柿のある風景、多くの人が、それは日本の原風景と言います。
柿の原産地は中国や日本など諸説ありますが、現在日本で栽培されている柿のもとになったものは、中国から伝わったと言われています。
しかし、中国では日本ほど品種改良や栽培が発達しなかったことから、柿は日本から海外へ広まり、海外でも「KAKI」と呼ばれています。
その柿を詠んだ有名な句に、正岡子規の
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」があります。
この句は、子規が法隆寺に立ち寄った後、茶店で一服して柿を食べると、途端に法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋を感じた、というのが句意です。
生涯に2万を超える句を詠んだと言われている子規の作品のうちでも最も有名な句であり、芭蕉の「古池や 蛙飛びこむ 水の音」と並んで俳句の代名詞としても知られています。
ところが、この句は夏目漱石の句が下敷きとなって詠まれたと言われています。
参考にしたという夏目漱石の句とは、
「鐘つけば 銀杏(いちょう)散るなり 建長寺」です。
漱石のこの句は明治28年9月6日に「海南新聞(現在の愛媛新聞)に掲載され、その2か月後の11月8日の同新聞に子規の「柿くえば 鐘が鐘が鳴るなり 法隆寺」が掲載されているのです。
真偽のほどは不明です。
子規が柿好きであることは自身でも明言していて、柿を詠み込んだ句は他にも多く残されています。
・「御仏に 供へあまりの 柿十五」
・「柿くふて 腹痛み出す 旅籠哉」
・「風呂敷を ほどけば柿の ころげけり」
・「柿くふも 今年ばかりと 思ひけり」
などがあります。
しかも、子規は生涯に詠んだ句が数万に及んでいることから、中にはよく似た俳句も詠まれているかも知れません。
・鎌倉・建長寺の鐘楼脇の立札に書かれている漱石の句です。
夏目漱石は1895年(明治28年)4月に中学の英語教師として愛媛県の松山に赴任しています。
一方の正岡子規は日清戦争の従軍記者として、結核の身で満州へ渡りましたが、その帰路に大喀血しました。
幸い、神戸の病院で一命をとりとめて、故郷・松山に療養帰省しました。
退屈していた漱石は、大学時代からの親友だった子規を下宿へ呼び寄せ交流を深めたのです。
このような二人の間柄であれば、よく似た俳句が生まれても不思議ではないでしょう。
どのように推察するのかはこの俳句に接した方のご自由ですが、私には漱石に俳句を教えた子規が、「建長寺」の句を真似したなどとは思えません。
皆様などのように思われるでしょうか?