中国首脳陣が奥地に逃げてしまった時期に、
実質的な行政を行った人物で、犬養道子さんがその想い出で語るように
知日派で、日本と平和的な解決を求めて交渉に努めた良識的な政治家でした。

しかし戦後、中国の平和を想い日本との架け橋となっていたおかげで
「漢奸(漢民族を裏切り他国のために尽くした賊の意)」の汚名を着せられ、
つい最近まで「皆が唾をかけたり蹴ったりして辱めるための屈辱的な銅像」
があったそうです。

近年、彼の評価が変化しつつあり銅像は2002年に撤去されました。

杭州でも誰か忘れましたが夫婦で罵られている銅像があり、観光客が
蹴ったりしているのを見たことがありますが、日本人にはどん引きする光景でした。

やっぱりこの人たちとはつき合えんわ。(結論)




ノモンハン事件は1939年日ソの間に発生した国境紛争。


これらを紹介しながら、義一の予科練生活が過ぎていったことを暗示します。
そして・・・。



友田善一の実家にはお手伝いが来て正月の用意。
父親はすでにいませんが、決して貧農というわけではなさそうです。



お正月に備えてついた餅をこねる姉妹。
前回「九段の母」でお話しした、

「どうせあの子はうちの子じゃないんだもの」

という母の言葉を聞いて眉を曇らせる妹うめ子。
このうめ子を演じているのは加藤輝子という女優ですが、
目の大きな可愛らしい顔立ちはこうして並ぶと原節子の妹と言っても
そうおかしくはありません。
「原節子が美人すぎて全く似てない」
なんていってごめんなさい。



とかなんとか言った瞬間タイミングよく義一が帰宅。
義一は扉を開けるなり奥を探すような仕草をしますが、
これもまず真っ先に「母親の居場所を確かめた」という演技でしょう。

そして、彼が帰省に着ているのはジョンベラといわれる水兵服ですが、
これが当初予科練の制服でした。
「飛行士官になれるというから入ったのに、予科練の制服がジョンベラだった」

というのが、一時予科練生の間では大いなる不服でした。
もちろんそれだけじゃありませんが、あまりにも反発が大きく、
ストライキを起こす期生もいたりして、あわてて海軍が
取りあえずこのジョンベラを廃止したのは1942年(昭和17年)11月。

友田練習生が予科練在隊中に帰省するのは1941年、つまり「ハワイ・マレー沖海戦」

より前のことであるので、こういう姿なのです。



「お母さん、ただいま帰って参りました!」

敬礼する息子の姿を信じられないものを見る目で見ていた母は、
そののち顔を綻ばせ、ようやく微笑みを浮かべます。

「まあ・・・・・良く帰って来たね」
「はぁ」

答えた義一は、まるで涙が出るのを見せまいとするかのように、母親からくるりと背を向けます。



息子のために用意した着物が短すぎたのを
感慨深げに眺める母親。

「こんなに大きくなるとは思わなかったものねえ」

もう息子さん二十歳なので成長も止まっていると思うんですが・・・。



息子のお土産は霞ヶ浦のワカサギ。
有り難そうに押し頂く母親。




義一のこれまでの予科練生活は基礎訓練で、
彼が念願の飛行機に乗ることが出来るのはこの後なのです。

「まだ飛行機乗ったことないの?」
「ないさ。予科練だもの」
「あら変ね。これには航空隊って書いてあるのに」

なぜか帽子のペンネントを義一にではなくカメラに向けるうめ子。
ペンネントには霞ヶ浦海軍飛行隊と書いてあります。



霞ヶ浦の練習航空隊の桜。

白黒のフィルムでもその満開の桜の美しさが偲ばれます。
いよいよ航空訓練が始まるのです。



この映画が貴重なのは、他の国策映画同様気前よく実機の映像が出てくること。

九三式中間練習機

通称赤とんぼです。
もしカラーであれば赤というよりオレンジに機体が塗られているのがわかるのでしょう。



前に友田練習生が乗って指導を受けています。
このシーンは、地上での撮影と、実際の飛行機からの撮影を組み合わせ、
本当に訓練風景を撮影しているようにしています。

機上からの映像にはしっかりと筑波山が映っています。

「筑波山に向かえ~」
「筑波山に向け~」

と指示、応答しているシーンの字幕は

「向著山前進」

となっていて、中国人翻訳者が「筑波山」を聞き取れなかったらしいことがわかります。
翻訳するなら少し予科練について調べれば筑波山くらいすぐ分かるのに・・・。
ついでにこのあと友田が「よーそろ~」といいますが、これも中国語字幕では

「対準目標」

となっていて「宜しく候」が変化した「ようそろ」が理解できなかったようです。
「ようそろ」をもし外国語に訳すなら、英語なら「go ahead」、
あえて日本語でいいかえると「そのまま~」でしょうかね。
それを考えると「対準目標」でも間違ってはいないか・・。


 

そして着陸するのですが、そのさいバウンドし、見ていた教官が

「あんなのは着陸じゃないぞ」

とあざ笑います。





この分隊長は、何が気に入らないのか、報告のやり直しを命じます。
着陸のワンバウンドはともかく、わたしにはこの報告のどこがいけないのか分かりませんでした。
何だ何だ、パワハラか?

この後も、

「飛行作業さえ出来れば一人前の操縦者になれると思うのは大間違いだ!」

とおなじみの精神論が待っています。



叱られながら、上級者の編隊飛行を皆で眺めるの図。

「早くあんな風に飛びたいなあ・・・・」



家族が義一からの手紙を読むシーンが度々現れ、これによって彼の訓練の進捗状態の説明がなされます。


「わたくしの役目は魚雷を抱いていって敵艦にぶつけるのが専門です」

つまり義一が艦爆か艦攻を専攻したということがわかりますね。
というわけで彼は母艦に着任し、そこで母艦パイロットとしての訓練が始まるのですが・・・・。





続く。 


長野県松本~雪と温泉と靖国参拝(その2)

2014-01-08 | 日本のこと


そう。


この日は12月27日。
安倍首相が靖国参拝した次の日だったんですね。

信濃毎日という新聞は、一部「支那の毎日」と言われている、まあなんというか
御本家の毎日新聞と意趣同じくする思想の新聞であるわけですが、
たまたまここ長野にいて、ここのメイン新聞らしい信濃毎日を見、
わたしは思わずTOと新聞を指差して笑ってしまいました。

「現職小泉氏より七年ぶり」の次にくるのが

「中韓に『直接説明したい』」ですよ。
これは、

「中国様、韓国様、安倍が靖国参拝しやがりましたぜ!
ささ、早く非難を!とっちめてやってくださいまし!」

というメッセージを持って作られた一面だといえましょう。 



はい、同じく信濃毎日三面。


「なぜ今」

じゃねーっつの。
なぜも何も、じゃいつならいいのよ。

政権を取って一年の間春秋の例大祭、終戦記念日と、安倍首相は配慮して

参拝を見送って来たけど、この一年中国の尖閣に対する動きは露骨さを増し、
韓国の大統領は世界中に日本の悪口を言って回る「告げ口外交」を行い、
その他「徴用した企業」とか「仏像」とか、「慰安婦の像」とか、
もう日本人が我慢の緒をぷつんと切るくらい好き勝手してきたではないですか。

「なぜ今」

じゃないんだよ支那の毎日。
ここで安倍首相が参拝してくれなかったら日本人はどうなっていたかっていうくらい、
言わばぎりぎりのタイミングで、遅過ぎるといってもいいくらいなんですよ。




「中国、強烈な憤慨表明」

「韓国、強硬な対応は必死」
「米国も刺激の懸念」
「中韓との亀裂深まる」

大変だ。中国様と韓国様がお怒りになるぞ!

しかもお怒りになる前から煽ってますねえ。
中国と韓国中国と韓国。(ときどき米国)

もういい加減にしてちょうだい。

あんたらマスゴミがこうして煽るから中韓がその尻馬に乗って来たんでしょうが。
中国と韓国との亀裂深まる?
何を今更。
じゃこれまでの亀裂とやらは靖国参拝してもいないのにどうしてできたの?

「総理が靖国参拝しないことは配慮とは思わない、関係ない」

ってあなた方の大好きなパク大統領がおっしゃったばかりではないの。
してもしなくても同じなんだったら、日本の政治家が多数日本国民の意向を反映して
靖国参拝をすることになんの不思議があるのか。



A級戦犯あがめて「不戦の誓い」では理解得られぬ
安倍総理の靖国参拝

「対話のドアは常にオープン」はまやかしか。
自ら閉ざした隣人との関係

この短い文章で色々と物語っておりますなあ。色々と。

ツッコミどころが多すぎるのですが、一つわかったことは、
この「豆らんぷ」を書いた記者はどうも日本人ではないらしい。
少なくとも「日本の立場」から記事を書いているのではありませんね。

まずこの記者は「A級戦犯」というものが何を意味しているのか、ご存じないらしい。
そして靖国参拝が「A級戦犯を崇める行為」だと言い切るのは、まさに中韓の視点。

いまだに靖国に東条の墓や位牌。ヘタすると遺骨があると思い込んでいる
中国人や韓国人とまるで同じようなことを言っているということですよ。

次の一文にも言わせてもらえば安倍首相が

「対話のドアは常に開いている」

といっているのに、
「その必要はない」と対談を申し込んでこなかったのは他ならぬ中韓ではないのか。
ドアを開けていたけど全く入って来る様子もない。
そんな折たまたま懸案だった靖国参拝を年内にしてしまおう、ということだったわけでしょ?

どうして開いているドアから一向に入ってこようとしない者に配慮して、
いつまでもドアを開けてしかも腰を屈めて待つようにと日本だけが強いられるのか。
どうして日本だけが、今年色々あった両国からの仕打ちに一言も非難めいたことすら言えず
戦争で亡くなった方の慰霊すら両国から禁じられなくてはならないのか。

さらに不思議なのは日本人(だとしたらですが)でありながらそれを中韓と一緒になって
日本人に強いるマスコミです。
もしかしたら日本のマスコミのほとんどは日本人ではないのではないだろうか、
わたしはこの「豆らんぷ」という囲み記事にまでもれなく反日ぶりを展開する
この「信濃毎日」を読まされる長野県人に心から同情しました。

まあ、大抵の人々はインターネットでその欺瞞と偏向ぶりを検証し、
わたしとTOがそうしたように紙面を指差して笑っているのだと信じたいですが。



この館内は主にヴォーカル中心のジャズが流されていましたが、
その柔らかい音が流れて来たのがこれ。
なんと真空管アンプによるオーディオセット。
一階のロビーにもこれが使われていました。

いたる隅々にまで配慮が行き届いています。



温泉宿は基本的に連泊が少ないので、昼食は出さないところが多いのですが、
ここは希望者には予約すればおそばを出してくれます。

わたしは空腹を感じなかったので頼みませんでしたが、TOについていったら
「おざんざ」
という名前の納豆を錬り込んだそばを出していて、
美味しそうだったので追加して食べてみました。

そば粉とつなぎのソバよりもツルツルで、弾力のある食感。
もしかしたら、ソバよりもこちらが好き、という人もいるのでは、
と思うくらい美味しかったです。

そして、二日目のディナーとなりました。
会場は朝ご飯を頂いたレストラン。

ここにもジャズが流れていましたが、どうしたことか、
ガーシュウィンの「ポーギーとベス」という黒人ばかりのオペラの、
「I loves you, Porgy」(なぜか一人称にSがつく)というアリア?の
ピアノ演奏がエンドレスでずっと鳴っていました。

ごくわずかな音量なので、おそらくわたし以外のだれもそんなことに
気がついてさえいなかったと思いますが・・。

いずれにしても、同じ一曲の繰り返しは、音楽関係者としてかなり精神に来ました。 



「こういうものが出て来て美味しいと思ったことがない」


という代表のようなロブスター料理。
さすがにこれも「美味しい!」と唸りはしませんでしたが、
ハーブで味わいを深めたソースは、「まあまあ美味しい」くらいまで
評価できるものとなっていました。

どちらにしても、美味しくないよね。こういうのって。 

 

出て来たとき一瞬パニーニかと思ってしまいましたが、

アワビの(トコブシだったかな)からの上に塩で蓋を作り、
蒸し焼きをしたもの。

この塩の蓋は、工業用塩なので食べられません。



普通の温泉旅館なら着物の仲居さんがガスライターで時間が経ったら消える固形燃料に
シュボっと小鍋の火をつけるところですが、ここではそんな野暮なことはいたしません。

ちゃんと練炭の熱したのを持って来て、こうやって鍋物の前にくべてくれます。

 

この日のメインは土鍋で焼く肉と野菜。
決して牛肉が好きではない我が家ですが、これは全員が
その美味しさに舌鼓を打ちました。

TOも息子も獅子唐がダメ(アレルギーらしい)なので、わたしのところには
三人分の獅子唐が集まりましたが、これを焼くのが大変。
ご覧の通りドーム型の焼き皿に乗っけると、灰の中に転がり落ちそうです。

「落としたらお取り替えします」

とお店の人はわざわざ最初に断ったくらいですから、落とす人は結構多いのでしょう。



こういうところに二泊すると大変なのは食べ過ぎてしまうこと。
この、最後に作ってくれた雑炊も、わたしたちの誰一人手が出ませんでした。

ああもったいなや。



開けて次の日。
前日部屋を変わったので、内風呂はこんな感じ。
ちなみにこの開いているのは窓ではなく下半分にガラスがはまっています。



お酒でも飲めたらここで朝酒朝湯を決め込むのでしょうが・・。
朝起きて真っ先に切り裂くような冷気に満たされた浴室に飛び込み、
こんな雪景色を見ながら首まで熱い湯に身を浸しました。



はあ極楽極楽。(ばば臭っ)



しかしわたしの息子も14にして「温泉楽しみだなあ」という

立派な爺むさい子供に育って、温泉好きのDNAはしっかり受け継がれております。
息子は温泉が好きすぎて、露天風呂で長湯して逆上せ、倒れかけたそうです。 


 

インテリアか実用かはわかりませんが、干し柿が。



これは角茄子という植物なのですが、見ての通りキツネみたいなので
「フォックスフェイス」とも呼ばれています。
いちいち顔が書いてあるのは、新しい干支の馬のつもりかも。



じつは、この下に見えているのは「露天風呂」。

7時半から9時半までは女性専用となっているので、
わたしも一度行ってみました。
ちょうど雪に変わる前の雨が降っていて、ふとみやると菅笠が置いてあったので
それを被って浴槽に浸かり、それもまた風情がありました。



さて、ここに着いたとき、いわゆるドアマンにあたるお迎えの人が
黒いフェルトの帽子に同じく黒の「トンビ」といわれるマントを着ていたので

「中原中也がいる!」

と家族で盛り上がったのですが、これもなんというかここの「演出」のようです。
チェックアウトの日、中原さんはおられませんでしたが、もう一人、
グレーのトンビの方がいたので、写真を撮らせてもらいました。

見送りの女性が

「一緒にお撮りしましょうか」

というのを「いえ、わたしはいいんです」ときっぱり断り

「すみません、このバス停の横に立って下さい・・・。
あ、視線は左に。もう少し上を見て」

モデル撮影会じゃないんだからさ。
でも、なんかそういう写真に撮りたくなる風情だったんですよ。



ね?


松本市内まで戻ってくると、あら不思議、雪は跡形もありません。
どうやら全く降らなかったようです。

電車に乗る前に見つけた野良ネコ。
もしもし、舌しまい忘れてますよ~。

というわけで、ご当地マスコミの実態をとんだ形で知った長野の旅でした。
ちなみにインターネット界における「信濃毎日」のランクは、

今一番神に近い新聞 : 東海新報 
神のお膝元にある新聞 : 伊勢新聞

を頂点とするヒエラルキーの第4段目。

諸悪の根源:朝日新聞 共同通信
誤惨家 : 沖縄タイムス

とランクを同じくする「早く消えて欲しいあの世」カテゴリでした。

さもありなん。
 

 

 


長野県松本~雪と温泉と靖国参拝(その1)

2014-01-07 | お出かけ

 

年末のお正月旅行?、長野県松本の温泉についてもう少し。
実はこの温泉、去年TOが訪れ、大変気に入って
「妻子と
お正月三が日泊まれないか」と聞いてみたのだそうですが、全くダメ。
こういうところで正月を過ごしたい人、リピーターによって、前年の1月、
つまり一年前から予約が埋まってしまっていたのだそうです。

というわけでTOは年末の仕事を、一週間家に帰らずに大車輪で片付け、
本来師走でもっとも忙しい頃にもかかわらず、この時期の旅行となったのでした。 



松本市内から車で約20分走ればそこはもう人里離れた雰囲気の鄙びた温泉。
実はここには「温泉ブーム」のころまであと2つくらいの温泉旅館があったそうですが、
ブームが去っていずれも淘汰されてしまい、ここだけが生き残ったという構図。

しかし、生き残るにはそれなりの理由があり、それはこの旅館が従来の温泉旅館から
現代の人々にも訴えかけるホスピタリティと、洗練された設備をもつ「リゾート・スパ」
に方向転換をしたことに理由があるようです。 
 



二泊して一泊ずつ別の部屋を楽しんだのですが、どちらにも内風呂がついていました。
夜は勿論、折から積もった雪を眺めながらの朝風呂は最高です。

画像を撮ることが出来なかったのは残念ですが、ここには露天風呂を含む浴場が4つあり、
そのうちひとつ「立ち湯」は、立ったまま浸かれる深い浴槽が、
浴場の一つの壁が切り取られ窓も何もなく外に向けられている「半露天風呂」で、
少しぬるめの親湯は、いつまでもそこに遣ったまま外を見ていられます。
冒頭の景色が浴槽からの眺めとほぼ同じで、渓流のせせらぐ様を眺めながら、
冷たい空気に顔のほてりを鎮められつつ入る温泉はまさに「命の洗濯」といった感がありました。



TOが思わず「買って帰ろうよ」と口走った、備え付けの丹前。
女性客用にこのような真っ赤が選ばれていましたが、実にいい色です。

泊まり客はほぼ100%これを着て館内をうろうろしますが、
若い人は勿論、おばあちゃまが着ても不思議と可愛らしく映る色でした。



殆ど「外」にしつらえられた休憩所。
まるで絵画のように外の景色を眺める一角です。
温暖な気候のときには長居が可能ですが、この季節は無理。
皆、写真を撮りに出てくるくらいでした。



さて、温泉旅館といえば夕食の時間が決められ、時間になれば大広間に行って、
(部屋に持って来てくれるのはマシな方)すっかり冷え冷えになった刺身ばかりのお料理に
一人一つ小鍋がついて来て湯豆腐だの寄せ鍋だの、そういった「温泉的ゴージャス」な、
どこにいってもわりと同じような料理がでてくるものと相場が決まっています。

着物を着た仲居さんが愛想よくしゃべくりながら、ライターで火をつける様子は、
もはやどこの温泉での夕食だったか判然としないくらいよくある温泉風景です。

が、この温泉は少し様子が違う。



レストランは二つあり、そのうち一つはこの「マクロビオティック的創作フレンチレストラン」。

「創作」というのも、その昔のペンションなどでは素人のフランス料理もどきに使われ、
すっかりご利益のなくなった響きですが、ここのは本物です。
腕利きのシェフがセンスよく仕上げた料理は、素材よし味付けよしセンス良し。



「マクロビオティックなのにどうして肉が出てるんだ?」

と仰る方、あなたは鋭い。
マクロビというのは基本穀物菜食でアニマルフード(動物の身体から出たもの)
を使わないというのが身上です。
わたしは一度ボストン郊外の「クシ・インスティチュート」という、マクロビの創始者である
久司道夫氏の「マクロビオティック道場」(合宿所)に泊まったことがありますが、
こういった厳密なマクロビオティック料理とここの料理は全く違います。


ここの道場ではマクロビ道場を「ウェイトウォッチャーズ」だと勘違いしたのか、
「やせる!」と固い決意をして乗り込んで来た太ったアメリカ人が、

まるで修行のように我慢しながら青い顔して野菜の山と格闘する姿が見られ、
わたしたちは

「山を下りたら(タングルウッドという人里離れた山中にあった)この人たち、
絶対その脚でマクドナルドに行くだろうな」

などといっていたものです。

つまりここのシェフは「正食」といわれるマクロビの調理法を学び、
その手法をこのようなフレンチに生かしているだけのようです。



温泉旅館なんて、ご飯と温泉に浸かるしか楽しみがないのですが、
その「ご飯」というのを、ただの「温泉会席」ではなく、都会のグルメをも
唸らせるものにするというこの旅館の戦略は功を奏していると思われました。

温泉は覚えていても、宿の食事なんて、いくつか行けばどこがどこだったか、
わからなくなってしまうくらい画一的なものだからです。

朝ご飯もまたしかり。

ここの朝ご飯は、夜と同じ場所で食べることになっており、
そのレストランも着物ではなく白いシャツに黒のエプロンをきりりと締めた、
ソムリエ風のお洒落な制服を着た若い女性が給仕します。



各テーブルには、いつでも鍋物が出来るような設え。
窓の外の景色が見えるように、下までガラス張りにしてあります。




朝食は和食と洋食から選ぶことが出来、どちらを選んでも

二日目は湯豆腐がついて来ました。



洋食は具たっぷりのスープがメイン。

小皿がいくつもついて野菜たっぷりの健康的なものです。

見たところ、奥さんが日本人であるドイツ人、やはり奥さんが日本人の
こちらはアメリカ人の宿泊客を目撃しました。
来日が長い学者とか、そういった知的職業に就いている人に思われました。


そういう外国人にとってはこの旅館は、日本の文化のよさを体現していると同時に
西欧風に慣れた人でも不足ないと感じるサービスや清潔さがあり、
大変居心地がいいと思われるのではないかとふと思いました。


ところで、ここに到着したとたん、まだ電話での仕事の指示が残っているTOは
外に電話をしにいきました。
なんと、この中では携帯電話の電波が通っていないのです。

急遽追加申し込みをしたテザリングは勿論わたしの携帯Wi-Fiも通じる気配なし。
ここで三日間過ごすというのに、それはわたしにとって非常に辛いものがあります。

「たまに温泉にいるときくらいインターネットも電話もなしで過ごせんのか」

という至極全うなご意見もあろうかと思いますが、
わたしにはこのブログの毎日エントリをアップするという重大な
使命があるの。

自分で勝手にやってるだけとはいえ。




さて困った、と館内をうろついてみると、なんと一階に書斎が。

ここに置かれた一台のパソコン。

「ここならもしかしたらWi-Fiが通っているのでは・・・」

そう思ってデバイスをチェックすると・・・・ビンゴ。
ちゃんとフリーのWi-Fiが通じているではありませんか。

以降、温泉とご飯の合間にはMacとiPadと電源一式と本を入れた愛用のバッグを
(皆さん、このカバンの優れているのは、とてつもない
丈夫さにあって、
これだけ一式入れて持ち歩いても全く型くずれすることがないのです。

だてに安藤優子氏が『これでいつも漬物石でも運んでいるのか』と言われたわけではないのよ)
抱えてこの部屋に入り浸るエリス中尉の丹前姿が見られるようになったのであった。

しかし、先ほどの「外座敷」とはただガラス戸で隔たっているだけのこの書斎、
ストーブの近くにいても長時間の作業には脚が冷えて大変でした。 



ふと本棚を見るとそこにはなにやら懐かしいものが・・・。
これは初版ではなく、復刻版だと思われます。
うちにもそういえばこれあったなあ。

 

ここには「三回訪れたお客様だけが使えるクラブラウンジ」もありました。
わたしは初めてですしTOも二回目なのですが、そこはそれ、
いろいろあって、二日目に使わせて頂くことになりました。

ちょっとした食べ物が置かれ、お酒も飲めます。

本棚には児童書を含む蔵書があり、その中にわたしが小さいときに読んだ
「エレン物語」という少女童話を見たときには懐かしさのあまり驚きの声がでました。
パラパラと読んでみると、殆どの内容というか一字一句に覚えがありました。
小さい頃の記憶って強烈なものですね。



このクラブのデスクにはその日の新聞が読めるように置かれていたわけですが、 



そこにあった新聞の第一面は・・・・・・!


続く。


 


映画「ハワイ・マレー沖海戦」~九段の母

2014-01-06 | 映画

「ハワイ・マレー沖海戦」についてです。

日中戦争のさなか陸軍によって制作された「燃ゆる大空」に対し、
これは真珠湾攻撃から1年を記念して海軍によって創られた国策映画です。

ここで、いきなり当ブログ名物、

「その一言にこだわるコーナー」

です。
今日のお題は「国策映画」。

この映画の映画評などをいつものようにざっと当たってみたところ、
殆どの映画評が

「国策映画」

つまり戦意高揚映画であることに言及し、それを評論の足がかりにしている、
ということに気づきました。
「国策」という言葉は、それだけであれば文字通り

「国家の政策」

であり、「国策映画」となると、その政策をプロパガンダする映画、
という定義が成り立つでしょう。

そこで、この映画を論評するのに「国策映画」であることは、
映画としての価値そのものの評価を揺るがすものであるか?
ということに、今日もこだわってみたいと思うのです。

わたしが当ブログでしょっちゅう言うことですが、戦争と言うものが
悪であることは絶対の真理だとしても、日本が戦争をしたことは悪ではありません。
こういうと普段から「戦犯」という言葉を日本に被せたがる人たちが

「侵略を正当化するのか!」

と口角泡を飛ばして反論してくるでしょうが、そういう、戦勝国の価値観を
日本だけが引き受けたままで脳硬化を起こしたような自虐的な似非平和主義者には、
まず「歴史に善も悪もない」という言葉を理解することから始めていただきたい。

たとえばフォークランド紛争において、アルゼンチンとイギリス、
どちらが善でどちらが悪であるかをあなたは断言することができますか?
イギリスが領有権を主張するサウスジョージアに最初に踏み込んだアルゼンチンか?
それとも話し合いでなくいきなり武力を行使し取り返したイギリスか?

全く対岸から眺めると、

「そんなの唯の領土紛争じゃん。いいも悪いも権利のぶつかり合いだろ?」

と全うな評価ができるのに、こと自分の国のこととなると、なぜか

「全て日本が悪いのだ」

となってしまう脳硬化患者のなんと多いことよ。
何度も言いますが、日本が反省する点があるとすれば、それは負けたことです。
勝った国が負けた国を事後法で裁いた野蛮な極東軍事裁判が、
日本が戦争をしたことそのものを「悪」と断罪したからそういうことになっているだけです。

戦争をした日本を卑下しなければいけないという気持ちから

「国策映画であるが」いい映画で

「国策映画とはいえ」映画としては素晴らしい

などと、言い訳しながら評価しなくてはいけない理由などないんですよ。
そもそも、そういう言い訳をしている人、

「国策映画だったら何がいけないんですか」

と聞かれて答えられます?

日本が間違っていたから?
戦争は悪いことだから?


レニ・リーフェンシュタールがベルリンオリンピックを記録した
「民族の祭典」「美の祭典」は、ナチスドイツのヒトラーお気に入りだった彼女が作った
国策映画のようにいわれることもあります。
実際彼女は戦後、ドイツのメディアには「ヒトラーの協力者」として冷淡に扱われたそうですが、
この映画はオリンピックの記録映画としてはいまだ世界の最高傑作であり、
これに次ぐ「オリンピック映画の名作」である市川昆の「東京オリンピック」は、
まぎれもなくリーフェンシュタールの手法を受け継いでいるということをご存知でしょうか。



さて、この辺で一般的な意見を見てみることにしましょう。
ざっとインターネットで拾ったこの映画に対する映画評はこんな感じです。



●戦意高揚映画なので、映画の出来を良し悪しで採点するのは難しいのですが

●なるほどこれが第二次大戦中の戦意高揚映画だったんだ、って感想を持っただけで
貴重な文化資料的価値はあるかもしれないが、今全編観せられてもちょっと困る


戦時中の戦争映画なので勝って終わるという高揚映画なんだけどいいです。

プロパガンダ映画なので点数をつけるのもどうかと思いますが・・・。

ふむ。

皆さんまるで「戦意高揚映画」だったらちゃんとした評価をすることや、
映画そのものを「いい」と思うことは疾しいみたいな言い方なさるのね。
また、はっきりと国策映画を嫌悪する人もいて

●戦意高揚ものなので、友人の墜落死もあっさり描きすぎだし、
帰る事を想定して(燃料で)悩むなと言われて、部下が笑顔で
燃料は敵の攻撃には充分ありますと答えるなど、
軍部の思想統制にはやはり嫌悪感が湧く。

思想統制ねえ・・・・・。

細かいことを言うようですが、これ、思想統制という言葉の定義が間違ってませんか?
こういうのって、このころの軍人なら普通にそうだったという描写のような気がするけどな。
「軍のプロパガンダにはやはり嫌悪感が湧く」と言うならわかりますが。


●プロパガンダ映画とはこういう映画だという見本。
見ているこっちが恥ずかしくなってくる。
せこい特撮も効果倍増!
こんな映画見て喜んでいる人間の顔が見てみたいね・・・全く

と、口をきわめて罵っている人もいます。
これにもこまめに突っ込んでおくと

「この映画を観て喜んでる人」

なんて世の中にいるんでしょうかね。
こういう映画があった、という事実を受け止め、感想を述べることはあっても
「喜んで観る」
ほど皆おめでたくも単純でもないと思うけどな。

ただ、この意見のその直後に感想を書いた人が

●こういう単純な人がいちばん情報操作に騙されやすくて、
大本営発表にも一喜一憂するんだろうね。

とごもっともなコメントを寄せていて思わず笑ってしまいました。

●プロパガンダというものは「悪」を一方的に仕立て上げ
それを叩くというスタイルが基本だが、この映画は「鬼畜米英」ではない。
天皇のために、同輩のために、相手に勝つために、
いかに自分を磨くのかということからスタートしている。
プロパガンダもここまで優秀に出来ていると逆に感嘆する。
 
この人の言うことは一見気が利いているようで、実は
プロパガンダの何たるかが全くわからず書いておられるようです。

遡れば「上海陸戦隊」「陸軍軍楽隊」「乙女のいる基地」
陸軍制作の「燃ゆる大空」、海軍制作の「雷撃隊出動」、
そしてこの「ハワイ・マレー沖海戦」。

これらの国策映画を通してもし共通項を見いだすならば、そこには
戦争と言う国体の危機に自らの命惜しまず、

「敢闘精神」
「無私の心」
「忠義」

を以て赴く軍人の姿、そしてそのための精神的修練の肝要さ、
そういった理想が描かれていることでしょう。

「鬼畜米英」などと相手を憎む姿を軍人が出てくる国策映画をわたしは寡聞にして知りません。

「燃ゆる大空」のときにも同じことを言いましたが、
「軍人勅諭」「教育勅語」が、戦時中の精神訓話であったからその内容も間違っている、
という考え方を信じ込まされた人々は、これらの精神的鍛錬もまた、
目的が戦争であるがゆえに間違っている、と断罪するのかもしれません。

しかし、たとえそれが、つまり国が戦争を完遂するために、
国民に戦うべき者の覚悟や心得を解くことが間違っていたとしても、
なぜそのため、映画を映画として論評することを

こんなに疾しく思わなくてはいけないのか、ってことなのです。


繰り返しますが、これは国策映画で、ここに出てくる人物は

ある意味戦時下の国民の理想を抽出したような存在です。

そこには国家の大義に疑問を抱く者もなければ、死ぬのが怖くて
泣きわめく者(笑)も勿論なく、予科練の少年、そして彼が憧れる兵学校生徒、
彼の家族も、教官も上司も、全てがまるで教科書通りの言動をします。

この映画には主人公というものがおらず、予科練の友田義一少年も、
隣の立花忠明も、そして藤田進演じる山下大尉さえも、この「理想世界」
を支えるエレメンツの一部として、決して「私」を出すことをしません。


ところが、わたしに言わせると一人例外がいます。
予科練の少年の老いた母です。

「老いた」と形容詞で表されているものの、義一が18歳、原節子演じる姉の
「きく子」がせいぜい22~3とすればせいぜい四十代のはずなのですが、
昔の母親というものはこんなにも早く老けてしまったのだろうか、と、
この母親の背中を丸めた姿を見ると思います。

それはともかく、この母親については


義一「お母さん、そんなこと(戦争が始まること)聞いて心配してないかな」
きく子「それがね。よっちゃん。平気なの。
   こないだもある人がね、『お宅じゃ大変でしょ』って言ったら母さん、
   いいえ、もうあの子はうちの子じゃないと思っとりますからなんて言って。
   落ち着いたもんなのよ」


というシーンでその「軍国の母」ぶりが描かれます。
この映画についてエントリを描く、と予告したときに、ある読者の方から

「国策映画だからしょうがないですが、そのような母ばかりではなかったと思います」

というコメントをいただきました。
また出ましたね。「国策映画だからしょうがない」が。
それじゃたとえばこのシーン、戦後の戦争映画ならどうなりますかね?

1「義一っ!世間じゃ大戦争になるっていういうじゃないのっ!
もう飛行機に乗るなんて危ないことやめて帰ってきなさい!」

2「義一・・・お母さんを一人にしないでおくれ。
たった一人の息子にもし何かあったらお母さん生きていけないよ(さめざめ)」

3「大変だ、世間じゃ大戦争になるって言ってるよ!
さあ、今すぐ荷物をまとめて山に逃げるんだよ!お母さんがお前を隠してやるから!」

パターンとして考えられるのはこんな感じですが・・・・・・

・・・・・・うーん・・・・・・

これじゃ国策映画は勿論、普通の映画だったとしてもどうもサマになりませんねえ(笑)


母が自分のことを「もう息子じゃない」と言ったことを姉から聞いて、
義一は感動し、

「そうか・・・・偉いなあ」

と言います。

しかしね。
このDVDをお持ちの方、この母親と息子のシーン、もう一度ちゃんと観て下さい。

「お休みがあるかどうかなんて考えたこともない。
どうせあの子はうちの子じゃないんだもの」

と言った直後に「ただいま」と息子が玄関を開けたときの母親の表情を。

信じられないものを見るような呆然とした表情が崩れ、
ようやく息子と会えた喜びが溢れ出すその顔を。

息子のために用意した袷の裾が思っていたより短く、
その短い着物の裾からたくましい脛がにょっきり出ているのを、
火鉢越しに凝視する母親の眼を。

わたしが、なぜ彼女が「例外」だと言うのかお分かりいただけるかと思います。


もし「うちの子じゃない」と言ったことを以て

「こんな母親ばかりではない」というのなら、確かに上に上げた
3つのセリフに近いことを実際に言う母親もおそらく現実にはいたでしょう。

しかし、この母親がそれをどんな覚悟と諦めのもとに
自分に言い聞かせていたのか、この母親を演じた英百合子の演技が
それを物語っているじゃないですか。

もし、戦後の戦争映画ではっきりした反戦の意思をもって、
旧軍を批判するために戦争を描くのだとしても、このようなシーンで、
母親が慌てふためいて

「お前を山に隠す!」

と騒ぐのと、この映画のように口では「うちの子じゃない」と言いながら、
愛しい息子の姿をこれが見納めとばかり貪るように凝視するこの演技とでは、
どちらがより戦争の悲惨を感じるでしょうか。

だからわたしは「燃ゆる大空」のときにも言ったんですよ。
戦争の悲惨というのは国策映画ですらその大前提として存在していると。


この映画の、息子を見つめる母の表情は、この「私」のない映画で唯一、

登場人物が感情を露にした部分であったといってもいいくらいです。 

 
この映画で描かれる「理想の人物」のなかでも、この母親ほどリアルな
「軍国の母」はいないのではないか、とわたしは思います。
おそらく息子が士官学校や兵学校、そしてこの予科練に行くような軍人の母であれば、
内心はともあれ大なり小なりこういう態度で息子を送り出したのでしょう。

そこで母親としての本音がどうであったかなどと、問うのが愚かというものです。


先日亡くなった島倉千代子さんが歌った

「東京だよおっかさん」の2番の歌詞の一部は次のようなものです。

やさしかった 兄さんが
田舎の話を 聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ
おっ母さん あれがあれが九段坂

逢ったら泣くでしょ 兄さんも

老いた母が田舎からわざわざ東京にやって来たわけは、

他ならぬ靖国神社に居る息子と会うためであった・・・。

NHKは、この二番を島倉さんが紅白で歌うことを最後まで許しませんでした。

うちの子じゃない、と自分に言い聞かせながら息子を戦地に送り出す母も、
その息子が遠い戦地で亡くなったという報を受けたときには人目を忍んで慟哭したでしょう。

だから母は、九段の桜の下で待つ息子に逢いにいくのです。
英霊となって戻って来た息子に。


確かにこんな母親ばかりではないでしょう。
が、こんな母親が実際にたくさんいたのも確かです。
 

国策映画でありながら、息子への眼差しに、我が子を失いたくない母の
万感の思いを込めた演技をさせた制作者と、
またそれを否定しなかった海軍情報局の担当者にわたしは敬意を表します。
 

 


 




映画「ハワイ・マレー沖海戦」~理想世界と白いリボン

2014-01-05 | 映画


念願かなって入隊した土浦の予科練習生生活。
朝の総員整列の続きからです。




司令に「並びました」という係。
ただし、本物っぽすぎて(というか本物なので)何を言っているのかわかりません。
整列しているのは喇叭手です。



ここで全員が「あ~~~」と言い出したので、発声健康法か?
と思ったらそうではなく、明治天皇御製の

「あさみどり 澄みわたりたる 大宮の
      ひろさを おのがこころともがな」

を皆で吟じているのでした。
これは、国民学校国語教科書『初等科國語』にも載っていたようです。
小学生がこれを吟じていたとは・・・。




続いて海軍体操。

これを考案した海軍の堀内豊秋大佐(最終)は、デンマーク体操から着想を得て
この海軍体操を考案し、海軍省から表彰されています。

堀内大佐はインドネシア・メナドへの海軍落下傘部隊を指揮しましたが、
戦後、部下の罪を被って戦犯として連合国に処刑されます。
現地住民は助命嘆願を出し、亡骸の埋葬された場所には慰霊碑を建てたそうです。

江田島の旧海軍兵学校の教育参考館には、バリ島在住であったドイツ人画家
ストラッセル・ローランドによる、メナド降下作戦の堀内大佐の肖像画があります。



時鐘を鳴らす兵。
朝六時だから・・・・4点鐘かな?



ここでいきなり藤田進登場。
予科練の教官で分隊長である山下大尉という役どころで登場します。

ここで山下大尉がする精神訓話というのも、
当たり前すぎて全く記憶に残らないくらいの(失礼)ものなのですが、
そういう1たす1は2、みたいなこともちゃんと言の葉に乗せてみることが、
実際の精神教育には有効なんでしょうね。たぶん。



入隊して一ヶ月が経過したところで、改めて訓育です。
当てられた友田義一が教官の質問に答えると・・・。



「友田の言うことは正しいか?」

何人かが手を上げていますが(そう思わない生徒もいるってことですね)皆拳をグーにしています。
これは海軍独特の挙手の方法で、なんと最近読んだ本で、
現代の自衛隊でもこの方式で手を挙げるのだそうです。

うっかり外でグーの手を挙げてしまうので、自衛官だとばれてしまうとか。



漢文の時間を思い出して読んでみましょう。
この予科練生は、「はやし」と呼ばれているのですが、字幕では「隼人」になっています。



最後四文字は「敢闘精神」のこと。

この人は、全般的にセリフの言い回しが稚拙な俳優ばかりのこの映画で、
特に素人っぽいしゃべり方をしていたのですが、もしかしたら
俳優ではなく、予科練の中から選ばれて「特別出演」したのかもしれません。



さて、訓練の最も海軍らしいのがカッター訓練。

カッター訓練は、旧軍以来の伝統で防大でも行われますし、
海自の教育隊ではつきものです。

ちなみにこのカッター訓練、防大では一ヶ月の集中訓練をするらしく、
剥けるのは手の皮だけではなく

「互いのお尻にバンドエイドを貼り合う」

男たちの美しい姿が夜な夜な見られるのだそうですが(防大出身者談)、
そのような厳しい訓練を経たあと、防大生は文字通り

「一皮むけた」

として、飲酒喫煙、廊下のソファ使用、浴室の風呂椅子使用の権利が
与えられるのだそうです。

それまでは、お風呂で膝をついて身体を洗わなくてはいけないんですって。
うーん。それは辛いものがあるな。

しかし、旧軍のカッター訓練はそんな「ご褒美」があるわけではなさそうです。



上画像の中国語は「オール上げ」の意味だと思われます。



ダビッドに短艇を吊って訓練終了・・・なのですが、
声を枯らして短艇をリードしていた班長?が、
短艇競争で負けたことを「気合いが足りん!」と叱咤。

あの、二艘で競争すれば必ずどちらかが負けることになってるんですけど。



しかしそんな当たり前のことを言って通る世界ではありません。
負けた罰直にグラウンドを縦横無尽に駆け回らされます。

「たるんどる!」

とか言いながら、さすがは指揮官先頭の海軍、 言った本人が先頭に立って
一緒に走りまくります。

 

最後は直線にダッシュし、銃剣動作をして終了。
これはいかに「若い元気な予科練」でもかなりキツいと思われ。



「どうだ、きつかったか?俺もきつかった!
しかし辛いことを我慢せんと戦争には勝てんからな」

とにこやかに訓示。

実際はこんな映画のような(って映画なんですが)面はごく一部で、
裏には様々なドロドロしたものが蔓延していたのかもしれませんが、
理不尽や陰湿な苛め、体罰や時として死者を出すほどの訓練、
そういった面を海軍制作の映画で描くわけがそもそもないのです。

自衛隊などにも言えることですが、およそこの世のいかなる団体も、
現実は映画やお話のようにはいきません。

全てのものには光があり影があるのですから、
ましてやこの時代の国策映画が、理想に終始してウソっぽくなるのは致し方ないでしょう。

ただ、いまだにこの映画が「名作」と言われている意味を、
エントリのシリーズ終了までにきっちりと見極めてみます。

人間の姿をありのまま本音で描いたものや芸術作品だけが映像作品として
価値があるのか、という根本的な問いがそこには生まれてくるに違いありません。




この映画の訴える「海軍の精神主義」を表すもう一つのシーン。
兵学校では当時の人気力士の相撲部屋などが表敬訪問し、
学生はプロの力士に手も無く捻られた、という話を書いたことがありますが、
これもどこの教育部隊でもやった訓練のひとつ、相撲。




ここで、友田練習生は「勝つまで土俵を降ろしてもらえない」
というしごきに耐え、次々と級友と対戦し続けます。




なぜか友田に肩入れし、応援する山下隊長。
加油、というのは中国語で「頑張れ」です。
油を加えることが頑張ること、というのは納得ですね。

藤田進はこのとき30歳。
デビューが遅く、照明係などの下働きをしていた時期があり、
東宝ニューフェースとして大部屋に入ったのが27歳。
「燃ゆる大空」で突っ立っているだけの役をしたのがデビューの翌年です。

ですから、30歳と言っても達者という演技では決してありません。

というか、この人は軍人の役が多かったため何とか様になっていたようなもので、
戦後の映画ですら何を見ても同じような調子。
決して名優とか演技派ではないのですが、このころはまだデビュー三年目、
この頃の演技はすでに後年の演技と同じです。

というか、後年の演技もこのころをあまり変わっていません。


丹波哲郎がデビューの頃周りからあまりにも偉そうなので
顰蹙を買っていたそうなのですが、当時の丹波を知っていた同期の某男優が

「どれくらいデビューしたころの丹波さんは偉そうだったんですか」

と聞かれたのに対し、

「今(亡くなる少し前)と全く同じ」

と答えた、という話を思い出します。
三つ子の魂百までといいますが、人間根本的なものって変わらないんですね。

つまり、藤田進はこの容姿でなければ俳優としては全くだめ、とまでは言いませんが、
そもそも俳優にもなっていなかったのではないかと思われます




この中国語は確か「のこった、のこった」?

せっかくこの試合で上手投げで勝ったのに、隊長は友田に
土俵を降りることを許してくれません。

「技で勝とうと言う心構えがいかん!」

ってよく意味わからんのですけど。
藤田進は「姿三四郎」でブレイクした俳優ですが、嘉納治五郎曰く

「柔能く豪を制す」

じゃなかったんですか。
小兵が技で身体の大きな相手に勝つ柔道精神は、予科練では通用しないどころか
卑怯なこと、っていうニュアンスですね。


「娑婆の相撲とは違う!」

つまりそういうことですか。



さらに、この大学リーグチャンピオンとの試合のあとも、
山下隊長またしても意味不明な訓示。

「点数では負けたが気力では勝った!」

いや、負けは負けですから。
言いたいことは痛いほどわかるけど、これじゃたとえが悪いですがまるで

「日本の勝利は恥ずかしい勝利」

などと日本に負けるたびにケチをつける某国みたいじゃないですか。
さすがに相手を卑下する某国のそれとは全く意味合いが違うとはいえ。

スポーツは結果ではなく、その精神がどうであったかである。これはわかる。
しかし、

「相手は大学のリーグ優勝校で、お前たちより5歳上だから仕方ない」

という言い訳もそうだけど、
それでは「精神では勝った」って、何をもってそう言っているのか?


これも「娑婆のラグビーと予科練は違う!」ってことなんでしょうか。



お待ちかね、食事タイム。
食事が済んでから、友田練習生、箸でツートンし、

「しるこが食いたい」

すかさず僚友が何か答えますが、これはわたしには何と言ったのかわかりませんでした。



「実際お前らは食べることしか考えとらんな」

でました「実際」。
兵学校67期について書いたときもこの流行言葉について述べましたが、
この「実際」は当時の流行語です。
その他、山下隊長が

「手荒なこともしたが」

と訓練について言いますが、これは海軍独特の言い方で「すごく」の意味だったり、
「厳しく」だったり、決して現代の「手荒なこと」つまり殴ったりすることではありません。

実際は予科練の訓練というのは「軍隊式」ですから、
罰直は必ずバッターで殴られ、何かと言うと拳骨が降り、
そういう意味では本当に「手荒かった」のは事実なんですけどね。


・・・・あ、

「手荒なこと」って、本当に殴ったということを映画的に穏便に言っただけだったのか。




さて、ここで不可思議な演出があります。

友田練習生が疲れきって眠りにつき、夢を見ます。

音楽は最初に出て来た「ふるさと」の、妙に怪しげなアレンジ。

夢には、ありありと隅々まで思い出すことの出来る実家の内部、
彼の視線が母を探して彷徨っていると、頭に白い大きなリボンをつけた
姉きく子と妹うめ子が笑いながら並んで正座しています。

「二人ともそんなリボンなんかして、まるで気違いみたいじゃないか」

この頃の映画ですから、今なら一般人すら言わない放送禁止用語で
こんなことをいいます。
するときく子とうめ子は

「立花の忠明さんがお手柄を立てたらその勲章のために使うのよ」
「このリボンはね。お兄さんが怪我をしたら包帯にしてあげるのよ」

うっわー、怖いよ君たち怖いよ。



そして仏壇に向かう母に呼びかけても母は全く聴こえない様子。

確かにこのようなシュールな夢を見て後から「なんだったの」と思うことって
実際にはありましょうが、この前半は精神主義的、後半は我が海軍の
華々しい初戦の勝利を自慢かたがたご報告、という構成の映画には
この夢がいったいどういう意味を持つのか謎です。


そこでわたしなりにここを解釈してみたのですが、
「忠明さんのための白いリボン」は、そのうち忠明が特進(つまり戦死)するという暗示で、

母親が仏壇で一心に拝んでいるのは、もしかしたら・・・・・

・・・・・・義一自身?

義一の声が母親に聴こえないのは、彼がすでに幽界を彷徨っている存在であるから?


厳しい訓練に精神訓話、国に捧げた命を惜しむものではないけれど、
義一の深層心理には実は「既に戦死してこの世からいなくなる自分」が予感されていた

・・・・・という意味なのでしょうか。

もしこのわたしの仮定が当たっているとすれば、この映画の
表面的な理想世界に相対する「闇」の部分を
このシーンは間接的に表現しているということであり、もしそうなら、
この映画に対するわたしの印象は、当初より少し複雑なものになってきます。







 


映画「ハワイ・マレー沖海戦」~予科練生活

2014-01-04 | 映画

年末、旅行と大掃除とエントリ制作の合間を縫って、
ようやくこの映画を観ました。

陸軍省が紀元2600年記念に創った「燃ゆる大空」もそうですが、
この映画も、きっかり半分ずつ二部構成になっていて、

前半は予科練生活の紹介

後半は真珠湾攻撃とマレー沖海戦

となっています。
「燃ゆる大空」もまた、前半が少年飛行兵の生活、後半に戦闘シーンがありますが、
海軍はこの映画を真珠湾攻撃からきっかり一年後に「記念」として作るにあたり、
どうも陸軍の「少飛の生活紹介ついでにリクルート」という方式を
真似たのではないかと思われます。

開戦一年後と言えば、海軍は航空機搭乗員を大量採用していた頃で、
当初少なくてせいぜい200人だった予科練生は一期の採用人数が三万人にも上りました。

これはもう、あからさまに飛行兵欲しさの勧誘です。

というわけで、後半は真珠湾攻撃とマレー沖の大成功を謳い、
前半は友田義一少年の予科練生活を描く。
何しろ国策映画で予科練の宣伝が目標なので、登場人物は当然ながら
誰も本音らしいことを言いません。

最初から最後まで理想を絵に描いたような(ってそのとおりですが)
人物ばかりが登場し、実に清々しく勝ち戦で終わる。
おそらく当時これを観た日本人は、まさか日本がその三年後、
泥沼の敗戦を迎えるとは夢にも思わなかったのではないでしょうか。

同じ海軍制作の国策映画「雷撃隊出動」は、敗戦も明らかになったころ、
飛行機が無いということを映画の中で訴えるために作られたので
(制作が竹槍事件の直後であったことからわたしがそう思っただけですが)
しかも主人公たちは自爆して戦死する、といった具合。

こちらの方は、とてもこれを観て日本が勝利するとは思えなかったでしょうから、
「雷撃隊」で海軍はもしかしたら「日本の死に体」を国民に啓蒙したかったのか、
などと考えてしまうのですが、その話はともかく。

今日はこの映画の前半、予科練生活の部分についてお話しします。



なぜ中国語で字幕が?

これはですね。
以前「乙女のいる基地」でも説明したのですが、この映画を
鳥浜とめさんの娘の話を読んで観たくなり八方手を尽くして探したところ、
非常に入手が難しく、台湾にあるショップからようやく取り寄せることが出来ました。
それが「ハワイ・・」「野戦音楽隊」を含む三枚一組のセットだったのです。

台湾と日本はリージョンが同じですから問題なく観ることができるのですが、
当然もれなく中国語の字幕がついて来て、しかも消せません。
中国人が日本語をどう解釈しているのかが結構面白いので、
要所要所で字幕もチェックしながら観ていましたが、これが間違いが多いのよ。

「野戦音楽隊」のトップの

「撃ちてし止まむ」

「射撃停止」という字幕がついていたときはお腹を抱えて笑わせてもらいましたが、
この「ハワイ・・・」も、かなりのものです。
翻訳はどうやら中国人らしく、「ようそろ」とか「奮励努力」なんて、
通常の現代日本語で使わない言葉になるとトンデモ訳になってしまっています。

それもまたおいおい紹介します。



陸軍省の制作だった「燃ゆる・・」に対して、こちらは海軍の「後援」。
撮影のセットを作るのに参考にする実際の軍艦を見せてくれないなど、
制作者からしたら「どこが後援じゃ!」と毒づきたくなるほど
実はこのときの海軍は制作に非協力的だったそうですが、その話もまたいずれ。



企画は大本営の報道部でしたか。
やはりこれは予科練の宣伝(略)



情報局とは、昭和15年に発足し、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと
思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸海の情報事務を統合して
設置されたものです。

国内の情報蒐集、戦時下における言論・出版・文化の統制、マスコミの統合、
文化人の組織化、銃後の国民に対するプロパガンダを目的に作られました。

つまりこの映画はの制作に当たっては、映画会社が海軍報道部の意を受け、
情報局のお墨付き映画(つまりプロパガンダ)に「参加」したという構図ですね。

 

「燃ゆる大空」もそうですが、台湾から三枚組で取り寄せた国策映画はどれも、
このような英霊への追悼の一文が捧げられています。 



映画は、風光明媚な田舎の一本道を、
一人の兵学校の学生が帰郷してくるシーンから始まります。

この田舎が、どこであるかはわかりません。
少なくともこの地方に住む人たちのしゃべる言葉は、全員そろって
東京の山の手言葉だからです。
そういった設定の甘さゆえこの映画の登場人物が住む世界にはリアリティがなく、
この映画が「官品」であることをあらためて感じさせます。

青年は立花忠明。
村一の秀才と誉れ高かったのであろうこの眉目秀麗の青年は、憧れの兵学校に入学し、
夏休暇を取って颯爽と帰郷してきました。

彼が身を包んだ純白の兵学校軍服は、この長閑な夏の風景にあたかも一陣の風のように
涼と凛とした空気を齎(もたら)します。

流れる音楽は、やたらテンポよくアレンジされた

「ふるさと」。




「ただあきさん!」

鄙には稀すぎる美女が藁篭抱えて登場。
これが、(一応)主人公となっている友田義一の姉、きく子。

いかなる遺伝子の突然変異によるものか、この美人の姉は、
義一少年とは姉弟には全く見えないどころか、母とも妹のうめ子とも
とても血のつながりがあるようには見えません。
これも、この映画のリアリティの無さの一因です。

あまりにも浮世離れしすぎて、最初は「ねえね」(姉さん)と義一が彼女を呼んでも、
実の姉ではなく「近所のお姉さん」だと思ってしまっていたくらいでした。

それにしても原節子の美しさというのは、古今東西の美人映画女優、
全部ひっくるめてもそのトップに堂々と位置を占めるレベルです。

兵学校の忠明さんも、実はこの村でも評判の美人に憧れており、
実は兵学校学生姿のかっこいい自分を見てもらうことが、この帰省の
一番の目的であったに違いありません。

戦後の映画なら少なくともそうなったはず。


しかし、そこは官製、忠明さんはきく子に声をかけられても、
さして特別の感情を見せず、ただ爽やかに敬礼するのみ。
むしろ、その姿をうっとりと見送るきく子の方が、この青年に対して
憧れを持っているかのように描かれます。

戦後の映画ならこれも、きく子が戦地の忠明の身を案じて百度参りしたりとか、
手紙を送ったりするシーンにほとんどが費やされると思われます。




畑から忠明の荷物を持つために飛び出して来た義一ですが、
涼しい顔をして汗もかかず忠明が携えて来た荷物を受け取るなり、
その重さによろめきます。

「兄さん、汗かいてませんね」
「水を飲まない訓練をしているんだ。船に乗りこむときに困らないように」

自分を律して訓練に励む海軍軍人をここでも強調。

忠明青年の実家は、この田舎でも特に立派な門構えで、下男がおり、
父親は彼が帰宅したときには何やら書道をしております。

この青年士官の卵が村では特別な存在であり、だからこそ義一少年も
飛行兵になると決めたときに同じ海軍に行きたいと思ったという設定。

実際、兵学校の制服と短剣姿は世の憧れで、夏冬の帰郷の際は
兵学校生徒はその姿で母校に「凱旋講演」し、海軍への志願を勧誘しました。 
こうしたかっこよさに憧れ兵学校受験を決めた軍人の中に、井上成美がいます。



字幕を見ればお分かりの通り(笑)忠明に向かって
搭乗員になりたいということを相談する義一。

どうしてこの二人は川で泳ぐのにこんな水泳帽を被っているのでしょうか。

 

それはともかく、海軍少年飛行兵になることを母親に説得してくれ、
と義一は忠明に懇願します。

この忠明を演じているのは中村彰。
実に聡明そうな白皙の青年ですが、 成蹊学園創設者の中村春二の息子として生まれ、
父と同じく東京帝国大学を卒業して映画界に入ったという「初めての学士俳優」。



俺についてこい!と水に飛び込む忠明。
このとき中村は26歳のはずですが、若々しい筋肉を持つ肢体は、
鍛えている兵学校学生のそれといっても全くおかしくありません。

頭脳明晰、身体壮健。
スマートを標榜する海軍がこの俳優を士官役として抜擢した理由がわかりますね。

そこでバイオグラフィをあたってみると、この人なんと

「加藤隼戦闘隊」「燃ゆる大空」

にも出てるんですね。
全然気づきませんでしたが。

 

「燃ゆる大空」より。藤田進の左後ろが似ているような気もしますが・・。



崖から自分が飛び降り、義一があとに続くことを躊躇わなかったら
母親を説得する、というテスト。



この崖はヘタしたら岸壁に激突の危険さえありそう。
代わりに飛び込んだスタントも、結構なスリルだったに違いありません。



テストに合格したので、義一の母親に少年飛行兵への入隊の許可を
説得している忠明。



次の瞬間義一は予科練に入ってしまいますが、実はこうなるまでが大変で、
開戦前の予科練はこの映画公開のときよりはるかに「少数精鋭」でしたから、
大変な競争を勝ち抜いた者しかここに来ることは許されませんでした。

しかし、映画の尺の関係でその辺の苦労は一切省略。



この映画の貴重であるのは、こういった実際の予科練の内部が映し出されていることです。
ここからは、海軍報道部の意向通り、予科練生活の描写です。

ここから始まるBGMは、「我は海の子」をアレンジしたもの。
この最後の歌詞が

「いで軍艦に乗り組みて 我は護らん海の国」

であることから、海軍のテーマソングとしても使われていたのでしょう。



これも本物の予科練生。
まるで納豆みたいですが、陸(おか)の上でもハンモックで寝るのが海軍式。
慣れたら寝られるものだと思うのですが、わたしはきっとダメだな(笑)



起床喇叭が鳴るなり跳ね起きて「吊り床上げ」。
ハンモックにかかれた楕円のなかには「ハンモックナンバー」が書いてあります。

これから転じて海軍での成績順を「ハンモックナンバー」と称します。



吊り床の利点は省スペース。
寝ていたところがあっという間に何も無い空間へと。
ハンモックは一段高い棚に収納したようですね。



起きるなり総員駆け足で整列。



きっとこの予科練生も、本物・・・。

こういう、はつらつとした若い人たちを見ると「このうち戦後生き残ったのは何人だろうか」
なんてことをつい考えてしまうのはわたしだけでしょうか。



義一練習生の予科練生活、明日に続きます。






靖国神社に初詣~新藤総務大臣の靖国参拝

2014-01-03 | 日本のこと


靖国神社に着いて、今年の参拝客の人出に驚いたわたしたちです。

「毎年、明治神宮や伊勢神宮の参拝客の人数を新聞が発表するけど、
 靖国神社の人出を報告した方が、ある意味日本の『世相』ってものがわかるけどな」
「今年は安倍首相の参拝もあって例年の三倍の人出でした、って?
産經新聞以外そんなこと書くわけないじゃない。
朝日新聞の今朝の第一面なんか『韓国済州島の英語教育の試み』だよ」
「元旦の第一面が?・・・どこの国の新聞だ」
「日本じゃないことは確か」




靖国の話を語りだすと、話はどうしても「マスコミ批判」になります。
靖国を問題にしたのは他でもない朝日新聞であり、中国にしても韓国にしても、
自国の利益のために渡りに船とそれに乗っかっただけに過ぎません。

今回の首相参拝も、中国はなにやら考えることがあるのか、年末年始で
それこそ前のようなデモに発展させるわけにいかないせいか、
非難はあっても政府の見解としては想像より「おとなしめ」であると感じます


韓国も思ったよりは大統領本人からの激しい非難がありませんし、
むしろ、この問題に火をつけ例によって大騒ぎにしたいと一番望んでいるのは、
日本のマスコミではないかとわたしには思えてなりません。

それにしても、この国のマスコミは日本をどうしたいんだろう・・・。




境内には獅子舞が来ていました。
帰りに見たとき、小さな子がお獅子に噛まれてギャン泣きしていました。
お獅子に噛まれると一年無病息災、というので噛んでもらったのですが、
彼には少しハードモードだったようです。
お獅子で泣く子供って、実は多いんですよね。

わたしも小さいときには怖かったのでよくわかります。




境内の舞台では、代わる代わる伝統芸能的な出し物が。
つのだ☆ひろさんもよくここで奉納ステージを務めるとか。
一度聴いてみたいなあ。(実は結構好き)




入り口で受付をすると、封筒の上に名前と住所を書き、
さらに神主が名前を読み上げるので、必ずふりがなを振るようにいわれます。

封筒の中には祝詞代?を入れますが「お一人2000円以上であとは篤志」。

下限はあっても上限は無い、このあたりが神社らしいところ。



申し込みをしたら、何人かまとまって参拝するので、アナウンスがあるまでここで待機します。
ジュースの自動販売機もありますし、お茶のディズペンサーもあり、
さらに席には社務所の方が熱いお茶とお菓子をもって来てくれます。




こうやって待っているとアナウンスがかかり、皆で本殿の手前にある拝殿まで移動。
昇殿参拝したことのあるかたはご存知かと思いますが、

拝殿に行く前に手水場があり、ここで手と口を清めます。

言ってはなんですがこんなことに全く興味を持っていなさそうな、

茶髪ロングヘアの若い男の子が同じ集団におり、手洗いのお作法を知らないのか
柄杓に直接口をつけて水を含んでいました。

まあでも、昇殿参拝にまでわざわざやってきたわけで、それだけで全て許す。
何度か来るうちに周りを見てマナーも学んでいけばいいんじゃないでしょうか。

拝殿にぎっしりと並び、清めのお祓いを受けた後、神職が
しばらくお待ち下さい、と告知をしました。

しかし、大鏡のある本殿には人影がなく、わたしはそのときに


「今から誰かが参拝に来るのでは」

とぴんときました。
目を凝らして見ていると、いかにも位の高そうな神職が先頭に立ち、
モーニングの男性と和装の女性、子供二人を率いて右手から入ってきました。

(本来は拝殿から出て本殿には左から入り右から退場するので、
本来とは違う特別参拝であることがわかった)

神職の後ろの背の高い男性を見たとたん、それが新藤義孝総務大臣であることがわかり、

となりのTOに

「新藤総務大臣」

と囁いたのですが、国会中継を見ず、テレビも見ない人が知っているわけがありません。
案の定後で、

「新藤総務大臣って名前知ってた?」

と聞くと、

「知らなかった」 
「新藤大臣って、栗林中将の孫なのよ」
「栗林中将ってだれ」
「硫黄島で玉砕した軍の司令官」
「・・・渡辺謙の?」
「そう、ケンワタナベがやった人」


たまたま彼が「硫黄島からの手紙」を観ていたので
ここまで話が行って初めて理解してもらえました。やれやれ。

新藤大臣の後ろには白地の遠目にも美しい着物を纏った夫人、
そしてまだどちらも幼児といっていいほどの一男一女の子供たち。

家族は立ったまま神職の挙げる祝詞を受け、
二拝二拍手一拝をして本殿を去りました。

あっというまに、という言葉そのままで、おそらく新藤家の人々が
本殿にいた時間というのは数分以内といったところだったでしょう。

しかし、靖国神社から帰るタクシーの中でスマートフォンを見たわたしは
ニュースの見出しに

「新藤総務相が靖国神社参拝」

と出ているのを見て驚きました。
わかってはいましたが、ニュースにするほどの参拝はたった3分の出来事なのです。

しかも新藤大臣は例大祭など、就任以来一年の間に6回靖国に参拝しているそうで、
まさにわたしの言う「何かにつけて参拝」をそのまま実行されています。

祖父が陸軍軍人で、靖国神社の英霊となっている方であれば、
公人だろうと私人だろうと、
そこにお参りするのが当然のことですよね。

三分間の参拝を直後に大ニュースにするマスコミっていったい何?
とやはり安倍総理のときのような単純な疑問を感じずにはいられませんでした。

しかもです。


帰ってからそのニュースを読んでみると、

 参拝を終えたあと、新藤総務大臣は記者団に対し、
自分の心の問題として、私的な参拝をさせていただいた。
戦争で命を落としたたくさんの方々に対し、尊崇の念を込めてお参りした。
また、二度と戦争が繰り返されないように、平和への思いを新たにした」

と述べました。また、新藤大臣は安倍総理大臣の靖国神社参拝について、
「諸外国に、きちんと説明していく必要はあると思うが、
どの国でも、自分たちの国のために命をささげた方々に対し、
同じような行為がなされていると思うので、とりわけ問題とは思っていない」

と述べました。(NHKニュース)


なぜわざわざ「私的な参拝である」ということをあえて強調せねばならないのか。
たとえ新藤大臣がそのように言ったのだとしても、

「諸外国にきちんと説明していく必要」

などと、あたかも参拝が疾しいことのような書き方をなぜしなくてはいけないのか。

そしてまるで参拝が「犯罪」であるかのような報じ方。
そもそも「きちんと説明していかねばならない土壌」を作ったのは、
どこの誰だったか?ということをこの記事を書いた記者に聞いてみたい。

「心の問題」「私的な」

こういう新藤大臣の言葉を「諸外国への言い訳」のように思わせる手口は
あいかわらず自分の都合のいいように物事を解釈し報道するマスコミですね。

たとえばもし、


新藤総務相の祖父は第二次世界大戦における硫黄島の戦いで
陸海軍守備隊の総指揮をおこなった栗林忠道中将(戦死後昇進して大将)。
栗林中将もまた、ここ靖国神社に英霊として祀られている。

という事実をこの参拝報道の最後にに付け加えたとします。

これで、ずいぶん受け手の新藤大臣の参拝に印象というのは
違ったものになってくるでしょう。

関係のない諸外国の人々は勿論のこと、

たとえ靖国神社に反対するという考えの人間であっても、

「お祖父さんが祀られている場所に私的な思いで参拝すると言っているのだから、
たとえ大臣であっても誰にも文句を言われる筋合いはないよなあ」

とは思いませんかね?
朝日新聞、毎日新聞、そしてNHKほかマスゴミの皆様、
なぜこのことをあなた方は断じて報じようとしないのでしょうか? 

しかも、ついこの何日か前、新藤大臣は、記者会見において
「参拝が諸外国の批判を浴びているが」といつもの調子で切り出した朝日新聞の記者に

「諸外国ってどこですか」
「中国とか韓国とか」
「中国と韓国以外にはどこが非難しているんですか」
「・・・・・二カ国だけですけど」(くっ・・・悔しいニダ

と鮮やかに釘を刺したばかリ。
(実はもう一国非難している国があるはずだけど、
この人はなぜその国の名前を言わなかったのかしら)



新藤大臣のいう、

「諸外国への説明」

が、マスコミの報道するような「言い訳」という意味ではないことは、
大臣の普段の政治信条やこのような言動を見れば
誰にだってわかっていると思うのですが、あえてそれを「言い訳」と感じるような手法で報ずる。

やっぱりマスコミってゴミだなあ、と新年早々実感するニュースでした。 



新藤大臣の家族が参拝を住ませた後、我々は本殿に移動しました。
つまり、わたしは新藤大臣の次に参拝した、ということになります。


本殿では一人一人の名前を祝詞に読んでいただきます。
我が家はこと靖国に関してはわたしが権限を持っているので、
わたしの名前を代表として読んでいただきました。

退出の渡り廊下で巫女さんの盃でお神酒を受け、
もう一度三週間でお供物のお裾分けを頂き昇殿参拝終了。



大事な用事が済んだので、福引きをしました。

 

「一等景品ってなんだろう」
「ハワイ旅行とか」
「パールハーバーで英霊を追悼するツァーにご招待!」

人に聞かれたら顰蹙間違いなしの与太話をしながら並びました。
景品は小さな家電が多いように見えました。
フィリップスの電気フライヤー(油無しで揚げ物が出来る)、
ちょっと欲しかったのですが、年末にとんでもなくくじ運を使ってしまったため、
不思議なことに当たる気がまるでしません。


予想通り三人で4回くじを引き、全員が6等(はずれ)でした。



4等があたっていたらこのDVDつきの「零戦21と堀越次郎」
をもらっていたと思います。



広場には出店が並んでいました。



遊就館の前で記念写真。



軍犬の像が今日ははちまきをしてもらっています。
「必勝」とか「報国」とかだったらどうしよう(ってどうしようもないですが)
とおもったのですが、「合格」でした。



鳩もなにか巻いてもらっていますが、ここからはわかりませんでした。



甘酒が振る舞われており、いただきました。
「振る舞い」といいつつ前には篤志をつのるトレイが置かれており、
そうなるとただ小さな紙コップ一杯の甘酒に100円玉を出すのが日本人。
お金を置かずに甘酒だけもらう人は見たところ一人もいませんでした。



そのまま待たせたタクシーに乗るために出口に向かったのですが、
門のところでいつも写真を撮っている写真館のおばちゃんが目に留まりました。

「今日は撮ってもらおうか」

ついそんな気になり、聞いてみるとポラロイドなら一分でできるとのこと。



菊の御紋をバックに家族で一枚撮ってもらいました。
写真をもらうとき、おばちゃんにTOは

「別嬪さん捕まえてよかったねえ」

とお愛想を言ってもらったそうです。
明らかに着物マジックというやつで、馬子にも衣装だと思いますが。



この時間になってもこれから拝殿に参拝しようとする人はこの通り。



さっきより列が明らかに長くなっています。
安倍参拝効果恐るべし。



間の道路には機動隊の皆さんや警察車両が待機。
本当に警視庁の皆さんにはお正月はありません。

ここに警察車両が止まっていたせいで、
いつもここに止めている菊の紋を付けた右翼の街宣車が今日はいませんでした。

ふと思い出したんですが、安倍首相が参拝した日、
靖国にトルエンで放火しようとした韓国人の裁判があったんですね。
あのトルエンを来日したばかりの外国人に渡したのは、
いったい誰だったのか、裁判では明らかになったのかしら。

それと、あの騒ぎになったとき、いつも意味なくたむろしている右翼の皆さんは
靖国を守るために韓国人を袋だたきにしようとかしなかったのかしら。

右翼って、靖国神社を反日勢力から守るためにあそこにいるんだと思ってたわー(棒読み)



さて、というところで参拝は終わりました。
明治神宮と掛け持ちしよう、などと当初考えていたのですが、
次の日に参拝した明治神宮では、正面にたどり着くのに二時間を要しました(笑)



法務省の前を通ったので一枚。
この日はホテルを移動です。



この日の遅いお昼ご飯。
なんと「すしの天ぷら」です。
マグロを巻いた巻き寿司をそのまま天ぷらに。

スシ・テンプラというと、ガイジンが真っ先にかんがえるところの
日本の代表的料理ですが、その二つを合体させてしまうとは・・・。

あ、お味は大変結構でした。
日本人にとっては寿司でも天ぷらでもないものになっていましたが。



部屋に用意してあったウェルカム・フルーツ&まんじゅう。



なぜ眉毛がある・・・。


ところで、次の日も明治神宮のために着付けをしたのですが、
その着付師さんは、帯をこのようにされました。



左上はバラの花びら、下部分は「千鳥」を表すそうです。
「龍村」の帯の名前を出すのは、昨日の方によると

「大阪の方は名前を見せたがるが、江戸っ子はそういうのを嫌う」

そこで、ネームを折込んで縫ってしまうのだそうですが、
昨日は何しろ帯を箱から出して印すら外さずもって来たものですし、
ましてや着物の知識のないわたしにそんなこと知るすべもありません。 

この着付師さんは、

「勿論名前を出すのは野暮です。
でも、 締め方によっては銘を出さずにできるんですよ」

やっぱりね。
昨日の「名前見せ」は、仕方ないとはいえわたしも野暮だと思っていたの。

何が粋で何が野暮か、はその道に明るくなければわかりにくいこともあるけど、
共通する「美意識」というのはやっぱりありますよね。

傍目にも野暮な帯の締め方で昇殿参拝をしたのは少し心残りでしたが、
まあこれも一つの勉強。
来年は(日本にいるならだけど)今年より着物をもう少しましに着こなして、
靖国神社にお参りしたいと決意をあらたにしました。 





 


靖国神社に初詣~安倍参拝効果

2014-01-02 | 日本のこと

あらためて、明けましておめでとうございます。

昨日の「あけおめ」は、年末に作成したエントリなので、
実際に今年初めてのエントリ作成になります。

例年海外に旅行に行ってしまう我が家ですが、三年に一度くらいは
日本で迎えており、その際には都内にホテルを取ってそこから初詣に参ります。

 

今年大晦日に年越しのために泊まったホテルは、カウントダウンパーティがありました。
わたしは部屋でエントリを作成するのに忙しかったのですが、
息子が興味があるというので降りてみました。



思わず「晩ご飯食べなきゃよかった」と思うほどの豪華なお料理が
迷うくらい並んでいます。
息子はどうも小腹が空いていたらしく早速サンドウィッチをパクリと。

しかし、時間はと言うと12時10分前。
いつもなら飲んだり食べたりは厳として慎む時間です。

「うーん・・・・美味しそうだけどな」

と迷っているとTOが

「明日の朝のお節とお雑煮を美味しく食べたいならやめといたら?」

そうそう、朝はここの和食のお正月膳を予約していたんだったわ。
いつもはそういった理性を働かせることなく、目の前にあるものを
なんでも頂いてしまうTOも、こういうことになると怖いくらい自制心が働きます。

勿論わたしも言われていつもの自分を取り戻し、素直にウーロン茶だけを啜っていました。



カウントダウンには音楽も入っていました。
なんとお洒落な。
アコーディオンとヴァイオリンのデュオで、アストル・ピアソラの
「リベルタンゴ」「オブリビオン」、和製タンゴの「奥様お手をどうぞ」
などのレパートリーをもつ女性二人(しかも見た目もオシャレ)が、
年を越すにはぴったりに思われるライブ演奏をしていました。



カウントダウンが始まる前に、シャンパンが配られます。



20秒前からカウントダウンは始まり・・・・



2014年、日本の年明けぜよ。

というわけでその瞬間、わたしはカメラのシャッターを押していましたが、
皆様はどのようにお過ごしでしたでしょうか。



起きて目覚めると、初日の出が・・・・・。

といいたいところですが、ここは東京のビル街。
太陽も素直に出てきません。
初日の出のように見えるのは、じつはビルのガラスにうつった「にせ日の出」。



昨夜、カウントダウンの後部屋でいろいろと仕事をしていたので、
睡眠時間は短くなりましたが、目覚めは爽やか。
美味しいお正月のお膳をいただく予定の前には、眠気も吹っ飛びます。



すっかりお正月のしつらえをした和食レストランに赴くと、
皆さん「あけましておめでとうございます」とご挨拶をしてこられます。

うちや海外で迎えるお正月もそれなりですが、こういう朝を迎えると、
やはりお正月は日本で迎えるのが一番いいかな、と思います。



食事の前にはお屠蘇が出てきました。
甘くてかすかな薬草のような香りがして、食欲が進みそう。
ただ、わたしはこの後着物を着ると言う大事業が控えているので、
顔を赤くするわけにはいきません。

残念ですが、一口まねごとだけ頂きました。



お待ちかねのお雑煮。
すまし汁の京風で、何と鴨肉が底から出てきました。



そしておせち。

しんじょや紅白蒲鉾、黒豆に数の子、ごまめ。
どれも関西風のあっさりした味付けです。



窓の下には東京駅舎。
この美しい駅舎を見るたび、往時のままに建築を保存してくれた関係者に
心から感謝したい気持ちに鳴ります。

食事のあと、少しだけ時間があったのでラウンジでお茶を一敗いただいて
部屋に戻ろうとすると、ロビーでなにやらにぎやかな音が。



獅子舞が来ていました。
写真を撮るためだけにロビーに降りて見ていたのですが、
このおかめひょっとこの無言劇が、なかなか面白く、
思わず見入ってしまいました。
宿泊している外国人観光客は実に興味深そうに写真を撮っていましたが、
お正月に日本に観光に来る外人は日本人ですら今やみることのできない
こういった伝統芸能を見ることが出来て、ラッキーですよね。



エレベーター前で獅子舞チームとばったり。
カメラを構えたとたん皆でポーズしてくれました。

さて、このあとは初詣に備えて着物の着付けと髪を結ってもらいました。
着物を着る、というのは、特に普段着慣れない人間に取っておおごとで、
用意から始まってすべてを人に頼まないといけないため、
わりとやる気というか気力が要ります。

しかし、わたしには今年着物を着なければいけない理由(わけ)があったのです。



そのわけはこの帯。
鳳凰と獅子の紋様が金糸銀糸で織り込まれたものです。



金は糸を着色したものですが、銀は箔。

し・か・も!



獅鳳瑞彫文 たつむら

と書いてあります。
「龍村の帯」
これは、着物に詳しい方ならご存知かもしれません。
三越ならばとんでもないお値段で売っている「ブランド品」。

この帯、実はTOが某クラブの忘年会のくじ引きで当てたものなのです。

年末のある日、立派な桐の箱を抱えて帰って来たTOが、

「くじ引きで一等賞品の帯当たった!」

去年、奇しくも当ブログで最近わたしはくじ運がいいみたいなので、
年末ジャンボ宝くじでも買ってみようか、と書いたことがありますが、
昨年のくじ運のよさは留まるところを知らず。
ついにTOの運までが本人のTOではなくわたしに向いてしまったと見えます。

某クラブの忘年会賞品はよほどどれも豪華なものだったらしく、一等とはいえ、
このようなものがいただけるなんて。

まことに暮れから?縁起がいいわい。

せっかくこんな素晴らしい帯が手に入ったのだから、
この帯を締めるためだけにもお正月は着物を着ましょう。

というわけで、久しぶりに着物を着て初詣にいくことになった我が家でした。



三年前にもご披露しましたが、わたしの(唯一の)着物は貝紫。

かいむらさき、とは文字通り貝から抽出した紫色のことで、英語名はロイヤルパープル
(王の紫)、またはティリアンパープル(Tyrian purple)とも言います。

この名前は、この色がもともと
プルプラ貝という巻貝の鰓下腺(パープル腺)
から得られた分泌液を化学反応させて染色に用いたことに由来します。

貝紫染料は10㎝ほどのプルプラ貝12,000個からわずか1.5gしか採れません。
ですから、貝紫を部分ではなく、総身に使ったこの着物は大変希少なものなのですが、
これも何となく初めて着物を買うことになったときわたしの元にやってきました。

この話にも帯の話にも言えることですが、わたしは分不相応なものやことが、
人のご縁のおかげで手に入るということがわりとよくあります。


こういうのを「棚ぼた体質」とでもいうのでしょうか。 




朝、部屋に着付けと髪結いの方に来てもらい、支度が整いました。
かんざしは組紐でできています。
昨日お話しした長野の温泉旅館のショップで購入したばかリ。



ホテルのフロントロビー。



車に乗る前に、ホテルのお嬢さんたちと皆で記念写真。
成人式の振り袖を自前で持ち込み、朝着付けをしてもらうのだそうです。
ただし、誰でもきることができるのではなく、フロントとかゲストリレーションとか、
『目立つ係の従業員だけ」なのだとか。

勿論真ん中がわたしですが、やはり若いお嬢さん方の振り袖とは
なんと言うか落ち着き方が違うっていうか。


わたしにもかつてこんな煌びやかな大振り袖を着た日がありましたが。(遠い目) 




タクシーで靖国神社に向かいます。
これは、丸ノ内にある「三菱系」のビル。
ここは皇居から東京駅にかけて「国粋企業」の一つである三菱系が
がっつりと皇居を守るかのように取り囲んでいます。

何でも皇居の周りに「外国企業」を置かせないためだとか。

そして靖国神社に到着。



ハイヤーをチャーターしたので、駐車場で待ってもらおうとしたのですが、
それどころではありません。
駐車場を待つ車は靖国通りに延々と列を作り、
とてもではないけどわたしたちが参詣している間に入れそうにありません。
仕方ないので運転手さんには電話番号をもらい、適当なところで
待機してもらうことにしました。

うーん・・・・それにしても今年は以前と何やら様子が違う・・・。



なんと。
参拝の順番を待つ団体の長い列ができています。

手を洗う手水場より遥か後ろ、二の鳥居のあたり。
ここから約20人くらいが横一列の大変な列です。

それは8月15日の靖国と全く同じような混雑ぶりで、
三年前のお正月に訪れたときとは全く違った眺めがそこにはありました。

「何これすごい」
「前、こんなに混んでなかったよね」
「これってもしかしたら・・・・安倍さんが参拝したから?」
「ああ・・・そうなのかも」

一週間前に安倍総理が靖国参拝をし、それを新聞やテレビが大騒ぎしたこと。
それを「平和への逆行」だの「近隣諸国(じつは二カ国)への配慮がない」だの、
実にくだらぬ非難をすればするほど、多くの日本人が

「靖国神社とはなんなのか。
日本のメディアがなぜこんな大騒ぎをするのか」


と考えるきっかけとなり、そういった人たちがテレビや新聞でなく、
インターネットによってメディアの「魂胆」を知ることになったのかもしれません。
そして、その結果多くの人こうやって靖国神社を訪れ「日本人の意思」を
一人一人が表明しようとしているのではないか。



もし中国や韓国が言うように実際「日本が右傾化している」のだとすれば、
それは日本をそうやっていわれの無い非難で貶める中韓と、
またその中韓におもねる主要メディアによって気づかされたせいで、
外圧に対する反感が「憂国」へと変わったからではないのか。

そんな皮肉な因果関係を思い、わたしは内心苦笑いする思いでした。




三人で代わる代わる手を洗ってその後も並び続け、
ようやく山門のところまで来ました。

そこでわたしがふと、靖国神社から送られて来ていた
「福引き券」に「昇殿参拝」ができるということが書いてあるのを思い出したのです。

「もしかしたら列にこのまま並ぶより、いっそ昇殿参拝した方がいいんじゃない?」


何のために毎年更新して崇敬奉賛会に入っていると思っていたのか。
こんなときに昇殿参拝できるという「会員特典」をわたしはすっかり忘れていました。

というわけで、列を離れ、昇殿参拝を申し込むために、
わたしたちは参集館に移動しました。

そして、そこでわたしは非常に印象深いある光景を目撃したのです。




続きます。