ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「不沈艦撃沈」~工場班長の語る「抑止力」

2014-08-15 | 映画

今日は終戦記念日なので戦争映画の感想をお送りします。

昭和19年の松竹映画「不沈艦撃沈」を観ました。
監督はマキノ正博。



男前である・・・。

いきなり余談ですが、マキノ監督はサッカーファンで、
あの「ドーハの悲劇」となった試合の最中、つまり「悲劇の起こる前」に、
日本の勝利を確信しながら亡くなったという話を知ってしまいました。

・・せめて「悲劇」を知らず、勝てると思ったまま逝ったのは、
こういっては何ですが、幸せな最後だったんじゃーないでしょうか。



さて、4月23日公開ということは、海軍では「竹槍事件」の後で、

「我に飛行機を与えよ」

が血の叫びであったほど戦力に困窮をきわめていた時期です。
料亭やバー、待合茶屋などの料飲施設が閉鎖され、
宝塚歌劇団は休演、松竹少女歌劇団は挺身隊になり、
夕刊は廃止されたのもちょうどこの頃でした。

つまり、国民が肌で感じるほどに敗戦色が明らかになって
歌舞音曲、映画の類いは自粛の嵐が吹き荒れたのです。

これはそんなころに制作された作品です。



タイトルの前に出て来ます。
五七五になっていますね。



マキノ監督というと「早撮り」のできる名手、
というイメージがありますが、この時期、おそらくマキノは
巷に払底し、自粛ムードの吹き荒れる映画界で、
なおかつ今映画を撮るためには、とにもかくにも軍をスポンサーに
戦意高揚ものをするしかない、と割り切ったのでしょう。

どんな制限があっても、その中で得心の行く映画を撮ることが
自分なら出来る、という挟持を持っていたのかもしれません。 



極力経費を切り詰めた感漂うタイトル。



昭和16年の晩秋のこと。

昭和精機という民間工場に社長が令嬢を伴って洗われるところから
映画は始まります。
工場まで長距離らしい汽車に乗ってやって来るところを見ると、
この工場はどこか地方(おそらく長野あたり)にあり、
オーナー社長は東京に住んでいるのだと思われます。


社長の乗った車に、警備員は勿論、社員も全員敬礼しています。
昔はそういうものだったのでしょうか。



そこに主人公の大川(佐分利信)登場。
この映画では工員Bを演じています。



全く兄に似ていない妹。
兄に弁当を二つ渡しますが、空気読まない兄は

「誰の?豪勢だな」
「あのひとの」
「あの人って誰だ」

はあ、そういう方がおられるわけですね。
しかし兄はそう言うなり妹のおでこを弾き、娘は



「兄さんのいぢわる!」

ところでお断りしておきますが、この映画映像は勿論、
音質が限りなく悪いので、昔の人の言い回しと相まって、
何を言っているのかわからないところ多数。

この場面もしょっぱなから全く意味が分かりません。



「あのひと」というのは、妹が思いを寄せている工員C、宮原。
もう一人の主人公でもあります。

大川と宮原が呼び出されて社長室に行くと、
当社の社長である東野英治郎がコートを着たまま座っています。

社長の用件は、

「海軍省の藤原少佐が増産を10割増しでお願いしてきたので、
それを受けていただけないか頼みにきた」

しかも、合格台だけで、です。



「無理です」「できません」

皆即座に反対しますが、社長は、藤原少佐から言われた

「海軍はそれだけのものを必要としているのです」

という言葉に、こころを打たれ、造って上げたい、造りたい、
と思った、としみじみと語ります。
その様子に、皆とりあえず努力してみようという空気になるのですが、
クールな大川は大反対。

「弁当箱作るのと話は違うんですよ。兵器なんですよ」



この、大川の右に座っている坊主頭の工員Cが、
大川妹の意中の人である宮原。

宮原は「引き受けてもいいのではないかと思う」
と大川に反論します。



ん・・・・・これは・・・。

安部徹じゃないですかー!
「乙女のいる基地」で、イケメン中尉役をしていた安部徹。
このころはまだ後年の悪役面ではなく、二枚目っぽい
青年を演じることが多かったんですね。

対立する大川と宮原。
宮原は

「夜業(残業)を毎晩やればいいと思う」

と意見具申し、さらに、稼働させすぎると危険な「6号機械」
も、自分が責任を持つ!と言い張ります。(ここ伏線ね)


「藤原少佐がそこまでいうからには、海軍は
本当に我々の製品を必要としているんだと思います」



議論が紛糾する中、やたらかっこいい工場長が
引き受けよう、と鶴の一声。

これで決まりです。



皆に礼をいいながら昏倒する社長。
社長は元々病におかされ、東京で療養をしていたのでした。




しかし、工員なんてその日ちゃんと働けばいいと思っていて、
何かあれば休みたがるような奴ばかり。
この工員(ばみさんと言っているので多分場見とか馬見とか)、
リューマチを理由に夜業をサボろうとしますが、班長は


「リューマチが悪いんで休ませて下さい」
「何の町?」
「町じゃなくてリューマチ!」
「ああー」(マッチを出す)
「マッチじゃなくてリューマチですよ!」
「何言ってんだよ!」
「リューマチ!!!!」

パントマイムで痛いフリまで披露するばみさん。
こんなシーンなのに長回しで、まるでコントを見るようです。




「兄さん、宮原さんにお弁当渡してくれなかったの?」
「忘れた」
「まあ、今頃お腹空かしてるわ」
「いやいや、どっかで食べてるよ」
「むきー!」



場面は変わって社長の休憩している宿。
「宮原くん、さっきはありがとう」

そして、実は・・・、と、藤原少佐から
アメリカからの工業機械が禁輸になったことを聴いた話をします。

そうなんですよね。
工業機械だけでなくね。


「日本で作るより外国から輸入した方が安くていいものが手に入る、
として、国内企業を疎かにしてきた我々資本家にも一旦の責任がある」

「我々の仲間に慧眼の士がいれば、金がかかろうとも
日本製品の研究開発を続け、改良を重ねたことだろう」

うーん・・・・。

これ、もしかしたら本作品のテーマにかかわっている部分でしょうかね。




社長令嬢は桑野通子。美人です。
この女優さんは、2年後、妻子ある男性の子供を身ごもり、
子宮外妊娠による出血多量で、死亡しています。
31歳でした。



右が、昭和精機に以来を持ち込んだ藤原少佐(高田浩吉)
上官の栗山大佐。(小澤栄太郎)

「昭和精機が依頼を承諾してきました」
「それは『X−62』兵器の『Z部』を依頼した会社でしたね」

うーむ。
「X62」の「Z部」とな。

これは戦時中の作品なのでこのような暗号めいた言い方をしていますが、
ストーリーの後半から引っ張ってきた情報によると、
このとき海軍が依頼した魚雷がマレー沖海戦で
「プリンスオブウェールズ」と「レパルス」を沈めた、
ということなので、正解は「91式魚雷」。

「91式魚雷の信管」

とか当てはめてみると、ああ、と納得しますね。
しかし、こういう民間工場に依頼するとき、
おそらく名称は機密性のためやはり本編のように
暗号のように称していたのかもしれません。


藤原「あの兵器は実験の結果優秀な成績をおさめたので
大量製作の通達がまいりました。
出来るだけ多く、出来るだけ早くと。
それで10割の増産を依頼しました」

栗山「しかし相手は軍人ではないのだからなあ」

藤原「今はそういうことを言っている場合ではないと思います。
ただ口に出して言えないだけで・・・」

そして、引き受けてくれたことを互いに
「ありがたいことだ」と喜び合うのでした。

ここで桑野大佐は重大な発言をします。
これは海軍省が国民に向けて啓蒙したかった部分でもあると思うのですが、
資料を示しながら

「見たまえ、これが、ガソリンが一滴も入らなくなったときの
我が国のガソリン貯蔵量だ。
毎日どんどん無くなっている。
とにかく入る道がないんだからねえ。
この量を毎日眺めているとわしはいても立ってもいられん気持ちになるよ。
この事実一つ知らせてやっても国民は奮起するんだろうが、
発表できぬことだからやむをえん。
いまはただただ心を鬼にして作ってもらうより仕方がないんだ」




しかしそんな海軍の心国民知らず。
夜業を命じられた工員達は文句たらたらです。


「なんでこんな魚雷ばかりつくんないといけないんだ?」
「海軍はシナの沿岸部にいるんだろ?
まさかジャンクを魚雷で狙うんじゃないだろうな!」

どっと湧く工員達。
とにかく夜業なんてみなお断りなのです。

リューマチだといって夜業をサボった「ばみさん」などその典型。
飲み屋でくだを巻いて夜業への不満をぶちまけるのでした。
(冒頭画像)

「夜業手当!くそくらえだ!
いくらもらったて使う暇がなきゃしょうがあるめえ」



増産によるフル回転で古いアメリカの機械である6号機械は
故障と、万が一の暴発が懸念されています。
ここでも

「国産の機械を使ったほうがいいのに」

と、内需の必要性を示唆するセリフ(笑)



ある若い工員は里帰りを許され実家に帰省します。

「すごいなあ兄ちゃん、背広着てる」
「いいだろ、これ150円もしたんだぞ」



兄弟にはお土産、母親にはたくさんの現金を。
おまけになにやらいいにおいまでさせて・・。



香水です。
残業で使う暇がないのでお金がどんどんたまっているのは
この17歳の工員も同じなのでした。






宮原の父親は栗山大佐の江田島時代の教官でした。
懐かしげに思い出を語る栗山。

しかし沈んだ顔の宮原は部品が足りないこと、
工作機械も十分でないことを沈痛な顔で訴えます。

「輸入品のみに頼っていたからなあ・・・」

はい、またもや「内需の重要性」来ましたー。

なんと栗山大佐も国産機械の使用を宮原に薦めるのでした。






ところで、帰省してありあまる給金で贅沢をしているのを
百姓の兄に見とがめられた工員。
兄はもう工場をやめさせる!と怒り心頭です。


「150円もするべらぼうな服を来て胸くそ悪い匂いをさせて
手みやげ代わりにババア子供に10円札を紙くずみたいに撒きやがる」

まあ、ちょっとは嫉妬みたいなのもあるかもしれません。

「ぬかすことが生意気に、兄さんより金持ちだ と!」



そこで班長は兄を説得にかかります。
この課程がすごい。
いきなり

「今お国はシナで戦っています。
シナの後ろにはイギリスとアメリカが付いている。
このごろでは日本に対してもうけんか腰です。
たとえばですね、通商条約が破棄とか資金凍結とか」


いやいやいやいや(笑)

いきなり話がそこからいきますか。

「今までの取引も金の融通も全部やめてですよ?
日本をどうにかして困らせてやろう、そしてシナに勝たせよう、
そればかりじゃありませんよ?
ABCDという、ニッポンをこの、取り囲んでですよ?
そしてじりじりじりじりじりじり押して来る」

百姓のお兄ちゃんにABCDってすんなり理解できるのかしら。
それはともかく、これそのとおりですよね。
戦中から日本は、我が国のおかれた立場をこうやって説明していたのね。


「このままでいってごらんなさい、日本は今に干上がっちまう。
なあああにくそ、ニッポンはつおいんだぞ、と、
そんななめたことをすると今に酷い目に遭わすぞと、
脅かすのにはですね、
戦争に使う道具をたくさん作らなきゃならない」

おお!

皆さん、これどう思います?
工場の班長のセリフの今現在における汎用性。

実際はこの工場で作っていた魚雷は脅かすためではなく
実際に敵に使用されたわけなのですが、
庶民がまだ「開戦」など夢にも思わないころにさえ、
やはり武力による抑止力を持たなければいけないと
感じていた、というセリフです。

実際に開戦前夜、武力増強を「抑止力」と考えていた国民が
果たしてどのくらいいたかはわかりませんが、
少なくともこの論理は真理でもあるのです。

世界はあくまでも悪意に満ちている、という前提で語ると
いつの時代にも同じ結論が出て来るものだとおもうのですが、
どんなにその「悪意の証拠」を突きつけられても、
決して我が国は攻めて来られない、と思い込んでいる日本人が
なぜか日本にはたくさんいるんですよね・・。

班長は、

「海軍さんが2倍作れといっているので、やらなければならない。
もしだめなら首脳部は腹を切る覚悟でやっているのですから、
今三郎くん一人減られると困るんです」

と兄を説得します。
なんたる説得力(笑)



寝ている社長の元に、宮原と工場長が報告にやってきます。
病気で倒れて寝ているのにタバコを吸っている社長(笑)

このころはタバコが体に悪いと言う認識はなかったのです。



工場の様子を聴かれて口ごもり、あからさまに挙動不審な様子で
うまく行っている、と答える2人。
これじゃうまくいっていないって言っているのも同然です。



しかしながらだんだん工員達の間にもやる気が出てきました。
サボっていた馬見さんも真面目に働いていますよ。



ところが好事魔多し。
(って、まさにこういうときに使うんですね)

古くて懸念されていた6号機械が、やはり使用に耐えかね、
いきなり爆発してしまったのです。

どうなる昭和精機!


続く。 

 


ニコン1+300mmレンズで撮るカリフォルニアジリス

2014-08-14 | すずめ食堂

昨日こちらでFOXニュースを見ていて、オバマ大統領が

「イラクは終わった」

とかなんとか宣言したというニュースが流れたんですが、その中で

「(イラク侵攻に)911は関係ない」

みたいなことを言ったわけですよ。
それを聞いていた息子がこういいました。

「じゃ理由はなんだったの?
結局石油のためだったって言ってることにならない?
こんなことわざわざ言わない方がよかったんじゃね?」


先日コメント欄で911とアメリカの利益について話題になりましたが、
「911テロへの報復」という大義名分を否定してしまったら、
後に残るのは経済的利益しかないのですが。

撤退もシェールガスとオイルの増産が見込まれると同時に行われ、
イラクでの戦争が「石油目的だった」ことはもはや自明の理ですし、
今のアメリカが中東に望むのは、中東内での混乱がエネルギー価格の
高騰を生み、それが「シェール革命」の後押しとなることに違いありません。

いずれにしてもわざわざ911を話題に上げることは
あまり賢明な演説だとわたしにも思えません。
というか中学生にすらこんなことを言われてしまう大統領ってどんだけ。

 


さて、本日の話題です。

今回の渡米には今年始めに買った300mm望遠レンズを持ってきました。

ゴツいレンズを手荷物で持って来るのは随分迷いましたが、
ひとえにここシリコンバレーのバード・サンクチュアリで
ペリカンの飛来する写真を撮りたいという一念からです。

でも、望遠で飛ぶ鳥を落とす、じゃなくて撮るのって大変なのね。

こちらに移ってすぐにいつもの「ペリカン滑走路」にいって撮影してみましたが、
望遠レンズみたいな手ぶれの避けられないもので、
しかも航空機とは違って右から左に移動する鳥を撮るのは、
やはり三脚がないとどうも無理だとわかりました。

でもまあ、リスやシカ、遠くにいる動物を捉えることが出来たので
まあ持ってきて良かった、と自分に言い聞かせています。

何しろ手で持っているだけで重たいんですよ。
まだ負担のかかるのが左手で良かったってかんじです。



ここディッシュトレイルには、このカリフォルニアジリスのほか、
立ち入り禁止となっているトレイル以外の場所には
野生生物が多数棲息しているそうです。
トレイルというのはこの地域のごく一部にすぎません。

しかもこの地域に限らずアメリカにはこのような野生動物保護区域が
たくさんあり、関連・研究団体による調査対象となっています。
日本にも人が立ち入らないため結果的に保護区域となっているところは
いくらでもありますが、日本と違うのはこういった地域の殆どが
人間の居住地域と隣接しており、人間が自然を楽しみつつ野生生物と共存する
環境が当たり前のように整っていることです。



トレイル付近には滅多に現れないウサギ。
トレイルから見下ろした谷底を走っていました。



アメリカカケス



リスや小動物を上空から狙っている猛禽類。
羽の内側に表れる模様が美しいですね。
この特徴で調べたところ、これは

Rough-legged Hawk

であるらしいことがわかりました。
ホークなので鷹なのだと思ったら、日本での名前は

ケアシノスリ

というそうです。
roughというのがもじゃもじゃの、毛だらけの、という意味なので

rough-legged=ケアシ

というわけですね。
ノスリというのは去年だったか、ここで撮った鳥の写真を見せて

「何という鳥かわからない」

と書いたところ、リュウTさんが
「ノスリではないか」と教えて下さったことがあります。
ノスリはタカ目タカ科ノスリ属で、

糞鳶(クソトビ)

という気の毒な別名がつけられています。
というか、何でこんな悪意の感じられる名前をつけられてしまったのか。

2年前、このケアシノスリが目の前でリスをわしづかみにして
さらおうとしたのを目撃しましたが、空中で落として、逃げられていました。



さて、自分の真後ろを横切るシカの親子に気づかず、
向かいから歩いてきた人に

「志村ー後ろ後ろー!」

と教えられてから、歩きながらも八方見張りを怠らず、
動くものがないかと注意していたのですが、おかげで見つけました。 




遥か向こうに一頭で歩いているシカを。
先ほどの子連れとは別の個体です。

 

木の茂みから出てきて、草の芽を探しているようです。
やはり枯れ草みたいなこの植物より、緑のものを体が求めるのでしょうか。



300mm望遠レンズばんざーい
警戒心の強いシカですが、撮られていることに全く気づきません。

ただし、リスに向けると、そのいかついボディが飛び道具に見えるのか、
たちまち逃げられてしまうことが判明しました。
どんな場合にも万能なレンズはないってことですね。



たとえばこれ。
ディッシュトレイルというここの名前は、この通信アンテナ、
「ディッシュ」から来ています。

この全景をおさめようとしたのですが、この位置からはこれ以上引くことができません。
従ってどうしても端が欠けてしまうことになりました。

いろいろ撮りたければ広角と望遠2台持ちが理想ってことですね。
(広角についてはmizukiさんからのレクチャー以降、
次に一眼レフを買うことまで考えてはいるのですが・・)



ディッシュの写真を撮った直後、わたしの見張りセンサーが
またしても動くものを捉えました。
なんと、またシカです。
向こうも見張りのつもりか、一頭が木陰から出ていますが、
うしろには最低3頭のシカらしい影が見えています。



このディッシュトレイルを歩いていて今まで一度も
シカを見たことはなかったので、この日一日で三度も遭遇したのには
全く驚いてしまいました。

この日はここの「シカ・スペシャルデー」が開催されていたかのようです。



彼我の距離は約50m。
向こうもはっきりこちらを認め、警戒してずっと見つめています。
いかにも心配しているような表情。



じっと立っているうちに耳の後ろがかゆくなったらしく(笑)
後ろ足で掻いてから、



向きを変えるなりダッシュして行ってしまいました。
こういうときにも最大限の警戒をしていて、
大きな耳がきっちりこちらに向けられているのに注意。



歩いて行くと、去年なかった石積みのオブジェが。
立ち入り禁止の場所でこんなことをする奴は誰だ。



この時間になると、トレイルの周りに日陰のない場所には
リスはほとんど姿を消してしまいますが、全くいないわけではありません。



取りあえず皆朝ご飯はすんだらしく、このように
休憩している姿がそこここに見られます。



鉄条網の針金が体に刺さっているようだけど
いたくないのでしょうか。



こういう状態でいても、望遠レンズには警戒してこちらを向きます。
そして用心深い一匹が動き出すと一斉に逃げてしまうのです。



この写真を撮っていると、後ろを歩いていた人が歩きながら

「リス可愛いわよね~」

と声をかけて行きました。
わたしと同じく、スクウェル・ラバーのようです。



手でしがみつきながら立っている様子がキュート。
尻尾の細い子ですね。



食事が済んだら日光浴をするリスもいます。
暑いのにわざわざこういうところにじっとしているのは
体の殺菌消毒を兼ねているのでしょう。

彼らの本能では面白いことが分かっていて、尻尾から熱を発するほか、
ガラガラヘビを撃退するために子どものいるメスは、
その抜け殻をよく噛んで、自分や子どもたちを舐めて、
自分たちの匂いをヘビと同じものに偽装するのだそうです。



草薮のようなところに巣があるリスは、
わざわざこうやって枝に登り、陽を体に浴びています。

かなり遠くから撮ったのですが、すぐこちらに気づき、
慌てて降りてしまいました。
邪魔してごめんよ。



日向でじっとしているのは、動くと上空から見つかりやすいからです。
その点こういう木の手すりにいるときには、
体毛が木の保護色となって見つかりにくいせいか、
木の柵に乗っているリスは陽が高くなってもたくさんいます。



柵の下の日陰も彼らのお気に入りの休憩所。



歩いて行くと消防車のサイレンが聞こえてきました。



遠くでしたが、どうやら火事が発生したようでした。



この地点はコースを歩き始めて1時間くらいのところです。
だんだんと高度が上がって、フーバータワーがもう下に見えます。



木の根元の”うろ”に巣を作っているらしいリスたち。



手前のリスさんお食事中。



手に持って食べているのは緑の葉っぱです。
どこから取って来るのでしょうか。



向こう側のリスに無駄にフォーカスを合わせてみました。
頭に何か乗せております。



手前のリスさん、食事が終わって何をするのか。



砂浴び?それとも食後の運動?



まるで茶筅をまわす茶人のような面持ちで
おもむろに土を掘り出しました。



後ろでじっとしているリスが可愛い。
つまり食後の砂浴びを始めようとした模様です。



このリスの右耳はケンカでかじられてしまったらしく、
欠けてしまっています。
どうもオスのようですね。

彼はしばし土の上を転がっておりましたが、ふとこちらに気づくと、




はっという感じで逃げてしまいました。
というか、今まで気づいてなかったのかい?







パシフィックコースト航空博物館~ファントムIIの星

2014-08-13 | 航空機

話が横にそれて論議になったり、本人が間違えたりで、
こういうエントリになるとなかなか波瀾万丈の進行になり、

それはそれでまた(本人が)面白いなどと思うエアミュージアム訪問記。
今日ご紹介する飛行機は?

まずは

IL-14 CRATE(イリューシン14;Ил-14イール・チトィーリナツァチ)

イリューシンとは正確には公開株式会社「S・V・イリユーシン記念航空複合体」
といい、ロシア連邦の航空機メーカーです。

クレイトというのはNATO(北大西洋条約機構)が東西対立の頃
東側の装備に対して付けたコードネーム。
零戦を「ジーク」紫電改を「ジョージ」彗星を「ジュディ」という風に、
日本軍の装備を米軍が勝手に名付けて呼んだのがコードネームの始まりです。

このイリューシンの制作したイリューシン Il-2は「襲撃機」という意味の
「シュトルモヴィーク」という名で呼ばれていた決定的な武器の一つでしたが、
第二次世界大戦中ドイツ軍には「空飛ぶコンクリートトーチカ」などと呼ばれ
恐れられたものだそうです。

イリューシンはまだ存在し、現在は「IL-76」を造っているとか。

この航空機は大変貴重なもので、元々はソ連で造られ、その後
ポーランド空軍で使用されていました。
この機体がいつ、いかなる事情でアメリカに来たかはわからないそうです。

ところでこのイリューシン、内部がまだ生きている、つまり飛行可能です。
エアショーなどで飛行させる計画をしているのですが、問題は

英語の操縦マニュアルがない
(ので飛ばせない)

ということだそうです。
IL-14が配備されていたインドとエジプトでは英語のマニュアルが配られていた、
ということなのですが、それが現存しているかどうかも分からない状態。

というわけですので、これをお読みの方の中でもし英語のマニュアルを
持っている方があれば当博物館に連絡してあげて下さい。 



F-4C Phantom II

1995年に当スタッフがこの機体をシエラ陸軍デポ
発見したとき、もう少しで砲術訓練の標的にされる運命でした。


カリフォルニアの北部にレノという街があります。
タホ湖という、冬にはスキーも出来る湖の近くにあるカジノの街で、
このあたりは普通のホテルであってもロビーがカジノだったりします。
わたしは一度カリフォルニアとネバダの州境に立っているため
「カルネバ」とまるでレバニラのような名前をつけられたホテルに
泊まったことがありますが、そのことを先日知り合った
トルコ人のエンジニアに話したところ、おじさんは

「そこはJFKとマリリンモンローの密会の場所だったんだよ」

と実にどうでもいいことを教えてくれました。
ちなみにこのおじさんはホールフーズのイートインで近くに座ったときに
声をかけてきたのでお話ししたというだけの人なのですが、
やたら懐いてきて、やれディナーをとか
やれ週末にサンフランシスコに連れて行ってあげるとか(知ってるのに)
盛んに誘いをかけてきたり、スシの話になったときわたしが

「日本に今度仕事で来ることがあったらわたしと夫が
世界で一番おいしいスシをごちそうしますよ」

とお愛想でいったところ、

「いや、わしゃあんたの旦那には別に会いたくないから
あんた一人で案内してくれ」

と言ったり、落馬の話になって手首をちらっと見せたら
いきなり怒濤の勢いで手を握ってきてものすごく気持ち悪かったので
それっきり連絡先を教えていません(笑)

せっかく前半トルコ航空の話とサビハギョクチェンの話で盛り上がったのに・・。



話がそれましたが、なにしろそのレノにある陸軍基地に
この機体は
もう一機のファントムIIとともに放置されていました。
軍当局者はそれを処分することにし、その受け入れ先を探していたところで、
そこにこのミュージアムが立候補し、そのうち一機を獲得したということです。


ベトナム戦争の主力戦闘機はF−4ファントムIIでした。

冷戦期の代表的な戦闘機で、ベトナム以降西側諸国で使用され、

我が自衛隊でもライセンス生産による導入がなされました。

「野生のイタチ」とあだ名されたファントムIIも、より高速で
より機敏で、より優れたアビオニクスが搭載されたF−16sやF/A-18s
その座をゆずって行くことになります。



コクピットの下に書かれたパイロットの名前は、この機体823の
最後のクルーであろうと思われます。



ミュージアムのクルーは、精魂込めてこの機体をレストアしました。
エアインテークのカバーに描かれたこの絵を見よ。

スナフキン?のような爆弾人間は、その旨に「II」と描かれ、
これがファントム (怪人)であることを表わしています。

ちょっとやり過ぎ、と思われるくらい、レストアクルーが
このペイントに力を注いだ様子が見て取れますね。 



説明プレートの下に


「ここはファントム専用駐車場」

というお知らせが(笑)



ところでこの823ファントム、つまり標的にされそうになる前には

こんなこともありました。



これ、どこで撮られた写真だと思います?
横田基地なんですよ。
1969~70年に駐留していた「405TFW」として、ということですが、
この「TFW」って、戦闘機パイロットのトレーニング、
「トレーニング・フォー・ウォリアー」のことですか?

ちなみに超余談ですが。

アメリカの2ちゃんねるに相当する4channelのミームでは、
「tfw」=「that feeling when」
「tfw no gf」だと「彼女がいないこの気持ち」となります。
何かのご参考になさって下さい。


それはともかく、いまここサンタローザで観ているファントムIIは、
かつて日本にいたことがあったというわけです。



後ろから見ると、きっかり垂直尾翼と水平尾翼が・・・・・、

いや、これは水平尾翼ではないですね。
何しろ、120度で三分されているように見えます。

こういう尾翼を「逆V字尾翼」とでも呼ぶのでしょうか。
八の字に曲げられた尾翼のは旋回する方向にローリングさせるため、
空力特性、ステルス性の両面で有利であるとされますが、
また同時に離着陸時に尾翼を損傷する恐れが高い、と言われます。

そのため尾翼が主翼よりも高い位置にありますね。

もしこの位置の尾翼が水平だった場合、迎え角を大きく取ると主翼の後流が
尾翼の効果を打ち消して急激な機体の頭上げ(ピッチアップ)を生むため、
尾翼には大きな下反角をつけることで対処しています。




エアインテークの前にあるこの部分を

「スプリッターベーン」

といいます。
ファントムIIに使用されたエンジンは当時最新鋭の

ゼネラル・エレクトリック J79」。

当時としては強力な推進力を生むものでしたが、それがため
エアインテーク周辺にマッハ越えのときに生じる衝撃波が、
エアインテークへの空気の吸引を妨げるという弊害を起こしました。

つまり機体表面に流れている境界層と呼ばれるごく薄い空気の層
通常の空気と共にエンジンに吸い込んでしまうと、
エンジンの効率が下がり性能低下を引き起こすのです。


そこでスプリッターベーンという細かい穴の開いた板を
エアインテークの直前に置き、ここから境界層気流を
吸い込んで裏に流してしまう、ということが考えられました。



上の写真の一部を拡大してみました。
この無数の穴から境界層のインテークへの侵入を防ぎます。

それで衝撃波を緩和することをも防ぐことができるというわけ。



スプリッターベーンの内側に隙間があるのがお分かりでしょうか。
この隙間は50mmとされており、インテークへの境界層の進入防止とともに
境界層の吸入による振動(バズ)を防ぎます。



ミュージアムのHPを見ると、スタッフは機体の発見、獲得から始まって
渾身のレストアを施したこのファントムIIを「our baby」と呼んでいます。

さて、もう一度最後にスプリッターベーンをご覧下さい。
赤に黄色で縁取られた星が4つ描かれています。

これは元々823機に付けられていたものを、レストアクルーが
ペイントする際に復刻させました。
オリジナル塗装ではおのおのの星に年月日が書かれ
星の下部には

「於べトナム 第8TFW ロビン・オールズ少佐」

と記されています。
これはオールズ少佐が撃墜した北ベトナム空軍機の撃墜マークなのです。

撃墜マークを復活させておきながら、具体的に敵機を「いつ墜としたのか」を
機体に残すことをしなかったのはなぜでしょうか。






 


サンフランシスコの一日~クリフとフォートポイント

2014-08-12 | アメリカ

さっき車の中でラジオを聞いていたら、突然

「ロビン・ウィリアムズが自殺した」

というニュースが繰り返し始まりました。
昨日、黒人のティーンエイジャーが警察に撃たれて亡くなり、
黒人の暴動が起こって32人が逮捕されている、というニュースが
朝から繰り返されていたのですが、 
一挙にこの話題にかすんでしまいました。

昨日はサンフランシスコに来ていたという証言もあるそうですが、
自殺とは・・・・一体何があったんでしょうね。 



さて、かつてサンフランシスコに住んでいたことがあり、
帰国してからもほぼ毎年ここに来て夏を過ごしていた我が家は
2年前から息子のキャンプの内容の充実を求めて
ここスタンフォードのITキャンプにくるようになっても
かつての懐かしい場所を求めて滞在中何度かSFに行きます。

わたしはお気に入りのブティックがあるので、それらを
一回ずつ訪れるだけでも結構な回数になります。
顔なじみで名前も知ってくれている店もありますが、
それほどでもないところでもレジで

「わたしあなたの顔覚えてるわ」

と言われたことが何度かあります。
どの店も一年に一回しか行かないのに・・・。 

ところで、その中でも最も仲良くしていて、スタッフの名前も
全部熟知している店を先日訪れたのですが、
3年くらい前から働いている70台のおばあちゃまスタッフが、
なんとジャズギタリストの

Bruce Forman (wiki)
ホームページ

のお母さんであることが判明しました。
なんてこった。
ブルース・フォアマンといえばリッチーコールのバックで
日本に来たりしている、ちょいカントリー風ジャズギタリスト。

あらためて写真を見たら、ママンと全く同じ顔をしています。
本人にそれを言うと

そうなの。髭があるだけの違いなの」

ちなみに、彼が何歳からギターを始めたのかと聞いてみたところ、
小さいときにはピアノをやっていたのだが、20歳のときに
急にギターを始め、すぐにプロになっていたということです。
まあ、プロになる人というのはそんなもんですよね。

「プロになろうと思って音楽を始める人はいない、
なろうと思うのではなく気がついたらなっているのがプロだ」

というのは、不肖エリス中尉の名言です(笑)

母上によると現在彼は「ルート66ツァー」をやっていて、
あの「Route 66」に登場する街のライブハウスを次々に
回って演奏しているそうです。

つまり、シカゴを出発してLAまでの2000マイル、

Saint Louis

Joplin,
Missouri

Oklahoma City
Amarillo
Gallup
New Mexico
Flagstaff

Arizona
Winona
Kingman

Barstow
San Bernardino


という順番ですね。
きっとライブの一番最後にこの曲をやるのでしょう。 

ママンによるとブルースは何度も日本に来ているので、
今度行くときにはメールをくれるとのことでした。



翻って当方の息子は相変わらず機嫌良くキャンプに行っています。
ITキャンプなので合間には皆でゲームをするそうですが、
朝のドロップオフのときに

「お前が「X」か。昨日一人で勝ちまくってたという」

などといわれていて、彼が有名人であることに気づきました。
大抵100人近くのクラスの中のゲーム「2強」の一人になるそうで、
カウンセラーといわれる講師に勝つこともしょっちゅうなのだとか。
わたしとしてはそんなことで有名になられても、と思うのですが、
本人はいたって大得意。

「気がついたらゲーマーになっていた」

というのだけは親の立場からもやめてほしい、と祈る今日この頃です。

関係ないですが、彼はまた


「お前デスノートの主人公に似てるな」

とも言われたそうで、それもちょっと嬉しい様子。
どのキャラのことか知りませんが。



さて、その息子がサンフランシスコに一度は行ってみたいというので
先日、I-280で北に向かいました。
サンフランシスコ上空には今日は霧がかかっているようです。
今からあの雲の中に突入だ!
わたしも息子もパロアルトを出発するときからジャケットやマフラーで装備。



隣をまるで絵はがきのようにきれいなオールドカーが
走っていたので息子に写真を撮らせたのですが、失敗。
青い、やはりレストアカーと連れ立ってドライブを楽しんでいます。
タイヤホイールなんかもぴかぴかですね。



こだわってオールドカーに乗る人はここアメリカにも
たくさんいます。
これはサイドミラー越しに撮ったメルセデスのオープン。
カリフォルニアの人はオープンカーが大好きです。
強い陽射しは彼らにとって苦ではないようです。



280を出て太平洋沿いのスカイラインハイウェイを走りました。
パラグライダーを楽しむ人が集まる崖の上の公園があります。
いつも崖沿いや海の上を飛んでいるのですが、
見ているだけでどこに着陸するのか心配になります。
皆個人で楽しんでいるので、日本のように何かあっても
業者に責任を問うみたいなことにならないようです。



サンフランシスコの地図で言うと右上、太平洋を臨むサンセット地域。
この向こうには日本があります。



車から降りるなり激しく冷たい風にあおられて震え上がりました。
海岸を歩く人も寒そうです。

「これが8月の海岸の光景だなんて・・・」

いつ来てもサンフランシスコはクレイジーな気候です。



ここにはかつて風力発電のために使われていた風車が二つあります。
勿論今はその姿が残っているだけです。  



レストランに行くことにして車を停めました。
ここは「クリフ」と呼ばれています。



海岸の向かいにはアパートなどもありますが、
よくボードを抱えて道を横切っている人を見かけます。
近くに住んでいるサーファーも多いと見た。
しかし、冬でもやるのがサーフィンとはいえ、ここで水に落ちたら
さぞかし寒いだろうなあ・・。

風が強いので結構いいチューブが来ているようでしたが。



おばかさん発見。

サンフランシスコの海で海水浴をする、などというのは
体を張ったギャグ以外の何ものでもありません。

おそらくただウケを狙っての決死のパフォーマンスと思われます。
何が君をそうさせている。



というわけで、レストランのあるビルの近くに車を停めました。
ここは3年くらい前に長年かかって行われていた改装があいなって、
観光客や地元の人たちが訪れる人気スポットとなっています。



中のカフェはものすごい人で順番待ちが出来ていましたが、
レストランの方にはすぐに座れました。
ホテルのダイニング並みのお値段設定なので、
ちょっと休憩、という観光客などはこちらを選ばないからです。



案内された席からの眺め。
下のテラスにはしょっちゅう人が来ます。
いかにも寒そうな二人。



海岸にある岩の小山にはしょっちゅう人が登りにきていました。



どこから降りるのだろうと不思議に思って見ていたのですが、
右下の亀裂の隙間に立った墓石のような岩の上に移り、
そこから亀裂の右にさらに移って砂浜に降りていました。



そんな観察をしているうちにスープが来ました。
息子と二人でシェアした人参のスープ。



ここの売りはシーフードです。
素直にスキャロップを注文してみました。
付け合わせにはアサリとポプコンシュリンプもあって
食べ応え十分すぎるほどでした。



息子の頼んだコッドのフライ。
どちらも美味しくて、量が多いのに全部食べられました。



しかもデザートも頼んでしまうのだった(笑)
二人で一つ頼んだ「ラーバ・チョコレートケーキ」。
付け合わせてあるのはホイップクリームとピスタチオのクリーム。



ラーバ、即ち溶岩のように熱々のチョコレートが中から・・。
アメリカのデザートなのに甘さ控えめで激うまでした。



全てに満足したのですが、一点精彩を欠いたのが紅茶。
アメリカ人には紅茶の文化がないので、お湯のポットに
はいどうぞ、とティーバッグを一つ持ってきたりします。
まあ、ポットで3ドル50セントですから文句も言えませんが。



ここにはかつてStro Baths(ストロバス)という温水プールがありました。
よりによってこんなサンフランシスコで一番寒いところに、
と思わないでも無いのですが、決して泳げない海だからこそ
それを見ながらせめて暖かい室内で泳いでみたい、と
考えたサンフランシスカンが多かったということでしょう。

先ほどの水車もここに電力を供給していたのではないでしょうか。




まるで養殖場のいけすのようですが、こんなプールだったようです。

1896年、ユダヤ系ドイツ人で初のサンフランシスコ市長となった
アドルフ・スートロが世界最大の屋内スイミングプールとして建てたもので、
運転コストとメンテナンスに費用がかかりすぎたため経営は思わしくなく、
閉鎖に追い込まれました。

その後ここにはかつての遺跡だけが残っていましたが、
1966年、放火による火災で全ての建物は焼失したそうです。



ここがその跡地。
建物の基礎の跡と、プールに移動するための階段、
そしてトンネルが見えます。



ここに立つとあまりの風の強さにわたしたちはさらに震え上がりました。



そして、水槽の跡のようなものが見えています。



それがこの部分。
今ごはんを食べている建物のあるのが向こうの崖沿いです。



温室ドームは大きなもので、この下の階にもプールがあり、
吹き抜けの二階はこのようなスペースになっていたようです。



さて、息子のリクエストにより、わたしが先日車の鍵を失くしたところの
ゴールデンゲートブリッジに行ってみることにしました。



この日はサンフランシスコ中が深い霧に覆われていました。
晴れているように見えますが、真っ白な写真を加工したものです。



ゴールデンゲートブリッジのある地域をプレシドといいます。
プレシドに建っている家は殆どが築100年もので、
しかも壁や屋根の色をぬりかえることは許されません。
従ってどこにいってもクリーム色の壁にレンガ色の屋根の建物ばかり。
色彩に統一があって実に美しい一帯です。



ブリッジのたもと、フォートポイントに来ました。



ウォーキングでここにたどり着き折り返すときにタッチするパネル。
前に見たものとは違う新しいものになっていました。



下の方にある犬用はそのままです。



上空に水上飛行機発見。
アレスティングワイヤーのようなものを付けていますが・・。

 

駐車場に車を停めて釣りをしている中国人あり。
今夜中華街にある彼の店で「TODAY’S CATCH」として料理されます。(たぶん)
見ている前で瞬く間に一匹釣り上げ、観光客が周りを取り囲み大騒ぎ。
ちょっと得意そうな陳さん(たぶん)でした。



ところで、わたしの今乗っている車です。
え?
前に鍵を失くしてからダッジに乗ったといってなかったかって?
はい、乗り出して数分でGPSがないのに気づいたんです。
そして次の日またもやスイッチしにいき、
すったもんだでプリウスに代えてもらったというわけです。

つまりわたしがこの滞在で乗った車、その数8台。
平均週一回車を代えていたことになります。

このまま最後まで行けますように・・・。(切実)



ここには1800年代に作られた要塞の跡があります。
時々は公開されるのですが、入り口にあった案内によると
それは来週の土曜日でした。
最後の週末になりますが、どうしようかな・・。 


このあと、市内のスーパーで買い物をし、パロアルトに戻ってきたのが夜8時。
夜なのに明るく暖かく感じ、サンフランシスコの異常さをあらためて実感しました。

しかし、また別の日になれば行きたくなるんですよねこれが。

やっぱりサンフランシスコはクレイジーな街です。



 

 


パシフィックコースト航空博物館~デルタダートとサンダーチーフ

2014-08-11 | 航空機

昨日、テレビのHDチャンネルをつけていたら、

「ウルヴァリン SAMURAI」

が始まりました。
今年の公開で日本が舞台であるため劇場に見に行った映画ですが、
導入部は、ウルヴァリンが1945年の長崎に生きていた当時、
陸軍の青年将校であったヤシダを身を挺して原爆の爆風から守る、
というものです。

そのことから息子に長崎に投下された原爆の話をしているとき、
ふと、その日が8月9日であることに気がつきました。

この日この放映を見た人のうち、どれくらいがそれに気づいたか
わかりませんが、そういうことを意図して企画した「中のアメリカ人」
もいるのだなあと、小さなことですがなぜか少し安心しました。 


さて、先日訪れたサンタローザのパシフィックコースト博物館見学記、
続きと参ります。
 

Convair F-106 Delta Dart


1950年初頭、空軍がコンベア社に開発を依頼した要撃機は

計画が遅れ、1954年の期限までに納入される見込みはないということから、
空軍は同社から暫定的な要撃機を導入することにしました。
それが

F−102A デルタダガー

といいますが、これが最終的にF-106 デルタ・ダート
と命名されました。

空軍のこの機体への要求性能は 

最大速度マッハ2以上、
上昇限度2万1300m以上、
戦闘行動半径378nm以上

というたいへん厳しいものでした。

しかし最初のプロトタイプはたいへん残念なパフォーマンスで、
速度はマッハ1.9、上昇限度1万7370m

しかもマッハ1を超えてから最高速度にたどりつくのに
4分30秒もかかることが判明したのです。
これではとても要撃機の役目を果たすことはできません。

というわけで、その後継続的なエアインテークの開発を重ねたのち、
完成した277機の単座、63機の複座の機体が空軍に調達されました。



少しこの写真では分かり難いですが、翼の前縁には

コニカル・キャンパー

といわれるわずかな垂れ下がりがつけられています。
これは迎え角の大きいときに飛行機の失速を防ぐ仕組みです。

このコニカル・キャンパーを大きくした高揚力装置を
スラット(英語ではslats)といいます。

スラットといえば、ここスタンフォードにはコメント欄で少しだけ話題にした
Linear Accelerator研究所がありましたね。



わざわざ写真を出してきてまでボケてみる。
それスラット違うスラックや。
しかしボケついでに少し余談をしておきます。

この入り口の表示には

NATIONAL ACCELERATOR LAVORATORY

OPARATED BY STANFORD UNIVERCITY FOR THE
U.S. DEPARTMENT OF ENERGY

とあります。
SLACというのは

Stanford Linear Accelerator Center

という最初の名称の略なのですが、名称が変わった今も
最初のこの略称が使われているそうです。

で、雷蔵さんのコメント後、あらためて気がついたのですが、
何と、いつも使っていた高速道路の出口付近には何カ所にも

「SLACは次の出口」
「SLACは次を左」「SLACは→」

というような案内が緑に白地の表示(大学や野球場など、
人がたくさん集まるようなところの案内)でされていたんですよ。



今まで何回もそこを通ってきているのに、SLACを意識したとたん
今まで全く見えてなかったそれが急に見えてきたんですね。


これは認識と知覚のメカニズムについての面白い実験結果です。
人はいかに自分の関心事以外には認知する働きを停止しているか、
ということを表わしているのではないかと思った次第です。

そこで俄然我田引水です。

A−6とEA−6Bの機種判定が問題になったとき、

パンフ等で展示機の(せめても)機名・型式名を
確認してきてくれさえすれば、毎年繰り返されずに済む
喜劇もとい悲劇(^^)ではなかろうか」


と「うろうろするあれあれさん」に言われてしまったわけですが、
わたし、どちらもちゃんとやっているつもりなんですよ。

ただ、現地にいるときにはだいたい時間が限られているので、
とにかく確認より何より写真を的確に分かりやすい順番で撮ることだけ
心がけ、照合は後で写真を見て行う、ということにしているのです。

まあ、「うろうろするあれあれさん」のおっしゃるとおり、

現物を見る時点で機種がわかっていれば避けられる間違いなんですが、
案外いい加減な現地のパンフやHPに判定を惑わされてしまうと、
間違いを認識するのに大変困難を要するということなんですね。



と、こじつけの余談でいいわけをするエリス中尉でしたが次に参ります。

先が尖っているので赤いカバー(のようなもの)
を付けたノーズは、地上管制システムとデータリンクするための仕組み。
ドローンの先が親の敵のように尖っていたのと同じような理由です。



なぜ「デルタ」「ダート」なのか、上から見ると分かりやすいですね。
これはどう見てもダーツです(笑)
ちなみに、当機を改良後、さらに戦術航法装置などを書き換えるなどの
手直し作戦を

「ダートボード作戦」

と言ったそうです。
こういう作戦の名前には中の人が楽しんでつけたような
シャレの効いたものが時々ありますね。 


胴体の真ん中にくびれがあるのがお分かりですか。
これを

「エリア・ルール」

といい、音速を超えて飛ぶ飛行機の抵抗を軽減する仕組みです。
ちょうど翼があるところで断面積が急増することによって空気の抵抗が生まれるため、
これを緩和するのが目的です。

そしてコクピットの風防をご覧下さい。
完璧に三角です。



横から見ると窓が三角形。
しかしこれは・・・もしかしたらコクピットに座ったら

正面が見られないのではないだろうか。

三角形のフレームがちょうど前にあるわけですから。
いやー、現地では全く不思議に思わなかったけど、こうして見ると
実に不可思議な構造の風防ですね。
座席に座ってどんな風に外界が見えるのか、是非「コクピットデー」
には試してみたいものです。アメリカに住んでないと無理ですが。

スプリッターベーンの無数の穴といい、黎明期の超音速機というのは
今にしてみればとんでもない仕様をあれこれと工夫している様子がよくわかります。
技術革新と共に素材の発明でそれらは全て解決されていったわけですが、
こんなところに先人の努力の跡が窺えます。



ARMAMENTとは軍装や装備のことですが、何も描かれていません。
この角を生やした毛むくじゃらの部隊マスコットの装備を
乗員がいろいろと面白がって書く欄だったのではないでしょうか。

ところで、この機体の説明板には、

IN HONOR OF AND REMEMBRANCE OF
Major General Jimmy J. Jumper


と書かれています。
メイジャー・ジェネラルは米陸軍における少将で、海軍では
少将をリア・アドミラルといいます。
ついでに、海軍では上から

アドミラル・オブ・ザ・フリート(元帥)のもとに
アドミラル(大将)
バイス・アドミラル(中将)
リア・アドミラル(少将)

となります。
海自はアドミラルが幕僚長に相当するので元帥のカウンターはありません。
陸軍でも元帥はなく、

ジェネラル(大将)
ルテナン・ジェネラル(中将)

そしてジミー・ジャンパーのメイジャー・ジェネラルとなります。
ジャンパー少将は統合任務功績章を授与された軍人で、
その息子のジミー・ジャンパー少将は現在統合参謀本部のチーフ。

おそらく、とう博物館にも深く関与しているのだと思われます。

当機は、ラングレー空軍基地にあったジャンパー少将の要撃隊、
第405飛行隊に敬意を表しています。




この隣には次に説明するF−105サンダーチーフが置いてあります。
実はデルタダートとサンダーチーフは同じエンジンを積んでいるのですが、
デルタダートの翼面積はサンダーチーフの2倍くらい大きなものです。

にもかかわらず、重量は若干こちらの方が軽かったそうで、従って
格闘能力は当初の予想を上回るほど優秀。
MiG-21 と同じような特性を持ち、ベトナムに派遣されていた
ファントムII
の仮想敵機として訓練に使用されたほどでした。

wikiによると

”F-106 の加速力と低翼面荷重による高空での高い運動性能は
F-4 パイロットをてこずらせたといわれている”

とのことです。



デルタ・ダートは冷戦時代の防衛を目的に生まれ、
20年間その任に当たり、1988年に退役しました。
翌年の1989年、ゴルバチョフとブッシュ両大統領の間で
冷戦終結の宣言が採択されています。

冷戦時代を象徴するような戦闘機と言えましょう。




REPUBLIC F-105 THUNDERCHIEF

先ほどお話ししたようにF−106とは同じエンジンを積んでいますが、
翼の形や全体のシェイプが全く異なります。
見た目は全く戦闘機=ファイターですが、軽爆撃機仕様で
この細い機体に爆弾槽を備えており、

「FとB(爆撃機)を付け間違えたのでは」

という軽口が奉られたりした、マルチロールのさきがけ的存在です。



サンダーチーフ、というのは雷の部隊の大将という意味なので、
いわば雷王ということにでもなりましょうか。
どうもチーフという言葉のイメージが軽い気がする日本ではイマイチの
ネーミングである気がしますが、それはともかく、このサンダーチーフ、
あまりにもニックネームが多いことでも有名です。

Thud 「どさっ」 “雷が轟音を立てて落ちる”(大量の爆弾を投下することから)
Thunderthud  「落雷」(同じ)

Hyper-Hog 地面を掘り返すもの”(“凄い豚(猪)”)
Ultra-Hog (同じ)

Squash Bomber ”握りつぶす(ように爆撃する)爆撃機”
Iron Butterfly ”鉄の蝶”
The Nickel ”5セント硬貨”(機体の平たいこととセンチュリーシリーズの5番目だから)
One-Man Air Force ”一人(で全部やってしまう)空軍”
Triple Threat ”3つの脅威”(戦闘、爆撃、核攻撃をこなす多用途性から)
Republic Iron ”リパブリック社製鉄鋼製品”“リパブリック鉄工所”(頑丈だから)

どれもこれもこの飛行機に対する敬意と驚嘆が含まれているものばかりです。
いかにパイロットたちに評価が高かったのかがわかりますね。




ベトナム戦争に投入されたしょっぱなに、たまたまMiG-17に撃墜されたため、
これはだめかもわからんね、と思われてF−100(マッハ1)に護衛される、
という屈辱的な時期もありましたが、その後その雪辱を果たすという気概に燃え
彼らは果敢にMiG−17に立ち向かい、撃墜記録をあげることに成功しました。 

しかし空戦のときには爆弾を棄てねばならなかったため、
撃墜記録にこだわって爆撃を二の次にしたきらいがないでもありません。

北ベトナム空軍は結果として米軍の空爆を阻止することが出来たわけで、
むしろそれが目的で出撃していたという話もあります。 

先日お話しした陸上自衛隊の広報館には、ヘリや戦車、自走砲
などの装備が展示してあって、これはおそらくどれも動的展示ですが、
歴史的な航空機、特に戦闘機でまだ飛行が可能であるものがあるのは
アメリカならではかもしれません。

このサンダーチーフは、2011年の航空ショーのときに動的展示され、
ワインカントリーの上空にその翼を翻し飛翔しています。



レッドリバーショウボート
レッドリバーバレーなんて曲がありましたね。
キャプテンがテキサス出身なのでしょう。



otter(カワウソ)1とA Mean Bear(意地悪クマー)
かつてこのサンダーチーフに乗ってベトナム戦争を生き抜いた
パイロットたちのタックネームでしょうか。


サンダーチーフは北爆の主力として使用されたD/F型総生産数751機のうち、
385機、つまり半分が戦闘や作戦中のトラブルで失われています。

まさに、ベトナム戦争に殉じた戦闘機といっていいでしょう。



 


ボストン美術館

2014-08-10 | 博物館・資料館・テーマパーク

毎年一度は訪れるボストン美術館ですが、未だに
初めて見る作品がたくさんあります。


勿論、何度見ても厭きることなく新しい感動を与えてくれる作品、
たとえば冒頭のジョン・シンガー・サージャント作

「エドワード・ダーレイ・ボイトの娘たち」

14歳のフィレンツェ、12歳のジェーン、8歳のメアリールイザ、そして
4歳のジュリア。
肖像画らしくない謎の人物配置と、少女たちの愛らしさが魅力的です。

前に見たときにはその素性について深く考えなかったのですが、
この絵に見える背の高い花瓶は、まぎれもない日本製。
先日訪れ、創業者の孫から直接説明を受けた有田の深川製磁製であることは
ほぼ間違いないでしょう。

ボストン美術館のHPによると

「19世紀後半に主に西洋への輸出のために有田で造られた花瓶」

とあります。
この頃まだ深川忠次の深川製磁はなく、その前身の香蘭社が
1876年、フィラデルフィアで行われた万博に壷を出品し、
その後78年にパリ万博で金賞を受賞しています。

この絵が描かれたのはその4年後の1882年。
ハーバード出の弁護士で、娘たちの父親であるネッド・ボイトの家庭は
裕福な地域に住み、当時は高価でステイタスであった有田の花瓶を
家に飾るほどの財力を持っていたということがわかります。

ここにある花瓶も勿論有田製で、模様が全く同じであることから
ボイト家の持ち物であろうと思うのですが、
不思議なことにそれについて述べられている資料はありません。



さて、今日は美術解説はこれくらいにして、この日観た
「気になる作品」を淡々とアップしていきます。

この日の美術館訪問は、TOと二人で行きました。



わたしたちはこのとき知らなかったのですが、
この日は「オープンハウス」で、無料開放日。
周辺が混雑するくらい車が駐車場に並んでいたので、
迷わずバレーを利用しました。
友の会の会員でなければ27ドルと高いですが、
入り口で車をピックアップしてくれ、帰りには持ってきてくれます。



取りあえずまず休憩を(笑)
おやつにカフェラテと果物、ムースを頼んでみました。
コーヒーはスターバックスからとメニューにはあったのに、
見た目からしてスターバックスのラテらしくありません。

この日は息子のキャンプが最終日でセレモニーのため、
お迎えはなんと9時半です。
しかし、驚くことに美術館の閉館はそれより遅い9時45分。

今日が特別なのではなく、毎週水木金はこの時間なのです。
これなら仕事が終わった後のデートにも使えますね。



休憩が終わって早速歩き出しました。

コンソールの脚が人形です。
家具や壁面に人間をあしらうの、好きですよね。西欧人。



マンドリンとオーボエ(ダモーレ)。
オーボエという楽器は今日とあまり変わりません。



日本語の音声ガイドを借りてみました。

「ほんの少ししか解説がありませんがいいですか」

それでもないよりはましです。
そのガイドの順番に従って歩くことにしました。

写真は古代アメリカのコーナー。



謎の動物と不思議な服を来た人。



ネズミの上にネズミ。
前のネズミの口から中身が注げるポット。



1800年代?のアメリカの民家。



マグナカルタというコーナーにあった帆船の模型。
マグナカルタ憲章のコピーが壁に大写しされたコーナーでは
多くのアメリカ人が立ち止まって文言を読んでいましたが、
わたしたちは通過(笑)

「マグナカルタ、ありましたねえそういえば」
「なんだっけ。大憲章とか」
「うーん、なんだっけ」

後からwikiをみたら、1215年に制定されたイギリス国王の権利の保障とか。
前文だけは現在でも残されて現行だそうです。



(イギリス系)アメリカ人にすれば、こういう船に乗って
大航海時代にアメリカ大陸にやってきた自分たちの先祖ですから、
興味があるのも当然かもしれません。

 

近代アメリカ美術のコーナーにあった石像。
天使が抱きかかえているのは労働者のようです。
石碑の足元には、

その命を故国に捧げた1288人のペンシルバニア鉄道の男たちへ

と書いてあります、
ペンシルバニア鉄道は1846年に設立された鉄道ですが、
工事の際にこれだけの殉職者を出したということなのでしょうか。



最初の解説はこの抽象画でした。
黒い部分は絵の具ではないとか、従来の絵画とは違う作者の視点が
画期的だとか、解説音声はいろいろと言っておりました。
しかし正直こういう抽象画の良し悪しはわたしには全く理解できません。

家に飾るのにはいいデザインだとは思うんですが。



空虚な光景に既視感を感じる作風が好きです。
エドワード・ホッパー



テキスタイルやファッション芸術の展示もところどころに。



現代美術のコーナーは外光を高い天井から取り入れています。

 

機能的デザインの展示もありました、
この細長いものは1943年にデザインされた脚用の添え木。
紙に包んであるのは開封前。



ジョージア・オキーフ
生涯を通じて花と動物の頭蓋骨を描き続けた女流画家です。



先生むっちゃ怒ってます。
額に寄せたシワが怖い。



いかなる状況かはわかりませんが、このお姉さんは
何かを聞きながら走っている模様。
そういえばあの話題になった西宮市議が記者会見で耳の前に手を当てて、

「それで聞こえるんかい!」

と突っ込まれていましたが、この人も変わった手の当て方ですね。
音を聞くためにわざわざこんなポーズをする人っているのかしら。

しかしそんなことはどうでもよろしい。

この後ろに面白い絵を見つけました。



あれー、これはボストン美術館の、この部屋の絵?
それでは、全く同じ角度から写真を撮ってみましょう。



こんな感じ。
ボストン美術館は所蔵が膨大なのでしょっちゅう展示が変わります。
したがって、後ろの展示作品も少し違っていますが。



何となく撮ってしまいました。
おまわりさんに尋問されているらしき人は知的障害者の模様。



あら素敵な軍人さんだこと。
これは、ウィリアム・ハントというマサチューセッツ出身の画家の作で、

ハンティントン・フロッシンガム・ウォルコット中尉

という絵です。
ウォルコット中尉は南北戦争のベテランであったようです。



わたしがここの所蔵で最も好きな絵の一つ。
ハッサン

夕暮れのボストン・コモン

ボストン・コモンは観光地の一つで、古い公園(画面の右手)
が今でも同じようにある地域ですが、
画面左手に見える路面電車の道に面した建物は、
今でもそっくりそのままに残っています。

この画面を西に向かって少し行くとニューベリーストリート。
わたしのお買い物スポットです。



いきなり趣の違う絵ですが、南米大陸の画家だったかと。
こんな絵でよければわたしが描いてあげてもいいと思わされますが、
座っている馬だかロバの脚に計算のなさがあって、
まあこの辺りがゲージツなのかなと思ってみたり。

ぜったいこの馬、中に人が入ってるだろっていう。



細いウェストにきりりと締めたエプロンの質感と、
バラ色の肌の透明感がとても魅力的な若い女中の像。
この絵も好きな作品の一つです。



まるで教会のようなステンドグラスをはめ込んだ窓の石室。
全ての展示品は最大限の効果をあげるような工夫が凝らされています。



いつの間にかヨーロッパ絵画のコーナーに来ました。
宗教画には決まったテーマがあります。
誰もが知っているシーンを切り取って画家は
自分なりの解釈をカンバスに展開するのです。

これはごぞんじサロメがヨハネの首をヘロデ王に所望し、
銀の盆にそれを受け取る瞬間。

この後サロメはヨハネに接吻し、それを見た王は
サロメを殺せと兵に命ずるというのが新約聖書を元にした
オスカーワイルドの戯曲の結末です。

しかし、この画家の解釈は面白いですね。
サロメには何の高揚も興奮も感じられず、
首を受け取っているというのに目をあらぬ方向にそらし、
まるで他人事のようなしれっとした顔をしています。

ヨハネに恋し受け入れられなかったがための
復讐をなしとげた女の顔にしては淡々としすぎているというか。

サロメが罪悪感に苛まれた一瞬を描いたのでしょうか。



最後の晩餐のセラミック作品。
全員朗らかに笑っていてどれがイエスかどれがユダかさっぱり分からず。

まあこれで表情の描き分けをするのは至難の業だとは思いますが。



アウグストゥス頭像
初代ローマ皇帝ですので、たくさん彫像が残されていますが、
驚くことに(ってほどでもないか)どの彫像も同じ顔をしています、
本当にこんな顔の人だったんだなあと納得します。

文献に寄るとアウグストゥスは身長は170センチ、均整の取れた
立派な体格で、まれに見る美男子であったということですが、
それで皆がこぞって皇帝の彫像を造ったのでしょうか。

アウグストゥスの最大の功績は「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)
を実現したことです。
しかしながらその平和の期間にローマの伝統であった対外拡張政策を止め、
防衛体制の整備に努めるにあたって、

「市民=戦士」

という伝統を復活させています。
備えによる平和を実現させたというところかもしれません。



美術館のドーム天井。
ボストン美術館は1870年、地元の有志によって設立され、
独立戦争100周年にあたる1876年にオープンしました。

本日ご紹介した北米芸術が展示されているウィングは
2010年に増設が完成した部分です。

わたしたちがボストンに住んでいたときには工事中で
観覧する場所に制限があった記憶があります。

所蔵は50万点を超え、一度に展示しきれないため、
いつ行っても少しずつ展示内容が変わっています。
たとえ一度の訪問で全部観たとしても、実は
観ていない所蔵作品はその何倍もあるということなのですね。


だからこそ毎年でも行く価値があるとわたしは思っています。






 


キャッスル航空博物館~B-24リベレーター「ロンサムレディ」の乗員

2014-08-09 | 航空機

キャッスル航空博物館に到着して車を停めると、駐車場に向けて
フェンス越しにノーズを向けているので最初に目につくのがこのリベレーターです。

B-24リベレーター LIBERATOR

このリベレータ―とは、最初のLIBERが自由の意である「Liberty」からきていることから
分かるように、「解放者」という意味を持っています。
「(自由に向けて)解き放ってくれる人」というところですか。


前回キャッスル航空爆物官のB‐17からご紹介を始めたのですが、実はこの博物館、
展示コースの一番初めがこのリベレーターからになっています。

米国コンソリデーテッド社による開発で、B‐17の後継のような形で1939年に初飛行をしました。

もともと、コンソリデーテッドには、B‐17のライセンス生産が持ち込まれたのですが、
コンソリ社が「だが断る」として、新型の爆撃機開発にこだわった結果、
このリベレーターが生産されることになりました。

B‐17が航続距離が短いという欠点を補う仕様にしたため、後継機として
オーストラリアなどから投入され始め、日本軍とはその後ニューギニアで運用されるようになってから
交戦され始めています。

以前「パンツ一枚で初撃墜」というエントリで、海軍搭乗員の小高登貫氏が
このコンソリデーテッドを撃墜したという話を書いたことがあります。 
小高飛曹が照準を向けたそのコンソリデーテッドB-24は

「シルバーの機体に、赤、白、青の米軍のマークが浮き出ていた。
こんなにきれいな機体に機銃を打ち込んでいいものか迷った」

というものだったようです。
この「シルバーの機体」というのは、どうやらここにある陸軍の運用していたカーキとは
違う塗装のされた、 PB4Y-1リベレーターだったのでしょうか。

さて、当ブログではほかにもリベレーターが登場しているエントリがありまして、

 敵機に帽を振れ」より

この機体を見たときに、「あれ、どこかですごく見たことがあるぞ」
と思ったのは、この時に漫画に描いたからだったんですね~。

しかし、このときにまるでパイロットが一人であるかのように

敵機に帽を振れ」より

こんな操縦桿で描いてしまったのですが、もしリベレーターだとしたら



操縦席これですからね。
この場合、板倉艦長以下伊潜の乗員に帽子を振られて爆撃を中止したのは
操縦員ではなく、爆撃手だったということになりますね。
だって10人も乗っているわけですから。

この厳然たる事実を突き付けられて、この時の様子が
このように訂正されなければならないことがわかりました。

機長「ジャップノサブダ!バクゲキシュ、ダンヤクソウトビラアケ!」
爆撃手「イエッサー!」
機長「 ジャップメッ!パールハーバーノカタキヲトッテヤル!」(ここ一緒)

機長「ッテ・・・・アレ?」
コパイ「キャプテン!テヲフッテマス!」
機長「デイブ!ストップ!ストーーーップ!バクゲキチュウシ!」
デイブ「イエッサー!・・・・テカアレジャップデスガ、サー」

機長「ワ・・・・・・ワット?」
デイブ「ジャップガボウシフッテルンデアリマス、サー」

機長、副機長「・・・・・テヘペロ」

デイブ 「テヘペロジャネエ!サッサトUターンセンカイ!サー!」

こうだったんですね。ええ。
マンガがややこしくなるので訂正はしませんが。

・・・・・・・・・・・・・・・。

さて。

ここにあるバージョンは、コンソリデーテッドが最後に作った機体だそうです。
わたしのブログでさえもこれだけ活躍しているくらいですから(笑)
実際にもこのB-24は第二次世界大戦のいろんな場面で使われました。

生産された台数も膨大なもので、アメリカ陸軍航空隊向けとしては最多の
18,431機が終戦直前まで生産され、これに海軍向けの1,000機近くが加わります。

ちなみに先ほどのB-17は約13,000機で、B-29の生産機数は約4,000機。
第二次世界大戦中に生産された米国爆撃機の中で最多ととなっています。


この量産体制に大きく寄与したのが自動車会社のフォード社

当時、普通の航空機会社がこれを一日に一機作れるところを、
フォード社は一時間に一機のペース、しかも24時間体制でB-24の生産に当たりました。
全生産数のうち半分弱の8000機以上がウィロー・ラムのフォード社で作られています。



この無茶な体制で工場を稼働させたせいで、
フォード社社長であったヘンリー・フォードの息子、エドセル・フォードは、
心労のため胃をやられ、せっかく大企業の御曹司に生まれたイケメンだというのに、
わずか49歳の若さで胃癌のため急逝しています。
これも一種の戦死、というやつでしょうか。

合掌。



機体に爆弾を積むときに牽引する車まで展示されていて親切です。

さて、コンソリデーテッドはもともと水上機を研究していた会社なので、
このフォルムがなんとなく飛行艇のように見えてしまうのですが、
どういうわけか、水上に不時着したリベレーターの様子を撮影した映像が
残されているのを発見しました。




 

模型実験

コンソリが作ったせいか、不時着水がごく自然に・・・・・。
しかしそれでも微妙に後ろから着水した結果、機首が上を向き、
次の瞬間それが水面に叩きつけられて機首部分、つまりコクピットのところが
ぽっきりと折れてしまっています。

しかし、二人のパイロットはそこから全くぬれずに出てきて、
しかもそのうちのスカした一人はポケットから櫛を出して髪の毛を撫でつけているのが見物です。
(4分05秒の部分)

二つ目のは模型で実験しているのですが、模型の着水の様子と
実際の着水の様子が寸分違わず同じで、ノーズが折れるところまで予測できていたということです。

うーん。

この実験はもしかしたら、
「実験の結果は信用できる」
ということを証明するための実験?

 


ノーズが折れるところまで予測しているなら、
折れないようにしてからフルスケールで実験しろよっちう。 






爆撃のミッションが19回。
撃沈した敵艦船、2隻、
そしてハーケンクロイツが4つというのは撃墜したルフトバッフェの機体数でしょうか。

当初は航続距離が短いので日本の本土空襲には使えなかったとされるB‐24ですが、
硫黄島で日本軍が玉砕して以降、この機体でも本土に空襲することが可能になりました。

昭和20年7月28日には、沖縄から飛び立ったB-24リベレーターのうち2機、
「ロンサムレディ」と「タロア」は、戦艦「榛名」を攻撃中に被弾して墜落、
乗組員は捕虜になりました。

彼らが収監されていたのは、一週間後には原子爆弾が落とされた広島でした。


そして今日からちょうど69年前の1945年8月6日。

広島に彼らの同僚であるアメリカ軍のパイロットによって原子爆弾が落とされます。
たまたま尋問のため東京に移送されていた隊長はじめ三人以外は、全員が死亡しました。


実はアメリカは原爆投下前にイギリス軍から「広島には米軍捕虜がいる」という報告を受けていましたが、
投下予定をそれで変えることは全く考えなかったようです。




あと、リベレーターが高射砲によって翼がやられ撃墜される瞬間の映像を見つけました。



B−24が日本軍の高射砲で撃墜される瞬間


このような瞬間を見るとどこの国の飛行機であっても胸が詰まります。



上記の広島での被爆した米軍兵ですが、なぜか橋のたもとに、
死体が全裸で放置されていたという証言があります。

それをみた通りがかりの人が棍棒を振り上げて殴ろうとしたのですが、
最後の瞬間でひるんでしまってどうしても強く叩けなかったそうです。

自国の容赦ない爆弾によって殺されてしまった米兵に対し、
ただ敵として憎むには忍びない「憐れ」がさせたことだったのでしょうか。


本日は8月9日。
広島と長崎に原子爆弾が投下されてから69年が経ちます。








ゴールデンゲートブリッジカーキイ紛失事件~「Good luck! 」

2014-08-08 | アメリカ

「やっちゃった」

エントリのジャンルにこんなタグがあるのに気がつきました。

この際なので使ってみます。

「やっちゃった」というこのタグとタイトルを読めばもう

「ゴールデンゲートブリッジを見に行って車のキーを失くしたのね」

と分かられてしまうというのも情けないですが、まあそう言う話です。



今住んでいるパロアルトからゴールデンゲートブリッジを臨む
クリッシーフィールドまで、車では50分くらいでしょうか。
サンフランシスコに滞在し、息子がこの近くのキャンプに行っていたときには
送って行ったあと必ずここでウォーキングをしたものですが、
今では滞在中1~2度歩きに行くくらいです。



GGBの出来る前、これはちょうど橋の下にあたりますが、
ご覧のような建物がありました。
太平洋に面した防衛の拠点としてフォートが作られたのです。

この建物は勿論現在のものと同じで、時々公開されています。
中にはキャノンやガンパウダーの倉庫などが残されています。



陸軍の基地が置かれ、この草地はバイプレーンの頃滑走路でした。
4機の複葉機の前に全員集合!していますが、後ろの建物をよく見てください。



はいもう一度。

全く同じ建物が並んでいますね。
アメリカはどこでもそうですが、建物をそのまま使い続けるので、
150年前の写真と同じ景色が今も見られるんですね。

最近ですが、この建物をトランポリンやロッククライミング、
自転車の貸し出しセンターとして使うことになったようです。



スミス中尉というのは知りませんが、この

「ハップ・アーノルド少佐」

は知ってるぞ。
この人が少将だったとき、女子飛行隊の結成に難色を示したり、
今から大西洋を渡ろうとしていたナンシー・ラブに禁止命令を出したり、
とにかくあまりいい印象はなかったような。



ママさん飛行隊。
プロペラの上に乗っているのがうちのおじいちゃん、
なんて家もサンフランシスコにはありそうです。



崖に登ったら落ちますよ、って当たり前だが。
今から落ちて行く人の図案が秀逸です。



今日は珍しく、霧がかからない朝です。
晴れて、かつ全くブリッジが隠れていません。



フィールドの向こうはここ何年か続いている高速道路の工事。
今年は開通しているかと思ったのですが、アメリカは日本より
工事に時間がかかります。
この調子では来年の夏も完成しているのを見ることはなさそうです。
ベイブリッジの工事が終わったので、こちらが本格的に始まりました。
これが出来ると帰りが楽になるので早く出来てほしいのですが。



望遠レンズ装着ニコン1とソニーのRX−100を持ってきました。
ブリッジの近くにある国立墓地、つまり戦没者墓地が
こんなにここからはっきりと撮れたのは初めてです。



アルカトラズ島は少しぼやけていますが、
ここは朝来るといつもこんな感じです。



ここは犬をつながなくても良いので、思う存分走らせるために
わざわざ連れて来る犬のオーナーが多いです。



ここには犬の散歩業者が専用のバンで犬を集めてきて、
多い業者で7匹くらい引き連れて(というか引っ張られて)
歩いています。

そんな業者は逃げたら困るので綱を外すことをしませんが、
自分の犬には思いっきり走らせて楽しませます。



特に大はしゃぎしていた3匹。



左の茶色い犬の表情が・・・(笑)
砂が眼に入ったんですかね。



シギの類いもおります。



カモメとテリムクドリモドキは干渉し合いません。



ところで、お母さんが乳幼児と一緒に座っているところに
このムクドリが飛んできて近くに止まったのですが、
母親がまるでハエでも払うように手を振り回し、
叩かんばかりに追い払っていたのを見て、驚きました。

赤ちゃん(しかも女の子)を育てている母親、
特にアメリカの母親と言うのはみんな

「見てご覧なさい、鳥さんが来たわよ~」

みたいな感じだと思っていたので・・。



望遠レンズならではのこんな写真。
この黒人男性はずっとこのブイの上に立って、
「決まったぜ!」みたいな感じで静止ポーズを決めていました。

バスケットボールを持っている人が彼女だと思うのですが、
何の意図で(しかも長時間)やっていたのかは謎です。



カモメの向こうに見えているのが、
原子爆弾を開発したオッペンハイマーの基金で作られた
科学博物館、エクスプロラトリウム。

息子は小学生のときは後半ここのキャンプに行っていました。

さて(笑)

写真を撮りつつ歩くこと約50分。
ブリッジに向かう途中で引き返し、車まで帰ってきたわたしは
ウェストベルトを探って愕然としました。

鍵 が な い 。

見れば車の鍵はちゃんと閉まっています。
取りあえずiPhoneは音楽を聴くために持っていたので、
止めてあったデータのローミングをしてハーツの非常コールセンターを
インターネットで検索。
検索したページから直接電話がかけられます。

いやー、便利便利。
iPhoneに代えて(観閲式で雨に濡れて前の携帯が壊れたので)
良かった、とこのときほど思ったことはありません。

「あのー、ロックアウトされたようなのですが」
「まず車のナンバーを教えて下さい」

ナンバーから即座に白のプリウスを借りたエリス中尉様、
と向こうが探し出し、またもや便利な世の中になったものだと
当たり前のことにいまさら感謝するわたくし。

「それでは今から60分以内に鍵を開ける人を向かわせます」
「車の中にキーがやっぱりなかったらどうするんですか」
「そしたらそのときはレッカー車で空港のハーツまで行き、
新しい車に乗り換えて頂くことになります」

もしかして7台目?・・・・orz

今年に限ってどうしてこう車関係が波瀾万丈なんでしょう。
今まで約10年間もの間、一度もなかったことが次々と。

いや、一度あったな。

5年前、ゴールデンゲートブリッジの途中でタイヤがパンクし、
煙を吹き出しゴムの焼ける匂いを振りまきながら
なんとかエクスプロラトリウムの駐車場までたどりついて
そこでレッカーを待ったことが。

あのときといい今回といい、GGBはわたしと車の鬼門なのかしら。

しかしまだ車の中にキーがある可能性も捨てられず、
わたしはまずロックを解除してもらうことにしました。

ちなみにお値段は84ドル也。

30分ほどでやってきたメキシコ系の係はわたしを見るなり

「ハウアーユー?」

ファインなわけないだろこの状況で。
彼はすぐにドアの端に金具を入れて1センチくらいの隙間を作り、
素早く長い金具を差し込んでドアのロックを解除しました。

うわーなんて手際がいいの。
こんな技を持っていたら、車上荒しなんてお茶の子いやなんでもない。

そして取りあえず中のバッグや車内を点検。
やっぱりありません。
まああるわけないよね外から鍵かかってるんだから。

「うーん・・・」

レッカーを呼ぶ前に、わたしはもう一度フィールドを
歩いて往復してみることにしました。
歩きながら首を常時40度くらい左右に動かし、
地面に落ちているかもしれないキーを見逃すまいと眼を凝らしましたが、
全くそれらしい影さえありません。

絶対にフィールドのどこかで落としたのにはもう間違いないのに・・。
そして問題は人が多過ぎることです。
歩いている人は知っている人自転車に乗っている人、
一瞬たりとも途切れること無くトレイルを行き来する状況。

「こんなに人がいるなら誰かがすぐ見つけたかもしれないなあ」

誰かがカフェに届けてくれたかもしれない、と思い、
まず一つ目のカフェに。

「ロストアンドファウンドあります?」
「何をなくしたんですか」
「カーキイです」(車の鍵をこういいます)
「ありますが」

なにっ!

お店の人が出してくれたキイを見てがっくし。
キーチガイじゃなくてキイ違いでした。 

Uターンして次は公園事務所に。

「鍵はとどいてないわ」

またしてもがっくしするわたしに

「Good luck! 」

こういうときグッドラック、というのは実に相手をほっとさせる
いい言葉だなあ、とわたしは感心しました。

ずいぶんのんきなようですが、実際のところわたしは
そう大変な気もせず、これも一つのイベント、
と言う感じでどこか楽しんでいたフシがあります。

まあそれもこれもブロガー根性とでもいうんでしょうか、
どんなことでも命に関わることでもない限りそれをネタに
またエントリ書いたる!みたいなことを考えていると、 
あまり悲壮感は感じないものなのかもしれません。

最後にもう一つのカフェに行ってみました。
そういえば朝ご飯を食べずに出てきて50分歩き、
外で立ったまま30分待って、そのあとまた同じコースをもう一回歩いて
時間は現在1時。
そりゃお腹もすきますわ。

カフェでサンドイッチでも買ってそれからレッカーを呼ぼう。
レジでカーキイが届いていないかと聞くと、店長らしい男性が

「あ、一つありますけど」

なにっ!

しかしこれが自分のキイだったなんて奇跡が起こることを
いまのわたしは全く信じる気になれません。
もう今回は車関係何をやってもだめ、と諦めきっているわたしには。 

案の定それもキーチガイで、ガックシしつつも

「・・・・ターキーサンドハーフとスープのセット」

力なくお昼を注文したら、レジの中国系の女の子が控えめに

「Good luck・・・鍵が見つかるようにお祈りしてます」 

とおつりを渡すときに言ってくれました。
ありがとうね。




レッカーが来るのにきっかり1時間かかり、時間は2時。
この時間になると霧がかかってブリッジの上が見えなくなりました。

そしてレッカー車登場。
この係員もメキシコ系です。
さっきの人のようにハウアーユーはありません。

わたしの身分証明を確認し、サインを取ったら
さくさくと作業にかかりました。



もうこのころになるとネタにするつもり満点だったので
作業の様子を写真に撮ってしまうわたし。

アメリカではバック駐車は誰もしませんから、まず車の向きを
買える必要があります。
ロックされているのは前輪だからですね。

レッカー車の前からアームが出てきました。



後輪が回転しないようにバンドで固定して、そのまま
ずるずると引きずり出します。
前輪が動かないので地面とこすれてものすごい音がしました。



幸い向かいには車が停まっていなかったので
ここで作業をします。



何をしているのかと思ったら、アームの先の金具が
プリウスの車体に引っかかって出て来なかった模様。



プリウスの前に出て、バックで近づき、



車体の下にアームが伸びて行くと、
不思議なことに後輪にもがっちりバーがはまります。



そして車体を持ち上げ・・



天井に警告ランプを乗っけて出来上がり。

わたしはレッカー車の助手席に乗って行きます。
道中二言しかしゃべりませんでしたが、この人が無口というより
こういうときには職務として黙っているのがデフォルトのようです。

わたしがカメラの画像を点検していたら

「フォトグラファーですか?」

と聞いてきたので勿論違うといいました。
彼は作業をいちいち写真に撮っているわたしを怪訝そうに見ていましたが、
そんなことをするのはカメラマンに違いないと思ったのでしょう。




そしてハーツに到着。
空港のではなく、修理工場を併設する営業所です。

電話をしたとき最初にオペレーターは二回とも電話がつながるなり

「Are you safe? 」

と聞いてきましたが、レンタカーでも事故を起こす人は起こすらしく、
ここにはどうやったらこんなぐしゃぐしゃに、と背筋が寒くなるくらい
破壊された車体が三台並べておいてありました。



待つことしばし、アップグレード代をディスカウントしてくれたので
借りることに決めたのはダッジ。

「これはいい車ですよ」

と係員が言った通り、加速もパワーもなかなかで
今回乗った車の中で最も走り心地のいい車だと思いました。

・・・・たぶん燃費はすごく悪いと思いますけど。


最後のカフェでサンドイッチを食べていたとき、
コーナーにに店長がやってきて声をかけました。

「見つからなかったの?」
「ブリッジまで2往復したんですが・・だめでした。
レンタカーなので今会社に電話してトウイング頼んでるんですよ」
「ああそりゃお気の毒に。でも、まあそれだけで良かったよ。
またいいことあるから気を落とさないでね」

そして彼も最後に「グッドラック」と。
皆がこうやって心配したり慰めたりしてくれたため、
逆になんだかいいことがあったような気分にすらなってきました。

キーを紛失したことに対しては保険に入っているので
賠償の必要はありませんでした。
ロック解除代84ドル、レッカー代を120ドルは痛かったですが、
お金で全てが済むならありがたいと思わなければ。


まあ最初から鍵を失くさないにこしたことはありませんけど。

 

 





 


パシフィックコースト航空博物館~ブラックバード乗員の憂鬱

2014-08-07 | 航空機

ワイナリーの集中するここサンタローザは、ワイン製造に適した気候で
ワイン好きにも評価の高いワイナリーを生み出しています。
どういう気候がそれでは適しているのかと言うと、地中海性気候、
年間の降雨量が多すぎず日照量が十分であること。

たしかにカリフォルニアは夏の間雨が降りませんし、日照量に関しては
外を歩くだけで火傷しそうな暑さからも十分だと思われます。

湿度は少ない方が良し。
なぜならワインに適した土壌はそこそこ痩せているものだからです。
この辺りは湿度が低く昼間の暑さとは打って変わって夜になると
温度ががっくりと落ち、外では火のそばにいたいくらいになります。

湿度を「不快指数」ともいうように、夏は特に湿度が低い方が
人間にとって体は楽に感じますし、わたしもここでは
その気候を楽しんではいますが、あるとき

「日本人の肌の美しさはその湿度の多い気候にある」

と聴いて、悪いことばかりではないのかなと思った次第です。
湿度だけではなく水質も要因なのでこれも一概には言えませんが。


さて、そんな気候のもと、ちゃんと帽子で日よけをして
わたしはミュージアムフィールドを回って行きました。

ちょうどお昼の時間で、機体のメンテをしていた人たちは
(5人くらい)日陰でサンドイッチなどを食べ出し、わたし一人です。




Grumman A-6 IINTRUDER

これは説明を見なくてもこの触角ですぐ分かってしまいますね。



イントルーダーのスポンサーは「クローバー」という乳業。
カリフォルニアではこの牛のイラストと共に有名な企業です。
特にこのメーカーを選んだつもりはなくても、冷蔵庫には
一つはこの牛さんのパッケージが入っている、という感じ。

因みに今部屋の冷蔵庫にはクローバーのカッテージチーズがあります。



さいしょこれをイントルーダーだと言い張っていたわたしですが、
雷蔵さんの信じられない眼力とその指摘により
これが

The EA-6B Prowler

であることが判明しました。
謹んでこれまでの間違いをお詫びいたしますと共に
雷蔵さんに心から感謝する次第です。

プラウラーというのは「うろうろする人」という意味で、
あまり強そうに聞こえないのが問題ですが、上の
EA−6の搭載量の大きさを利用するため、電子戦に使えるように
改良したのがこの機体だったのでした。



海兵隊所属です。
イントルーダーと同じように、海軍と海兵隊が運用しました。
海軍においてイントルーダーはベトナム戦争、湾岸戦争など、艦載機として
アメリカのかかわった戦争ほとんど全てに投入された、とされますが、
海兵隊の実戦投入については説明がないのでわかりません。



お腹の部分に突き出ていた透明のケースのなかの物体。

これはなんでしょうかね。
目標探知攻撃複合センサー、TRAMというものではないかと思ってみたのですが、
どこを探してもこのトラムの画像が見つかりません。

ところで、モデルメーカーのハセガワは1:72スケールのこのイントルーダーを
10000円(消費税別)で販売しています。
いまどきのプラモデルってこんなにするんですか!
それはともかく、その説明に

A-6Eは、A-6Aの電子機器の能力向上型で、
レーダーも強力なものに換装されています。
なかでもA-6E TRAMは、目標探知攻撃複合センサーを
機首下面に装備して、

攻撃精度の向上がなされています」

とあったりするのを見ても、おそらくこれがTRAMではないかと思われます。
が、ハセガワのモデルイラストを見たところ、この部分には
レドームのようなこぶができているだけなのです。

この透明の部分がTRAM本体なのかどうか、どなたかご存じないですか。



スコードロンマークはバイキングと剣、そして稲妻。



Mk82にたくさんサインがあります。
AM2(AW)とか書いている人が多いのですが、これで検索すると
どうやら階級で、

 Petty Officer Second Class AD2 (AW)

などと表記するようです。

AWとは

Aviation Warfare System Operators

のことのようなのですが、いまいち確信がありません。





飛行時に必ず取り外さなくてはいけない部分には、このような
赤いタグ(ストリーマーというらしい)をつけますが、
栓?を外さなければ作動しない爆弾なのでしょうか。

ストリーマーが新しく最近つけられたようなのでただの安全対策?



翼の下に抱え込まれているので先端が危険という感じはしませんが、
何しろここの特色として、航空機にはどんな近くで見ても、
翼や機体の下にもぐりこんでもOKという展示方法なので、
(そのため翼の下部ハッチなどを開けっ放しにしてある)
やはり万が一のことを考えて安全対策をとっているのでしょう。







足元は舗装していないしこういう危険物もありますが、
アメリカらしく全ての危険回避は自己責任でお願いしているようです。

くねくねした山中の道路も、自然公園の山の斜面のトレイルも、
ほとんどの池や湖、河に至るまで、自然環境を破壊してまで
安全のための無粋な柵など作らないのがアメリカ人。
航空機も「触って減るもんでなし、好きにやってくれ」という態度です。

しかしさすがにこの針のようなドローンのノーズは、
そのままにしておくと転倒などでとんでもない事故になりかねないので
先端にアクリルの板を設置してあります。
それでも触ろうと思えばその恐ろしいほど尖った先端に触れます。

どうしてこの先端がここまで偏執狂的に鋭くないといけないのか、
それに関しては全く説明がないのでわかりませんでした。



Dー21 DRONE SPECIFICATIONS

こちらの度ローンの先端にはゴムのカバーがつけられています。
ロッキード製のマッハ+3偵察無人機です。

この無人機、A−12の背面からの射出が想定されてCIAの要請で開発されました。
高解像度のカメラを1台搭載しており、あらかじめプログラミングされた
地点での撮影後、洋上にカメラモジュールごと投下するシステムです。



翼の下に牽引されているドローン2機。

実戦では、中国の核実験場の偵察を目的に1969年から2年の間、
4次に亘る偵察作戦、

「シニアボウル作戦」

に投入されましたが、4度とも違った理由で失敗しています。

いずれも行方不明になったり帰ってきても回収できなかったり。
後で分かったのですがそのうち1機はシベリアに落ちており、
4機のうち2機は旧ソ連が鹵獲してそれをもとに似たような物を
作ろうとしたが失敗したとか何とか。

そうこうしているうちに写真偵察衛星が開発され、またニクソンが
中国に歩み寄り政策を取るようになったため、計画は白紙撤回されました。

全部で38機のDー21を含むドローンが製造され、そのうち21機が使用されています。
作戦中止後、残りは全て博物館の展示用に譲渡されましたが、
ここにあるのもその一つというわけです。



この内部にもありますね。すっかり色褪せたストリーマーが。
これ、何の輪切りだと思います?



このまるでエイのようなぬめっとした感じは・・・。

 

 LOCKHEED SR−71 BLACKBIRD 

そこで即座にヒラー航空博物館の写真を出して来る。

沖縄の嘉手納基地に最初に配備され、ベトナムでの偵察を行いました。
沖縄の人々はこれをその形状から

「ハブ」

と呼んでいたそうです。
夜しか出撃しないし、さぞ気味悪がられたんだろうな(笑) 

こんな凶悪な?風体をしていますが、こう見えて偵察機。
ステルス性もマッハ3の高速も、ブレンデッドウイングボディも、
ミサイル攻撃を回避することに目的が置かれています。

与圧が十分でなかったため高高度飛行に備えて乗員は
まるで宇宙服のような与圧スーツを着用しましたが、これは
自分でシートベルトを締めることも出来ず、そもそも脱げないので
なんと、常に紙おむつを着用していたそうです。

黒光りする異様な威容を湛える最新式のステルス偵察機。
実は乗員全員ダイアパー着用、という現実が泣かせます。 


これ・・・・搭乗員の士気が落ちる原因にならなかったんでしょうか。




VOUGHT F−8U CRUSADER

このクルセイダーについては、

ラスト・チャンス、ラスト・ザ・ガンファイター」

というエントリでかなり入れこんで?お話ししましたが、
そのとき書きそびれたのは、この「ラストチャンス」、つまり
ダメダメ航空機カットラスの後に社運をかけて開発したこの飛行機のあだ名は
文字通りの「ラストチャンス」であったとともに、ヴォート社の創始者
Chance M.Vought の名前に引っ掛けてあったということです。

ヴォート社の当時の正式社名は「チャンス・ヴォート」だったんですね。

ここにあるクルセイダーは、20年もの間サンフランシスコ市内の
児童公園で遊具となっていたそうです。

まじか。
戦闘機を玩具に払い下げてしまうとはさすがアメリカ。




しかしながらそんなところにあるゆえに落書きだらけにされ、
近所の人々から目障りだと文句が出る始末。
写真はそのときのおいたわしい様子です。
これは酷い。

そこで当博物館が引き取り、レストアして展示することにしました。



19thストリートの公園からやってきた経緯が
写真で説明されています。
この塗装も内装も、当博物館の修復チームの渾身の仕事。

だから、シャークの眼の位置が少し変だとかいうツッコミはなしね。



実は、このときクルセイダー、修復中だったのです。
何をしているのかさっぱり分かりませんでしたが、
機体脇にはいろいろな装備が置かれ、しかもモーターは
ブイーンという音をさせたままでした。



わたしがちょうどこの近辺の写真を撮りつつ歩いていたとき、
修復作業をしていたらしい何人かのアメリカおじさんたち(60代かな)
がお昼休憩を取ることにしたのか、クルセイダーの作業をやめて
引き揚げて行くところでした。

その中の一人がわたしに

「熱心に写真撮ってるね!」

とニコニコしながら声をかけてきたのですが、何と返事していいか分からず
ジャパニーズスマイルを返しておきました。



S−2TRACKER

トラッカーの説明をするのは2度目だったような気が・・。



いや、入り口近くに置いてあったこれはトラッカーではなかったんですね。
でも似てるなあ。



スコードロンマーク・・と思いきや、このトラッカーは
カリフォルニアの森林管理局が運用していたようです。
こちらにくるとしょっちゅう森林火災のニュースが流れますが、
昼間のまるで着火しそうな暑さに加え、植物がまるで干し藁のようなので
火事が起こりやすいようです。

実は昨日、ミルピタスというところに行ったのですが、その帰り、
サンノゼに向かう高速の脇の草地が事故でもないのに燃えていました。
その直前に追突でほとんど車体がくの字に曲がってしまう事故があり、
ただでさえ酷い週末渋滞で5車線の道路が酷いことになっていたのに、
さらにこの火事で追い討ちをかけるように・・・。

関係ありませんでしたね。

とにかく、そんな感じで専門の部署を設けなければならないほど、
カリフォルニアに取って森林火災は深刻な問題なのです。

トラッカーがどんな運用をされていたのかわかりませんが、おそらくこれは
軍から引き渡され、偵察機として二次利用されていたのではないかと思われます。

 

さて、この日、そこここで見たストリーマー、
ギフトショップでミュージアム名をプリントしたものを見つけたので
記念に買って帰りました。

とりあえず、家の中の危険箇所に使ってみようっと。ってどこだよそれ。




続く。


 


シリコンバレーの動物~DNAスープ

2014-08-06 | すずめ食堂

今日は少し手抜き、じゃなくて息抜きです。
 主に動物の写真でなごんで下さい。


300mm望遠レンズを装着したカメラを携え、
リスの顔の大アップなどを撮った次は、
レンズを元に戻して彼らの動きを中心に撮ることにしました。

あわよくばファイトが今年も見られないかと期待したのですが 、
結論から言うと今年はまだ見たことがありません。

最初の年に連続して見たので、リスというものは
しょっちゅうケンカしていると思っていたのですが、案外そうでもないようです。

 

車道を入った小道は全面駐車可で、ここに歩きに来る人は
全員路上駐車します。
公園にはどこも駐車スペースが設けてありますし、
アメリカのいいところはほとんどの施設は駐車が無料で出来ること。

トレイルに入るといきなり上り坂となります。
この傾斜は下りは勢いがつきすぎて怖いくらいなので
当然登るときにはここだけで息が切れそうです。



わたしは歩きながらもリスを探すのに余念がありません。
さっそく体を掻いているリスさん発見。



猫や犬のようにやはり後足を使います。



それでも足りないところは噛むのも犬猫と一緒。



掻きながらこちらに気づいているのですが、
取りあえず体が痒いので先に掻きます。



一通り掻き終わるや否や・・・



逃げました。



次のリスはお食事中。
全体的に枯れ草っぽい植物が中心の食事ですが、
やはり青いものを体が欲する模様。



いいサラダ見つけた!とばかり物色に入ります。



手頃な長さに噛み切って・・・



茎から食べます。
うーん、美味しそうに食べるなあ。
冒頭写真は大きく口を開けたところ。



リスにも食べ物の好みがあって、緑の草好きとか、
俺はよく乾いた干し草しか食べん!とかいるんでしょうか。

このリスは体長の割に尻尾が小さいので、
もしかしたら雌かもしれません。
リスもやっぱり女の子はサラダ好きが多いとか。



このリスはわたしが真横に立って写真を撮りまくっても
平然と草をぱくついていました。
性格もあるでしょうが、それだけ緑が彼らにとって貴重なのかもしれません。



一斉に逃げて行くリスたち。



ロックオンされたと知って固まっています。
それではこのリスの走りを分解写真でどうぞ。







ひとしきり走るとなぜか・・・



急に立ち止まってお願いポーズをしながら固まりました。
謎の行動です。



前を歩いていた女の人が、いきなり

「きゃっ」

といって立ち止まりました。
道を横切ってきた蛇を蹴っ飛ばしてしまいそうになったのです。

先日買い物中にふとしたことからトルコ人のおじいちゃん
(といっても衛星放送の打ち上げをしている現役の技術者とか)
と話がはずんだということがありましたが、そのとき

「あのディッシュトレイルは危ない。
実はしょっちゅう蛇が出て来るから気をつけないと」

とトルコ爺は言っていましたっけ。
危ないと言ってもせいぜい体長20センチ足らずの子供のようですが、
やっぱり蛇を踏んづけたくはないですよね。



顔は可愛いし。(実は蛇好き)



続いてトカゲハケーン。
これもこう見えて体長せいぜい4センチ弱という感じです。



しかしニコン1の実力を見よ。
4センチのトカゲもここまで細部を描写できるため
アップにしてみると巨大トカゲみたいです。

彼はじっとしていましたが、近づいて撮っていると面倒くさそうに
こちらを見ました。

道路脇に座り込んで一体何を撮っているのだろう、
と歩いて行く何人かの人たちが珍しげに見て行きます。

大抵のリスはカメラを向けられていることを知ると
取りあえず走って逃げます。

今日はむしろその様子を撮ることを目標としたので、
彼らが走り出してくれるのは大歓迎。
このリスはあまり必死さの感じられないタルい走りだったので
良い連続写真が撮れました。













しかし、このリスもひとしきり走ったら・・・、



急に立ち止まりました。
どうもリスにはこういう習性があるようです。
そして・・・・、



「うわっ・・、私の年収低すぎ・・・?」

のポーズを。
これもどうやら一つの習性のようです。ほんまかいな。

逃げるために走っている最中なのに。

人間からは命乞いのポーズに見えてしまいます。



お願い終わって脱力するリス。
こういう動物は長時間走り続けることができない、
と聞いたことがありますが・・・。



続いてこのリス。
左手を熱心に舐めていましたが、



「はっ・・・・」



見られていると知ってダッシュ。
の瞬間。



なんかこんなスポーツメーカーのロゴがあったなあ・・・。




さて、比較的人で賑わうディッシュトレイルばかりでなく、
たまには新しい公園を開拓してみよう、と地図を頼りに来てみた公園。
一本道をくねくね上がってきました。
前にも書いたのですが、アメリカの公道というのは基本的に
全てが自己責任なので、急峻な谷添いの山道であっても
よほど危ない箇所でなければガードレールをつけません。
もちろん下手したら谷底に真っ逆さま、というところでも。

谷川の道など恐ろしくてそのためスピードなど出せたものではありません。

住宅街には信号がなく、交差点では来た車が時計回りに
順番に通過して行くというルールも出来ていて、
かえってこんな仕組みのほうが人は運転が慎重になるのではないか、
とわたしはかねがね思っています。



公園につくと入り口の駐車場のバンから中学生くらいで
おなじTシャツを着た一団が降りてきて、木陰で何か始めました。
おそらく息子が行っているようなサマーキャンプの生徒でしょう。



こちらは小学生の団体。
球技でも始めるつもりでしょうか。
カメラマンが彼らの写真を撮っていました。

キャンプではその日の写真をHPに挙げて、親にどんなことをしているのか
報告するところが多いです。 




公園の入り口で一応注意書きを見ることにしました。
なになに?

「車の中に貴重品は置かないで下さい」

まあ当然ですね。

「虫に刺されることがあります」

そうなの?ちょっといやかも。

「マウンテンライオンが出ることがありますので、
もし遭遇したら急に動かず、絶対に戦わないこと」

頼まれても戦いませんが、これは怖いな。

「一人でトレイルを歩かないこと」

・・・・どうしよう。



そんなこといわれてもね。
まあ朝だしライオンは寝てるんじゃないかな。

ちょっと心配になったけどここまで来たのだから歩くことにします。



公園内には何種類ものトレイルが作られていて、
立て札には何マイルあるというような案内が書かれています。



一つのトレイルに入ってみました。
しかしそのとたん、高所恐怖症のわたしはむずむずと
落ち着かない気分になってきました。

トレイルと言っても山の斜面を切っただけのもので、
勿論柵なんぞありません。
そんなものを作ったら野生の動物の生態に影響を及ぼすからです。



この部分など、脚を踏み外したが最後谷底まで真っ逆さま。



ずっとこんな調子です。
なぜ入り口の注意書きになぜ一人で歩かないように、
と書いてあったか、このときに初めてその理由が分かりました。

たった一人で訪れて一人で谷底に落ちた場合、
おそらく発見されることなく動けないまま夜になり、
マウンテンライオンの夜食になってしまう可能性があるからです。

「ひえええ」

とたんにこわくなったわたしは、トレイルを行くのをやめて
入り口に向かうことにしました。

サマーキャンプの団体や、釣りをしている人が一人、そして
公園の管理局のパトロールカーが通り過ぎましたが、
なにしろ余りに広すぎて、一人で歩くのはそれだけでも怖いくらいです。

駐車場の方向を目指して茂みの横を歩いていると、一斉に
ガサガサ、と何かが枯れ葉を踏んで移動する音が見えました。 



なんと、ワイルドターキーの群れです。



人間を警戒していて、わたしが一歩踏み込むとむこうは三歩、
という感じで、しかし決して慌てず焦らず移動して行きます。

群れには見るからに小さな子供などもいましたが、外側には
最も大きな体の鳥が立ち、威嚇のつもりなのかときどき
こうやって羽をばさばさっと広げてみせます。





そしてどんどんと木の茂みの奥に行ってしまいました。
こんなチャンスなのに、ちゃんとした写真が一枚も撮れなかったのは
彼らがこちらに先に気づいてしまったからです。



ボストンではつがいのワイルドターキーを都合3回見ましたが、
こんな群れ(おそらく20羽くらいはいた)を見るのは初めてです。



この日、帰りに前を走っていた車。

アメリカではどうも車のナンバープレートを
どちらか片方だけ登録のものにしていればいいらしく、
観光地の、たとえば


「EMPIRE STATE」

などという文字が自由の女神の絵と共に描かれたものなど
好みのものを使用しているのをときどき見ます。
そして、その登録も自分の好きな番号や文字列にすることができるようで、
この車のナンバーは

DNA SOUP

でした。
DNAスープ。
なんかシュールでいいなあ。

 





パシフィックコースト航空博物館~「ファイナルカウントダウン」と「スコシ作戦」

2014-08-05 | 航空機

サンフランシスコを北上、ワインカントリーであるナパ、ソノマ地域に
ある民間空港、チャールズ・M・シュルツ・ソノマカウンティ空港。

その一角にこの航空博物館はあります。

外に置きっぱなしの展示といい、寄付だけで賄われている感じといい、
いかにも退職老人の再就職先になっていそうな感じといい、
空港の片隅にある博物館にありがちな手作り感満載の小さなものですが、
いずれにせよわたしはキャリー・ブラッドショーが(今テレビでやってる)
マノロ・ブラニクのバーゲン会場を目の前にしたような気持ちで
この宝の山に脚を踏み入れたのでした。



マクドネルダグラス F−15 イーグル

前回911現場であるNY上空に航空機突入の時間駆けつけていたとして

「彼らは英雄かもしれないが、却ってこれは陰謀説を裏付けないか」

と書いてみたのですが、まあ、この話は軽く受け流して下さい(笑)
それより、このイーグルがどこから飛んで来たかと言うと、
バージニア州のラングレー空軍基地。
約600キロで、ちょうど東京大阪間くらいです。

確かに車なら7時間の距離ですが超音速戦闘機なら15分で来れますよね(棒)
2機目の突入のときだって、たぶん軍は捕捉していたはずですよね(棒)

それはともかく。


F−15はその後退役が進んでおり、現在軍使用されているのは
ネバダ州のネリス空軍基地のみです。

そもそも高価すぎてサウジとか日本とか、お金持ちの国にしか
買ってもらえなかったという戦闘機なんですね。



元々のペイントがうっすらと透けて見えています。
「ケープコッド」とあるのですが、F−15イーグルの名前としては
あまりイメージが合っていないような・・・。

パイロットがボストンのこのペニンシュラ出身でしょうか。



 コクピット下にはパイロットの名前を書く慣習がありますが、
ここに書かれた名前には軍階級がありません。

F−15は過去の空戦で撃墜されたという記録がなく、
現地の説明によると「100以上の空戦に勝利している」そうです。 



実はこの航空機には案内板がありませんでした。
展示マップにも該当場所には何も書かれていないので、
おそらく最近導入した展示ではないでしょうか。

しかし、今のわたしにはたちどころに機種がわかってしまうのだった(笑)

まずこの無理矢理な翼のたたみ方。
これは間違いなく艦載機の特徴ですね。



海軍所属で、おまけにホーネットの艦載機、と書いてあります。
これは

Grumman S-2 TRACKER

だと思われます。
去年の夏空母「ホーネット」を見学し、ハンガーデッキにこのトラッカーが
非常に肩身の狭そうな様子で展示されていたのを思い出しました。

そのときも書いたのですが、空母艦載機として運用することを大前提にしすぎて、
装備を小さな機体になんでもかんでも詰め込んで居住性を犠牲にしたため、
このトラッカー、搭乗員たちからは不満続出だったということです。

ところでたった今画像を見て気づいたのですが、このトラッカー、

MADブームがついていません。



お尻の部分を拡大してみると取り外されたように見えないこともありません。
このトラッカーは対潜用に作られたので電子戦の装備があり、
必ずブームをつけているのだと思っていたのですが・・・。

(追記:
その後読者諸氏のご指摘によりこれは

S-2 の機体を改造したC-1トレーダー

で、 
共通の機体として 他に

E-1トレーサー 

と言う早期警戒機が製作されているらしいことがわかりました。


ここにあらためて訂正します。
ちょーっとわかったつもりで調子こいたらこれ。
まだまだ修行が足りませんorz) 



Sikorski H-34 CHOCTAW

アメリカ陸軍のカーキーグリーンは、自衛隊のOD色よりも
かなり明度が高いように自称「絶対音感と絶対色感」
を持っているところのエリス中尉には思われました。

このチョクトというのは何度も同じボケですみませんが、
菅直人のことではなく、北米ネイティブアメリカンの部族名です。

日本でも現地生産して調達されていた機種で、
世界的には2261機が生産され、この台数を以て
この業界ではベストセラーとされているようです。

というか、軍用ヘリってこの程度生産されればベストセラーなんですね。




こういう説明のボードが全ての展示に付けられているとは限りません。

が、このヘリに関してはスポンサーが大物(ヒルトンホテルとソノマワイン組合)
のせいか、ちゃんとした説明板があります。
このように、この博物館、地元企業が何社かで一機を受け持ち、
そのメンテナンスのお金をスポンサードして、企業イメージ
と共にこういうところで宣伝をするわけです。

これ、いいシステムだと思いませんか?

これも何度もしつこいですが、鹿屋の二式大艇、それからこの間お話しした
海洋大学の明治丸も、企業のスポンサーを募ればいいのでは?
その代わり、そのことを現地の案内やHPに明記するというのは?
匿名の篤志を募るより、効率がいいと思うんですが、いかがなものでしょう。



陸軍ヘリのチョクトー部隊のマークは凶悪面のブルドッグ。
ご丁寧にイガイガの首輪までつけています。
頭と尻尾になにやらついているのですが、これは画力が残念なため
何かは分かり難いながら、どうやらヘリのローターのつもりらしいですね。

たしかにこのチョクトーはずんぐりしていてブルドッグのようなシェイプ。
機体のイメージから「ブルドッグ」を自称しているいるのです。



ここはテールが持ち上がる部分。
排気のためにメッシュの窓がはめ込まれています。


自衛隊にも17機が導入され、そのうち1機は海保に移譲されて
南極観測船「宗谷」の艦載機として昭和基地と宗谷の間の
輸送に活躍したそうです。




使われることがなかった爆薬の類いが、ケースごと。
手前のは完璧にさびています。



 NORTHROP F−5E "FREEDOM FIGHTER " TIGER II

トルコ空軍の曲技飛行隊はこの機種を使っています。
小型軽量で大変運用しやすかったので、このトルコ始め
発展途上国に大量に輸出されたそうです。


もともとアメリカ空軍では使用する予定がなかったのですが、
供与された国が

「困るなーアメリカ空軍でも使ってその実績を教えてくれなきゃー。
あんたんとこ、今戦争してるじゃん?
それともなに?
自分とこで使わないような商品を売りつけようっての?」


とごもっともな要求をしてくるようになったため、(たぶん)
アメリカはこれをベトナム戦争に対地攻撃用として投入しました。

この際、F−5が参加する作戦は

「スコシ・タイガー・オペレーション」

と名付けられています。
「スコシ」って何だと思います?
そう、日本語の「少し」なんですよ。
なんだかすごく間抜けな響きがするような気がするのはわたしが日本人だから?


なぜわざわざ日本語を投入したかと言うと、外国空軍への供与、
並びにその実績説明というのがその第1目的だったため、
何となく雰囲気で外国語を使ってみたようです。
しかも「ガチ投入」ではありませんよ~、というのがこの
「少し」に現れている、と・・・。

供与先が日本ではなかったのが逆に日本語使用の理由かもしれません。
(日本相手だとふざけてんのかと思われるから・・・たぶん) 



そうと知ってみると、とたんに親近感が湧いて来るではないの。
やたら羽が短くて、こんなので大丈夫か、って気もしますが、
アクロバットに使われるくらいですからきっと制動性もいいのでしょう。



これはどこ海軍所属なんですか?
この赤い星・・共産系国のマークのような気もするのですが、
これがスコシタイガー参加機なんでしょうか。



グラマン F−14A トムキャット

グラマンの猫戦闘機、トムキャット。
冒頭の写真は正面から撮ったものですが、ウィングが可動式で
肩をすくめた状態になっているので、あまりかっこよくありません。
(感想には個人差があります)

なんだか変な色にペイントされてしまっていますが、これは
メインテナンスの途中なのだと思います。

・・・・途中ですよね・・・?

毎日必ずどこかを補修しても、航空機が多いので一巡することには
最初の航空機はもうすでに補修が必要になっています。

サンタローザは夏の暑さは強烈ですし、雨も降りますから
外に置きっぱなしの展示は劣化しやすそうです。



オークランドのエアミュージアムではこの部分が旭日模様の

「サンダウナー仕様」

つまり「日本をやっつけ隊マーク」になっていたわけですが、
このトムキャットは第84戦闘機隊の所属マークがつけられています。



海軍第84戦闘機隊は、このスカル&クロスボーンのマークと共に、
1980年の映画

「ファイナル・カウントダウン」

に原子力空母「ニミッツ」と共にに出演したことで知名度の高い航空隊です。
航空隊のニックネームは

「ジョリーロジャース」。

英語圏では一般的に海賊旗をこう称することからです。



翼の下の配線もこのように展示してくれています。
ここの展示も手で触れることを禁止していません。


ところで映画「ファイナル・カウントダウン」はこういう話です。

1980年、真珠湾を航行していた「ニミッツ」が竜巻に遭い、
それが去った後、偵察に出た艦載機トムキャットが発見したのは
日本海軍の零戦だった。
「ニミッツ」がタイムスリップしたのは1942年12月6日、
つまり真珠湾攻撃の前日であったー。




ちょっと待て、それはまるで「ジパング」ではないのか、
と思ったあなた、あなたは正しい。
残念ながらこの映画は「ジパング」に先立つこと20年前に
すでに公開されており、この「タイムスリップ戦史もしも物」の
原型においてはこちらがオリジナル、つまり「ジパング」は
アイデアにおいてはこちらの二番煎じだったんですねー。

おまけに、このテーマソング、聴いて頂けます?


The Final Countdown 1980 theme John Scott

お時間のない方は4分20秒からだけで結構です。

「こりゃー”あれ”じゃん!」

と思った方、その通り。
業界では有名なパクリなんですね。
映画公開の2年後にヒットした曲なので、言い逃れできません。
今この曲のクレジットを見ると「ジョン・スコット」という名前が
作曲者「大森某」の名と共に併記されています。

これは、なんとファイナルカウントダウンの音楽担当、
ジョン・スコットが、わざわざ盗作を指摘するために来日し
さらに大森某も盗作であったと素直に認めたため、
作曲者として名前を連ねることにしたのでした。

うーん。恥ずかしい。
これは恥ずかしいぞ日本。

パクリがどうのこうのと某国や某国を日夜馬鹿にしていても、
実はわずか3~40年前にこんなことがあったというのは恥ずかしい。
まあ、しらばっくれずに盗作を認めて対処した、というところに
潔さと言うか日本人らしい気の弱さを見て少し安心しますが。

このころはインターネットは勿論ビデオさえ一般的でなく、
従って映画は映画館かテレビで放映された物を見るしかなかったんですね。
ましてや映画音楽は、よほどヒットした場合を除き、
一般の耳にほとんど触れることなく終わってしまったのですから、
ばれないだろうと思ってつい盗作に走ってしまったのでしょう。

「ジパング」の方はアイデアをパクりながらも色々と展開させているので
著作権的にはセーフなのかもしれませんが・・。

音楽といいストーリーといい、このファイナルカウントダウン、
日本人の「これをやってみたい!」という琴線に触れるもの満載だったようです。
そこそこ無名だったのがパクられる原因だったとも言えますが、
それにしてもこれはどちらもアウトだろっていう。






何の説明もなく展示されていたエンジン。
せめて包装を外してほしいと思ったエリス中尉でした。


ところで大森さんを庇うつもりはありませんが、
メロディが既存の曲に似てしまうということは
音楽家の立場から言っても、特に「歌もの」ではよくあることです。
音列に限りがあり、コード進行もパターンがある限り
これはある意味避けられないことなんですね。

以前お話しした「ライトスタッフ」のテーマがチャイコフスキーの
バイオリンコンチェルトに瓜二つ、という件に関しては

「宇宙開発でロシアと張り合っていたという映画の内容に合わせたシャレではないか」

と、1000歩譲って理解しようとしてみたわけですが、
もしそうであればこれは「故意犯」しかもそれを隠していないパターン。

たまたま知らずに似せてしまった、という確信犯と違い
「ララバイ」は完全に故意犯だったのがアイタタタでした。

世の中には

「青い影」(プロコル・ハルム)と「青春の影」(チューリップ)

の関係のように、聴く人が聴けばああパクったな、と思えても
コード進行が全く同じという程度では一般にはお咎めもなし、
という実例があります。

しかもこの件では「青春の影」はどこからも非難されておりません。
わたしの知る限り。
これは「ジパング」のシチュエーション類似と共に

「スコシ・パクリ作戦」

の成功例といえましょう。







続きます。
 


シリコンバレーのカリフォルニアジリス

2014-08-03 | アメリカ

お待たせしました。
もしかしたら当ブログ読者で、毎年夏になるとわたしが熱心に写真を撮り、

わざわざそのためにエントリを立ち上げるほどファンであるところの
カリフォルニアジリスの写真を待っていて下さった方がいるかもしれない、
と信じて、今年も画像をアップします。

今年は降下始めのために買った300mm望遠でまずリスさんたちの
大アップを狙ってみました。



撮影は恒例のスタンフォード・ディッシュトレイル。
なだらかな丘陵地帯のごく一部に作られたこのトレイルは、
1周歩いて約1時間10~20分のウォーキングコースで、
このように皆がウォーキングやランニングを楽しんでいます。
ただし、コースは日陰がほとんどなく、日中強烈な陽射しのこの地では、
陽が高くなるととたんに人が減ります。

リスにとっても日向は苦痛らしく、わたしが一周し終わるころには
皆日陰や穴に戻ってしまってほとんど姿を見なくなってしまいます。



歩き出す8時半はまだごはん中のリスが多くいて、
写真を撮るのには絶好のタイミング。



眼をつぶったリスは土下座してるみたい。



望遠レンズを持ってきて良かったと思うのがこんな写真が撮れたとき。

この鳥は

アメリカカケス  Western scrub jay

といい、西部アメリカからメキシコにかけて生息します。
サンフランシスコでもよく見ましたが、wikiの体長27~30cmというのより
実際は小さいように感じました。



望遠レンズを最大限に利用。
お食事中のリスさん大アップ。
やっぱりトウブハイイロリスより可愛いと思います。
口から食べている植物が見えていますが、枯れた藁のようにみえる
この辺り特有の草で、枯れているわけではないようです。

カリフォルニアの山々は表面がこれで覆われていることが多いため、
まるで草一本ない禿げ山が続いているように見えるのですが、
そうではなく、この枯れ草状の植物の色なのです。

これが緑になることはなく、従ってカリフォルニアは
いつ見ても山がはげて見えます。





基本的にリスは両手で食べ物を持ちますが、
それは左右対称の動きが癖になっているからで、
この写真のように実は片方にだけ持っている場合も多いようです。
一生懸命食べている感じが可愛らしいですね。





仔リスも大人リスもあまり頭の大きさは変わりません。
こんな小さな体が、大人になると太って大きくなります。
カリフォルニアジリスは冬眠ではなく夏眠すると去年書いたのですが、
あらためて調べたところ、夏眠はわずか数日間だそうです。



走るリス。



去年、「夏眠するリスはオスだけ」とどこかで読んで、
「それでは今ここにいるリスは全部雌なのか?」
と書いたことがありますが、数日しか夏眠しないのであれば
オスがいなくなってしまうことはありえませんね。

なんかおかしいと思ったんですよ。



うう。可愛い。

サイズは両掌に収まるくらいですが(シマリスより大きい)
手のひらに乗せてダンゴみたいに転がしてもふもふしたい~!



今年もリスのケンカシーンが撮れないかなと思い、
リス同士の様子を注意深く見ながら歩いていると、
しばしにらみあうリス2匹発見。

今日は望遠レンズで連写できないけどどうしよう、
とドキドキしながらシャッターを半押ししながら構えていると、
このあと何ということもなくすれ違いました。

にらみ合っただけだったようです。




ところで冒頭写真のリスの口元を見ると・・・、



舌を長く伸ばして草を食べているらしいことが分かります。



トレイルのコースは起伏が多く、ゆっくり歩くのも大変です。
おしゃべりしながら歩くと苦にならないのか、
女性はよく2~3人で歩いています。

わたしはカメラを持っていない日も必ず
Bluetooth搭載のサングラスで音楽を聴きながら歩きます。
iPhoneに代える前はiPodにトゥースを刺さないといけませんでしたが、
今はサングラスに直接同期できます。



カリフォルニアジリスは「ジリス」という名の通り、地面に穴を掘って
そこに巣を作ります。
穴は中で繋がっていることも多いそうですが、
「自分専用の穴」を掘ってそこから出入りするリスも多いのだとか。

「こだわり派」リスですね。



ここら一帯にはリス穴がたくさんあり、
もしかしたら地下帝国ができているのではないかと思われます。
なぜかこのとき、皆が出てきてこのようにじっとしていました。



プレーリードッグみたいです。

リスは時々「警告音」を発します。
「きっ・・・・・きっ・・・・きっ」
と間欠的に鋭い音を出すのですが、見ていると
「キッ」と同時に尻尾を立てて前方に振っていました。

これが聞こえると周りのリスはとたんに警戒に入り、
取りあえずじっとして動かなくなるのですが、
この尻尾を振る動作は、去年も書いたことのある

「天敵であるガラガラヘビに、尻尾の先から熱を出して
振ることによって何かを警告している」

という動きではないかと思われます。
このとき一斉にリスたちが警戒態勢に入ったので、
まずチャンス!とこの写真を撮っていたら、
向かいから歩いてきていた女性二人がわたしに向かって

「Look at the deer!」

と叫びました。
(deerは複数形を取らない単語ですよ皆さん)



後ろを振り向くと、わたしの真後ろをシカの親子が横切っていましたorz

リスに気を取られて実はこういう「大物」を今まで
かなり見逃していたのかもしれません。
わたしは取りあえずすぐにシャッターを切り、彼女らに
教えてくれたお礼を言いました。

この日、ニコン1に300mm望遠レンズ、さらにバヨネットフード
という重装備のカメラでバシャバシャやっていたので、
何人かのアメリカ人に物珍しそうに見られたのですが、
こういうのを持っていたからこそ教えてくれたんですね。

これだけでなく、この日望遠レンズを装着していったことで、
今までに撮れなかった距離にある被写体を撮ることができました。

 

たとえばこれ。
100mくらい先の立ち入れない場所を走っていたリス。







こういった動きまで遠くにもかかわらず捉えられているので感心しました。



以前は遠景にしか捉えることが出来なかったスタンフォード大学の
フーバータワーも、このとおり。

シリコンバレーのリス写真、後何回かお付き合い下さい。

 





 


パシフィックコースト航空博物館~「911・ファーストレスポンダー」

2014-08-02 | 航空機

今年はどんなところを見学しようか、西海岸にいるときから
ネットで調べていたのですが、まずは着いて1週間経った今日、
サンフランシスコ郊外にある

The Pacific Coast Air Museum

に行ってみることにしました。
ぐぐるマップによると、2時間かかるとのこと。
息子をドロップオフしたあと、直接現地に向かうことにしました。

 

おそらく現地に着いたら昼ご飯どころではないでしょう。
わたしはいつも水とお茶だけ飲んで家を出、運動してから
帰って来るまで何も食べない習慣なのですが、
2時間のドライブに備え、ちゃんと朝ご飯を食べて行くことにしました。


というわけでスタンフォード大学の前にあるモールのベーカリーカフェ、
「メイフィールド・カフェ」へ。



オムレツを注文しました。
付け合わせの野菜はチャービルを炒めたもの。
全粒粉パンかサワドーか選べるトーストは全粒粉を選んで完璧。



さあ、出発です。
ナビによると、101でサンフランシスコ市内からベイブリッジを渡り
オークランド経由で博物館のあるサンタローザに行く模様。 

しかしナビを無視して(笑)I-280を走ります。
この高速道路沿いに、ベテランのための国立墓地があります。
車を走らせながらそちらを見ずに撮ってみました。
門の正面には星条旗の立つ小高い山があり、時々半旗になっていて、
今日誰か戦死か殉職した軍人のお葬式があるのだと良く思ったものです。

イラク侵攻の後はまさにしょっちゅう行われていた気がします。

こういうのや民家の庭に黄色いリボンが掛けられていたりするのを見ると、
この国では戦争をしているのだという感慨を持ったものです。



画像に写っているのはごくわずかの部分で、気の遠くなるほど広い敷地に
それこそ気が遠くなるほどたくさんの墓標が立てられていて、
これが全てアメリカのために命を捧げた軍人のものなのだとあらためて思います。

慰霊の方法は違いますが、日本の場合はそれが靖国神社であるわけで、
たとえどの地で身を朽ち果てさせてもその魂は靖国神社に戻るもの、
と日本人は信じてきたのですから、アメリカのこのような戦士の墓のように
当然のことながら靖国神社は彼らが命を捧げた国家が管理するべきだと
わたしは思うのですが・・。



墓地の横を通り過ぎたとたんこのような空になりました。
ここは我が家がかつて住んでいた地域なのですが、ほぼいつも、
特に朝は確実にこんな風に曇っていて気温も寒いのです。
これはこの辺だけに霧がかかりやすいからです。

今にして思えばなぜわざわざこんな地域に住んだかって感じですが、
(別に賃貸料も安くはないし)ある意味最もサンフランシスコらしい気候を
体験できたという気もします。



曇りの地域を1分で過ぎ(笑)ベイブリッジを渡ります。
となりのピンク色のバンはスシレストランのロゴが書いてありました。
ベイブリッジは1989年の地震のとき一部崩落し、その後大々的な工事で
どんな震度にも耐えられるような仕様に作り替えられ、
2013年にようやく完成しましたが、それがこれ。
SFから外に出る場合には無料ですが、市内に入るのには6ドル必要となります。

わたしはこの日、

サンフランシスコ→ベイブリッジ→オークランド→サンタローザ→
ゴールデンゲートブリッジ→
サンフランシスコ

というルートを選んだので、6ドルは払わなかったのですが、その代わり?

 

オークランドからサンタローザに行く途中のこの長い橋の手前で
やはり5ドル徴収されました。
今、なぜかGGブリッジは無料になっているのですが、いずれにしても
どこかで橋代を払わなくては帰って来ることは出来ないようです。



ワイナリーで有名なナパバレーのブドウ畑が見えて来ると
もうそこはソノマ郡サンタローザ市です。
我が家はお酒を飲めないのですが、在住中何度かナパに行きました。
ワイナリーはテイスティングとワインのおつまみを試食でき、
外でサンドイッチなどが食べられるので、別に買わなくても楽しめます。

ここにある高級ワイン、オーパスワンのワイナリーは他のと少し格が違うというか、
さすがに高級感あふれる佇まいで敷居が高い感じがしました。

自宅にセラーを持っている友人が日本から来たとき、ここに連れて行ったのですが、
オーパスワンを木箱買いして日本に送らせていたのでびっくりしました。

ワイン好きのワインにかける情熱の一端を見た気がしたものです。



という航空博物館とは全く関係ない話をしているうちに到着。
破棄する航空機の尾翼を廃物利用して目印に使っています。

ここソノマには空港があります。
その名称は

チャールズ・M・シュルツ・ソノマカウンティ空港

と言います。
だれだそのチャールズは、と思われた方、これですよ。



こういうイラストが、このエアミュージアムの案内板にも多用されていて、
このときなぜかには思いが至らなかったのですが、実はここサンタローザは
スヌーピーの生みの親、ピーナッツの作者であるシュルツの出身地。



かつてサンタローザ陸軍航空フィールドであったこの飛行場は、
終戦後の1946年に「戦争の遺跡」の一つとして市民空港となり、
その後地元に30年以上住んで名作を生み出したシュルツの名が冠されました。



エアポートのマークはしっかりスヌーピー。
スヌーピーのいでたち(といっても犬なのでゴーグルとマフラー)は
第一次世界大戦の「フライング・エース」のもので、
飛行機はソッピース・キャメル。(のつもりの犬小屋)

わたしはシュルツという名前からてっきり作者はヨーロッパ在住だと
思っていたのですが、父親がドイツ系のアメリカ人だったんですね。



映画「おかしなおかしなおかしな世界」にはこの空港が
登場しています。
5人の男たちが宝を追い求めて上を下へのドタバタ活劇、
という映画で、航空機を使用するシーンもあったようです。

駐車場に車を停めようとして、向かいのエプロン脇に
こんな飛行機が停められているのに気づきました。



あれー、どこかで見たことあるな。
この船底は二式大艇、じゃなくてU−2、でもなくて・・・

アルバトロス?

展示飛行機ではなく説明がないので推測ですが、これは見た目間違いなく
アメリカの救難飛行艇

HU-16 

でしょう。
昔、これがまだUFであった頃、海上自衛隊がUF−2の供与を受け、
その後US−1の開発を経て配備されるまでの間、日本でも使用されていました。

機体に911と書いてあるところを見ると、緊急発動用の救難艇ですね。

などと感心しながらいざ入って行こうとしたら、はて。
入り口らしきゲート状のものがない。
駐車場の前に建物があって、ドアは閉まっているし。
しかしよく見たら、ドアに「ここからお入り下さい」とあります。

どうやらここも、ヒラーなどのように特殊な財団となって
基金を持っている博物館とは違い、細々と企業の寄付を募って
退役軍人などが中心になって作った組織が維持している、
アメリカ特有の航空博物館である模様。

去年訪れたオークランド空港の

ウェスタン・エアロスペース航空博物館
Western Aerospace Musium

と同じような感じの博物館(というかそっくり)です。
小さなドアを開けて入って行くと、案の定そこはギフトショップと
料金徴収カウンターのある小さな部屋で、そこに座って
元男前みたいなアメリカンじーちゃんがサンドイッチを食べてました。

「こんちは。大人一枚お願いします」

じいちゃんはサンドイッチを置いて立ち上がり、無言で口を指差し

(今食ってるからちょっとまってくれ)

とわたしの脳内に語りかけました。
日本では口にものを入れたまま

「おいひー!」

と叫ぶCMがあったやに伺っておりますが、
これは欧米文化圏では大変行儀の悪いことなのです。
勿論日本でもそうなんですけどね。

立ったままもぐもぐしている人を眺める
何とも言えない気まずい時間の後、やっとのことで

「すまんかったね。大人一枚ね」

とじいちゃんからわたしはチケットとマップを受け取りました。
そしてシャキーン!とカメラを構え、飛行機の並ぶ展示場に。

 

・・・・向かう前に、まずはその辺に転がしてある展示から(笑)

ここサンタローザにあった陸軍航空基地の主力攻撃機は
P−38、あのめざしのような双胴の戦闘機でした。

P−38といえば、第2次世界大戦中、陸軍の撃墜王であった



リチャード・ボング(1920~1945)

が乗って、ラバウルで我が海軍航空隊に恐れられた機です、
これはそのP−38が搭載していた20mm機関銃とエンジン。

この部品はサンタローザで事故を起こしたP−38の部品で、
パイロットはパラシュートで脱出したものの、高度が低く
助からなかったとのことでした。

ところで、ボングのwikiページを見ると、かれが

ゴールデンゲートブリッジを僚機と共に低空飛行でくぐり、
通行人や車から多数の苦情を受け、上から叱られた

という話があるのですが、ボングが所属していたのって、
どうやらサンタローザ、つまりここだったみたいですね。

ついでに、ボングは若干25歳で、しかも1945年8月6日に亡くなっていますが、
これは戦争とは関係なく、シューティングスターのテストパイロットとしての
任務中の殉職でした。

彼は第一線を外されたのが不満で戦地に戻せと言っていたそうですが、
とにかく美人の婚約者マージと結婚もし、幸せの絶頂でのできごとです。

本人にしかわからないことですが、どうせ飛行機で死ぬのなら
戦線で華々しく散りたかった、などとは思わなかったでしょうか。



PITTS SPECIAL N17J

聞いたことも見たこともないと思ったら手作りです。
元NASAリサーチセンターのテストパイロットだったジョン・M・マンケ氏の作品。



なぜか月面探査機と同型のものが。
ちょうどこの日、この設備のメンテナンスの日だったらしく
いろいろと道具が周りに散らかしてありました。
ちょうどカウンターの人がそうだったように、お昼を食べていたようです。

スケールモデル、ということなので同じ大きさのものを
NASAのブループリントから起こした設計図で作った、とありました。
自由に座って写真を撮って頂けますのでどうぞ、とのことでしたが、
ごらんのようにお取り込み中だったので遠慮しました。

っていうか、一人で来てるから写真撮れないし。



slickというのは戦時中の俗語で「イケてる」みたいな感じでしょうか。
chickも「ひよこ」ではなくこの頃の俗語で「女の子」の意味です。
今はこういう言い方はしません。

日本で現在「ナウいギャル」とか「手荒くナイスなメッチェン」
とかいってもほとんど通じないのと同じようなものですね。

今回の訪問でまたわたしの「ノーズアートコレクション」が増えましたが、
未だに「む、これはやりおるな」と感心するほどのアートには
お目にかかったことがありません。

これなどは離れて見ているのでまあましな方ですが、
細部はともかくデッサンがかなり狂っているのが惜しい。



9月20、21日に航空ショーがあるというお知らせ。
この航空博物館が満を持してお送りする?エアーショー

・・・ん?

このポスターはオスプレイではないか!

イベント案内を見たところ、このショーはマリーンコーアから
オスプレイが飛来するほか、退役した戦闘機が「たくさん」、そして
ヘリコプターのアクロバットで有名なパイロットのソロ、
脚が不自由なハングライダーのショーマン、ダン・ブキャナンなど、
アメリカの航空界ではおなじみのメンバーによるショーが行われるようです。

アメリカにいたら見に行きたかったなあ・・・特にオスプレイ(笑) 



さて・・。

なんだかすごく見慣れたヘリコプターなんかもありますが、
後はおおむね久しぶり、というか一年ぶりのアメリカンな飛行機たち。

ざっと見回しても、その姿形にほとんど見覚えがあるぞ。

去年エアーミュージアムを、空母ホーネットも含めて散々見て回り、
後から調べたりした関係上、大抵の航空機は初見ではなくなったと、
そういうことなんですね。

継続は力なり、をこのとき実感したエリス中尉でございます。



さて、冒頭写真はご存知F−15イーグルですが、当ミュージアムでは
あの911のとき、最初に現場に到着したのと同型のイーグルを
911の犠牲者たちに弔意を表する意味で展示してあると書いてあります。



これによると、あの同時多発テロで175便(とされる航空機)がサウスタワーに
突っ込むのとほとんど同時刻に、超音速で15分飛んで現場にいたのですが、

そのポイントでは飛行機を止める権限がなかったため

そのポイントでは飛行機を止める権限がなかったため

そのポイントでは飛行機を止める権限がなかったため

何もしなかった、と書いてあるのです。
サウスタワーは最初に飛行機がヒットした方ですよね。
つまりこのデュフィー少佐とナッシュ曹長は、その後、

ノースタワーに飛行機がヒットするのも止めなかった

ことになるのですが・・。
なんで?

そこで世間に流布しているアメリカ陰謀説を信じたくなるんだな。
先日も、墜落した飛行機と共にこのF−15が目撃されていて
93便はF−15が撃墜したと言う仮説を証拠をあげて立てている文章を読みました。

そして、1年後の2002年9月11日に、

ある空軍パイロットが理由も明らかにされないまま叙勲された

というニュースを、これと関連づけています。
同時多発テロの様々な検証は、すでにあの事件を
ずさんすぎて証拠を残しまくりの自作自演と思わせるに十分なくらい
多角的かつ多面的にいろんな人々が行っていますが、
このF−15の「不思議な行動」もまた、それを疑わせるのに十分です。



「ワシントンDCを守った」とされるF−16。
彼らが93便を撃墜した、という説を唱えている弁護士もいますね。
この弁護士はブッシュ元大統領を訴えている訴訟団の弁護士です。


「ファーストレスポンダー」

は、実は現場に到着したとたん、無線連絡でもしかしたら
ビルにヒットする航空機を攻撃することを制止されたのかもしれません。

飛行機を撃墜することでもしそれが市街地に落ちたとしたら
被害は計り知れないものになるという理由で・・・?

もしあれが陰謀で、最初からビルには爆薬が仕掛けてあったとしたら
飛行機は何が何でもWTCビルに突っ込まなくてはいけなかったのですから。


そういうことがあって、このイーグルドライバーたちはあまり
世間的には「ヒーロー」として騒がれたりインタビューされたり
しなかったのではないかとわたしには思えます。

アメリカと言う国の底知れなさと言うか怖さというのは、
あの事件に限らず「何かを知っている」人たち、
墓場まで持って行く秘密を持たされている人たちがいて、
普通の一般市民として普通の生活を送っているということです。 


この「ファーストレスポンダー」や9月11日に叙勲されたパイロット、
まだ倒壊していないビルを「倒壊した」とフライングしてしまった
BBCのキャスターや、機内からかけられた(かかるはずのない携帯から)
電話の「通話記録」を隠蔽した携帯会社数社の責任者・・・・。

もしかしたら家族にも言えない「闇」を心に抱えたまま、今日もまた
仕事に行ったり、帰ってきて子供たちとディナーを囲んだり、
休みには裏庭でバーベキューをしているのかもしれません。

それはもしかしたらアメリカに限ったことではないのかもしれませんが。



見学しているのはわたしを入れて3組。
そのうち一組は、ちょうど

「グランパ!」

とこのおじいちゃんに呼びかけて帰るのを促していました。 
おじいちゃんは足元が覚束ない感じでしたが、それでも
誰よりも熱心に飛行機を見て歩いていたようです。



もう一組がこの2人組。
やはりかなりのお歳らしいじいちゃんと、東洋系の若い男性。
通りすがりに会話を聞くと、若い男性が説明をしてあげているようでした。
もしかしたら解説のボランティアなのかもしれません。

どちらにしても、スタッフの方が客より多い状態で、さらには
わたし以外は全員男性でした。
こんなマイナーな航空博物館に平日の昼間、東洋人の女性が一人でやってきて
熱心に写真を撮り、解説ももれなく読んだりしている・・・・

どうみても世界基準で「変わってますね」の一言により片付けられそうです。


しかしそんな視線を今更気にするエリス中尉ではありません。
そのうち二組の客は帰ってしまい、ソノマの強烈な陽射しの下、
たった一人でわたしは愛しの航空機たちと触れ合いまくったのでした(笑)


勿論続きます。 






 


ウェルズリー大学の「ノバリケン」~東部アメリカの生き物

2014-08-01 | すずめ食堂

「あるくうた」でもお話ししたように、アメリカでは
地域の観光を兼ねて毎日あちらこちらを歩いています。

息子からかねてから

「学校に大きな池があってそこを皆走ったりしてるよ」

と聞いていたので、TOが来たとき、息子のキャンプが行われている
ウェルズリー大学の構内を
探検がてら歩いてみることにしました。



夏休みであるせいで構内には人影はありません。
1870年代にできたカレッジなので、構内の建物は
どれも歴史を感じるものばかり。
先日見学したTOの母校と違うところは、郊外にあるので
キャンパスそのものが広大な自然であることです。



広々とした緑地に通路がありますが、ランプのデザインもお洒落。
この同じデザインのランプが学校の外の道にも設置されています。



息子はこの奥の校舎でキャンプをしているはず。

週ごとに自分がメインでやりたいコースを決められるほか、
体験的なイベントも数多くあります。
息子はフェンシングや手品、音楽(ドラム)を選択していました。
手品は、ただネタを習うのではなく、心理学の授業もあるそうです。
「魔法」なんていうのも探せばありそうだなあ。



どうもこのタワーが学校のメインタワーというか時計台?
もしかしたら教会かもしれません。



階段を上がっていくと教会の内部に入っていけますが、
このときも緑のドアは開いていました。

「いつでも入っていって懺悔できそうだね」



残念ながらわたしたちには学内の建物について何の知識もありません。
いずれにせよ100年以上経っているものばかりで、
しかも今現在も現役で使い続けています。



ボストンは何処に行っても百合が咲いているのですが、
野生のものではなく、かつて植えた球根が増殖しているものが多いです。
ところでここに立っている杭ですが、



この文言、日本でも町のあちこちで見ますね。
これはどこの宗教団体のものなのでしょう?



ステンドグラスのように見えますが、材質がどうも薄い石のようです。

さらに歩いていくと、池のほとりに着きました。



グースが草をついばみに上陸してきています。
と、そのとき・・・。



変わった鳥が変わった泳ぎ方をしながらまっすぐ
岸に向かっています。
首を激しく前後にこぐように振り、ピントが合いません(笑)



岸に上がりました。
やはり激しく首を振っています。
なんだなんだ。



なにをそんなに急いで岸に上がる必要があるのだろう、
と二人で立ち止まってみていたら・・・



陸に上がっても激しく首を振りながら近づいてきます。

「こっち来たよ~!」
「なにこれこわい」



この鳥さんの威嚇のポーズなんですね。
しかし、こんな鳥を見るのは初めてです。
どの程度の攻撃力を持っているかは知りませんが、
とにかく我々を水上から見とがめ、わざわざ上陸して
追っ払おうとしているらしいことはわかりました。



わたしではなくTOに向かっていきます。
赤い靴ひもが目立ったからかもしれません。



突入直前に立ち止まってこちらを確認。
なんでやねん。



こちらをにらんでいるので初めて顔のアップが撮れました。
顔の部分が全部トサカ状です。
こわいよ君の顔こわいよ。

彼はそのままTOの靴に向かって直進し、
靴をつつきました。

「靴つつかれた~」
「痛かった?」
「全然」



顔は怖いけどあまり攻撃力はないとみた。
でもこんなのに向かって来られたら大抵の動物は怯えるよね。
子供なら泣いちゃうかも。

このあと彼はTOの靴に2度目の攻撃を加え、




鼻息も荒く引きあげて・・・・
と思ったら、今度はわたし?わたしなの?

「やだー」

脚を振り上げると



ふんっ!今日はこのくらいにしといたるわ!

とばかりに池に戻っていきます。
なんだったんだ・・・・。



通り過ぎるそのご尊顔をバッチリカメラに収めさせていただきました。
なんだこれ・・・。

家に帰ってからいろいろと調べたのですが、この鳥は
カモ科の鳥で、

ノバリケン(Cairina moschata)

という種類であることが分かりました。
ノバリケン・・・?
いったい日本語か外国語か、どちらなの?

英語では

Muscovy duck

といい、カモの種類であることがわかる名前ですが、
ノバリケンって、全くその方向性も分からない名前だなあ。

ノバリケンのノは「野」で、「野バリケン」、つまり
野生のバリケン。
家畜化されたのはただのバリケンというそうです。
変な語感だと思ったら南米の産で、日本には家禽用の「バリケン」が
輸入されたこともあるようなのですが(てことは食べられるんですね)
全く普及しませんでした。

ただ、このバリケンは飛べるので、逃げ出して全国に生息しているそうです。
首都圏ではつくば市の洞峰公園に、白いバリケンがいるようです。



散々威嚇して、気がすんだのか水に戻るノバリケンくん。
グースの群れを突っ切るときにグースにむかって

「何を見てんねんコラ」


とばかりに威嚇していきました。



この池の周辺は一切護岸工事の類いをしていないので、
水辺から岸まで段差なく上がって来られます。
水際は湿地のようになっていて、このような池の端を
わたしたち日本人はもはや見ることはありません。

ノバリケンくん、泳いでいってしまうのか?



なんか泳ぎながらこっちを見ているような・・・。



グースの群れごしにこちらを監視している模様。
威嚇したのに一向に立ち去らないのでムカついてる?



も ど っ て き た (笑)



「ちょっと兄さんすまんな」



「な、なんなのこの人相の悪い人」
「悪かったなあ生まれつきこんな顔なんや。
そこのいてんか。わしあそこの人間に一言いうたるさかい」 



ずんずんずんずんずんずんずんずん
(BGMジョーズのテーマ)



なんともう一度ガン付けに来たのでした。
世界の平和を守るために大変ですね。



近くに来てひとにらみして

「これ以上立っとったらしょうちせーへんでー」

と言い捨てていってしまいました。



「面白い鳥だったね」
「なんていう鳥だろう」

話しながら石造りの古い橋をわたり、ふと下を見下ろすと



お い か け て き て る (笑)

「すごい勢い」
「さすがに橋の上にはつつきに来れないよな」
「駆逐艦みたいだね」

 

そのまま泳いでいってしまいました。
ノバリケンは樹上生活をする鳥だそうです。
おそらくこの先に彼の愛の巣があるのでしょう。
基本的に一夫多妻の団体生活をする習性があるらしいのですが、
一羽で哨戒していたところをみると間違いなくオスだったようです。



湖にそって歩いていくことにしました。
立派な石柱をあしらった手すりがここにだけありますが、
ここは私有地、つまり誰かの「庭」だそうです。
土地の余っているアメリカ郊外の家は、庭に柵を設けず、
隣との境も曖昧でそのままフィールドにつながっていたりしますが、
この所有者は湖のほとりまでを所有地にしたのに、
ウェルズリーを訪れる人たちが湖を一周できるように
柵で仕切って通行止めにするようなことをせずオープンにしているのです。



その所有者のお宅はこのような豪邸。
ベッドルームが軽く10室はありそうです。

 

所有地内の樹木は全てこのように変なカットされています。



しばらく歩いていくと、前庭部分の木だけを切り、
自分の家から湖が眺められるようにした家発見。
それほどの豪邸ではありませんが、何しろ贅沢です。

そしてよく見ると・・



庭に鹿がいるようです。



向こうに見えるのはウェルズリー大学のボートハウス。
なんとここのボート部は、学校内に練習用の池をもっているのです。
ハーバード大学のボート部がチャールズリバーで練習しているのは
有名な話ですが、彼らはチャールズリバー沿いにボートハウスを持っています。



こめんのところどころに白い花が咲いているので何かと思ったら
蓮の花でした。

細い山道のようなところをさらに歩いていくと・・・



蛇が道を横切っていました。



「蛇って顔可愛いよね」
「目が可愛いね」

立ち止まって眺めていると、蛇は慌てて逃げ出しました。
手も脚もないのに、飛ぶようにどこかにいってしまいました。



湿地帯の上には桟橋のような通路が造られ、
ところどころになんのためなのかベンチまであります。

「尾瀬が貧相に見えるなあ」
「あそこほど人もいないしね」



ボートハウスのところまでくると、白鳥が三羽たむろしていました。



そして道を横切るウサギ。



とりあえず草むらに逃げます。



土の上で擬態してじっとしています。
写真を撮ったら手前の花にピントがあってしまいました。



もう一度。
この辺ならうさぎも美味しい草や実をたくさん食べられるでしょう。



元の位置に戻ってきました。
話しながら、時々写真を撮るために立ち止まったりして歩いたので
一周するのに約1時間ほどかかりましたが、
わたしのウォーキングとしてはちょうどいい感じです。

「気持ちよかったね」
「ここ、来年も歩こうね」

息子のサマーキャンプはもう今年でこのウェルズリーは終了なので、
来年からはまた別の学校になるわけですが、
この地域に来たら必ず一度は訪れたい場所がまた一つ増えました。



ところで、この建物の正面に聖者の像があるのですが、
何やら落書きが・・・



ピンクのペンキかチョークで、口紅を塗られてます。

アメリカにもこんなことする奴がいるんだなあ(呆)