最近、親が我が子に、或いは後妻や同棲している愛人の子供に、躾と称して虐待を繰り返す報道をよく見ます。
虐待を受けた子供は、最悪の場合、死に至ることがあります。
何故、幼い子供を虐待しなければならないのでしょうか?
ネットに次のような記事がありました。
小学校に入学したばかりのA子ちゃんが自宅のベッドで死んでいるのが見つかりました。
死因は脳内出血で、警察は「折檻」が原因として父親を傷害致死の疑いで逮捕しました。
この事件の経緯は省略します。
A子ちゃんは生まれてからの殆どを施設で暮していたのですが、小学校入学のために4月初めに家庭に引き取られました。
しかし、小学校に入学手続きをとっただけで、1日も通学せずに今回の事件となり、薄幸の生涯を閉じたのです。
「折檻」が原因で小さな子供の命が絶たれました。
でも、「折檻」とはどのような行為なのでしょうか?
その語源を調べました。
「折檻の本来の意味」
日本語では、折檻とは、親が子供を厳しく叱ったり、懲らしめの体罰を加えたりすることを意味する言葉ですが、本来の意味は目上の非を認識させるために正しい意見を言うことなのです。
「語源」
折檻の「檻」は欄干、つまり手すりという意味で、本来は「手すりを折る」ことです。
その由来は中国の『漢書・朱雲伝』の故事に由来します。
「故事」
前漢(紀元前206年 - 8年)の時代、朱雲は第12代皇帝・成帝(在位:前33年8月~前7年4月)に、成帝の学問の師である張禹(ちょうう)の専横振りを諫めるために謁見を求めました。
そして、大臣たちの前で「今、朝廷の大臣は主を正すことも民を助けることもできず、地位にふさわしくありません。願わくば私に秘蔵の斬馬剣を賜り、佞臣(ねいしん:主君にこびへつらう家来)一人を斬って他の者の目を覚ませてやりたいと思います」と述べました。
成帝が「それは誰だ?」と聞くと「安昌侯張禹であります」と答えたため、成帝は「小物が上をそしり、公に皇帝の師匠を辱めるとは、死罪である」と怒り、役人に朱雲を連行させようとしました。
朱雲は宮殿の欄檻(欄干)につかまって抵抗したため欄檻が折れてしまったのです。
朱雲は「私は死んでも黄泉の世界で関龍逢や比干(いずれも主君に対し諫言をした事で有名な家臣達)に従うことができればそれで十分ですが、陛下が何と言われるかはわかりません」と叫びました。
朱雲は連行されたのですが、左将軍辛慶忌がこの狂直の者を誅殺すべきではないと命を賭けて諌めたため、成帝の怒りも解けて許されました。
そして、欄檻を修理する際、成帝は「欄檻は交換してはいけない。元のものをつなぎ合わせてわかるようにし、直臣を顕彰するのだ」と命じたのです。
これが「折檻」という言葉の由来となりました。
この故事から、正当な理由を以って厳しく諌めることを「折檻」というようになったのですが、それが日本では、懲らしめのために体罰や虐待を行うことを意味するようになったのです。
このように「折檻」の本来の意味は、目上の非を認識させるために正しい意見を言うことなのですが、実際には難しいでしょうね。
しかし、幼い子供への「折檻」はやめてほしいものです。
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諫める将軍がいて、皇帝の目を覚まさせてよかったです。
体罰を伴う「折檻」は、親といえども禁物です。
身を挺して諫めたり献身する姿は,尊いです。^^